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バースデーには早すぎる

シリーズの№47にあたる話です。

古い古いワープロ原稿をスキャンしてテキスト化するという作業を経ていますので、まだおかしな誤字が残っているかもしれません(完全には読み取れないのです)、ご了承くださいませ。

シリーズ全体が、ちょっと「腐」な感じですが、性描写等はありません。


「マチアス……もう、それ、やめようよ……」

「やめないよ」

「じゃ、せめて離れて歩こう。ね?」

「ルイ。おまえ、冷たいなぁ……」

 マチアスは足を止め、恨めしげにルイを見つめた。顎をひいて、上目遣いに。

 真昼の舗道。地下鉄を降り、地上に出てきたところだった。

 ふたりが後にしてきた摩天楼の森は、マチアスの肩の遥か向こうで、すでに青くかすんでいる。

 あの森が、ベルギリウス王国の首都シリー(建国当時の王女の名)である。

 シリーには宙港がない。

 そらから来る船は皆、ここ、シリーに次ぐ大都市イズィ(シリーの妹の名)にあるポートに降りる。

 もちろん、ホワイトネビュラ号も今、イズィ・ポートにいた。

「いっそのこと、腕を組んでみたりしちゃう?」

 歩きながらマチアスは悪戯っ子のように笑って、泣きだしそうなルイの腕に両腕をからみつかせた。

 ルイは無言で、首を横にふった。

 イズィの陽射しはうららかで、薄青の空から降る白いきらめきが、ルイの金髪に反射している。ルイが頭を振ると、髪から光の雫が跳ねるように見えた。

 ルイは12才の男の子のようにポロシャツとジーンズ。瞳の青にあわせたように、深いブルーのポロシャツだ。

 ルイにまとわりついているマチアスは、緑の瞳にしなやかな美しさが自慢のライトブラウンの髪……なのだが、今はその髪の上につばの広い帽子をのせている。丈の長い上着にタイツ。童話の挿し絵に出てくる王子さまスタイルで、しかし、帽子だけは盛大に花で飾りたてた女物をかぶっているのだった。

「マチアス……お願いだから……」

 すれちがう人、追い越していく人が、ひとり残らずこちらを眺めていくのに耐えきれず、ルイが細くいった。

「そんな声、出さないでよ、ルイったら」

「この国では絶対に人に顔を見られたくないっていったの、マチアスじゃない」

「そうだよ、特にシリーやイズィではね」

「それなのに、どうしてそんな派手な格好を……」

「顔を見られないためには、これがいいんだよ」

「なんで? みんな見ていくよ」

「この帽子をね。ぼくの顔まで見る暇はないよ」

「……」

「顔を隠して歩けば、かえって顔に注意を向けられるだろ? この帽子なら、いくらぼくがこんなにハンサムでも、この顔より人目をひく……」

 ルイはちょっと頬をふくらませて、

「だからって、その格好で航宙局に入ってくとは思ってなかったもん」

「ああいうお役所がいちばん危ないんだってば」

「指名手配犯みたい」

「ある意味、そうなのさ。いいアイデアだったろ? この帽子」

 マチアスの声がかすかに沈んだのを敏感に聞きつけたルイは、小さな溜息ひとつですべてを許した。

「ベルギリウスでは……ね。わかったよ。さぁ、急ごう。リックが待ってるよ」

 ルイは腕にからんでいたマチアスの手をつかんで、足を速めようとした。

 が、

「ルイ……」

 マチアスが立ち止まり、その声が不意にひそめられる。

 ルイは足を止めたが、ふりむかず、ほんの少し頭をマチアスに傾けた。

「ルイ。つけられてる」

 マチアスの言葉にルイは目を見張り、うなずいて、マチアスの帽子のつばの蔭から、静かに背後を窺った。

「シリーでも見かけたよ、あのコート」

「本当に指名手配犯の気分になってきたぜ」

「心当たり、ある?」

「……ひとつだけ」

 ルイは目を丸くして、マチアスに向き直った。

「何をしたの?」

「泥棒」

「ほんと?」

 マチアスは神妙な顔つきで、ルイの肩をつかんだ。その青い瞳を覗きながら、

「ああ。おまえの心を盗んじまった」

 ルイは一瞬絶句し、それから拳をふりあげた。

「もう! 怒るよ、ぼく!」

 マチアスは歓声をあげ、帽子のつばを押えながら、ポートへ逃げだした。

 ルイは、帽子からバラバラと落ちるマーガレットやスミレを拾いながら、マチアスを追って走った。



 プラットフォームに接続されたタラップから、口を開けているハッチに走りこむと、マチアスもルイも激しくあえぎ、身を折った。

 マチアスの花帽子からはほとんどの花が落ち、ルイは全部拾いきることはできなかったが、それでもかなり盛大な花束を抱えていた。

「マメだな、ルイは。清掃局に表彰されるぜ」

 マチアスがあえぎながらいい、ルイもあえぎながら、

「パンくずを撒いて道しるべにする……っていう童話を知らないの? マチアス」

「うう……」

「何してるんだよ、おまえたち」

 不意のその声に、ふたりはビクッとしてそちらに顔を向けた。ますます呼吸が乱れた。

 ハッチの内扉によりかかって、リックが不機嫌そうに腕を組んでいた。

 リックの瞳はセピア。その下に、真新しいひっかき傷がある。

「あ、リック……」

「遅かったな」

「お出迎えしてくれたの? ただいまぁ」マチアスが、あえぎの下から陽気にいった。「ちゃんと、どっちも当局に預けてきたからね。まったくさぁ、そらで起こさないでほしいよね、そこらの交通事故みたいな……」

 リックはうんざりした顔になった。

 ベルギリウスのエリアで、ホワイトネビュラ号は二機のクルーザーの事故に巡りあった。実際は『事故』とはいえなかったが、接近しすぎただけでエアカーの衝突事故のように危険な、そらでのトラブルだ。双方のパイロットは、相手が悪いと言い張って譲らず、ジプシーの少年たちの手には負えなかった。

 それぞれに船籍が違うので、シリーにある連盟航宙局のベルギリウス支局に双方を連行した……というわけだ。

 リックのひっかき傷は、一方のクルーザーの、ヒステリーを起こしたオーナーによってつけられたものである。リックの抱き止め方が、あまり上手ではなかったのだった。

 ルイはまだ激しく息を継いでいたが、ハッとしたように、腕から花をこぼしながらハッチの内側のパネルに飛びついて、いくつかのキーを弾いた。

 タラップが金属的なうなりを発して収納され、ハッチの外扉も閉まった。

 マチアスも気づいて、緊張した表情になり、

「リック!  変なやつにつけられた」

「つけられた?」

 胸で腕を組んだまま、リックがくりかえした。

「どんなやつか確認はできなかったけど、確かだよ。シリーでも、イズィに戻ってからも見たんだ」

「まいてきたのか?」

「そうだよ。……ね?」

 マチアスは子供のように、ルイに同意を求めた。

 ルイは不安げに、

「ポートが近くなってからは、ついてこなくなったみたい。裏道に入ったりしたから。ぼくらの方が迷子になりそうだったけど」

 リックは困惑した顔で、鼻をこすった。

「おまえらを尾行したのは、ダークブロンドで背が高くて、年は26、7で……そう、灰色がかった青い目をしていなかったか?」

「そんな詳しいところまで見てない……けど、なんで?」

 マチアスの声に、リックは天井を指さした。

「おまえらにまかれたから直接来ましたって、リビングルームで待ってるぜ」




 リックは困ったような顔のまま、マチアスとルイは驚いた顔のまま、黙ってリビングルームに入った。

 バラバラの花束を抱えているルイは、すでに充分驚いていたのだが、

「ハル・ペイトン!」

 マチアスがそんな声をあげたときに、なお驚いて、花を足下にこぼしてしまった。

 ソファから立ちあがった青年は、その顔にほほえみをたたえている。ソファのアームレストにかけられたコートには、確かに見覚えがあった。

 マチアスは力なく、頭から帽子を剥ぎ取った。

「なぜ……ここに? この帽子ならバレないと思って……」

「私の他には誰も気づいていませんよ、殿下」

 柔らかな、耳たぶをくすぐるような声だった。

「ハル!」

 マチアスは帽子を放り出し、飛んでいって、青年の首に両腕を巻きつけた。

 まるで首を絞めてでもいるように強くかじりついたまま、

「久しぶりだね! どうして? ね、どうしてここにいるの? ずっとベルギリウスに? ねぇ、どうして?」

 マチアスは相手に答える暇を与えない勢いで疑問符を投げ続け、ハル・ペイトンは優しく苦笑して、マチアスの背にそっと腕をまわした。

「お元気そうですね、殿下」

「うん! 元気だよ! ハルは? 元気? 元気だよね? ぼく、大きくなったでしよ? ちゃんとハルの首に届くもん。ハルは……ハル……」

 マチアスの声が急速にしぼんでいく。彼はハルの首から腕をほどき、不審げにハルの『灰色がかった青い目』を覗いた。

「どうして、ここがわかったの? シリーからつけてきたんだね? シリーで、ぼくだって、わかったの?」

「素敵なお帽子でしたね」

「……なぜ?」

「殿下……」

「ぼくを捜してたんだ。そうだね? 意識的に行方を探さなけりゃ、わかるはずはないんだ」

 ハルは、濃いブルーグレイのスーツにダークブルーのネクタイをしめていて、ビジネスマンのようだった。そのネクタイをほどき、衿から抜いて首にかけ直すと、手早く蝶結びにした。

「リボンがあった方がそれらしいですか? 私はあなたへのバースデー・プレゼントです……陛下からの」

「バババ……ププ……?」

 マチアスは、ネクタイのリボンを見つめている。

「殿下。もう少し落ちついてください」

「お、落ち……」

「私は、あなたを驚かせにまいったのではありませんよ」

「そ、そりゃ、そうかもしれないけど! プレゼント? ぼくに、おまえを抱いて寝ろって?」

「……」

「あ、つ、つまり、クマのぬいぐるみみたいにさ!」

「それも、いいですね」

 ハルがゆっくりと目を細めた。

 マチアスはふくれて、

「ぼくに、ぼくに、何をしろって……」

「勉強です」

「は?」

「失礼ですが、殿下、現在のコンボトルの総人口をご存じですか?」

「し、知らないよ、そんなこと」

「鉄鉱石の年間輸出高は?」

「そんな……」

「田園の県の、昨年の小麦の生産量は?」

「知らない」

「風の県、ロマー海岸の開発工事にあたっている業者の名は?」

「開発……してるの?」

「あなたは、未来の国王ですよ」

「わ、わかってるけど……まだ先じゃないか!」

「あなたはすでに16になられました。次は17の……」

「バースデーには早すぎるよ!」

 マチアスが激しく首をふると、ハルはかすかに唇の端をあげた。

 その表惰を見て、マチアスはドアの方をふりかえった。

 そこにはまだ、リックとルイが立ちつくしていた。

 床にこぼれた花たちが、オフホワイトのリビングルームを淡い香りで染めている。

「リック。ルイ。紹介しておくね。どうやら、お茶を飲んでさようならってわけにはいかないようだ」マチアスの手がハルの背にまわり、仲間たちの方に押しだすようにする。「ハル・ペイトン。本名は、ハロルド・ウォール・ローン・ド……何だっけ?」

「いいんですよ、ハル・ペイトンで」

 ハルはマチアスに、そして、あっけにとられているリックとルイにほほえみかけた。

「たしか、ぼくの名より短かったことは覚えてるんだ」

 マチアスが言い訳のようにいった。

 ルイが目を丸くしている。

 マチアスはそれに気づき、ルイに首をすくめてみせて、

「覚えてないけどさ。ぼくの本当の名、なんて」

「そうですね。この先使われるのは、戴冠式と結婚式と……」

「葬式」マチアスはハルの言葉をひきとり、「ぼくは、ただのマチアス・ターラーでけっこうさ」

 ふてくされ気味にいってから、リックを手で示したそのとき、

「存じております。ヴァン=リックさま」

 ネクタイのリボンを胸に垂らしたままのハルがマチアスを離れ、リックの前に歩み寄った。

 リックは思わず足をひき、すぐ後ろがドアの脇の壁だったので、しかたない、という顔でハルを見た。

「ぺ、ペイトンさん……」

「ハル、とお呼びください」

「おれを『リック』と呼ぶのなら」

 そういったとき、リックは少しだけ子供のように見えた。

 ハルは目を細め、

「はい、『リック』さま。はじめまして」

「はじ……はじ……」

「とはいえ、私は、あなたのことを存じあげておりましたが……」

「は、はぁ……」

 リックは戸惑った表情で、ハルが差し出す右手を握った。

 ハルはそっとリックを離れ、足下を埋めている花々越しに、ルイに右手を伸ばした。

「はじめまして、ルイ・マルローさま」

「ル……『ルイ』と」

 ルイが、消え入りそうな声でいう。

 ハルは微笑と共に、

「では、そういたしましょう、『ルイ』さま」

「う……は、はい」

「お見知りおきを」

「こ、こちらこそ……」

「私は、あなたのことも存じあげておりました」

「ど、どうして……ですか?」

 ルイが、不安そうな顔になる。

「お父さまがフィリップ・マルローさまで、おじいさまがピエール・マルローさまであるというだけで充分だと思いますが、おまけにあなたは『ルイ・マルロー』さまで、殿下のお友達です」

 ルイは黙りこんだまま、ハルの右手を握った。

「ハルはぼくの、いわば、家庭教師だったんだ」

 マチアスが、友人たちにいう。

 ハルはマチアスを顧み、優しい口調でいった。

「そのひとりにすぎませんが」

 マチアスは諦め顔で、

「この国で会うとはね。絶対に顔を見られないように……って思ってたのに。ぼくの顔、変わった? 変わってない?」

「おとなっぽくはなられましたが……」

「基本的には10才のまま……か。ハル、どう? ベルギリウスの国民は、ぼくのこと、わかると思う?」

「そうですね……『もしや』とは思うかもしれませんが、『まさか、そんなはずはない』でおしまいでしょうね」

「この星には降りたくなかったんだ」マチアスはわざと愚痴っぽくいって、ドアに向かった。「どのみち、明日の朝でなくちゃ離着床があかない。夕食、ごちそうするよ。ゆっくりしていってね、ペイトン先生」



 マチアスに取り残されて、リックもルイも所在なさそうな顔をしている。

 ハルはそれに気づき、忍び笑いをした。それから、屈みこみ、ルイの足のまわりの花たちを一本一本拾いはじめた。

「あ、あ、ぼくがします」

 ルイもカスミ草やバラを集めだす。

 リックはどうしていいかわからないという表情で、ふたりの色あいの違う金髪を眺めていた。

 花を拾い終えるとハルは立ちあがり、花束をルイに差し出した。

 操られたように受け取るルイに、

「ルイさま。あなたは、衿にデイジーを飾っていますよ」

 ハルが嬉しそうにいった。

 ルイはあわてて、ポロシャツの衿の中からそれをつまみだした。自分を見つめてほほえんでいるハル・ペイトンの瞳に弾き飛ばされでもしたように、

「リック、これ、あげるね。ぼく、マチアスを手伝ってくるから」

 花束をぼんやりしているリックの手に押しつけて、リビングルームを転げ出ていった。

「お、おい、待てよ……」

 リックの声が追ったが、リック自身はルイを追っていけなかった。

 すねたような表情になって、リックはハルを顧みた。

 ハルはニコニコしていて、

「申しわけありません。突然お訪ねしてしまって」

「別に……かまわないですけど……でも……なぜ、つけたり……?」

「特に尾行するつもりではありませんでしたが……。街で声をおかけするわけにはまいりませんでしたので。あのお帽子をかぶったマチアスさまに、先程のように反応されては困りますからね、ベルギリウスでは」

「……」

 首に青いリボンを結んだ青年と、大きな花束を抱えている少年は、それからかなりの時間無言で向かいあった。

 リックの方は話すべき言葉を見つけられずにいたし、ハルの方はリックが何かいうのを待っているのだった。

 やがて、根比べに負けましたというようにハルがいった。

「あなたは、年ごとにお父さまに似てきますね」

「おやじ……父を……?」

「お会いしたこともありますよ」

「……」

「殿下のことで……。あのことの前後には、まわりで大勢の人間が動きました。最終的には、陛下が決断されたわけですが」

 マチアスはコンボトルの王子。次の国王になることが決まっている身だ。

 マチアスが10才で王室を飛び出し、コンボトルから離れてヴァン・ラヴで保護されて以来、保護したラルフ・シルヴアーの息子であるリックはマチアスの隣にいた。

 12まではヴァン・ラヴで暮らし、その後は少年RAPに入り、15才でジプシーになった。

(そして、今日までマチアスといた……)

 リックは胸でつぶやき、自分のつぶやきにハッとした。

 今日までという言葉に、深い意味があるような気がしたのだ。

 リックは初めて、不安に似た不審感をその瞳に現わした。

「ハル。あなたはなぜベルギリウスに?」

「コンボトルの友交国ですからね」

「マチアスがコンボトルを離れてから、ずっとここに?」

「……」

 ハルは答えず、笑みを深めただけだった。

「マチアスがいなくなったあと……その……失業、したわけですか?」

「いえ……」

「王室に残って……? では」そこでリックは一瞬口をつぐんでから、「『陛下からの』といった。これは本当に国王の命令ですか?」

 射るようなセピアのまなざしを避けるために、ハルはそっとまつ毛を伏せた。

「そのご質問には、『いいえ』とお答えしておきましょう」




「マチアス?」

 エプロンを身につけながらレンジの前にいくと、ルイは小さく呼びかけた。

 レンジには深鍋がひとつ。溢れそうに湯が沸騰しているが、マチアスは身じろぎひとつしない。

「どうしたの?」

 ルイは手を伸ばし、加熱キーをオフにした。

 マチアスはすでに童話の王子さまスタイルをやめている。今は白いシャツに 淡い茶色のスラックス。ツイードの上着は脱いでダイニングルームのテーブル に放り出してあるが、その格好の方が現代の王子さまらしかった。

「おかしい……」

 マチアスが、ぽつりといった。

 マチアスの緑の瞳は、対流の鎮まった湯を眺めていた。

「マチアス?」

「『勉強』だって? 下手なジョークさ」マチアスは首をすくめ、「ハルは 真面目だから」

「……」

「ハル・ペイトンは、ぼくがいなくなったあとも王室に残ったはずだ。父上の側近としてだ。なぜ、ここにいる?」

「ベルギリウスは友交国なんでしょう?」ルイが、なだめるようにいった。「だから、マチアスの顔も有名で、マチアスは顔を見られないようにして歩かなくちゃいけないほどで……」

「休暇でも取って……というなら話は別だけど、ハルと父上は常に一緒にいるはずなんだ」



 リックは宙を見つめた。

 鼻先にまといつく花の香りにも無関心だった。

 もう、言葉も見つからない。

 ハルはただそこにたたずんだまま、リックを見ていた。まるでリックの中でゆらいでいる彼の思考を見守ってでもいるように、温かなまなざしでリックを包んでいた。

 リックの方は、ハルを見ていない。ハルの表情にも気づいていない。

 やがて、リックは重たげに顔をあげた。

「マチアスを、連れ戻しにきたんですか?」

 ハルは目を見開き、吹きだした。顔を伏せて、笑いを抑えた。

 リックはムッとした表情を隠さず、重ねて口を開きかけたが、

「あなたを、とても気に入りました」

 ハルの言葉の方が早く、その内容にリックは唇をへの字に結んだ。

「もし、あなたの今のご質問に私が『はい』と答えたら……どうなさいますか?」

「おれは……」

「マチアスさまが王位を継がれるのは、21ですよ。本当に、バースデーには早すぎますね」

「……」

「21です。たったひとつの場合を除いて」

「!」

 リックは目を見張った。全身がこわばった。その手から、ぱらぱらと花がこぼれた。



「ぼく、ハルのところに行ってくる」

 ルイに向き直り、マチアスがきっぱりとした口調でいった。

 ルイは困ったように首をかしげ、

「どうして? どうしたの? マチアス、変だよ」

「そう。変だ。ハルがこの船にいることが『変』なんだ」

「……」

「『悪い予感』みたいなものが、ここにつかえてるんだ」

 マチアスは、真っ白なシャツの胸をわしづかみにした。

 ルイはうなずき、

「まだ、夕食のしたくをするには充分に時間があるね。ぼくでもどうにかなるよ。ぼくが、しておくね。それとも……」

「一緒においで」

 マチアスの声に、ルイはエプロンをはずした。



 リビングルームに戻ったマチアスとルイは、一対の石像のように向かいあって立っているリックとハルを見た。

 その途端、マチアスとルイもその場に凍りついた。

 リックとハルは、争っているのではない。ただ立っているだけだ。しかし、まるで殺しあっている現場に来あわせたかのような冷たい緊張が、マチアスとルイをその場に縛りつけてしまったのだった。

「まさか……」

 リックがいった。

 入ってきたマチアスとルイに気づいてもいないように、ハルに向けて。

 ハルは静かにうなずいて、

「えぇ、『まさか』ですね」

 リックはやっとドアの方を顧みた。

 そこには、マチアスとルイが立っている。

 マチアスが動いた。力強い歩調で、ハルの前に飛んだ。

「父上はどこだ?」

「殿下……マチアスさま?」

 ハルはホワイトネビュラ号に来て初めて、戸惑ったように笑みを消した。

「父上はどこにいる?」

「なぜ、そのようなことを……」

「右目がここにあれば、左目はすぐ隣にある……そうだろ?」

 ハルは愉快そうに目を見開き、それから、マチアスにつかまれている自分の腕を眺めた。

「陛下は、ベルギリウス国王の非公式かつ私的な招待を受け、3日前に……」

「じゃ、母上も? 今……今、この国に?」

「えぇ、陛下は……この国に」

「母上は?」

「コンボトルにお帰りになりました」

「母上だけが?」

 黙り込むハルの蝶結びのリボンを、マチアスはカッとしたようにつかんだ。

 それはシュッという音と共にほどけ、死んだヘビのように床に落ちた。

「ハル! おまえがいわないでいることを、誰よりも知らなければならないのはぼくだ。そうじゃないか?」

「殿下……」

「父上はどこにいる?」

「ミラ島……この星の、ちょうどイズィの反対側にあたります」

 マチアスは下唇を噛んだ。次の言葉を口にするまでに長い時間が過ぎた。やがて、彼はハルに目をあげ、静かにいった。

「父上はどうされた?」

 同じようにハルもマチアスを見つめ、静かに答えた。

「……6」

 マチアスは悲鳴をあげそうに見えた。だが、目を閉じただけだった。思わずハルにすがった手……ハルのスーツの衿を握った手の関節が白い。

「す、すぐにミラ島に飛ぶ。いいな?」

「今は、お会いにはなれませんよ」

「そんなことはわかっている!」

 甲高くいったマチアスは、たとえばルイをからかっているときの彼でもなく、パイロットシートにいるときの彼でもなく、リックにとってもルイにとっても見知らぬ、若い王子だった。

 ハルを見つめる緑の瞳のきらめき。

 震えている前髪。

 ハルから離れたマチアスは、ゆっくりとリックに歩み寄った。

「ごめん。明日、飛びたてないかもしれない」

「……いいさ」

 その淡々とした応えに、まだ何が何だかわかっていないルイは、怯えたようにリックを見た。

 マチアスはルイに目を移し、

「ごめん、ルイ。夕食のしたくはおまえが……リックとおまえの分を……ううん……一緒に来てくれるかい?」

 ルイはマチアスの瞳を見つめたままうなずき、ハルがいった。

「リックさまとルイさまのお部屋をご用意いたしましょう。ミラ島へ飛ぶ小型機は、このポートで借ります」




 淡い青の、ガラスのような海が窓の下に近づいてきた。

 ベルギリウス国王の別荘があるだけだというミラ島は、いくつかの有人無人の小島を従えて、ベルギリウス星南半球の海に浮かんでいた。

 一帯の海は、深いところでも深度200メートル。塩分はほとんどなく、実際には南半球の60%を覆う巨大な湖というべきかもしれない。大陸を流れる川はすべてこの海に注ぎ、この海からは雲が湧いて、大陸に戻って雨を降らせる。

 小型機を操縦しているのは、ハル・ペイトンだった。

 その操縦席のすぐ後ろにシートが4つあり、うち3つをジプシーの少年たちが埋めていた。残りのひとつには、マチアスのツイードの上着がひっかけられている。

 リックはシートにかけ、脚を組んだまま、眠っているのか、動かない。ジーンズの腿に投げ出された手の上に、正面窓から入って操縦機器に反射した光が踊っている。

 ルイは羽織ってきたジャケットを胸にかき寄せ、シートから身を乗り出して、正面窓に広がる絵のように穏やかな海を見つめていた。まるで、これからあの海に墜落して死ぬのだと思っているかのような、こわばった表情で。

 ルイに並ぶシートにいるマチアスは、組んだ膝の上で両手を握りあわせたまま、人形のようにじっとしていた。機体が揺れれば、揺れたなりに体が動いた。

 正面窓の外が、海から森に変わった。

 森は数秒で消え、なだらかな丘陵地になった。

 それを過ぎると、機体は舞い降りるように草原に着陸した。

 特にエアポートというわけでもない、ゴルフ場に似た草地だった。

 操縦席のハルは、通信器に向かって何か話していた。

『監視室』という言葉が聞こえた。

 のどかに見える風景の下には、細かな警備の網が張られている。チェックをひとつひとつクリアしないかぎり、別荘に近づくことはできないのだ。

 国王の別荘は、正面窓の彼方にあった。

 樹木に包まれるようにして建つ、白い建物だった。

 陽射しをうけて真珠のようなかすかな光沢を放つ、石の柱や壁。展望用だろうか、塔や広いバルコニーも見えた。童話に出てくる小さなお城という印象だ。樹々の枝が風に揺れると、壁に触れている影の形が震えながら変わった。

 IDの確認が済んだのだろう、ハルは操鍍席から立ちあがった。

 マチアスが別荘を見つめたまま、

「あそこに、隔離室はあるの?」

 ハルはうなずいた。

「急ごしらえですが……」

「ベルギリウス国王は?」

「すでに、首都シリーにお戻りになりました」

「そして、母上もコンボトルに帰った……」

「このことを気どられないための配慮です」

「わかっている。コンボトルから、誰か?」

「侍医長と専門医師団が……」

「エンケのおじいちゃまや、レウス先生……か」

「そうですよ」

 ハルは目を細め、少年たちを促した。

 ドアが開く。

 ひんやりとした、『島』とは思えないほど乾いた風が吹きこみ、少年たちの髪や服がなびいた。

 鏡のように磨かれた大理石の円形ポーチをあがると、厚い木製の扉が中から開いた。

「お待ち申しておりました」

 出迎えたのは初老の男だった。

 スーツの胸に、ベルギリウスの紋章が見える。この別荘を国王から預かっている男なのだろう。

「わたくしがご案内いたします。わたくしはロークと申します」

 マチアスは深い礼をした。

「ベルギリウスのご厚意を、コンボトルは決して忘れません」

 ロークがゆっくりとマチアスの手を取り、その甲の上で指先を動かした。ベルギリウスでの、一種の『忠誠の誓い』だった。

 マチアスは幸福そうにも見える表情で、「ありがとう」と応えた。

 マチアスの手を宙でそっと放し、その隣に立つハルに一礼してから、ロークは後ろにたたずんでいるふたりの少年たちを見つめた。

「長旅でお疲れでございましょう。ヴァン=リックさま、ルイさま。両殿下のお部屋は、東の……」

 ロークの言葉にリックとルイは目を丸くし、マチアスは小さく吹き出した。

「確かにね、ラルフ・シルヴァーやフィリップ・マルローの息子なら、王子さまみたいなものだよね。けど、ふたりとも面食らってるから、ミスター・ローク、『殿下』はやめましょう」

「は……」

「ぼくに対しても、『殿下』はやめましょう」

「ですが……」

「『マチアス』と呼び捨てにしづらいなら、『くん』でも『さん』でも、つけていいですから。いいですね? ミスター・ローク。それから、ハルもだよ。『殿下』は禁止する。落ちつかないや。ただの『マチアス』にすっかり慣れちゃってるもん、ぼく」



 絨毯を敷きつめられた廊下は、たとえ無造作に歩いたとしても足音を消してしまうだろう。

 静かな歩調で進む彼らの靴音は、丸みのある響きをかすかに残すだけだ。

 幅に対して高さがありすぎるので、壁にはさまれて歩いているかのようだ。リックもルイも落ちつかない表情をしている。

 案内役のロークが足を止めたときにはホッとし、思わず顔を見あわせてしまった。

『一月の間』とその隣室の『二月の間』は、王族用の客間だった。

 ロークの優雅な手がリックに『一月の間』を、ルイに『二月の間』を示したが、リックが「ひとつでいいです」といったので、ルイも大きくうなずいた。

 ロークは逆らおうとはせず、ふたりのために『一月の間』の扉を開けた。

 ふたりは室内に入った。

 巨人の部屋のように、ここも天井が高い。淡い光を降りまくシャンデリア。その光を受けている家具のすべてには、銀とエメラルドの象眼がほどこされていた。

 テーブルも、低いチェストも、椅子の背もたれも、だ。エメラルドの小さな花と銀の蔓という、シンプルだが非常に凝った細工だった。

 ベッドはひとつしかないが、寝相の悪い子供が5人くらい並んで横になれそうな幅の広いもので、きゃしゃな支柱の上の天蓋から、光沢のあるレースのようなカーテンが深いひだを作って流れ落ちている。その細かな透かし模様は象眼と同じものだった。

 リックもルイも、戸惑ったようにロークを顧みていた。

 普通の部屋はないの? とマチアスなら……いつものマチアスなら、いったかもしれない。しかし、リックにもルイにもその類の言葉は口にできなかった。

 バラの花びらに似た感触の絨毯が敷きつめられ、歩くと溶けるように足先を包んだ。

 ロークは室内の設備をひととおり説明すると、

「お荷物はすぐに運ばせます。お食事もこちらにお運びいたします。このお部屋から、なるべくお出にならないよう、お願いいたします」

 リックとルイが顔を見交わしている間に、ロークは出ていった。

 ドアはかすかな、弦が震えるような軋みをたてて閉ざされた。

 リックは鼻を鳴らし、これも象眼と揃いの模様の細かな刺繍によって暖かな厚みのできた布張りのソファに、どさりと腰かけた。

「リック……」

 ルイはリックの足下にひざまずき、リックの遠い瞳を見あげた。それ以上何をいっていいのか、彼にはわからなかった。

 リックはそっと視線を下げ、

「たぶん……2、3日で答えが出るだろう」

「答え……?」

「……」

 リックはもう、ルイを見つめているだけだ。

 そのとき、ノックがまろやかに響いた。




 リックとルイがドアに目をやると、返事を待たずにそれは開いた。

 マチアスが足速に入ってきた。

「おなか、すいてる? すぐに食事にさせようか?」

「マチアス……」

 ルイが立ちあがる。

 マチアスはほほえんでいて、

「ぼく、ハルと一緒に『五月の間』にいるからね。遊びにおいで」

「この部屋から出歩くな、といわれたぜ」

 リックが、ふてくされているように応えた。

 マチアスはかすかに目を伏せて、

「南の塔には、近づかない方がいい」

「……」

「それ以外は、きっとミスター・ロークも怒らないよ。もし興味があったら、覗いてみたら? ベルギリウスの歴史資料室もある」

「……」

「おなか、すいてない? 食事、運んでくれるっていってなかった? ぼくもここで食べていい?」

 マチアスの無邪気な口調が、ノックに遮られた。

 少年たちは顔を見あわせ、ルイがあわてたように、

「は、はい、どうぞ」

 ドアが開いた。

 丈の短い白衣を着た青年が、姿を現わした。

 マチアスが先に声をかけた。

「エンケのおじいちゃまは、何て?」

「殿下……」

「『殿下』は禁止」

「マチアスさま。まだ、お話しできる状態ではないということで、ドクター・エンケは……」

「それは、インターフォンが設備されてないってこと? それとも……」

「現在、インターフォンの整備を急いでおりますが……」

「エンケのおじいちゃまは、中なの?」

「はい」

「ぼく、会いにいく」

「いけません」

「中にいるのは、ぼくの父親だぜ」

「いけません」

「命令する。取り次ぎなさい」

「従えません」

「何……」

「せめて、せめて夜までお待ちください!」

「ぼくが誰だか知っているか?」

「もちろんです」

「ぼくの名において、命令する!」

「マチアスさまがどういう方か、存じております! だからこそ、今マチアスさまを南の塔にお連れするわけにはまいりません」

「……」

「あなたは、次の国王であられる……。陛下は……6……もし……」

 蒼ざめた青年が目を伏せると、マチアスは唇を噛み、それから表情を和らげた。

「わがままをいって、すまなかった」

「マチアスさま」

「ぼくまで死んじゃうわけにはいかないもんね」

 舌を出すマチアスの背後で、リックは目を閉じ、ルイは目を見張った。マチアスはそれを顧みることもなく、

「OKになったら、呼んでくれるね?」

「はい」

「誰でもいい、ぼくもここで一緒に食事をとるからって、伝えてくれるかい?」

「かしこまりました」

 応えた青年の背後に、ハルが姿を現わした。

 マチアスはそちらに目を移して、

「どうしたの?」

「ドクター・レウスが……」

「ぼくに用? わかった。どうやら楽しいお食事はお預けだな。やっぱり、ここに運ぶ食事はふたり分だ」

 白衣の青年が、「はい」とうなずく。

 マチアスは、友人たちをふりかえった。

「ごめん。今度はいつ来るか……来られるか、わかんないけど……」

 ドアに向かうマチアスを、ルイの手がすがるようにつかまえた。

 マチアスはふりかえり、ルイはきまり悪そうに手を放して、うつむいた。その金の髪が額にこぼれる。

「ルイ……」

 マチアスが静かにいった。

 ルイは、淡くうるんだ目をあげた。

「ルイ。ぼくはおまえが好きだ。知ってるかい?」

 ルイはただ、目を丸くしている。

「どうやら、ぼくも検査を必要としているらしい。おまけに今夜、もしも南の塔にいったならば……検査が済むまで、おまえに近寄れない。おまえの髪を引っ張って遊ぶこともできないし、くすぐることもできないし……」

「……」

「父上が倒れた。この星で急に」

「マチアス」

「コンボトルの、一種の風土病だ。伝染性だけど、伝染力も弱いし、発病することは稀……なのに……」

「『6』……?」

 ルイの、怯えた小さな声。

「そう。その病気についての、いわば指数で、助かるか死ぬか、フィフティ・フィフティより、少し悪い方……かな」

「……」

「どのみち、答えが出るまでそれほど待たせないと思う。じゃ……」

「マチアス!」ルイがもう一度マチアスの腕をつかんだ。「今夜も明日も、来て」

「ルイ」マチアスはなだめる笑顔で、「伝染病なんだよ」

「来て」

「明日以降、ぼくを見ても10メートル以内に近づかないこと。……10メートルでいい?」

 マチアスが、白衣の青年の方に顔を向けた。

 青年は、目を伏せた。

 マチアスはルイに向き直り、

「いいね? 答えが出たら、きっと知らせにくる」

 ルイはかすかにかぶりをふり、マチアスは自分の腕からルイの指をはがした。

「やっぱり、ぼくひとりで来るべきだったのかもしれない。弱虫のぼくを、許しておくれよね」

「ぼくは……」

「悪い方でも、必ずもう一度会いにくる。じゃ、ね、ルイ」

 マチアスはルイの鼻をつまみあげ、その肩越しにリックを見、リックが目を閉じたきりなので、ルイに視線を戻した。マチアスはあとずさりをし、ルイと無言のまなざしをからめあったまま、部屋を出ていった。

 ドアが閉まると、廊下の気配は室内にほとんど伝わらない。

 ルイはいたたまれないように、ドアに背を向けた。

 リックがいつのまにか目をあげていて、ふたりはただ黙って互いを見つめた。




「お食事を、あまりお召しあがりにならなかったようですね」

 ハルは『一月の間』に入ってくると、最初にそういった。

 リックはベッドの端にかけて、本を読んでいた。部屋にある、飾り棚に並んでいた革の表紙の本だった。

 ルイは部屋の隅に置かれたチェステーブルのそばに立って、ひとりで駒を並べていた。

 ハルの訪問に、ふたりは彼を見たが、口を開こうとはしなかった。

「必要なものがありましたら、おっしゃってください」

 ハルがルイの瞳に笑いかけた。

 ルイのまなざしは、必要なものはマチアスだけだといっているようだった。

 ハルは目を伏せた。

「マチアスさまは今、南の塔の下においでです」そこでしばらく口をつぐみ、穏やかに付け加えた。「あの方は、生まれながらの王です」

 ルイは眉を寄せた。

 リックは首をすくめた。

 ルイが一歩踏みだした。

「マチアスは、『五月の間』に戻ってきますか?」

「えぇ」

「あなたは、マチアスに近づいても平気なんですか?」

「私はすでに免疫を持っています。近い者を同じ病気で亡くしていますし」

「……」

「あ、失礼。どうか、そんなお顔をなさらず……」

「……」

 ルイは顔を伏せ、ゆらゆらと歩いていって、ベッドの蔭に座りこんだ。ハルからは死角になる位置だった。

 ハルが戸惑ったような顔をすると、リックが本をベッドに置いて、いった。

「今は、特に不都合なことはありません」

 ハルはリックを見つめ、うなずいて部屋を出ていった。

 リックは短く溜息をつき、本を取りあげた。

 すでに数十ページ読んでいるのに、何が書かれているか思い出せないことに気づいた。本を閉じ、イライラしたように髪をかきむしった。部屋の隅に歩いていき、戻って、ベッドの裾をまわりこむと、ルイの隣に座った。

 手にしたものを壁に向けて投げる。

 ルイが目をあげた。

 数メートル先の絨毯の上に、黒のポーンが転がっていた。リックが投げたのは、チェスの駒だった。

 手の中の別の駒をまたひとつ、リックは放った。白のポーンだった。

 それは絨毯の上の黒のポーンに当たり、小さく弾き飛ばした。次は黒のナイトを投げて、白のポーンに当てた。今度はナイトの方が弱く、ポーンに当たってそのまま倒れた。

 リックは次々に投げ続けた。

 駒と駒がぶつかるたび、カチッと小さな音があがる。

 ルイは目を丸くしていた。リックが一度もはずさないからだ。

 転がっている白のビショップに、リックは黒のビショップを投げた。

 カチッ。

 黒の駒は、白の駒の向こう側に転がり落ちた。

 見つめていたルイは、目の前に白のクイーンが現われたことに驚いて、リックを顧みた。

 リックは無表情に、無言のまま、ルイにクイーンを差し出していた。

 ルイは唇の端で笑って、それを受け取った。狙いを定めて投げたが、白のクイーンは黒のビショップを越えて、ぽとりと落ちた。

 ルイがリックを見ると、リックはルイに横顔を向けたままニヤッとした。ルイが投げた白のクイーンに黒のポーンを当て、小さく弾いた。

 ルイは子供のように口を尖らせ、リックに掌を向けた。

 リックは口もとを引き締めて、ルイに白のルークを渡した。

 ルイの手からルークが飛び、放物線を描く。

 カチッ。

 黒のポーンにヒットした。

 リックは短く口笛を鳴らし、即座に駒を投げた。

 黒のナイトが、白のルークの上に落ち、重なった。

 ルイは真剣にそれを見つめ、リックに手を伸ばした。

 リックもルイと同じ場所を見つめたまま、ルイに駒を手渡した。

 狙いを定め、放りあげかけて、ルイはハッと動作を止めた。

 リックが顧みると、掌にのせて、ルイがその駒を見つめていた。

 白のキング。

 小さく明かりを映した、象牙色の駒。

 握りしめると、ルイはその手をまぶたに押しあてた。

 乱れて流れる金の髪が、その横顔をリックから遮ろうとする。

 リックは立ちあがった。ばらばらと残りの駒が落ちた。

 体を屈め、ルイの二の腕をつかんだ。ひきずるように抱えあげ、ベッドに倒し、その肩を押えつけておいて、柔らかな毛布でルイを覆った。

 毛布の裾に手をつっこみ、ルイの靴を脱がせて放り出した。

 ルイが体を起こそうとしたので、リックは馬乗りになって押さえた。顔の半分を毛布で塞がれて、ルイはリックを見あげた。

「……」

 鼻と口を毛布に塞がれたルイのくぐもったうめき声に、リックは手を緩めた。

 解放された唇が、小さく呼びかける。

「リック?」

 リックはルイを見つめていたが、急にはにかんだ表情になると、ベッドから降りていった。

 ルイはほほえんで目を閉じた。




「だめだった」とマチアスはいった。「エンケ先生、出てこない」

 シャツの衿のボタンをはずし、背もたれの高い安楽椅子に腰かけた。

 ハルは小さな銀のトレイにコーヒーカップをのせて、マチアスのそばに歩いてきた。

 マチアスはつぶやくように「ありがとう」といい、カップを取った。

 熱いコーヒーをすすり、

「こんな偶然が起こるなんて……夢のようだ、未だに」

 ハルは黙ったまま、そこにたたずんでいる。

「あのクルーザーの事故がなかったら、ぼくらはベルギリウスに降りもせず、とうにエリアを出ていた」

「そうですね」

「どうして、ぼくらがベルギリウスに降りたことがわかった?」

「王妃さまが……」

「母上が?」

「マチアスさまは、イズィのポートで、王妃さまの船とすれちがったのですよ」

「ま……さか……」

「お気づきにはならなかったはずです。すべて極秘に行なわれ、貨物船でコンボトルにお帰りになったのですから」

「母上が……」

「最初にホワイトネビュラにお気づきになったのは、王妃さまでした。おそばの者が、王妃さまは陛下のご病気のショックで錯乱状態になられたのでは……と案じて、ベルギリウス王宮にいた私に連絡を」

「それで、シリーから飛んできたの?」

「はい」

「母上は、ホワイトネビュラを知っているの? ああ、知らないはずはないか。知ろうと思えば、ラルフに聞いてもいい、いくらでも情報は手に入れられる。マークし続けることだってできるんだ。コンボトルの諜報部はそんなに暇じゃないだろうけど」

「そうですね。追跡しきれません。ジプシーですから」

「ベルギリウスでは、ぼくは知られすぎている。降りたくなかった。でも、あの事故船の連中を連行しなければならなかったし、ヒステリーを起こしたレディだから、ぼくが連れていくしかなかった。リックにやらせるのは、かわいそうだからさ」

「……」

「ベルギリウス・エリアを飛んでいて……よかったのか悪かったのか……」

 マチアスは独り言のようにいい、コーヒーを飲みほした。

 背もたれに頭をあずけ、目を閉じた。

「レウス先生に聞いた。ルーカスも6だったんだって?」

「……ええ」

「知らなかったな。ごめんね」

「父もそうでしたから……同じ……発病しやすい体質を受け継いでいたのかもしれません」

「ルーカスは、ぼくを恨んでなかったかな」

「マチアスさま?」

「だってあの頃、ハルとルーカスはふたりきりの兄弟だったわけで……それなのにルーカスは隔離されて……ハルはぼくのそばにいて……、ぼくはただの風邪だったのに」

「マチアスさま……」

「ごめんね。ルーカスのそばにいたかったでしょう? ルーカスはひとりで死んで……ぼくと同じ年だったのに……ぼくは三日目には元気になったのに、ルーカスはひとりで……」

「マチアスさま……!」

 ハルはマチアスの前に立ち、腰を屈め、マチアスの肩を手に包んだ。

 マチアスは口をつぐみ、目をあげた。

 ハルが、いたわる瞳でいった。

「今夜はもうお休みになった方が……」

 マチアスは首を横にふった。

「もう少し、考えたいことがある。明日とか、あさってとかのことを」



 リックは、静かにドアを開けた。

 左右に伸びる廊下は、深夜に近い時刻の薄闇に満たされていた。

 ドアを閉め、耳をすませた。

 潮騒が聞こえるような気がした。

 おそらく、外で木々が風に鳴っているだけなのだろう。

 部屋を出たからといって、行くあてがあるわけではなかった。

 リックは、どこへ続いているかわからない廊下の左右の先を透かすように見た。

 細い光が一条だけ見える。

 彼の右手の方だ。

 リックはゆっくりと、そちらに向かった。その光に特に興味を持ったわけではなかったが……。



「マチアスさま?」

 コーヒーカップを片付けていたハルは、ふと声をかけ、それから安楽椅子の前にまわった。

 いつのまにか、マチアスは眠りこんでいた。

『五月の間』は、他の客間に比べると小さい。

 蔓と小さな花の意匠の細かな彫刻をほどこされた家具と、手織りの絨毯。部屋の両側に、ベッドがある。天蓋のついたものではなく、他の部屋のそれに比べたら質素すぎて見えるようなシングルベッドだった。

 ハルは、ベッドが整えられていることを確認してから、マチアスのもとに屈んだ。

「マチアスさま。さぁ、ベッドへ……」

 マチアスは寝ぼけた声で何かつぶやき、おもむろに両手をあげて、ハルの首にかけた。

 ハルはほほえみ、マチアスの体の下に手を入れて、ゆっくりと抱きあげた。

 マチアスが、また何かいった。

「マチアスさま?」

「ハル……す……ごい……力持ち……」

 ハルの首にしがみつき、目を閉じたまま、マチアスが笑っている。

 ハルはほほえんでいるだけで、応えない。

「おっきな花嫁でも……いいね」

「は?」

「大柄な女性と結婚しても……抱きあげて……ベッドに運べる」

「結婚など……」

「まだしなくても……いつかするでしょ?」

 ハルは、マチアスを抱えたまま足を止めた。

「しませんよ」

 ハルがほほえむ。

 マチアスは目を閉じたままなので、それを見ていない。

「好きな人、いないの?」

「マチアスさまは?」

「誰でしょう?」

「リックさまとルイさま、ですね」

「リックと……ルイ……」

 マチアスは、目を閉じたまま小さく笑った。

「おふたりだけ、ですか?」

「でも、花嫁にできないもん」

「残念ですね」

 マチアスが、またクスクス笑う。

 ハルは再びベッドに歩き、そっとマチアスを降ろした。

 マチアスは枕に頭をうずめて、すうっと眠りこんだ。

 ハルはマチアスの寝顔を見つめ、その深い寝息を確かめた。

「お忘れですか? あなたは私のリボンをほどいたのです。いいえ、あの頃から……私は……」

 ハルはそっと目を閉じ、息を殺して、眠るマチアスの額に小さくくちづけした。



 その光は『五月の間』の、扉の隙間から漏れていた。

 ハルが身を屈め、マチアスの額に唇で触れた瞬間、リックは魔法にとらわれたように立ちつくした。

 思わずあとずさり、背中が壁に触れたときに、止めていた息を吐いた。

 その位置からはもう、マチアスもハルも見えない。

 しかし、リックは扉の隙間から闇へと目をそらし、静かに『一月の間』に戻っていった。



 ベッドで、ルイは眠っていた。

 握ったままだった白のキングを頬にあて、幼な子のようにかすかに寝息をたてて。

 リックはルイの寝顔を覗きこんで、ルイの深い眠りを確かめてから、ベッドの反対側の端に服を着たまま潜りこんだ。

 シャンデリアの明かりは、最小レベルに落としてある。

 ぼんやり光る天蓋を眺めているうちに、リックは浅い眠りに落ちた。




 そこは大理石の床のホールで、天井まで四階分ほどの高さがある。

 その中ほど、高めの『二階』の位置にぐるりと回廊が続き、蔓と小花の細工の手すりが巡っている。

 回廊の、ルイが今いる側とその正面に、廊下への入口がある。

 ルイの正面、ホールの向こう側の廊下は、ルイの位置から見るかぎり、ほとんど照明もないようだ。

 彼は、足を止めて見降ろしていた。

 階下のホールに、マチアスがいる。

 ホールを縦横に行きかう、白衣の男たち、女たち……。

 スクランブル交差点を想わせるそのホールの中央に、マチアスが立っているのだ。

 ある男には何かの指示を与え、ナースらしい婦人からは何かの報告を受ける。

 ハルはすでに二度ほど姿を見せたが、マチアスに言葉をかけるだけで、すぐに違う方向に去っていった。

 ルイからは、ホールの出入り口は見えない。彼らがどこからここへ来て、ここからどこへ行くのか、ルイにはわからなかった。

 同じ位置に立ったままのマチアスは、裏方に指示を与える舞台監督にも似ていた。

 ルイは手すりによりかかり、ときには手すりに頬杖をついて、飽くことを知らないようにマチアスを見つめていた。

 10メートル以内に近づくなと昨日マチアスはいったが、ルイのところまでは高さが4、5メートルあるし、平面的な距離も十数メートルだ。

 直線距離で、10メートル以上離れています!

 マチアスに叱られたら、そういうつもりだった。

 しかし、離れていたいわけではなかった。

 ロークが来た。

 マチアスに何かいい、マチアスが答え、ロークは一礼して去っていく。

 彼らはみんな、声をひそめている。ルイには頼りない残響が届くだけだった。

 続いて、ハルと白衣の男が来た。

 マチアスの前に足を止め、まずハルがマチアスに何かいった。

 マチアスは憤然としたように、首を横にふった。

 白衣の男が不安そうに、マチアスに言葉をかける。

 マチアスはひと言、

「だめだ!」

 と、声を荒げた。

 それはホールいっぱいに響き、ルイは首を縮めていた。

 白衣の男がうつむく。ハルがマチアスに懇願するように何かささやいている。

 マチアスはまた、きっぱりと首を横にふった。

 ルイは、思い出していた。

 ホワイトネビュラ号のリビングルームでハルに出会って以来、幾度も垣間見た……見せつけられた、マチアスの見知らぬ顔。別人のような……。

 ルイは手すりから離れた。

(別人? 今のが『本来の姿』なの? ならば、今まで一緒にいた、あのマチアスは誰なんだろう)

 マチアスはいらだったように手をふり、ハルにくるりと背を向けた。

 そのとき顔もあげたので、彼はルイに気づいた。

 ルイもマチアスを見た。が、見つめていられなかった。

 10メートル以上離れた、気まずいまなざし。

 ルイはきびすを返し、廊下に戻った。

「ルイ!?」

 マチアスの声が響いたが、ただ足を速めた。



『一月の間』に戻り、ドアを閉めた。

 リックはいなかった。

 ドアのあたりからは見えないベッドの蔭にも、リックの姿はなかった。

 チェステーブルの上には、きちんと駒が並べられている。

 だが、白のキングだけがなかった。

 白いキングは、ベッドの一方の端、ルイが眠った枕元にそのまま置いてある。握ったまま眠り、眠っている間に手からこぼしたのだ。

 ルイはそれを拾い、あるべき位置に戻した。

 キングのあるべき位置……。

 ルイは唇をきつく結んだ。

 全身から力が流れ落ちていくような気がして、壁に手をあてた。

 そのとき、ノックがあった。

「は、はい!」

 応えたのに、ドアは動かない。

 ルイはドアに向かい、開けようと手をかけた。

「開けちゃいけない」

 ドアの外で声がした。

「マチアス!?」

 ルイはドアに向け、目を見張った。

「開けちゃいけないよ。ルイ? そこにいる?」

「うん」

「……」

「マチアス?」

「……」

 ルイは微笑した。

「マチアス……ぼくら……本当は……出会うはず……なかったんだね」

「ルイ?」

「ぼくはいつも忘れていて……まるで『知らない』みたいに忘れていて……だけど君は……」

「コンボトルの次の国王」

「……」

「ルイ。ぼくらは出会えたよ。ぼくらは……たとえばぼくがずっとコンボトルにいて、おまえが地球にいて……それでも必ず出会えた」

「マチアス……」

「昨日、ミスター・ロークがおまえを『殿下』と呼んだときに、気づいたんだ。考えてみなよ、フィリップ・マルローは地球政府を代表する人物だぜ。コンボトルの国王の戴冠式……いや、その他に何でもいいんだ。たとえばおまえは俳優として、フィリップ・マルローの息子として、親善大使としてコンボトルに来るかもしれない。ぼくはちゃーんとおまえに目をつけて、個人的に親しくなるよう、手を打つだろう。あるいは、ぼくが地球にいくかもしれない。地球政府のいろんな人物が、ぼくを歓迎してくれるだろう。もちろん、おまえのお父さまもだ。パリのマルロー邸に招待してくれるかもしれない。そうしたら、おまえはそこにいて、『ようこそ』っていってくれるだろう。『お目にかかれて光栄です』とか何とか……。そして、ぼくらは同い年で、気があって、おまえはぼくにひと目惚れするかもしれないし、ぼくがおまえにひと目惚れするかもしれないし……」

 ルイは思わず、クスッと笑った。

 マチアスが続ける。

「ぼくらはきっと出会えた。ぼくらも……リックもだ。ヴァン・ラヴの総統の息子と、ぼくらが出会えないはずがないんだ。ぼくらは、同じ年に、同じ世界に生まれて……放っといても会えたんだ。きっと会えて、仲良くなれたはずだ。違うかい?」

「……」

「放っといても会えたのに、ぼくらは自分が選んだ道で出会った」

「うん」

「いちばん……『高貴』でも何でもない……ジプシーなんていう『下賎な』道でさ」

「うん」

 ルイは、幸福そうに目を細めた。

 マチアスの口調も安らかだった。

「いちばん素敵な出会い方だ」

「うん」

 そして、いちばん哀しい出会い方だ。

 儀礼的な挨拶を交わすだけで離れていける出会い方なら、こんな気持ちには……。

「ルイ? そこにいる? ちゃんと?」

 ルイは我に帰り、ドアに手をあてた。

「いるよ、マチアス、ここに」

「そこに、いて。もうしばらく……」

「いるよ」ルイはつぶやくようにいい、ドアによりかかった。「殿下。国王陛下の一日も早いご快復を……地球政府は願ってやみません。わたくしは地球政府を代表してまいりました、ルイ・マルローと申します」

「地球政府のご厚意、いたみいります。けっこうなお見舞いの品まで頂戴し……」

 ルイは目をパチクリさせて、「お、お見舞い?」

「父は未だ伏せっておりますゆえ、わたくしが父に代わって頂戴いたします」

「な、何を?」

「え? 地球政府はお見舞いに『おまえ』をくれたんだろ? 好きにしていいって、この親書に書いてあるぜ」

「嘘ばっかり!」

 ルイはふくれてドアを叩き、ドアの外でマチアスが笑いだした。

 遠くで誰かの声がした。

 マチアスが「今、行く」と応えている。

 ルイは息を殺した。

「ルイ……!」

 マチアスの声が、ただそれだけ聞こえた。

 ルイはドアに頬を押しあてるようにして、駆け去っていくかすかな足音に耳をすませた。




 リックが『一月の間』に戻ってきたとき、ルイは頭より高く足をあげ、ベッドの支柱に爪先をひっかけていた。

 リックはギョッとしたように足を止め、

「何をしてるんだ?」

「柔軟体操」

 ルイは『1たす1は?』と問われたときのように、きっぱりと答えた。

 リックが目をパチクリさせている間、ルイは足首を支柱にまわしている。

「どうしたんだよ、急に……」

「退屈してきたんだ」ルイは悪戯っぽく答えた。「体がなまらないようにしてるんだよ。もうすぐ、そらに帰るんだからね」

 リックは眉をひそめ、ルイは上げていた足を降ろして、

「きっとすぐに、陛下のご病気は治るよ。マチアスはまたいつものマチアスに戻って、ぼくらはそらを飛ぶ。絶対そうだと思う」

「……」

「リック、どこか探検してきたの?」

 ルイは反対の足の爪先をつかみ、ひょいと頭上に伸ばして、ベッドの支柱に立てかけるようにした。それから、ペロッと舌を出し、

「こんなことに使ったら、ミスター・ロークは怒るかなぁ。リック、内緒にしてね」

 ルイは唇に人差指をあててみせ、まるでルイではなく、もっとやんちゃな子供であるかのように笑った。

 リックは首をすくめ、ソファにかけた。

 ルイに背を向ける位置になった。

「おれも退屈だから、情報を集めてきた」

「情報……?」

「ベルギリウス国王の書斎に忍びこんだら、端末があって……」

「国王陛下のコンピューターを、黙って使ってきたの?」

「百科事典を呼び出して、調べた」

 ルイは顔から笑みを消し、足を降ろして、その場にたたずんでいる。

「症状は、高熱を伴う昏睡。ときどき意識を取り戻すこともあるが、指数8以上なら3日もたない。コンボトルの風土病……とされているが、実際は星のせいではなく、地球にいた時代から持っていた民族固有の病気の、コンボトル移住による突然変異種。潜伏期間も発病する人間によってまちまちで、決定的なデータはない。コンボトルに固有だから、『6』とか『8』とかで話が通じちまうらしい。指数6の場合は死亡率こそ58%程度だが、悪くすれば、意識混濁状態が1か月から、1年以上続くことがあり……」

「リック……」

「たとえ命を取りとめても、そのあとしばらくは国王としての執務が不可能ということも考えられる」

「いやっ」ルイが細くいった。「どうして?」

 リックは、背もたれ越しにルイを見た。

 ルイはベッドの支柱につかまるようにして立ち、リックを見つめている。

「どうして、そんな意地悪なこと……」

「い、意地悪って……おれは……」

 リックが鼻白む。

 ルイはかぶりをふり、

「陛下は助かるよ。意識混濁なんかしない。元気にコンボトルにお帰りになって、マチアスはぼくらのところに帰ってきて、そして……」

「ルイ、でも……」

「リックのバカ!  大嫌いだもん!」

 ルイは突然いじめられた幼児のような声を発し、ベッドにつっぷして泣き声をあげはじめた。

 リックは面食らい、跳ねあがるようにソファを立って、ルイのもとに飛んだ。

「な、何だよ。そ、そんなに泣かなくても……」

 わあわあ泣いているルイの震える背中に、非難するようにそういった。リックも子供のようだった。

「リックなんか、嫌いだもん。意地悪いうから」

「お、おれは別にそんな……。ただ、調べたことを……」

 リックはひざまずき、半ばおろおろして、ルイの肩に手を伸ばした。

 そのとき、ルイが勢いよく身を起こした。

 リックを顧み、クスクス笑いをした。泣いた形跡は、まったくなかった。少し前髪が乱れているだけだ。

「お、おまえは……」

 リックがうめくようにいいかけるのを、ルイは無邪気な口調で遮った。

「いったでしよ? 退屈してるって」

「こいつ……」

「やだな、リック。本気であわててるんだもん」

 ルイの人差指が鼻先に向けられると、リックはムスッとして、それを払いのけた。

 ルイはまだ楽しそうに笑いながら、払いのけられた手でまぶたをこすった。

 指先が濡れた。

 ルイは小さく笑った表情のまま、あわてたようにまぶたをこすり続けた。

「ルイ?」

 リックの静かな声に、ルイは首を横にふり、そっと顔を起こした。

 ルイを見つめているリックのセピアの瞳に、つぶやきに近い声でいった。

「ありがとう」

「……」

「そう……そうだね……はっきりとわかった方が、不安が少なくなって……いいね」

「ルイ……」

「たとえば1年……陛下が執務できなかったら、マチアスはコンボトルに戻るかな」

「さぁ……」いいかけて、リックは溜息をつき、「そうだろうな」

「ぼくらは、たとえば1年……マチアス抜きで飛ぶのかな」

「……さぁな」

 ルイの視線から、リックはゆっくりと目をそらした。

 ルイはほほえみ、「リック」

「何だよ」

「ほんとは『大嫌い』じゃないよ」



10


 臨時の隔離室となった南の塔は、低い樹々に囲まれた大木のように見えた。枝に隠れ、塔の高さを見ることはできない。もともと、ミラ島からまわりの海を展望するために建てられたものだ。かなりの高さがあるにちがいない。

 しかし、ゴンドラのようにゆるゆると上昇するエレベーターに窓はなく、乗りこんだマチアスも瞳を閉じていたので、彼は闇の中にいた。

 体重を、震える膝は支えきれない。

 力を込めようとしているのに、脚がスポンジケーキのように頼りないのだ。

 隣にはハル・ペイトンがいる。案内役のミスター・ロークもいる。たとえば、とりすがったなら、しっかりと支えてくれるだろう。

 それでもマチアスの手は動かなかった。ふたりにすがりたくはなかったのだ。今もし、そばにいるなら、リックとルイに両脇を支えていてほしかった。

 その、支える力の強さも、手の感触も、マチアスははっきりとイメージすることができた。

 リックの面倒臭そうな横顔と、体重のすべてを預けても揺るがないような強い腕を。

 ルイの気遣うまなざしと、懸命にひきあげようとするようなその手を。

(今、隣にいるのがあのふたりなら、ぼくは本当に立っていられない。ハルとミスター・ロークだから、ひとりで歩けるんだ)

 エレベーターが止まった。

 マチアスは目を開けた。

 エレベーター内の明かりと、外の小さなホールの明かりとが溶けあって、マチアスを包みはじめた。

 しばらくは、その光しか見えなかった。

「大きくなられましたな、殿下」

 その声に、マチアスは我に帰った。

 ほとんど無意識で歩いていたのだ。彼は今、セラミックスの、防火扉のように見えるドアの前にいた。

 傍らに銀の髪の老人が立っていて、親しげな微笑を送っていた。

「エ、エンケ……」エンケのおじいちゃま、と言おうとしてマチアスは言葉を飲み、ゆっくりと、「ドクター・エンケ」

 マチアスより頭ひとつ分背の低い老侍医長は、マチアスに目を細めた。目尻がさがり、深いしわに目そのものが紛れてしまう。後ろにとかしつけている銀髪が、風に当たったように耳の上で乱れていた。

「……会えますか?」

 マチアスは、おそるおそる問う。

 エンケはほほえんだまま首を横にふり、

「レウス君から報告を受け取っています。意識が戻られても、直接お会いすることはできませんよ、殿下」

「ど、どうして……」

「殿下は、発病の可能性が高い。もしものことを考えなければならないのです」

「……」

「おやおや、殿下は『外』で素敵なふくれ面を身につけられましたな」

 エンケの笑い声に、マチアスはあわてて頬をこすった。

「それで……それで、父上の意識は……?」

「峠は越されました……と、私は確信しております」

「けど、まだ……不明?」

「はい」

「……」

「殿下は……」

 エンケがまた小さく笑った。

「『ぼくは』、何です?」

「『ぼくが父上のほっぺたを叩いて、目を覚まさせてあげるんだ』とでもおっしゃりたげな……そんなお顔をなさっておられますよ」

「正解です」

 マチアスは首をすくめ、エンケの笑顔を見つめた。

 それから乱れた髪を見、白衣を見、思わず彼に腕をまわした。

「あなたのご尽力、心から感謝します」

 マチアスの肩先で、エンケは黒い瞳を丸くした。

「殿下」

「なぁに?」

「大きくなられましたな」

「もう16だもの」

「まだ16ですな」

「……」

「早すぎますよ。陛下はせっかちな方ではありません。きっと、お元気になられます」



 南側のテラスに出ると、風がマチアスの髪を吹きあげた。

 ハルは風を防ぐ位置に立ち、マチアスの横顔を見つめた。

 マチアスは、遥かな草原の向こうに横たわるペールブルーの穏やかな海を見つめていた。

 水平線が、同じような色あいの空とつながっている。

 そのすぐ上に、ぼんやりとした光点が見えた。

「あれは……?」

 指をさすと、ハルがそちらを見て、

「ユーリアですよ」

「隣の惑星?」

「えぇ」

「昼間でも見えるの。近いんだね。地上から星を見るって、こんな感じなのか。そう……地球にいくとね、青空に月が見えることがあるんだよ。コンボトルでは、真昼には太陽しか空にないよね」

 テラスの手すりの下に、樹の枝が伸びてきている。

 名も知らぬ、柔らかな手ざわりの葉を、マチアスは摘んだ。

「父上にもしものことがあっても、コンボトルにいてくれる?」

 マチアスの横顔に、ハルは目を伏せた。

「私は、マチアスさまのお望みの場所におります」

「じゃあ、そこでじっとしてて。絶対に、動いちゃだめだよ」

 葉を風に投げて、マチアスがいった。

「はい……?」

 応えかけたハルは、不意に胸に倒れてきたマチアスに息を飲んだ。マチアスの腕が腰にからみ、服にしがみつく。

「いい……」

 マチアスがつぶやく。

「マチアスさま?」

 あわてたようにマチアスを受け止めて、ハルが細くいった。

「ハルがいてくれるなら……いいよ。コンボトルに帰ることになっても……」

「マチアスさま……」

「だから、コンボトルを離れないで」

「離れませんよ」

「きっと、だよ?」

「……はい」

 目を閉じて、ハルはマチアスを腕に包んだ。

 だが、マチアスはすり抜けるようにハルから離れ、

「ごめん、子供みたいなこと言って」

「マチアスさま……」

「怒らないでね」

「私は……」

 マチアスはハルから視線をそらし、空に顔をあげた。

「会えないなら、ひとまず部屋に戻る。もう、じたばたするのはよそう。レウス先生に、ぼくの検査結果を詳しく聞いてくれないか? たとえば……コンボトル人以外の人間に近づいてもいいか、とか。それから、エンケのおじいちゃまがもっとよく休めるように、医師のローテーションを組み直してほしい。エンケのおじいちゃまが休みたがらなかったら、ぼくの命令だといってくれ」

「かしこまりました」

 ハルは、静かにそう応えた。



11


 ハルがリックを見かけたのは、別荘の玄関ホールだった。

 リックはひとりで開いた扉の間に立ち、外を眺めていた。

 あたりを包む木立ちの向こうに、彼らがイズィから乗ってきた小型機がそのまま停まっているのが、ぽつんと見えるのだ。

 ハルがそのことに気づいたとき、リックがふりかえった。

 ハルはハッとして、かすかに目を伏せた。

 外からの光が射しこんでいるため、逆光線のリックの表情はハルにも読めない。

 問いかけてみる。

「リックさま。外に何か……?」

「いえ」

 リックは小さく応え、扉を閉ざした。

 戸外からの光が消え、リックは柔らかな室内照明の中でハルに向き直った。しかし、歩み寄ろうとはしなかった。

 ハルはほほえみ、

「退屈されていることでしょう。申しわけありません。閉じこめられて、さぞ……」

「いいえ」

 きっぱりと遮ぎられて、ハルは問いを変えた。

「ルイさまは?」

 リックは、ちょっと困ったように鼻の頭をこすった。

「部屋で……その……ダンスの稽古を……」

 ハルは目を瞬かせたが、それについては何もいわなかった。

 ふたりはしばらく黙り、その沈黙を先にリックが破った。

「明日には、船に戻ろうと思います」

「……」

「係留延長の手続きをとらなければならないし……。そのまま置いてきてしまったので」

「ご心配でしょう。では、お送りいたしますので……」

「いえ、ひとりで行けます」

「ひとり?」

 ハルの声が小さくなり、リックは気づいて、

「あ、ああ、ルイと」

「おふたりで……。そうですか」

「そうです」

 リックはいい、そのまま歩きだして、ハルから離れた。もう、互いに言葉を交わさなかった。



 ハルがマチアスの額にくちづけしたとき……それを見たときの心の動きを、リックは言葉にすることができなかった。それがどんな感情なのかも、彼にはよくわからなかった。

 彼は、自分の中に湧く『感情』というものの種類や名前を、はっきりとは知らないのだ。たとえば痛みを知覚するようには……あるいは『苦み』や『甘み』を判断するようには、それを『喜び』とか『悲しみ』とか呼ぶことができないのだった。

 今、玄関ホールでハルを見た瞬間、昨夜と同じような感情の波が心に打ち寄せたが、それが何なのか、リックにはわからなかった。彼は『わからない』ことがもどかしく、足早に廊下を進んだ。どこに通じているのかわからない廊下だった。

 王子である、王室でのマチアスをリックは知らない。

 そして、国王になってからのマチアスを知ることも、リックにはできないだろう。

 マチアスの生涯のうちの10年間だけがリックに見えるものであり、残りのすべては彼には触れられない。

 けれども、ハルは……。

 廊下の角を曲がったとき、リックはそこにあった足につまずき、つんのめった。あわてて態勢を立て直し、ふりかえると、座りこんでいたマチアスが足首を押え、顔をしかめていた。

「マチアス! 何を……そんなところで……」

「ごめんごめん。ぼんやりしてて、足音に気づかなかった」

「悪かった。おれも気づかなくて……」

 リックはひざまずき、マチアスが押えている足に目をやった。

 マチアスは屈託なく笑って、

「大丈夫だよ」

「こんなところで、何をしてるんだ?」

「何も。ただ、ひとりになりたかったから」

 マチアスは、知りあったばかりの友達にも見せないような、はにかんだ顔をした。

 応える言葉を見つけられずにいるリックに、マチアスの方が問いかけた。

「リック、おまえこそ……。部屋とは方向が違うよ。迷ったの?」

「ちょっとぼんやりしてたから……」

 リックはすねたように言い訳し、マチアスはクスクス笑いをした。

「退屈だろ? ルイはどうし……あ!」

 マチアスの叫びが、他に誰もいない廊下に反響した。

 リックは驚き、思わず体をひいた。

 マチアスは転がるように、リックからあとずさりして、

「10……10メートル……! ぼく、まだ検査の結果を聞いてないし……ぼ、ぼくを介しておまえに……」

「バカ、落ちつけよ」リックはマチアスの腕をつかみ、あきれたように、「今更、同じだろ? さっきからこんなに近くで話してて……」

 マチアスはぐったりと壁によりかかる。

「知らないぜ、死んじまっても」

 リックはかすかに笑っただけだ。それから、

「おやじさんのようすは?」

 マチアスは目を丸くし、次いで吹きだした。

 リックは、ぶすっとして、「な、何だよ」

「だって、ここへ来て、父上を『おやじさん』と呼んだのは、おまえだけだぜ。みんなが『陛下陛下陛下』っていってるのに『おやじさん』だって……」

「わ、悪かった。『陛下』と呼べばいいんだろ」

「ううん」マチアスは幸福そうに、「『おやじさん』でいい。ぼくは、ただのマチアスに戻れたみたいだから」

「……」

「でね、おやじはまだ目を覚まさないよ。困っちゃうなぁ。このまま……」

「意識混濁」

 マチアスはけげんそうに、「誰かに聞いた?」

「勝手に調べた」

「そう……。今、コンボトルでは母上が……『おふくろ』がひとりでがんばってるんだ。まだ、発表もされてないから、穴埋めがたいへんらしくて……。幸い、大きな公式行事はないんだけど。マスコミに……市民に知れたら、たいへんな騒ぎになるからね」

「そっちは、いいのか?」

「たぶんね。おやじがここにいることも、知られていないはずだもん。もちろん、ぼくがいることも……さ」

「……」

「ぼくが帰ってどうなるってわけじゃないけど……もしかしたら……」

「そうだな」

「ねぇ、リック。ぼくがコンボトルに帰ったらさ、おまえ、ヴァン・ラヴからの親善使節です、とか何とかいって、コンボトルに遊びにきてくれる?」

「バカいえ、そんな暇があるかよ、ジプシーに」

 ジプシー……という言葉がとても遠く思えて、リックは口をつぐんだ。

 マチアスにとっても同じだったらしい。その名を口には出さず、ゆっくりと立ちあがった。

「もう、行くね」

「ああ」

「じゃあ……あ、あの……ルイによろしくね」

「ああ」

「バイバイ」

 マチアスは、リックがやってきた廊下に去った。

 リックはマチアスがいた廊下の先へ歩きだした。

 どこに通じているのか、まだわからないまま、まるでそれぞれに違う世界へ離れるように……。



12


「でも、殿下のご命令ですよ」

 ハルの声を聞いて、ルイは足を止めた。

 マチアスがいっていた『ベルギリウスの歴史資料室』というのを探していたのだが、ハルと、ルイの知らない老人がいるところを通りかかったのだ。『殿下』という一語は、ルイの足を止めさせるに充分だった。

 老人は医師らしい。丈の長い白衣を着た、銀の髪の老医師。

「わかったわかった。殿下のご命令とあらば、私も少し休ませていただこう。しかし見たところ、ハロルド、君の方が休息を必要としているようだが……」

「ドクター、私は……」

「君が、陛下やマチアス殿下に尽くす気持ちはわかるが……ああ、そうだった。ルーカスも6だったな」

「えぇ」

「ルーカスはたった9つだったが、陛下は壮年。もともと体力もおありで、抵抗力が違う」

「えぇ」

「ハロルドや」

 不意に優しくなった声に、ハルは不安げな顔をした。

「君が王室に来た頃から、君を知っている。君は……恋をした方がいいぞ」

「ドクター……?」

「相手は誰でもいい。コンボトルの貴族の姫君でも街のおてんば娘でも……アポロンのような美青年でも、この際かまわん」

「……」

「たとえば努力で……熱意で……手に入れられるものは、この世にたくさんある。君は若く、美しく、強く、賢い。望むものの99%は手に入れられるだろう。だが君が求めているのは、残りの1%の方だ」

「私は……」

「どんなに愛して、焦がれても、殿下だけは手に入れられない」

 その言葉に、ルイは壁にすがっていた。

 耳の中で鼓動が響きだす。

「私は……私は殿下を手に入れようなどと……いいえ……」ハルは両手をあげ、目を覆った。「わかりません。私は……殿下がお帰りになるなら……陛下の死さえ願ってしまうかもしれない。私は……」

「君は、そんなことは願わないよ」

「えぇ、今は」

「これからも願わない。殿下が悲しまれるようなことを願えない」

「……」

「ハロルド。そんなにまで人を想えるなら……だからこそ君が幸せにできる相手に……君だけを求めてくれる誰かにその想いを注げと……いっても無駄かもしれないが」

「たったひとりの弟よりマチアスさまを選んだ……あのときから、私は殿下のものです。コンボトル王室も、私自身も、殿下を束縛できませんでした。でも、私は殿下のものです。どうしようもありません」

「ハロルド……」老人の手が、うつむく青年の腕にかかる。「睡眠薬を処方してあげよう。私から、殿下にはお伝えしておく」

「いえ……まだ、私には仕事があります。マチアスさまにも伝言がありますし……」

「では、それが済んだら、少しでいい、休みなさい。君がダウンしたら、殿下のご心配の種が増えるだけだよ」

 ハルはうなずき、医師から離れた。

 ルイのいる方にやってくる。

 ルイは足音を忍ばせ、廊下を駆け戻った。

『一月の間』に飛びこむと、堅くドアを閉ざした。



 ノックがあったとき、ルイは壊れて捨てられた人形のように、椅子にかけていた。

「ルイ? いる? 開けるよ」

 マチアスの陽気な声に、ルイは立ちあがった。わずかによろめきながら、ドアのもとへ行く。

 待ちきれないように、マチアスがドアを開けた。

「ぼくから伝染しないって! 喜んで!」

 マチアスははしゃいで飛びこんでくると、ルイをつかまえ、揺さぶり、軽く抱いて、踊るように離れた。

「マチアス……」

「そんな顔しないで。絶対に移らないって、ハルがレウス先生に確認してくれたんだから。ひとり? リックはまだ戻ってないの?」

「うん。いない」

「ぼくは嬉しくて、もう、おまえにベタベタさわりたい気分なんだ」

 再び肩に伸びてきたマチアスの手に、ルイは思わずあとずさりした。

 マチアスは明るく笑って、

「そんなに恐がらなくたって……。あ、でも、大きなベッドもあることだし、今夜からは一緒に寝ることだってできちゃう。ね、ゆうべ、あのベッドでリックと寝たの?」

 ルイはマチアスの肩越しに、ベッドに目をやって、

「そう……だと思う」

「え?」

「ぼくの方が先に眠って、朝はぼくの方が遅かったから」

「へぇ、じゃ、リックに何か悪さをされたかもしれないね。ね、今夜は、ぼくもここで寝ていい?」

「だ、だめ……!」

 ルイは知らず、声を荒げ、マチアスがキョトンとすると、顔を伏せた。

「別に、襲ったりはしないぜ」

 マチアスは苦笑し、ベッドに歩み寄る。腰かけて、無邪気に足をぶらつかせた。

「マチアス……」

「ん?」

「ジプシーの仕事、好き?」

「もちろんさ。なんで?」

「ぼく、知らなかったな。君が、こんなに『王子さま』だったなんて」

「ルイ……?」

「君は王子さまだ。国王になる人だ。ジプシーのふりなんかやめて、コンボトルに帰った方がいい」

「……」

「その方がいい。ぼくもリックを説得して、ここから去るつもりだ。だって、これはコンボトルの問題で……ジプシーにすぎないぼくらには、何の関係もなくて……それなのに、ここに閉じこめられて……。来るんじゃなかった……」

 ルイは口をつぐんだ。いつのまにかマチアスが目の前にいて、両方の二の腕をわしづかみにされていた。

 ルイは怯えた。だが、目は伏せなかった。挑むように顎をあげていた。

 マチアスがルイの瞳に、掠れ声でいった。

「『ジプシーのふり』?」

「そ、そう。王子さまの『道楽』かな? きっとそうなんだろうな。君は……」

「ルイ! ありがたいな。そんなに『ぼく』について分析してくれて」

「……」

「他には? 『道楽』? 『ふり』? ぼくがやってきたのはジプシーごっこで、コンボトルに帰れば、人命救助をやってた立派な国王と呼ばれるようになり……コンボトルの新聞は社交欄なんかに『A級ライセンスをお持ちのマチアス陛下は、貴族の子息と遊覧飛行を楽しまれ……』とでも書いてくれて、それから?」

「……マチアス」

「ぼくは……ぼくは、おまえにいったことがあるかどうか忘れたけど、ルイ、おまえが好きだ。けど、そういっても、おまえを好きなふりをしてるんだって……ジプシーにすぎないおまえを、気まぐれにからかってるんだろうって、そう思うんだろ?」

「……」

「『ジプシーにすぎない』おまえ……おまえが『ジプシーにすぎない』なら、ぼくだって『ただの王子』だぜ」

 マチアスが首をかしげ、ルイの瞳を見つめている。

 ルイは視線を横へはずした。

 その『ただの王子』が、誰にも手に入れられない、ただひとりの人なのだ。

 最期の日まで傍らにいることを許されるにちがいないハル・ペイトンでさえ、『想う』ことしかできない。

 マチアスは誰のものにもならないのだ。

 彼はコンボトル王国のものだから。

「もう……いい」

 マチアスがいった。その手はまだルイの腕をつかんでいるが、ほとんど力は抜けていた。

 ルイは、マチアスをそっと見た。

 マチアスはうつむいていた。

「帰りたいなら、外の小型機を使うといい。そして、『ふり』なんかじゃない、本物のジプシーのパイロットを探して、仕事を続ければいい。そのパイロットがおまえに『好きだ』といったら、思い出話でもしてやればいい。昔、ルイに『好きだ』といった、どこかの王子さまの話を」

「……」

「バイバイ、ルイ……ああ、さっき、リックにも『バイバイ』っていっちゃった。ちょうどよかった。陽が落ちないうちに出発した方がいいよ。航路図は、きっとミスター・ロークが持ってる。ハルには、ぼくから伝えておく」



 マチアスはルイを見ないまま、『一月の間』を出ていった。

 ルイは立ちつくしていた。

 そのまま絨毯に崩れ、沈んでしまいそうな気がしたが、立っていることはできた。

 じっと立ったまま、自分がしたことを考えた。

 マチアスはコンボトルに帰った方がいい……と、ルイは考えていた。心から、そう思っていた。

 けれども同時に、帰ってほしくなかった。

 そのために……そのためだけにコンボトル国王の快復を願ってしまいそうなほど……。

 あの老医師なら、ハルにいったように、こういってくれるだろうか。

 君はそんなことを考えてはいないよ。殿下を悲しませたくはないから、コンボトルのすべての国民と、陛下のまわりの人々を悲しませたくないから、そして陛下ご自身のために、その快復を願っているのだよ……と。

 そうかもしれない。

 そうではないかもしれない。

 わからない。

 今のルイにとって、ただひとつはっきりしているのは、自分がしくじったこと……マチアスを傷つけただけだということ……だった。



13


 空は暮れかけている。

 風がひんやりしてきた。

 木々のざわめきが、素朴な歌のように聞こえる。

 石段の途中で足を止め、ルイは目を閉じて耳をすませた。

 南の塔のエレベーター・ホールは、この石段の上にある。ホールへの扉は開いていて、エレベーターは上に止まったまま、動いていないのがわかる。

「ルイ……?」

 足音が、石段の下に止まった。

 マチアスが目を丸くして、ルイを見上げていた。

 ルイはその名を呼ぼうとしたが、喉が何かに塞がれていて、声が出なかった。

「バカ。何をしてる?」マチアスがいった。「ここには近づいちゃいけないって、いったろ? ぼくを介して移らなくても、父上から直接移るかもしれないし」

「君は?」

「ぼくだって、さ。だから、会わせてもらえないんだぜ。移れば発病する危険性が高いんだってさ」

 ルイは、頬をこわばらせた。

 マチアスに伝えたい言葉は銀河の星の数に劣らないほどある気がしたが、その唇はきつく引き結ばれたままで、どんなセンテンスも作れなかった。

 マチアスが石段を登ってくる。

 ルイはかぶりをふり、上……塔の中へも逃げられず、力なく座りこんだ。

 マチアスが横に座り、ルイの肩を抱き寄せた。

 ルイは顔をあげ、目を見張っていた。

「マチアス?」

「バカだな。ぼくが、おまえのあんな言葉を本気にすると思ってるの?」

「ぼくは……」

 ルイは、すねたように唇を噛みしめた。うずくまるようして、膝に顔を伏せた。

 マチアスは、ルイの顔を覗きこむようにして、

「ぼくが、本当に怒ったと思った?」

「……うん」

「ものすごーく怒ったと思った?」

「……うん」

「ぼくが怒って、そして傷ついたと思った?」

「……うん」

「絶対絶対、ルイを許さないと思った?」

「……」

 ルイはただ、膝の上でうなずいた。

「もう、ルイのこと、大嫌いになっちゃったと思った?」

「……」

 ルイが小さく、鼻をクスンといわせたので、マチアスは急いでルイの髪に手をまわした。

「バカだな。ぜーんぶ、はずれ」

「……」

「ルイ、おまえって」マチアスはひそかに吹きだした。「おもしろい。ちっちゃな子供みたいで……ほんと、可愛いよ。おまえみたいな弟がいたら、ぼくは年中からかって遊べるのにな」

「……ないで」

「え?」

「帰らないで。ぼくで遊んでいいから」

「おやおや、本人のお許しをもらっちゃった」

「帰らないで。他のパイロットよりマチアスがいい。ハルが悲しんでも、帰さない。まだ……早すぎるよ」

 マチアスの手が、ルイの腕をつかまえた。ささやくように、しかし厳しく、

「ハルが何かいったの?」

 ルイはハッと顔をあげ、

「な、何も……!」

「……」

「本当だよ」

「それなら、なぜハルの名前が出てくるのさ」

「ハ、ハルは……きっとマチアスのこと、好きなんだって思ったから……大好きなんだって思ったから……」

「ルイ……」

「でも! でも、ぼくだって、マチアスが好きだもの。誰にも負けないくらい、好きだもの。ひとり占めしたいくらい……あ……あの……」

 ルイは悲鳴のような声をあげて立ちあがり、マチアスは半ば呆然として、ルイを見あげている。

「陽が……陽が暮れちゃった。おなか、すいちゃった。ミスター・ロークを探して、夕食にしてもらおう。リックも戻ってきてるかな」

「ルイ……」

「久しぶりにダンスのレッスンしたから、今日はすごくおなかがすいちゃって、ぼく、倒れそう。倒れる前に部屋に帰るんだ。じゃあね」

「あ、ああ……」

 ルイは石段を駆け降り、別荘の扉に飛びついた。

 しかし、中に入る前に石段をふりかえった。

「本当は『ひとり占め』じゃないんだ。リックも一緒じゃなきゃ」

「……」

「リックとぼくと、ふたりでひとり占め……『ふたり占め』っていうのかな、こういうとき……。あぁ、おなかがすいた。マチアスのクラムチャウダー、食べたいなぁ」

 ルイは歌うようにいいながら、扉を閉めて駆けだした。



14


「マチアスは、また塔に呼ばれたようだな」

 といい、リックがまだ湿っている髪をかきまわしながらベッドの端に腰かけたとき、ルイは絶えきれずに笑いだしてしまった。

 彼はすでにベッドの反対側に横になっていて、毛布で顔を隠して、くっくっと笑っている。

 シャンデリアの明かりは消されていて、今は天蓋の中をほんのりと染める、まるでキャンドルの炎のように柔らかなライトだけになっていた。

 リックは、笑い続けるルイをけげんな顔で顧みた。

「何だよ、急に」

 ルイはひとしきり笑い声をたててから、

「前にね、映画で見たんだ」

「……」

「ぼくら、ハネムーンみたいじゃない?」

 ルイの笑う瞳に見つめられて、リックはしかめ面をした。

「こんなシーンだった。花嫁は先にベッドに入って待ってるんだ。そこに、今の君みたいにシャワーを浴びた花婿が登場する。このベッドほどじゃないけど、大きなダブルベッドで、こんなふうに天蓋があって……」

「……」

「花嫁はネグリジェしか着てない。下着がないんだよ。どうしてわかるかっていうと、その前のカットで、花嫁がベッドの中で下着を脱いで床に落としちゃうからなんだ。でね、眠ったふりして、彼を待ってるの」

「ルイ」リックはうんざりした顔で遮った。「それがどうしたんだよ。ハネムーンごっこでもしたいのか?」

 だが、ルイはリックの言葉には応えず、

「そばのテーブルに、お酒が置いてあるんだ。ブランデーかな? 花婿はシャワーのあと、裸でベッドに近づく。そしてグラスをとりあげて、ひと口飲む。それからもうひと口含んで、ベッドに入る。そのまま花嫁の上に屈んで、口移しにしちゃう。花嫁は一瞬だけ目を開けて、すぐにうっとりして目を閉じちゃうんだよ」

「それで?」

 リックはうっとうしそうにいい、ベッドに潜りこんだ。

「そこでカメラはパンして、ふたりは画面からはずれちゃう。だって、詳しく見せてくれないんだ、ポルノ映画じゃないし……」

「で?」

「え?」

「それで、何がいいたいんだよ、おまえは」

「ぼくね、すごくエゴイストなんだ」

 ルイが口調を変えずに、そういった。

 リックは思わず、ルイの方を見た。

 淡い光の中で、ルイは目を閉じていた。

「ぼくはエゴイストで……」

「それとハネムーンと、どういう関係があるんだよ」

 リックが鼻を鳴らす。

 ルイは小さく笑って、

「関係はないよ。ハネムーンのことは、ただ思い出しただけ」

「……うう」

「ダンスシーンもきれいだったな、その映画……」

「おまえはいいよな、踊れて。おれ、何だか隠居老人みたいで……。おれもトレーニングしたいぜ」

「ぼくが相手になってあげるね」

「サンドバッグ代わりに殴るぞ」

「お手やわらかにね。……ぼく、ハル・ペイトンに嫉妬しちゃった」

「……」

 ぽかんとするばかりのリックを見ず、ルイはつぶやいた。

「そらに帰りたい」

「ルイ?」

「マチアスをさらって帰りたい」

「ルイ……」

「ごめんなさい。おやすみ」

 ルイは不意に早口になり、寝返りをうってリックに背を向けた。

 リックは、枕に乱れるルイの金の髪をしばらく見つめていたが、やがて無言のまま目を閉じた。



15


 容体急変の知らせに、マチアスは深夜の塔へあがっていた。

 しかし、隔離室となっている部屋に入れるわけではない。

 彼の前には、冷たく滑らかな扉があるだけだ。

 すでにインターフォンが設置されているが、その扉は、いつ見ても防火扉に似ていた。

 しかし、防いでいるのは『炎』ではなかった。

 マチアスの想いだ。

 永く会わなかった、父への想い。

 その体を案ずる、息子としての想い。

 彼の父親は、何も知らずに闇の中にいる。

 マチアスがそばにいけば目を開けてくれる、というわけではない。わかっていながら、マチアスはそばにいきたかった。

 21まで、コンボトルに帰ってはいけない。それは、マチアスに与えられた『条件』のひとつだった。

 もし、父がコンボトルで倒れていたら、マチアスはそのことも知らされず……いや、たとえ知らされたとしても、こうしてそばに来ることもできずにいたはずだ。

 それとも……と、マチアスは扉に頬を押しあてるようにして目を閉じた。それとも、コンボトルヘ帰るだろうか。『特別の場合』だから、許されるだろうか。

 それが特別に受け入れられたとしても、もしコンボトルなら、ぼくはあらゆる手で引き止められ、二度と王室から出られなくなっていたかもしれない。リックとルイをそばに連れてくることも、難しかったかもしれない。

 父上。

 扉を見つめて、ロの中でいった。

 あなたは生きなければいけない。元気になって、ぼくに弟か妹を作ってください。その子が適性試験に合格するかどうかはわからないけど、ぼくが合格したくらいなんだから、可能性はあります。父上……ぼくは帰ります。必ずコンボトルに帰ります。帰りたくなくて、弟を欲しがっているんじゃない。ぼくはジプシーです。ぼくが21まで無事にやっていける保証は、どこにもないんです。誰もしてくれないんです。だから……。

 父上、21になったら、ぼくは……生きているかぎり、きっと帰ります。

 でも、21になったら、です。

 今じゃない。

 生きてください。

「マチアスさま……」

 ハルの声が耳の後ろで聞こえ、マチアスは我に帰った。

 よりかかっていた扉から顔を起こし、細く息を吐いた。

 ハルの手が、マチアスの肩にコートをかけた。

「塔は冷えますね」

「うん、海風が……。ハル?」

「はい」

「星は見えるの?」

 ふりかえるマチアスに、ハルは目を細めて、

「まぶしいほどに」

 マチアスは一瞬、子供のように瞳を輝かせた。だが、すぐにまつ毛を伏せた。

「エンケのおじいちゃまは、いつ出てきてくれるのかなぁ……」

 ハルはただ、首をかしげた。

 その表情を見たマチアスは、急に悪戯っぽく、

「ね、ハル」

「はい?」

「ぼくのこと、好き?」

 ハルは顎をひき、すばやくまばたきした。

 マチアスは小さなニヤニヤ笑いと共に、

「ぼくのこと、好き? それとも、王子さまだから、しかたなくつきあってるの? ハルはあの頃だって、ルーカスと過ごすより、ぼくにつきあう時間の方が長くて……ぼくに始終まとわりつかれて、ルーカスのところに帰りたくても帰れなくて、『ああ、ちくしょう、このガキ』とか……」

「マチアスさま」

「ごめん、今のは言葉が悪すぎるけど、そういう気分になったりした?」

「なぜ、そのようなことをお聞きになりたいのです?」

「別に……」

 マチアスが、首をすくめる。

 ハルは困惑した顔を、少し伏せた。

「ただ、ルイがね……」

 マチアスはいいかけ、その気がなくなった、というようにあいまいに言葉を切って、ひとりでクスクスと笑った。

 誰にも負けないくらい好きだもの。

 ルイから……あのルイから、そういう言葉を聞けるとは想っていなかったので、あのとき、マチアスはただ呆然としてしまったのだが……。

「マチアスさま」

 ハルの声が硬くなる。

 マチアスはビクッとして、「な、何?」

「それは、いわゆる『鼻の下の伸びたお顔』じゃありませんか?」

「あ? え? あ……ごめん」

「しようのない殿下ですね」

 ハルは頭をふってみせ、愛おしむようにマチアスを見つめている。

 セラミックスの扉の中で、別の扉が開閉する音がした。

 マチアスは息を詰め、扉を顧みた。

 我知らず唇を噛み、両手を握りあわせていた。滑り落ちそうになるコートを、ハルの手がマチアスの肩ごと捕えるように押えた。

 しばらくしてから、マチアスの前で、ひきずるような重々しい音をたてて扉が横に滑った。

 それは人がひとり出入りできるだけの幅に開いて止まり、中の闇を連れて、白衣姿のドクター・エンケが現われた。

「おじいちゃま……」

 マチアスはそう呼びかけてしまい、あわてた。だが、実際には声は吐息のように掠れていて、エンケは呼ばれたことにさえ気づいていないようだった。

 マチアスは、いい直した。

「ドクター……」

 沈んでいたエンケの目が、おもむろにマチアスにあがる。

 乾いた唇が、静かに開く。

「まだ……」

 しかし、言葉はそれ以上出なかった。

 まだ、何だ?

 マチアスは胸の中でいった。エンケに問うつもりはなかった。

 まだ、目覚めない。

 まだ、生きている。

 まだ、何も答えは出ない。

 まだ……。

 では『いつ』だ?

 いったいいつまで待てばいい?

 マチアスは目を閉じ、それからふとエンケに目を戻して、

「どうか休んでください。あなたの方が倒れてしまいます、ドクター」

 エンケは、マチアスを見つめて淡く笑っただけだった。

 マチアスは背後に控えているハルに、

「ちょっと……ごめん……」

 あいまいな声をかけて、エレベーターに向かった。

 ふたつの拳を、彼はもてあましていた。

 あの扉を叩き壊して、その奥の闇の中へ入っていきたい。

 しかし、何もできずにいる拳……。

『一月の間』と『五月の間』は、同じ廊下でつながっている。

 そちらを目指して歩きながら、マチアスは自分がどちらの部屋に行こうとしているのか、わからなかった。

『一月の間』では、ふたりがもう眠っているはずだ。

 けれども、無性にふたりに会いたかった。

 その廊下に踏みこんだとき、マチアスはびくりとして足を止めた。

 ごく淡い明かりしかない廊下に、すらりとした影が伸びている。

 それは歩いているのではなく、ただじっと壁に寄り添うようにして立っていた。

「リック……」

 マチアスはつぶやくように呼びかけ、ふりむくリックに、ゆっくりと歩み寄っていった。

「どうかしたのか?」

 と、ふたりは同時にいった。

 それから、同時に小さく笑った。

 マチアスが先に、

「ベッド、寝心地悪いの?」

「いや……」

「ルイは?」

「眠ってるんだが……」

「『が』?」

「あいつ……なんか……おかしいぜ」

 マチアスは眉をひそめ、「おかしい?」

「ベッドの中で急に笑いだして、変な話をはじめたり」

「変なって、どんな?」

「よくわからないが、ハネムーンで……パンを口移しにして、カメラがはずれるとか……」

「そんなこと、いってるの?」

「そんなようなことを……」

「確かに変だね」

 マチアスは真剣に顔をしかめ、リックもうなずいた。

 マチアスがふと、リックに目を向けた。

「おまえは何をしてるんだ? こんな時間に廊下なんかで」

「それはおまえも同じだろ」

「う……ん……」

 マチアスがいいかけたとき、廊下の先で足音が止まった。

「殿下。どうかなさいましたか?」

 若い声が、不安げに響いてきた。

 マチアスは「何でもない」と柔らかに声を投げ、リックを促した。



 扉は、開くとき少し軋んだ。

「ああ……!」

 マチアスは、思わず感嘆の声を漏らしていた。

 玄関を包むように茂る木々の枝の黒い影の隙間を、ガラスのかけらを撒いたように、きらめく星が埋めつくしている。

 星明かりが地上に不思議なゆらめきを映し、風に震える葉のささやきが高く、低く、重なって聞こえた。

 リックがゆっくりと、玄関の外に踏みだした。

 マチアスも続き、肩を並べた。

 建物からの明かりは何もないが、星のシャンデリアのために、ふたりは互いの顔を見ることができた……見ようとさえすれば。

 しかし、リックは星空を見あげていたし、マチアスは星影の揺れる地面を見つめていた。

 ふたりの視線が向いていない木立ちの向こうに、小さな影が横たわっている。

 彼らがここに来るときに乗ってきた、小型機だ。

「明日のうちに発つ」

 リックが、ぽつりといった。

 マチアスは怒鳴りつけられでもしたように首を縮め、その影を見つめた。

「リック」

 呼びかける声が、かすかにうわずった。 

 リックは空に向けて、先を促すような小さなうなり声を発しただけだ。

 マチアスは、リックの横顔にいった。

「リック。誘拐する気……ない?」

「誘拐?」

 空に顔を向けたまま、リックがおうむ返しに聞いた。

「そう、誘拐」

 コンボトルの王子を、そらへ。

 マチアスは祈るように、リックの横顔を見つめている。

 内緒でさらっていって。

 実行できなくてもいい。実行できるはずはない。ただリックがうなずいてくれさえすれば……それだけで、満足できるに違いない。

「誘拐……してよ」

 マチアスは、つぶやくようにくりかえした。

 リックがマチアスを顧みて、放り出すようにいった。

「いやだ」

 マチアスは唇をひき結んだ。

 本気ではなかった。実行できるとも思っていなかった。それなのに、リックが拒否した途端、マチアスはまるで懇願していたような気になった。生涯、これ以上の望みはありえないと思うような重大な頼み事を、あっさり蹴られたような気分になっていた。

 いや、実際に、本気だったのかもしれない。

 そんなことをちらっと思ったのは、リックにつかみかかってからだった。

 マチアスはあの『防火扉』に叩きつけたかった拳を、リックの頬にくりだした。

 リックは短くうめき、よろめいたが、倒れはしなかった。倒れなかったことで、マチアスはカッとした。

 だが、マチアスの二発目がリックに届くより一瞬早く、リックの拳がマチアスの頬に返っていた。



16


「マチアス殿下……!」

 そう呼びかけたきり、ロークは立ちつくした。

 その声にためらったマチアスの拳を、リックの手が払いのけるように防ぎ、彼は飛びさがって、身を折った。あえぎ、袖で顔を覆って咳こんだ。袖が、点々と赤く染まった。口の中が切れていた。

 マチアスも地面にうずくまってしまい、激しく肩を上下させていた。

 乱れた髪に、星明かりが降っている。

「いったい……これは……」

 ロークはまずマチアスに飛びつき、破れた袖ごと腕をとった。

「痛……!」

 マチアスが顔をしかめると、ロークは手を放し、

「し、失礼いたしました。しかし、これは……」

「ごめんなさい、ミスター……何でもないんです、本当に……」

 マチアスは、酔っぱらいのようにゆらゆらと立ちあがった。

「ですが……」

「だいじょ……ぶ……」

 と、いいながら崩れかけるマチアスの腕をつかんだのは、今度はリックの手だった。

「うう……リックなんか、嫌いだもん」

 マチアスは幼児のようにいい、リックの腕にしがみついた。

「いて……」

 今度はリックが小さくいい、歯を食いしばった。

 ロークは怯えたように、ふたりを見比べている。

「いったい、おふたりは……」

「すみません。騒々しかったですか?」

 マチアスがロークを見る。

 ロークは上体を引くようにして、首を横にふり、

「そうではありません。あの、お知らせに……」

「何を?」マチアスは目を見張った。「父上のこと?」

 ロークは困惑したように、

「いえ、ミラ島に侵入した者がおりまして……」

「侵入?」

 マチアスが、目をすがめる。

 マチアスの腕を支えたまま、リックもロークを見た。

 ロークはふたりの少年に見つめられ、お説教でもされているように少し顔を伏せた。

「監視室からの報告によりますと、いちばん近い西側の海から入ったのです」

「何人?」

「ひとりです」

「どんな……? ああ、そこまではわからないか」

「わかっております。『ドリル』と呼ばれておりまして……」

「ドリル……?」

「フリーの政治記者……三流の記事を三流の新聞に売る記者でございます。ゴシップが専門で、ベルギリウス王室の記者センターにも出入りは許されておりませんが、王族や貴族のスキャンダルを扱う新聞の……」

「父上のこと、勘づかれたのか……」

 リックと目を見交わすマチアスに、ロークが「いえ」といった。

「そうとは申せません。彼がドリルと呼ばれているのは、何もないところに無理やり穴を開けて、くいこんで、必要とあれば記事をでっち……でっち……」

「でっちあげ、ね」

 マチアスは、上品なロークのためにいった。

「は、はい。それを、するからで……」

「でっちあげの、つまり、読んでおもしろい記事的読み物を書くのが専門のチンピラってわけだ」

「はぁ……」

 ロークは自分のせいですとでもいいたげに、恐縮している。

 マチアスは励ますように、ロークの腕に手を伸ばし、

「そんなやつにはなおさら、知られちゃまずい。まともな記者なら、事件によっては記事を控えるっていう分別もあるんだろうけど……」

「そうですね」

「ドリルの動きは捕えているの?」

「はい、監視室で」

「ハルはどこだろう」

「監視室においでです」

「そうか……」

 マチアスはうなずき、腕をつかんでくれているリックを顧みた。

 リックは静かに、マチアスを見つめていた。

 マチアスはまるで、リックの顔の上に作戦を書いたのだというように見つめ、やがて、

「ミスター・ローク、その男は、ベルギリウスの人?」

「はい。同じベルギリウス人として、誠に申しわけ……」

「いや、そうじゃなくて。ね、ぼくの顔、知ってると思う? つまり昔の、10才のコンボトル王子を……」

「おそらくは……。コンボトルの方々と変わらない親しみを持って、ベルギリウスの国民は殿下を存じあげておりますから」

「ありがとう。じゃ、記事を書かせてあげよう」

 マチアスの切れた唇が、ニヤッと笑った。

「は?」

 ロークはマチアスを見たが、マチアスは宙を見つめていた。

「これはリックには無理だな。よし、パートナーを起こしにいこう」



「ん……ん……」

 揺り起こされ、ルイは鼻で声をあげた。

 マチアスは思わずクスッと笑って、背後のリックを見た。

 リックはちょっと顔をしかめてから、ルイの頭の上に屈みこんで、

「船舶火災、距離18、オートシグナル」

「!」

 ルイは目を開けると同時に、体を起こした。

「おっと……」

 頭がぶつかりかけて、リックはあわてて体をひいた。

 部屋はすでに明るく、跳ね起きたルイは悲鳴をあげた。

 が、すぐに平静を取り戻して、

「ど……したの? その顔……ふたりとも……オバケかと思った」

 リックは困ったようにそっぽを向き、マチアスはただ照れ笑いをした。

 ふたりとも、唇や頬が切れたり腫れたりしているのだった。

「それよりね、ルイ」

 ルイの注意をそらせる方法を、マチアスは知っている。

 そして、案の定、ルイはそちらにそれていった。

 マチアスの顔に目が4つあろうとも、もう気にしないに違いない。



17


「何だい、すねてるの?」

 マチアスはいった。声に、笑いを含んでいる。

 隣を歩くルイは、高く立てたコートの衿の中で、小さく唇を尖らせた。

「マチアスのシナリオって……」

「ぼくのシナリオって?」

「その……発想が……」

「奇抜だろ?」

「……」

「さて、あのあたりだぜ、ドリトル先生が隠れていらっしゃるのは」

「ドリル……でしよ?」

「そうだった。じゃ、あの茂みの方へ……」

 マチアスはルイの腰をぐいと抱き寄せて、方向を変えた。

 星明かりの下、別荘のまわりに続く木々の間を、ふたりは歩いていった。

 マチアスに目で促されると、軽く首をすくめてから、ルイはいった。

「本当に、明日、お発ちに?」

「ああ」

 マチアスが、ルイを見つめて答えた。

「そうですか。最後の夜、なのですね」

「ベルギリウス国王のご厚意で、ここを借りることができた。そして、おまえと過ごせた。ぼくにとっては、夢のようだった」

「……はい」

「生まれる家を誤ったんだ。こんな忍び逢いしか許されないとは」

「身分が違いすぎます」

「けれど、愛している」

 コートの衿のかげで、ルイはちょっとふくれた。しかし、声音は変えなかった。

「国王陛下は、秘密を守ってくださるのでしょうか」

「それは間違いない。5年後には、ぼくも国王になっている。両国の国交に関わることだ」

「こんな逢瀬は、あなたの未来に関わります」

「それはそうかもしれないが……」

「あなたは今頃、大学にいなくてはならないはず」

「それでも、おまえが欲しかったのだ、たまらなく」

 マチアスが熱っぽくいうと、ルイはこっそり、前髪の下で眉を寄せた。

 葉ずれの音とは違う、小さな金属音が聞こえた。

 マチアスは大きな動作で、そちらをふりかえった。

「誰だ?」

 風が静まり、葉ずれの音も消えた。

「そこにいるんだな? 出てこい。でないと撃つ」

 マチアスの右手があがり、そこに握られたヒートガンにも星の光が降った。

「我々以外には、ここにいないはず。ミラ島はベルギリウス国王の土地である。侵入者は……」

「わかりましたよ。撃たないでくださいよ」

 両手をあげ、黒い服を着こんだ男が立ちあがった。

 ルイが、さっとそちらに背を向けた。

 マチアスは左手でルイを庇うように引き寄せて、右手のヒートガンを男に向けた。

 男は24、5才に見えた。黒髪で、黒い顎ヒゲを生やしている。小馬鹿にしたように光る目が、マチアスに向けられていた。しかし、まっすぐに、ではない。顔を横にそむけ、視線だけをマチアスに当てているのだ。

 マチアスが問う。

「どうやって、ここに?」

「潜ってね」

 まるで唾でも吐くように、男がいった。それからニヤニヤ笑いをした。

 マチアスは顔をしかめ、

「なぜ、ここに?」

「殿下は、なぜ、こんなところに?」

「で、殿下とは……? 何のことだか……」

「国を出て、お勉強中とは聞いていましたが、こういうお勉強もしていたんですねぇ」

「何を……」

「何かあるとは思ったんですがね、ミラ島へ小型機が飛んでいったのを見たときにね。ほら、あそこに停まってるやつですよ。私はちょうど、あいつが通過したとき、レグルス島の浜辺で、女とイチャついてたわけでして……」

「君は記者か?」

「まぁ、そうですね」

「他の記者も知っているのか?」

「私のスクープですよ」

 ドリルが笑った。

「スクープ……。報道するのか?」

「我ながら、ほれぼれする勘の良さですねえ。覗きにきた甲斐があったってもんです。こそこそと小型機で飛んでくる王子さま。それを待つのは……」

「だ、黙れ!」

「殺しますか? 沖には仲間がいますんで……」

 マチアスは、怯えたように銃を降ろした。仲間がいるなどとは信じていなかったが、信じたふりはしたつもりである。

「写真は? 撮ったのか?」

「撮ろうとしたところで」

「本当だな?」

「カメラをお渡ししてもようございますよ」

 なめあげるように、ドリルの視線がマチアスの上を這う。

「カメラを渡せ。いや、買いとろう。いくらだ?」

「安物です」

「いくらだ?」

「50」

「50? たったの?」

「殿下。私は、ゆすりたかりが商売じゃないんですぜ」

「わかった……」

 マチアスはいい、銃を懐にしまって、代わりに数枚の紙幣を引き抜いた。

 それをルイに渡す。

 ルイはうつむいたまま受け取り、そのままドリルのもとへいった。

 ドリルが差しだす、掌に隠れそうなカメラを手に取り、紙幣を渡した。

 ドリルはルイの顔を見ようとしたが、ルイはさらに下を向き、頬まで衿に埋めていた。

「行け。他の者に見つかれば、命はないぞ」

 マチアスが、夜の木立ちを指さした。

「わかりました。もっとも、カメラは売りましたが、『報道の自由』は売りませんぜ」

「何……?」

「記事を書かない約束は、していません。では、最後の夜をせいぜいお楽しみください」

 ドリルはいいかげんな敬礼をして、そそくさと立ち去った。

 星明かりがまばゆいので、いつまでもその影が見えている。遠ざかるのがわかる。

 カメラを調べ終えたマチアスに、ルイが声を殺していった。

「帰ると思う?」

「帰ってくれなくちゃ、困るぜ」

「信じたかな、ぼくらのこと」

「『こそこそ』してるのが、この密会のせいだと思ってくれさえすれば、それでいいよ。父上のことが、ちらっとでも知れたら……」

「ん……」

「もし、出ていかなかったときのために、ルイ、第二幕のリハーサルでもしておこうか」

 マチアスが、不安げなルイを顧みる。

 傷を覆っているテープは、星明かりの中ではうまく肌の色に同化しているが、間近で見るルイにはそれがよくわかった。

「二幕目なんて、考えてないくせに」

「考えたよ。次の段階に進んで、見せつけるんだ」

「逢い引き向けの顔じゃないよ、君」

「ちぇっ……」

 マチアスはふくれ、頬のテープに触れた。

 ふたりはそれきり黙って、そこに立っていた。

 人影はもう見えなかった。

 ブレスレットが鳴った。

 マチアスが手首をあげた。

『こちらは監視室』と、リックの声がした。『確認した。出ていったぜ。アクアラング。ご苦労なことだ』

「了解」

 マチアスの肩から、ふっとこわばりが解ける。

『飛んで帰って、記事を売りつけることでしょうね。明朝版に、充分間にあいます』

 リックのそばにいるのだろう、ハルの声が無表情に聞こえた。

「証拠もないのに?」

 ルイが、つぶやくようにいう。

 マチアスはかぶりをふって、

「いや、あるさ。少なくともぼくらは録音機を調べなかったし……」

「……」

「ただし、やつらに声紋鑑定ができるかどうかわからないし、10才の声と今は違うし、指紋だってないし……」

 マチアスは指先を広げた。すべての指先の腹に、頬にあるのと同じテープが貼りついている。

 ルイの指も同じだ。

 それを一枚ずつ剥がしながら、

「もっとも、覗きの生録音としては、けっこういけるかな。ハル? 聞いてたろ? なかなかだったと思わない?」

『……』

「もうちょっと刺激的なセリフでもよかったかなぁ。一度くらい、ルイが『あっはん』とか『うっふん』とか……」

 マチアスがニヤニヤ笑いをして見せると、ルイは顔をしかめた。

「マチアスなんか、嫌いだから」

「好きって言ってくれてから、まだ半日もたってないよ」

「……大嫌い!」



18


 マチアスとルイが戻ってくるはずの玄関に、リックとハルは肩を並べて向かっていた。

 ハルは気遣わしげに、リックの目の下のテープを見る。

 リックは、視線に気づいて目をあげた。

 瞳がぶつかった。

「リックさま」

「は?」

「その傷……」

「目の下のは、クルーザーのオーナーにひっかかれたやつで……」

「他のは……? どうして、そのような……?」

「退屈で」

「え……」

「体がなまってたから、です」

 気のない口調で応えながら、リックは考えていた。

 マチアスと最後に殴りあいをしたのはいつだっただろう。

 殴りあいの喧嘩ばかりした時期はある。

 しかし、それは一時的だった。あとはずっと、喧嘩はしても手が出ることは稀で、殴りあいになることはほとんどなかった。

 今夜は、なぜ殴りあいになったのだろう……とリックは考えた。

 マチアスが殴りかかってきて、リックが殴り返したからだった。

 では、マチアスはなぜ殴りかかってきたのだろう。マチアスは何か尋ねた? 頼んだのか? わからない。とにかく殴られたから……。

 いや、まともな理由は何もなく、ただ、何でもいい、誰が相手でもいいから、発散させたかったのかもしれない。

 胸に澱んでいるものを……。

 なまぬるく、べっとりと溜っていく何かを……。

 けれども、リックにはそれが何かつかめない。

 だから、黙ったままでいた。



 玄関に入ったマチアスは、ハルと並んで立っているリックを見、それからハルの困ったような顔を見て、照れ笑いをした。

「マチアスさま」

 ハルがいった。その口調に「しようのない方ですね、本当に」という言葉が表われている.

「ごめん、ハル。けど、こんなにあっさりと、うまくいくとは思ってなかった」

「どうでしょうか」

「どう……って?」

「何もないときでさえ、ミラ島に忍びこめば、それだけで逮捕されてしまうんですよ、本当なら」

「あっさり帰れたことで味をしめて、また……?」

「それよりも、欺されたと、カムフラージュだったと気づくかもしれません」

「そんなに頭が良さそうに見えなかったよ」

「だとしても、マークされたことは確実ですね」

「王子さまがいつお帰りになるか、それも監視しているわけだろうな」

「そうだね」とルイがいった。「『最後の夜』なんていっちゃって……。きっと、あの小型機が飛びたつのを、どこかで見張ってるよ」

 マチアスはルイを顧み、ほほえんだ。

「飛びたつから、いいんだよ」

「え……」

「別に、ぼくの顔が見えなくてもいい。あいつが飛びたてば、ドリル先生も納得してくれるだろ」

「……」

「おまえはあいつで帰るんだ、リックと」

 ルイは表情をこわばらせ、リックを見た。

 リックはマチアスを見ていたが、すぐにルイに目を移し、うなずいた。

「父上の昏睡が続くようなら、ぼくもコンボトルヘ戻った方がいい。母上だけでは、ごまかしようもないだろう。仕事だって、こなしきれないと思う」

「そんな……」

 ルイはいいかけたが、花がしぼむようにその唇を閉ざした。

 マチアスはほほえむ瞳で、うつむくルイを見つめたまま、

「おまえが『好きだ』といってくれた。もう、いいんだ」

「そんなこと……」

「なんていうか……『思い残すことはない』って感じで……」

 マチアスはそういって、愛おしげに頬のテープに触れた。

「取り消す」

 うつむいたきりのルイが、ぽつりといった。

 マチアスは首をかしげた。

「取り消す。『好きだ』なんていわない。嫌い。大嫌い」

「ルイ……」

 ルイは顔をあげた。うるんだ瞳で、マチアスを見つめた。

「嫌い。大嫌い。本当に、嫌いなんだから……」

 マチアスは目を丸くしていたが、すぐに柔らかく笑って、

「ああ、おまえがぼくを好きになってくれるまで……せめてそれまで一緒に飛びたかったけど……」

 ルイは唇を結び、震わせた。

「とにかく今は……」

 マチアスの声を、駆けてくる足音が遮った。

 玄関ホールに、ロークが姿を現わした。

「また、誰か忍びこんだのですか?」

 マチアスの顔が、さっとこわばる。

 ロークは足を止め、蒼ざめた顔でいった。

「南の塔へお越しください、ドクター・エンケがお呼びです。また、容体が変わったとのこと……」

 一瞬、あたりの時が凍った。

 しかし、マチアスはそれをふりきるように強くうなずく。

「わかりました、すぐに行きます」

 ルイの頬を指先で軽く叩き、リックの腕に拳をくれる真似をして、マチアスは駆け去っていった。

 続くハルとロークの靴音が、取り残され、立ちつくしているふたりの少年のまわりで、体を押しつぶすほど大きく響いた。



『一月の間』に戻ると、黙りこくっていたルイがいった。

「それ、マチアスと喧嘩したの?」

 リックは渋い表情で、頬を撫ぜた。

 ここに来る前からあったひっかき傷の他に、三か所にテープが貼られている。

 ルイはクスッと笑って、

「リックって子供みたい」

「おまえにいわれちゃ、おしまいだぜ」

 リックはふくれ、ルイはなお笑った。

「リック」

「ん?」

「ぼくに操縦させて、明日」

「あいつを……?」

 リックはけげんそうにいい、小型機が停まっている方向の壁を指さした。

 ルイは目を細めてうなずき、

「うん。いい?」

「別に、かまわないが……」

 リックの不審げなまなざしの中を泳ぐように、ルイはドアに戻った。

「航路図やデータを借りてくる」

「夜中なんだぜ、今。それに……」

「東まわりと西まわり、どっちがいいかな」

 ルイは幸福そうに笑って、ドアを出ていこうとする。

「ルイ……!」

 リックは少し声を荒げ、大股にドアに近寄って、ルイの腕をつかんだ。

 ルイはふりかえって、

「データを機内に移して……」

「ルイ」

「とにかく聞きにいってこよう。ね、リックも一緒に……」

「いいかげんにしろ!」

 ルイが首を縮めた。

 リックは眉をきつく寄せたまま、

「外がどういう状態か、わかってるだろ? じっとしてな」

 ルイがうつむいてかぶりをふると、金の髪がふわふわと揺れた。

「そばに行きたい」

「……」

「リックは、ここにいたい?」

「おれは……」

「マチアスひとりじゃ……」

「ひとりじゃない。ハルだって誰だって、そばに……」

 ルイはそっと、リックの瞳を見つめた。

「ごめんなさい。怒った?」

「え……」

「わがままで、しようがないやつだって、ぼくのこと、思った?」

「おれは……」

「そうだよね。ハルがいる。マチアスはひとりぼっちじゃない」

「あ、ああ……」

 リックはいぶかしげな顔のままだが、つかんでいたルイの腕は放した。

「ぼくもひとりにならないんだ。リックのそばにくっついてるもん」

「ルイ……」

「マチアスがいなくなっても、何があっても、ひっついてるもん。ぼくは、わがままでしつこい男なんだ」

「わがままでしつこい『子供』だろ?」

 リックがあきれたようにいうと、ルイが頬をふくらませた。

 確かに子供のようだった。



19


 相変わらず、『防火扉』は閉ざされている。

 たとえ何が起こっても、『6』の父親が中にいるかぎり、マチアスは入れない。

 父親だというのに、だ。

 エレベーターの中で息を整えたつもりだったが、マチアスはまだ跳ねまわっているような心臓の鼓動を抑えることができなかった。

 白衣の青年が、扉の横でマチアスを迎えた。

「ドクターは?」

 マチアスの声が飛ぶ。青年はうなずき、

「ドクター・エンケとドクター・レウスが、中に……」

「話はできないの?」

「今は……」

 と、いいかけた青年の背後で、発信音があがった。

 青年はぎょっとした顔で、脇へよけた。

 仮設のインターフォンが、呼び出し音を発しているのだった。

 マチアスは思わず、それに飛びついていた。

 キーを弾き、

「おじいちゃま! ぼくです! 今……」

『おじいちゃま……とは何だ……』

「ご、ごめんなさい、ドクター……」

『お父さまと呼びなさい』

「は? あ……」

 マチアスは、インターフォンに目を見張った。

「エンケの……おじいちゃまじゃ……ないの……?」

『……』

 スピーカーから苦笑が漏れたような気がした。

 マチアスは壁にしがみつき、

「父上……?」

『発育が……悪い……』

「は?」

 病のためだろう、ひどくしわがれているその声に、マチアスは呆然としていた。

『まともに……声変わりもしていない……』

「し! しましたしましたしました!」

 マチアスはもどかしげに、インターフォンのそばの壁を叩いた。

 しばらくの間、スピーカーが沈黙した。

 マチアスは壁を叩くのをやめ、不安げにスピーカーを見つめた。

 やがて、

『心配……したか?』

 マチアスは目を伏せた。

「しました」

『私の快復を……望んだか?』

「はい……」

『……』

 マチアスはハッとして、スピーカーを見据えた。

 しばらくの間、唇を噛みしめてから、

「父上……」

『……何だ?』

「父上は……ぼくが……ぼくが……帰りたくないから……だから……父上の快復を願っていたと……そうお思いなのですか?」

『……』

 今度ははっきりと、忍び笑いが聞こえた。

 そう思われたのなら……。

 と、考えると悔しかった。

 マチアスは歯をくいしばったが、涙がまぶたにあふれてくるのをどうすることもできなかった。

 手をあげ、顔を覆って息を整えた。

「父上……ぼくは、父上がお元気になられるまで、コンボトルに……」

『いらぬ』

「え……」

『そんなことは必要ない、といったのだ』

 掠れてはいるが、次第に力強くなる父の声に、マチアスはただ唇を震わせるだけだ。

『おまえのような子供に、できる仕事は何ひとつない。執務官の娘でもくどいてまわるのが落ちだ。〈それでも、おまえが欲しかったのだ、たまらなく〉……』

「ち、父上……!」

 マチアスは悲鳴に近い声をあげた。その頬が紅潮した。

『ミスター・ロークを通じて、ドクター・エンケから聞いた。目を覚まして最初に聞かされたのが、それだ』

「ぼ、ぼくは……あの……」

『さっさと行きなさい』

「ですが……父上は『6』で……混濁……意識の……」

『混濁などしている暇はない。おまえが継ぐのだと思うと、死ぬこともできぬ』

「……」

『ラルフ・シルヴァーもヴァン=リックも、マルロー氏の子息も、おまえの子守りをしなければならないとは、気の毒なことだ』

 マチアスはまつ毛を伏せたまま、インターフォンから一歩下がった。

「そ、それでは……父上……行かせていただきます。お元気で……母上にも、そうお伝えください」

 静かにそういって、父からの別れの言葉を待った。

 また長い沈黙があった。

 マチアスはじっと待っている。

 ようやく、口を開く気配があった。

 だが、聞こえてきたのは、

『マチアス……』

 マチアスは、ハッと顔をあげた。

 マチアス……。

 その短い呼びかけに込められた何千、何万ものメッセージが、マチアスを激しく揺さぶりはじめる。

 それに耐えきれないほどに、マチアスは『子供』だった。

 彼は幼な子のように泣きだし、震えて、それ以上どんな言葉も告げられないまま、隔離室に背を向けた。

 まるで、父親に泣き顔を見られたくないのだというように。



 ハルと共に塔を降りた。

 ハルは無言だったし、マチアスも何か深い考えに沈んでいるように、黙りこんでいた。

 塔を出てから、マチアスは石段で足を止めた。

 ハルがふりかえる。

「マチアスさま?」

「ハル……」

「はい?」

「答えを聞き損ねた。ぼくを、好き?」

「マ、マチアスさま……」

 ためらうハルに、マチアスは笑った。

「いいんだ。いいよ、答えなくて。父上のそばにいてね。コンボトルを離れないで」

「お待ち申しておりますよ、いつまでも」

 ハルの淡くうるんだ瞳に、マチアスは悪戯っぽくウインクした。

「『いつまでも』なんて……。あと5年足らずだよ」

「そう……そうでしたね」

「ハル……」

 突然マチアスの腕に抱きしめられて、ハルは目を見張った。マチアスの声が、ハルの肩の上にこぼれた。

「ありがとう」

「い、いえ……私は……」

「父上と母上に『愛している』と伝えてね」

「はい」

「お墓参りには21になるまで行けないけど、ルーカスにも伝えて。『ごめんね』って」

「マチアスさま……」

「ぼくのこと、ハルがどう思っていてもいいや。ぼくはハルが好き。本当に本当に、大好き。だから、ルーカスには謝ることしかできないんだ。ごめんね」

「マチアスさま、私は……」

 ハルがそういいかけたときには、マチアスの腕はほどけていた。

 ハルはそこに立ちつくしたまま、駆け去っていくマチアスの靴音を聞いていた。

 瞳を閉じ、肩先にいた少年の面影を抱きしめて……。

 彼がどこへ駆けていくのか、ハルは知っていた。

 次に会ったとき、21のマチアスはもう、無邪気に答えをねだらないに違いない。『ぼくを好き?』などと、首をかしげたりはしないに違いない。

 おそらく、一生マチアス自身に告げることができない想いを、ハルは夜風に放った。

「あなたを……愛しています。私の……殿下」



20


 ドアが開いたとき、ルイは『一月の間』にひとりだった。

 結局、航路図だけは検討しておこうということになって、リックが探しに出ていったからだ。

 ドアはノックもなく開いて、ソファにいたルイは身をすくめてそちらを顧みた。

「リック?」

 そうではなかった。

 マチアスが立っていた。

 虚ろな表情だった。

 ゆっくりと目をあげてルイを見、室内を見渡し、またルイに目を戻した。

「マチアス……?」

 ルイは蒼ざめ、おそるおそるマチアスの前に歩み寄って、首をかしげる。

 マチアスは不意に泣きだしそうな顔をし、それを隠すためか、ルイの首に両腕をかけて抱きついた。

「マ……」

 ルイは声も出せないまま、しがみつくようにマチアスの背に腕をまわした。

「父上が……」

 ルイの肩の上で、マチアスは絶句する。

 ルイは目を見開き、それからぎゅっと閉じた。淡い涙が、まつ毛ににじんだ。

「父上がね……。ああ……」

 マチアスが肩に顔を埋めると、ルイはこらえきれなくなって、マチアスを力いっぱい抱きしめ、

「マチアス……」

 震える声で呼んだ。

 呼ばれたマチアスはルイの肩に顎を乗せ、耳のそばでひそかにペロッと舌を出してから、

「ああん!」

「マチアス?」

「ああん! 父上がね、父上がいうんだ」

「え……?」

「ぼくなんかいらないっていうんだ!」

「……」

 ルイは眉を寄せ、マチアスを強引にひき剥がした。

 マチアスは比較的素直にルイから離れ、彼の顔を真顔でのぞきこんだ。

「父上が、ぼくなんかいらないって」

「いらない?」

「まだ帰ってくるなって」

「じゃ……じゃあ……陛下は……」

「死ぬには早すぎる……安心して死ぬには、ね」

 マチアスは不意ににっこりし、袖でルイの顔をこすった。

 ルイはポカンとしていたが、突然マチアスの服の胸をつかんだ。

「もう……! 最低! 大嫌いだ!」

 ルイの手に揺さぶられながら、マチアスは幸せそうに目を細めている。

「いいよ。21才までに、またぼくのことを『好き』っていわせてみせるからね、ぼくの魅力でさ」

「もう好きにならないよ、二度と」

「今夜、また一から始めよう、ルイ……」

 ルイの顔から、怒りが消えた。代わりに、新たな涙が瞳に浮かびあがってきた。

 マチアスはほほえみ、ルイの腕を取る。

 ルイはおとなしくマチアスにつかまえられたまま、

「マチアス……本当に……?」

「大丈夫だろう。患者を何人も看てるレウス先生や、父上を昔から知ってるエンケ先生が太鼓判を押してる」

「……よかった」

 ルイはうつむいた。こぼれ落ちる金の前髪に、その表情のほとんどを隠してしまった。

 マチアスは無理にその顔をのぞこうとはせず、

「リックは?」

「もうすぐ、戻ってくると思う」

「じゃ、同じ手で迫ろう。なかなかの演技力だと思わない?」

「思う」ルイがぼつりと告白した。「リックだって泣いちゃうよ、きっと」

「そりゃ、楽しみだ」

 そのとき、ノックの音がした。応えを待たずに、リックが静かに入ってきた。

 ドアのすぐ内側で足を止め、驚いたようにマチアスを見た。

 マチアスは、リックの登場が不意打ちだったことにも負けず、とっさにうちひしがれた表情を作った。

「リック!」

 リックの首っ玉に抱きつき、ぎゅうぎゅう締めつける。

 リックは棒立ちになったまま、ぽかんとしている。

「ああ、リック……父上が……父上が……」

 マチアスはうるんだ声を出し、洟をすすりあげてみせた。

 リックはマチアスに首を抱きしめられたまま、「ああ」といった。

 マチアスは本当に絶句し、リックの肩越しに、ひそかにルイと目を見交わした。

「『ああ』? それだけ? リック」

 と、マチアスがいうと、

「よかったな」

 リックが応えた。

 マチアスはムッとしたように、リックから離れた。その平然とした顔を見据えながら、

「それ、本気?」

「あ? ああ……」

 リックは目を丸くしている。

 マチアスは唇を噛み、それから、

「父上が死んで、ぼくが帰っちゃえばいいって思ってるの?」

「え……」

「こんな、こんなときにどうして『よかった』なんていうのさ!」

「いいこと、じゃないのか?」

「ぼくが今すぐ王位を継ぐことが?」

 マチアスがリックの胸倉をつかむと、リックはいぶかしげにその手を見降ろした。

「リックは……ぼくのお守りなんてイヤで……ぼくが帰っちゃえばいいって思ってたの? 冷たいよ、リックは……よかったなんて……」

「じゃ、お悔やみでもいえばいいのか? 『国王陛下のご快復、心よりお悔やみ申しあげます』とか?」

「ご……か、快復……?」

「おやじさんが助かったのは、いいことじゃないのかよ。おまえ、そんなに早く国王になりたかったのか? ジプシーより……」

 リックはムスッとした表情でいい、今度はマチアスがキョトンとしている。

 ルイも不思議そうに、リックの横顔を見つめていた。

「父上が助かったこと、知ってるの?」

 マチアスが、おずおずと問いかけた。

 リックは表情どおり、ぶっきらぼうな口調で、

「今そこで、ミスター・ロークから聞いたぜ」

「そ……!」マチアスは頬を赤らめた。「そ、そ、それならそれで、もっと嬉しそうな顔をして入ってくるとかすれば?」

「何のために?」

 リックが、顔をなおしかめる。

 マチアスは頬をふくらませて、

「ぼく、リックが、ぼくなんか帰っちゃえばいいって、思ってるのかもって……」

「そんなこと、いつ言った?」

「でも! いてくれとも言わないじゃないか!」

「なんで、おれがそんなこと……」

「ち、ちょっと待って!」

 相手につかみかかろうとするリックとマチアスの間に、レフリーのようにルイが体をねじこんだ。

「だけど」

「こいつが」

 同時にふたりがいうと、ルイは眉をぎゅっと寄せ、拳をふりまわした。

「そう! そんなに喧嘩したいなら、どうぞ。ぼくが出ていってからね。部屋の調度は壊さないでね。ジプシーの給料じゃ、弁償できないからね!」

 ルイが憤然と出ていくのを、リックもマチアスもあっけにとられたように見送った。

 ルイはかなり乱暴にドアを閉めたが、ドアそのものの構造のせいで、柔らかに軋む音しかしなかった。

 マチアスが、ちらっとリックを見た。

 ドアを見て、目を瞬かせていたリックも、そのまなざしに気づいてマチアスを顧みた。

「ぼくは思うんだけど……」と、マチアスは首をすくめた。「ぼくら3人が喧嘩したとすると、いちばん強いのはルイだな」

「確かに」リックも深く悩むような顔つきになった。「あいつには勝てない」

 ふたりは肩をすぼめ、互いの顔を見た。

 テープだらけの顔だった。

「リック」

「何だよ」

「よくも、この顔を狙ったな」

「へっ」

「コンボトルの財産を……」

「ずいぶんお安い財産だぜ」

 マチアスはテープで飾った頬を思いきりふくらませると、両手をふりあげた。

 二本の腕が、リックの背にまわる。

 マチアスは小さな傷のある顎を、リックの肩に乗せた。

 リックの腕がそっと、少し面倒臭そうに背中にまわるのを感じながら、ゆっくりとまぶたを閉じた。

 目が、熱い。

 溶けてしまいそうな気がした。



 ふたりで廊下に出た。

 小さな明かりの下の、丸い光の輪の中で、ルイが膝を抱えてすわっていた。歩み寄ってみると、壁によりかかって眠りこんでいることがわかった。

 リックは目を丸くし、マチアスはリックに向けて、唇の前で人差指を立てた。

 マチアスが傍らにひざまずく。ルイの上体がするすると壁を伝って倒れた。

 マチアスはルイを受け止め、床に座りこんで、クッション代わりに胸を貸した。

 リックはマチアスのそば、ルイをはさんだ位置に座りこみ、小さく溜息をついた。向かい側の壁を、ぼんやりと眺めた。それから、ふとマチアスを見て、

「あの部屋よりは、ここの方が合ってるみたいだ、おれ」

「ぼくもだよ。どうしよう。すっかり庶民的生活が板についちゃった。帰ったら、落ちつかなくなるだろうな、きっと」

「……ああ」

 帰るな、とはいわない。

 帰らない……とはいわない。

 ふたりは黙って、ルイの呼吸音を数えた。『すやすや』と形容するのがふさわしい、安らかな寝息だった。

 まもなく、夜が明ける……。



21


 リビングルームには、ほんのりとした花の香りが満ちていた。

 出発前に、すべての花を生けたのだ。

 コーヒーポットに、コーヒーカップに、縁の高いトレイに。

 それらの花たちは、まだ、みんないきいきと咲いている。

 彼らが船を離れたのが、さほど長い期間ではなかったことを明るく教えている。

 長くなかったことは、『何もなかったこと』ではないけれども……。



 いちばん最初にリビングルームに入ったのは、リックだった。

 リックはひとりで花の香りの中を泳ぎ、ソファにたどりつくと、どさりと腰を降ろした。

 靴を脱ぎ、壁際に蹴った。シャツのボタンを胸まではずし、うっとうしそうに顔のテープに手をやった。

 キッチンに立ち寄っていたルイが、別のポットやカップをトレイにのせて入ってきた。

 コーヒーメイカーにポットをセットし、花たちを調べ、低いハミングをくりかえした。

 しばらくしてから最後のひとり、マチアスが、つばの広い帽子を手にして入ってきた。

 無言で、神妙な歩調だ。

 その帽子は、彼が花を飾っていたものである。

 不思議そうに目で追うリックとルイを顧みもせず、マチアスは生けてあった花たちをまた帽子にさしはじめた。

 ほとんどの花がつばの上に咲き乱れると、そばで見守っていたルイがようやく、おずおずと、

「また、街へ出かけるの?」

「いいや……」

 マチアスは、花たちの向きを直しながら首をふった。

「でも、その帽子……」

「これは、ある美少女に捧げるんだ」

 マチアスがほほえむと、リックとルイがちらりと顔を見あわせた。

「美少女って?」

 ルイがなお、消え入りそうな声で問う。

 マチアスは忍び笑いをし、飾りたてた帽子を頭の上にかざして、優雅にターンした。

「ハルから、メッセージが届いてたんだ」

「うん……」

「父上の経過は、良好」

「そう、よかったね」

 ルイが目を細める。

 それでもまだ、マチアスの行動が理解できない。口もとは不安そうだ。

 マチアスはターンをくりかえして、ルイの前に行き、

「戴冠式!」

 といいながら、キョトンとするルイの頭に花だらけの帽子を被せた。

 それから、ポケットの紙片を引き抜いて、ソファにいるリックに投げた。

 リックはそれを受け止め、広げた。

「何だよ、こんな三流新聞。見出しはみんなゴシップ……」

 リックの声が、ふと止まった。

 マチアスが耐えきれないように、身を折って笑いだした。

 帽子を被ったままのルイは怯えているように、笑い転げるマチアスと、唖然としているリックを見比べている。やがて、その唇から細い声が漏れた。

「な、何……?」

 リックは、抑揚もつけずにその記事を読んだ。

「『ミラ島の熱い密会』」

「……」

「『我々が入手した情報によれば、ベルギリウス国王所有のミラ島において、コンボトル王国の王子、マチアス殿下が密会を重ねているという。相手は、現在身元確認を急いでいるが、ブロンドの美少女。マチアス殿下は、彼女にぞっこんのようすだ。以前から、大学を抜け出し、ミラ島で逢い引きを重ねていたものと思われる』」

 ルイは呆然と、リックの淡々とした声を聞いていた。そばで笑い転げているマチアスを、顧みている余裕はないようだ。

「『満天の星の下、殿下は少女と、野外で愛を確かめあっていた。息を殺して見守る記者の耳に、少女の控え目なあえぎと殿下のささやきが聞こえてくる。〈あなたが欲しくて、たまらない〉……殿下はそういうが早いか、少女の脚を押し開いて、身を沈めた。少女がのけぞるのが、はっきりと見えた。〈最後の夜だ。朝まで愛しあおう〉と殿下はいった』……う!?」

 リックは口をつぐんだ。

 ルイの手が、花帽子をリックの顔を押しつけていた。

 ルイはふくれ面をし、花の蔭でうめいているリックと、まだ喉を嗄らしながら笑っているマチアスを軽くねめつけて、リビングルームを出ていってしまった。

 ドアが閉まると、マチアスは正気に戻ったように笑いやんだ。

 リックは帽子を顔からのけて、口の中からスミレをつまみだした。

 顔をしかめながら、

「最初から取材なんかせず、三文小説でも言いてりゃいいのにな、ドリルの野郎」

 しかし、マチアスはルイが去ったドアを見つめたまま、絶望的な顔をしている。

「これでまた、ルイに嫌われた」

 前髪に咲きかけのバラが刺さっているリックが、ひょいと首をすくめた。

「今まで、ルイに好かれるようなことをひとつでもしたかよ」

「……してない」

「……ふん」

「ぼくを好きになってくれる人なんか、だーれもいないんだ」

「ハル・ペイトンがいるだろ」

 リックは自分のつぶやきにハッとし、マチアスの横顔を見た。

 マチアスは何も気づかず、まだドアを見つめている。

 リツクは軽く肩をすぼめ、「コーヒーが沸いてるぜ」

 マチアスは、叱られた子供のような瞳でリックを顧みた。

「ルイを探してくるね」

「ああ、せいぜいご機嫌を取りな……21まで」

「うん、がんばる」

 マチアスが、にこっと応えた。

 それから、ふたりは黙って互いを見た。

 帰るな……とはいわない。

 帰らない、ともいわない。

「がんばるね」

 マチアスはもう一度いい、はにかんだ表情を見せるとリビングルームを出ていった。



             1988.1

ハル・ペイトンは今後もシリーズに登場して、主人公たちに関わっていきます。シリーズ中のセミレギュラーです。

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