故郷へ帰りたい
比較的最近……もしかしたら、デビュー後に書いたものかも。
番外編的な作品で、ちょっと変わったスタイルになっています。
【マチアス・1】
そのボートには、直接乗ることができた。
たとえば、非常用のハッチを開けたり、船窓をヒートガンで破ったりしなくてもいい、という意味だ。
乗り込むまでの間、リックはぼくにまったく口をきかなかった。
リックが口をきかないのは、めずらしくもないけれど、息も押し殺しているようだった。そんなにも気配がないのはめずらしい。ヘルメット内のマイクをオフにしているのかと疑ったほどだ。
たぶん、ぼくも同じだったんだろう。
合わせてくれたのか、自然にそうなったのか、リックとぼくはずっと同じスピードで飛び、同時にボートに乗り移り、肩を並べて通路を進んだ。
黙りがちなのは、もちろん、このボートの外観のせいだ。
たぶん、大型客船の脱出ボートだと思う。
ボートといっても、たぶん、かなりの人数を収容できるタイプ。
ホワイトネビュラ号と変わらないくらいの居住区があったのだ……たぶん。
認識番号は今、ホワイトネビュラに残ったルイが調べてくれているけれど、「たぶん」ばかりいわなくちゃならないのは、このボートの後ろ半分がなくなっているからだった。
オムレツを焼いたときに残った卵の殻のように、ボートは後ろ半分(半分なのかそれ以上なのかも、よくわからない)が噛みとられたようになっていて、ぱっくり開いた口から、ボートの「断面図」が見渡せた。
ぼくらは、メイン通路を見つけて、そのむきだしの先端に降りるだけでよかった。
船内にエネルギーはないようで、「明かり」らしきものも見えない。
そらでは、船は古びない。(特殊なバクテリアにでもとりつかれなければ)簡単には腐食しないし、恒星から遠い空間では風化らしい風化もしない。
地上で大気にさらされている船なら、放置後数十年でぼろぼろになってしまうだろうが、そらでは「昨日沈んだ」か「100年前に沈んだ」か、見分けがつかないことがあるのだ(もっとも100年前にはまだワープ航法はなかったから、こんな辺境に漂っているのは異星人の船かもしれないわけだけど)。
いったいいつこうなって、どれだけの年月漂っていたのか。
ボートの後ろ半分が、爆発で吹き飛んだらしいことは、断面の燃え方や熔け方でもわかる。けれど、それが3年前なのか先週のことなのかは、見ただけではわからない。
「ルイ」
リックが重く呼びかけるのが聞こえた。
よかった。リックのマイクかぼくのスピーカーが壊れてるんじゃないかと、疑いはじめていたんだ。何かが起きて助けを求めても、互いに聞こえないんじゃないかと。
『はい』
ルイの返事も、クリアに聞こえる。
ただし、彼の声も重かった。
理由は同じだ。
救難信号(自動発信だった)を聞きつけてここまで来たけれど、生存者を見つけることはできない気がしているから。
生存者を見つけることができないのが、「空っぽ」のせいなら、まだいいんだ。
そうじゃなくて、死体に遭遇してしまうかもしれないから……。
「答えは?」
リックが聞いた。
『だめです。近隣の街道、どこにも届けは出ていません。第一、ここは客船の航路じゃなくて……』
「……そうだな」
辺境に近い。
観光で来る船もいない。
銀河の星は、まばらに光るだけ。
『今、残った部分の形状で照会しています』
「わかった。答えが出たら教えてくれ」
『生体反応は?』
「ここまで来ても出ない」
『……そう』
ルイの声が、吐息のように消える。
このボートからは、生体反応がなかった。いや、生きているものがいないから反応がないのではなく、反応計が反応しないのだった。故障とも違う。今までにない反応を感じて、答えを出せずにいるかのようだ。
「いるとしたら、異星人かもね」
ぼくがつぶやいても、リックもルイも返事をしなかった。
まさか、と笑い飛ばせない気分でいるんだろう。
「とにかく、さっさと仕事をすませようぜ。おなか、空いてるんだろ? 夜食にパイ、焼いてやるよ。それを楽しみにして、せっせと働くんだよ」
ぼくのジョークにも、キレがない。
リックは溜め息さえ返してくれずに、今まで聞いたこともないような硬い口調で、
「ルイ、念のために医務室の準備を」
ルイが乾いた声で『はい』と答えた。
そのやりとりをヘルメットの中で聞きながら、ぼくは前進した。
途切れた通路の先から無限の宇宙をふりかえるリックを残し、この先にあるに違いない「キャビン」に向けて。
宇宙に向けて途切れている通路をさかのぼると、その奥にエアロックがあった。
後部が失われたときに閉まった、非常用の隔壁だ。
コントロールパネルのカバーを開いて、スイッチを入れた。インジケータがグリーンに光りはじめる。
この船はまだ、生きている。
リックは通路の途中。ライトをかざして、ドアが吹き飛んでしまっている部屋の中をのぞいている。
「リック、この奥を調べてくる」
軽くふりかえって、そういった。
リックはぼくの前の隔壁を、バイザー越しに見たようだ。短く、
「気をつけろ」
とだけ、いった。
もちろんさ。気をつけるよ、生命を探すために。
ぼくは、隔壁を開く前にチラッとパネルを見た。
書かれた文字も、見慣れたもの。異星の船ではない。そのはずだ。でも、今までに見つけた沈没船とはどこかが違っていた。
隔壁を開き、中に入ると、あとは自動的にエアロックが作動するのを待った。
内部に空気が満ち、天井の光が安全色に変わる。内扉は自動的に開いた。
向こう側は、無傷の通路だった。明かりも残っている。
すぐ先にドアがあった。歩み寄ると開いた。センサーも生きているのだ。
操縦室だった。
脱出後、ただ漂流するだけのポッドなどと違って、このボートは自力で飛べる。今のように、後方のエンジン部分がなくなっていなければ、だけど。
コンソールはひっそりと息絶えているようだった。
正面に広がる窓からは斜めに、銀河の流れが見えた。
そして、窓の下には少年。こちらに横顔を向けて、ひっそりと立っていた。
ロウのような白いほおをしている。目を閉じている。呼吸の気配がない。
一瞬、胸がずきりとした。そらでは、死体も変質しないことがあるんだろうか……と考えかけたとき、少年が静かにまぶたを開けた。
思わずバイザーをはねあげるぼくに、
「故郷に……帰りたい」
少年はささやいた。そのすみれ色の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
『リック、マチアス、そのボートの……』
ヘルメットの中にはじけるルイの声を遮って、ぼくは叫んでいた。
「乗客発見! すぐに連れ出す、ルイ、医務室の用意はすんだ?」
そう。
今すぐにこの冷たい部屋から救い出して休ませてあげなくては、そう思ったのだ。
ぼくはリックやルイからの返事を待たず、バックパックから気密サックを引き抜くと、少年に飛びついていった。
【マチアス・2】
医務室のベッドに、少年は横たわる。
ここでぼくらを待ち、ベッドのしたくをしてくれていたルイは、いつのまにかどこかに消えてしまった。いつもなら、こんなときにお客さまの面倒を見るのはルイなのに(可愛い女の子の場合に限り、ぼくのこともあるけど)。
ルイはナヴィ。そして通信士でもある。あのボートについて、どこかと連絡をとりあっているんだろう。
まぁ、いいや。船は停まっているし、食事を作る時間でもない。パイロットで料理長のぼくも、ベッドの脇で少年を見ていることができる。
少年……と呼ぶと自分の方がうんとおとなになったような気がするけれど、彼の年はぼくと同じか、下だとしてもひとつかふたつ。ほっそりした手足で、白くて小さな顔の、はかなげな男の子だった。
ベッドに寝かされてまもなく、彼は天井に顔を向けたまま、ぽかりと目を開いた。
すみれ色の瞳。
まるで、銀河の一部を切り取ったように光をちりばめている。
「君は、そらを漂流していた。ぼくたちはレスキュアだよ。君を送り届けるために連れ出したんだ。ぼくはマチアス、君の名は?」
しゃべれないわけではないはずだ。あの船で、ぼくは彼の声を聞いている。
でも、少年は名乗らなかった。その指が、そっとあがった。
宙に文字をつづる。
L、E、O。
「レオ?」
N、E、W、T、O、N……レオ・ニュートン。
「レオ、よろしく」
ほほえみかけた。会話は急がなかった。
無口なキャプテンとつきあっているから、しゃべらない相手にうろたえたりはしない。ちゃんと待つことができる。レオが話したくなるまで。
それに、レオはぼくを拒絶しているわけじゃないのだ。その顔がそっとこちらを向いて、すみれ色の瞳でぼくを見てくれたのがうれしかった。
でも、その瞳には見る間に涙が……。
レオがいった。
「故郷に……帰りたい……」
あの廃墟のようなボートの中でいったように。
故郷に帰りたい。
その言葉は、ぼくの心を震わせた。
目を閉じると一瞬にして、頭の中にぼく自身の故郷の風景が広がった。果てしない広さだった。新緑の、エメラルド色の森。その季節の、森を映す鏡のように緑がかった空。鳥の声、花の香り……ぼくを呼ぶ声……誰?
あまりの鮮やかさに恐くなって、ぼくは目を開けた。
ぼくまでが泣きそうな気分だけれど、懸命に笑顔を保って質問を再開した。
「レオ、君の故郷はどこなの?」
「ヴィオリア」
「ヴィオリア? 美しい名だね」
ぼくはほほえんでみせる。
どこだろう。探さなくちゃ。その星に急がなくちゃ。レオの瞳から、次の涙がこぼれる前に……。
「待っていて、レオ」
椅子から立ち上がるのと反転するのと一歩踏み出すのを、ほぼ同時にやってのけ、ぼくは医務室のドアに向かった。
あまりに勢いがよすぎたのか、すぐ外でルイに激突しそうになってしまった。
あわててルイの腕をつかみ、自分の腕の関節をクッションにして、お互いが痛い目にあわないようにした……つもりだったけれども、ぼくのつかみ方が乱暴だったのかもしれない。ルイは体をすくめ、おずおずといった。
「マチアス? どうかしたの?」
「どうかしたのって……するんだ、これから、彼のために」
「……彼?」
「もちろんあの子さ。連れていく……いや、『連れて帰る』っていうべきだな。彼はレオ・ニュートン。ヴィオリアの出身だ。……ヴィオリアって、どこ?」
ルイの青い瞳が、じっとぼくを見つめていた。まるで、ぼくが笑っているのが意外だとでもいうように、かすかに眉をひそめていた。
無事にレオを連れ出せたんだもの、どうして笑顔になっちゃいけない?
レオ以外の乗員は、船体の後ろ半分とともに消えたのだろう。それでも、ひとり救えたんだから、それは、ぼくらにはうれしいことじゃない?
ルイはまつ毛を伏せた。
「君に、いいそびれてた。あのボートを積んでいた船……大型船ロスマリン号が、どこのものかわかったんだ。それがヴィオリアで……」
「なぁんだ! じゃ、もう、ヴィオリアがどこにあるかもわかってるんだね。急ごう」
「ん……でも……君は昨日当直だったし……」
「平気さ! 行こう」
いいながら、ブリッジを目指して、ぼくは走り出していた。
そのとき、つかんでいたルイの腕を放り出したみたいになってしまったのは認める。そのことには気づいていた。でも、ルイが傷ついた顔をするなんて思いもよらなかったから……見間違いのような気がして……目の端にルイの表情が映ったのに、ぼくは深く考えもせずに前に向き直ったんだ。
「レオ! ここにいたの」
そういって、ぼくは足を止めた。
深夜の展望室。その入口で。
ふとのぞいた室内で、ガラスの壁に寄りかかって立つレオの、後ろ姿を見つけてしまったのだ。
星の光に溶け込んでしまいそうな、細いシルエットだった。
折れそうなうなじが、透きとおるほど白い。
「何をしてるの?」
横に立って、ぼくは声をかける。
声をかけてもいいものか、ほんの少し迷ったけれど。
レオはそっとぼくを見た。うなずいて、こういった。
「銀河は、美しいね」
そうだね。
そして、レオ、君の瞳も。
その瞳に浮かぶ無数の星は、銀河のしずくが飛び込んだよう……。
半ば見とれながら、ぼくはいった。
「おなかはすいていない? 夜食の用意ができたんだけど」
レオはその瞳をぼくにあてたまま、小さくかぶりをふった。
「星を、見たいの」
「ここにいていいんだよ。でも、おなかがすいたら、いつでもいって。ぼくらの休憩がすんだら、ワープする。それまではここで好きなだけ星を……ああ、そうだ、ちょっと待ってて」
念を押すようにうなずいてみせて、ぼくは展望室を飛び出した。
【ルイ・1】
リックが、リビングルームに入ってくる。
その瞳がぼくに向き、そのくちびるが「ルイ」と動くのがわかったけれど、彼はそのまままっすぐに、コーヒーメイカーに歩いていった。
まるで、砂漠をさまよったあと、オアシスを見つけたように。
カップに満たした熱いコーヒーを飲み干すまでの間、ぼくは待っていた。急がなくてもよかった。リックの左手の紙が何なのかもわかっていたし、時間は充分にあるのだから。
やがて、空のカップをテーブルのすみに置いて、リックが乱暴に椅子を引いた。
落ちるように腰掛け、テーブルに紙を滑らせる。
紙はするりと、ぼくの手元に届いた。
第三者が今のぼくらを見たら、きっと、もう何週間も絶交状態にあるのだと誤解したと思う。
リックの眉間のしわは深く、そのセピアの瞳はぼくを見て……すぐに壁にそれた。
ぼくもまた、リックを見つめ続けることができなかった。
手元の紙を、そっと見下ろす。
客船ロスマリン号のデータが打ち出されている。
ぼくが発した問いへの答えが、銀河の彼方から返ってきたのだ。
でも……見なくてもわかっていた。
ぼくはその紙を裏返す。
リックは何かいいたげに眉を動かした。
だから、先にぼくがいった。
「ごめんなさい」
「ルイ」
「ぼく、どうすればいいか、わからなくて」
「何もしなくていい。おまえのせいじゃない」
「でも……」
「自業自得だ、あいつがどう思っても」
「……」
「そんな顔、するな」
「え?」
「引きずられるぜ」
引きずられる。
そうかもしれない。
無残なボートの姿は、それだけで心を沈ませてしまう。
引きずられて、なお深く、戻れない深さまで……。
リックは短く溜め息をついた。
「とにかく、ヴィオリアに向かうしかない。そのレオ……あー……」
「ニュートン」
「レオ・ニュートンが『帰りたい』といっているのなら」
そのとき、ドアが開いた。
開き方はいつも同じはずなのに、「元気よく」開いた気がしたのは、マチアスの足取りのせいなのだろうか。
リックとはまったく違う歩調なのに、さっきのリックのようにマチアスは一直線にコーヒーメイカーの方に向かった。でも、コーヒーを飲むのではなく、そのそばにあった揺り椅子を抱えあげた。
リックでさえ、マチアスの動きを目で追った。
ぼくも目が離せなかった。
それに気づいたのだろう、マチアスはドアに向かいながら、
「夜食にチーズパイを焼いたよ。でも、ちょっと待って、これ、レオに届けてくる。あの子、ずっと星を見てるんだ、展望室で。それなら、椅子ぐらいあってもいいかなと思ってさ」
なんだか照れくさそうだった。
マチアスが親切なことは知っている。
相手が男性でも女性でも、大人でも子どもでも。あるいは犬や小鳥でも。
いつもなら、椅子を運ぶマチアスをほほえんで見送ることができるだろう。
なのに今夜は……。
マチアスがリビングルームを出て行った。
リックとぼくは、互いを見る。
まるで、今通り過ぎたマチアスが生首をぶらさげていたとでもいうように、リックは血の気のない顔で再びコーヒーメイカーに向かい、カップに熱いコーヒーを満たした。
それを、なぜかぼくの元に運んできた。
カップを差し出されて、ぼくはリックの顔を見上げる。
「リック?」
「飲め」
「……」
「凍えてるみたいだ」
ぼくが?
そんなことないよ……と思ったのに。
リックはそっと溜め息をついて、カップをテーブルに置く。手渡すのを諦めたのだろう。
カップに上げたぼくの指先が、細かく震えていたから。
「とにかく、飲め」
リックはぼくの肩に触れかけ、でも触れずに、リビングルームを出ていった。
【マチアス・3】
「そう、そこで、好きなだけ星を見ていて。ここは君の故郷へ帰る道だよ」
ぼくが展望室に運び込んだ揺り椅子に、レオはおずおずと腰かけた。
レオはほっそりしているので、もうひとり隣にかけることができそうだ。
とは思ったけれど、ぼくが寄り添っているわけにはいかない。レオの邪魔になるだけだろうし、第一、ぼくがパイロットなんだから船を飛ばさなきゃ。
ぼくは、レオの髪をさらりと撫ぜて、
「キャビンのベッドも用意がすんでる。でも、おなかがすいたら、いつでもリビングに上がっておいで。今夜は、ぼくら、みんな起きてるから。ヴィオリアまで、できるかぎりのスピードで飛ばすから」
「ありがとう」
「その分……ワープが長い分、星が見える時間は少ないんだけどね。それまでは、ゆっくりと眺めていて」
「はい」
レオがぼくに顔を上げる。ほほえんでうなずく。
とけるような笑顔。
引き込まれるような気分で、ぼくはいっていた。
「君を見つけることができてよかった。君を、故郷に送り届けることができて……」
多くの人が犠牲になったとしても、レオを見つけることができてよかった。
「ロスマリン号の人々すべては無理でも、君だけでも、せめて……」
不意に、レオの瞳から涙がこぼれた。
ぼくは口をつぐんだ。
ロスマリンという名を出してはいけなかったのかもしれない。
事故の恐ろしさを、今、思い出させてはいけなかったのかも……。
家族や友だちが一緒に乗っていたかもしれないのだ。
レオ「だけ」が救われて、喜べるわけはない。
悔やむぼくの心を読んだように、レオが小さくいった。
「ぼくたちは争ったのです……友だちだったのに……」
争った?
「故郷に帰りたい者と、旅を続けたい者と……」
「友だちと……ロスマリン号に乗ったの?」
旅の途中でレオは帰ろうと言い出し、友だちはそれを拒んだ?
「争いの結果……ロスマリン号は……」
まさか、それで沈んだの?
「やっと……やっと脱出したあのボートも、後部が吹き飛んで……」
レオの声は涙に潤んで消え、ぼくもかぶりをふっていた。
「いいんだ、話さないで! 今は、話さなくていいから」
だって、つらすぎる。
たとえレオが故郷に帰れても、ロスマリン号も友だちも戻らないのだから。
「いいんだ、ここで星を見ていて、ワープに入るまでは……」
もう何もいわないで。
ぼくは逃げるようにして、夜食の準備をしにダイニングルームに向かった。
【ルイ・2】
今、マチアスがふりかえったら……目があったら……ぼくは声をあげて泣いてしまう、そう思った。
自分が何をしているのかわからない。ううん、何もしていない。ただ、動けないでいるだけなんだ。
ガラスの壁の向こうでは、銀河の流れがまばゆい。
展望室には、マチアスが運び込んだ揺り椅子と、そこにかけたマチアスの影が浮かんでいる。
そして、ぼくは動けなくて。
マチアスはぼくをふりむいて。
「ルイ」
いつものように、あたりまえのように、そのテノールがぼくの名を呼ぶ。
優しく……そう、彼が「レオ」と呼ぶように。
「チーズパイ、食べてくれた?」
料理長マチアスの問いかけに、ぼくは答えることができなかった。
マチアスのパイがおいしいことは知っている。でも、何も食べられなくて……それはリックも同じで……そしてマチアス自身、ひと口も食べていない。
マチアスは、ぼくの答えを待たなかった。
照れくさそうに前髪をかきあげて、
「ようすを見にきたら、椅子だけが残ってた。レオはキャビンに入ったらしい。眠れているといいけど」
「……」
「ぬいぐるみを、貸してあげればよかったかな」
マチアスが真面目な口調でそういったので、こんなときなのに吹き出しそうになってしまった。
そうだね。
眠るときさえ、ひとりにはなれないマチアス。枕もとには、大勢のぬいぐるみ。
君がどんなまなざしでレオを見ているか、君自身は知らない。
「ルイ」
マチアスが動いた。手招く、その腕の影がゆらゆらしていた。
ぼくは逃げなかった。
いいたいことはたくさんあったけれど……いえるとは思えなかったから、そのために歩み寄ったのじゃない。
ただ操られるように、ぼくはマチアスのそばにいった。
自分の意思がどこに働いているかわからないという意味では、ぼくは人形に近かった。
気がつくと手をつかまれて、引き寄せられて。
「マチアス?」
思わず呼んだけれど、声はまともに出なかった。
ぼくは等身大の布人形のように、マチアスに抱えられていた。その膝に腰かけるかっこうで。
椅子がかすかに、後ろに揺らぐ。マチアスの両腕は、テディベアを手放せない5歳の男の子みたいにぼくの体にまわっていた。
呆然とするぼくに、
「妬いてる?」
さらに呆然とするようなことを、マチアスがいった。
その顔を見下ろす。
マチアスはぼくではなく、銀河を見つめたまま、
「レオはお客さまだもの。ひとりぼっちなんだもの。放っておけないんだ。でも、この銀河で、ぼくがだっこする……愛している友だちはルイだけ」
はずかしさと悲しみが、同時に襲ってきた。
ぼくの小さな心に、こんなに大きなものがふたつも入っているなんて……。
きっと感情は、物理の法則を超越している。
だから、「どうしてか」なんて説明できないんだ。
ただ、大きなものがふたつ入っているせいで、胸が痛かった。深いところが引きつれたようで、熱を持って……涙は、流したぼく自身が驚くくらい熱かった。
「ルイ! なぜ……?」
痛ましげにマチアスは声をあげ、シャツのカフスでぼくのほおを拭った。
もう片方の手がぼくの体をつかんでいる。ぼくは泣いているのとつかまれているのとで、すぐには動けなかった。
「ねぇ、ルイ。明日ヴィオリアに着いて、レオの笑顔を見たら、いい旅だったと思えるよ」
「マチアス」
「帰れる子は帰るべきだよ。だろ?」
ああ。
そうか……マチアスは共鳴しているんだ。
ヴィオリアへと急ぐレオ・ニュートンに。
マチアスは「帰れない子」だから。
その優しさのすべてを、レオ・ニュートンに向けている。
そんなマチアスが好きだ。
そんなマチアスだから、好きだ。
そして、好きだから胸が痛い。
ぼくはやっと立ち上がり、自分の指で涙を拭いた。
「あとは、ぼくでもできます。昨日、当直だったんだから、君は休んだ方が……どうか休んで……」
「ルイが寝かしつけてくれるんだったらいいのに」
マチアスの瞳が不意に明るくなって、やっとぼくを笑わせてくれた。
「だめです。ひとりでベッドにいきなさい、もう大きいんですからね」
そういいながら、マチアスのベッドのぬいぐるみのひとつになれたらいいのにと、ぼくは思っていた。
そうしたら、君に子守歌を歌える。
涙も全部拭える。
君が、安らかな眠りの底に沈めるまで。
展望室から駆け出して、やっと涙を止めたのに。
次の角でリックと鉢合わせした途端、涙が蘇りそうで、ぼくはしばらくリックの顔を見ることができなかった。
ロスマリン号から脱出したボート……その前半分から戻って以来、リックの眉間からは深いしわが消えない。
その表情を見るのは、苦しかった。
マチアスは、リックを膝に乗せないだろう――テディベアのように抱きはしないだろう。ぼくにそうしてくれたようには。
そして、それがぼくの涙と同じ意味だとしても、リックの眉間のしわは誰にも拭えない。
「明日だね」
ぼくはいった。
かすれた声しか出なかった。ちらりとぼくを見たリックが、
「明日だな」
と、応えた。
ぼくは涙をこらえられたことを自分に確かめると、笑顔になった。
「大丈夫だよ」
「……何が?」
「マチアスは、レオと一緒に行ってしまったりはしないよ」
「そんなこと……」
おれは心配していないと、リックはいいたかったのだろう。
けれども、その眉間のしわがすべてを語っている。
『ぼくが愛している友だちはリックだけ、この銀河で』
マチアスの言葉をそんなふうに贈れるなら、今すぐそうするのに。
「マチアスは、君のそばを離れないよ」
「……」
鼻を鳴らしたのか、短く溜め息をついたのか、ぼくにはよくわからなかった。
ただ、久しぶりにリックの瞳がかすかに笑った。
「べったりなのは、おまえに、だろ?」
マチアスがどんなにリックを愛しているのかわかっていないような、真剣な口調だった。
けれど「べったり」といわれたら、マチアスに「だっこ」されていたことを知られてしまった気がして、ぼくは口をつぐむしかなかった。
その隙に、リックは通路を戻っていった。
夜食のパイのために降りてきたのではないらしい。
長い夜なのに。
【ルイ・3】
「着いたの?」
マチアスが、明るい声とともにブリッジに飛び込んでくる。
朝焼けも朝陽もない、ぼくたちの朝。
まだ「早朝」と呼ぶべき時刻だった。
ホワイトネビュラは停船している。
惑星ヴィオリアの上空に。
フロントウィンドウいっぱいに、ヴィオリアの輝く昼の半球が広がっている。
「きれいだ……」
自分のシートにしがみついて、マチアスがつぶやいた。その光に打たれたように。
ヴィオリアはすみれ色の星だった。雲のきらめきが転々と浮いていた。
「レオだ……」
マチアスがフロントウィンドウに呼びかけたので、ぼくはリックと顔を見合わせていた。
マチアスは照れくさそうな顔でふりかえり、
「だって、ヴィオリアって……レオの瞳にそっくりじゃない? ああ、反対か。レオの瞳が、まるでヴィオリアのようなんだね。すみれ色に、無数の光の粒……」
コンボトルは、エメラルド色に見えることがあるといわれている。
故郷の星と同じ輝きを持つマチアスの瞳。
その瞳を細めて、マチアスがいった。
「ね? そう思わない?」
答えようとして、ぼくはためらった。
その瞬間にリックが割り込んだ。
「そうなのか?」
ぼくはくちびるを咬み、マチアスはきょとんとしたように首をかしげる。
「リックには、そう見えない?」
「……」
「ああ、リックはレオと話してないから、わからないんだな。きれいだよ、きらきらした星を浮かべたような、すみれ色の瞳だ」
「そのレオは今、どこに?」
「キャビン。寝てるみたいだから、降りてから起こすよ」
「……」
「さ、降りよう」
シートにかけようとするマチアスに、リックがいった。
「降りない」
「え?」
「ヴィオリアには降りない」
マチアスの笑顔が、枯れたように頬に張りつく。
「何……いってるの? ここまで来て……」
リックは深く息を吸ってから、
「ヴィオリアは、降下を禁止された星だ」
「なぜ?」
「封鎖されてるんだ」
「よく……わからない……」
いつもなら「リックは口下手だからな」とマチアスは笑うだろう。でも、マチアスは不審げに眉をひそめたまま、リックの言葉を待っていた。
リックは静かに、
「ヴィオリアは、原因不明の風土病で滅びた。当時のヴィオリア政府は、この星で生まれ育った命を救うため、そのときに発症していなかった子どもたち231名をロスマリン号に乗せて、地球へ送り出した」
風に吹き払われるように滅びていく国。
大人たちは、健康な子どもたちに希望を託す。
ヴィオリアを忘れないでほしいと。
忘れずに生きつづけてほしいと。
「地球政府は231名を受け入れることを約束し、ロスマリン号を待った……」
「でも、ロスマリン号は遭難した?」
マチアスの声がかすれる。
リックはうなずく。
「中で、争ったの?」
「え?」
「レオに聞いたよ。ロスマリン号の中で争ったって。故郷に帰ろうという者、旅を続けようとする者……」
「そのせいで遭難したと?」
「うん」
「レオが、そういったのか?」
「うん」
「今まで……ロスマリン号の遭難原因は不明だった。証言するものはひとりもいなかった。ロスマリンから救出されたのは1歳に満たない子ばかり数人。船内の誰かが脱出させたのだとされているが、彼らは何も記憶していない、赤ん坊だったからだ。彼らを乗せた小さな脱出カプセルは拾い上げられたが、本船……ロスマリン号がどこにいるのかも知られていなかった……半世紀」
「は……ん……?」
マチアスがぽかんとし、リックは目を伏せた。
「ロスマリン号の遭難から、半世紀になる」
「だっ……だって……じゃあ、レオは人工冬眠でも?」
「聞いてみるか? おまえが」
リックの口もとが歪む。
笑おうとしたのか、泣き出しかけているのか、きっと誰にもわからない。
引き寄せられるようにリックに近づいて、
「どういう意味?」
マチアスが聞いた。だから、リックは答えた。
「おれには……ルイにも……レオ・ニュートンがどこにいるのか、わからない」
「……」
「あのボートの残骸に乗り込んだとき、おれが見たのは、キャビンに折り重なっていた死体だけだった。干からびて、小さな……9体の……」
「ばか!」
マチアスに殴られることを、リックも予期していたと思う。それなのに動かなかった。かわそうともせず……まるで自ら求めるように、マチアスの拳を頬に受けた。
「なんで! なんで、そんなひどいこと、いうんだよ!」
リックは静かに……顔色も変えずにマチアスを見つめる。
「マチアス……」
「ただでさえ、家族や故郷から離れて、ロスマリン号では友だちと争って……ボートで脱出しても、レオしか生き残れなかった。それは悲惨な事故だけど、そんな……」
「ない」
「え?」
「レオ・ニュートンという名は、乗客名簿にない」
「……」
「当時のヴィオリアに、その名の少年はいない」
「……」
見つめるうち、マチアスはリックに引き寄せられていくようだった。
そのまま、レオのことを忘れてくれたらいい……そのシンパシィは危険だと思うから。
レオのとりこになったマチアスを、リックが腕に捕らえてくれたらいいとぼくが思ったその瞬間、マチアスの瞳がリックの背後に飛んだ。
マチアスは叫んだ。
「レオ!」
リックが目を閉じた。
打ちのめされたように。
殴られたときでさえ、表情を動かさなかったのに。
【マチアス・4】
リックが遠くにいるような……異世界の住人のような気がした。その言葉が、聞こえるのに通じない。
いつもいちばん近くにいたリック。
その口数の少なさをからかうこともあるけれど、本当は言葉なんかいらないほど、なんでもわかる……わかっているはずの……そのつもりだった……リックの言葉が。
ブリッジに飛び込んできたレオを見ず、声もかけず、顔をそむけるようにして出ていってしまったリック。
どうしてなんだ?
レオの瞳の色を知らないのは、おまえが見ようとしないからなんだぜ?
そう思うと悲しい。
レオは夢を見るように、ヴィオリアを見つめていた。
その頬に、透きとおった涙が滑り落ちていた。
「レオ」
「はい」
「着いたよ」
「ありがとう、マチアス。もう大丈夫」
「ん?」
「ぼくたちは迷子で、ボートをどちらに飛ばせばいいのかもわからなかった……宇宙は広すぎて……深すぎて……」
「でも、リックがいうんだ、ヴィオリアには降りられないって……」
ぼくの言葉を、レオはほほえみでさえぎった。
「ありがとう」
レオがゆらりと、フロントウィンドウの彼方に手を差しのべる。
ヴィオリアに引き寄せられるようにレオは歩き続け……そして、動けないぼくの前で、その姿はヴィオリアのすみれ色の輝きに重なり、溶けていった。
「レオ……」
指先から、くちびるから、冷たい震えが体じゅうに広がる。
こんな冷たさ、初めてだ。
ああ、宇宙が、ぼくの中に入ってくる……!
そのときルイが腕をまわしてくれなかったら、ぼくはどうなっていたか、わからない。
「ルイ……!」
ぼくはありったけの力で、ルイを抱きすくめた。その温かな体を。
ううん、しがみついたんだ。ぼくが「ぼく」でいられるように。
きっと、どこか痛んだと思う。ルイが息を詰めたのがわかったから。それでも、ぼくは力を抜くことができなかった。
「ごめん、ルイ」
「いいんだよ」
苦しげなくせにほほえむ声で、ルイが応えた。
「ぼく、君のテディベアになりたかった。夢が、かなった、気持ちが、する……」
ルイのルイらしからぬジョークは、やっぱり苦しげで……ぼくはこの優しい友だちのことが「昨日より100倍も好きだ」と思った。
そして。
気がつけば船内のどこにも、レオがいた形跡はないのだった。
キャビンのベッドのシーツにはしわひとつなく……それは医務室のベッドも同じで。
リビングルームで、ルイが運んでくれた熱いコーヒーをすすりながら、ぼくは溜め息をついていた。
「ぼくが連れてきたのは、誰だったんだろう」
ルイが小さくかぶりをふった。
「わからない。けれど……心配してた」
「ん?」
「君が一緒にいってしまうんじゃないかって……」
「バカだな、そんなこと……」
いいかけて、口をつぐむ。
『あるわけない』なんていえない。
だって、ぼくは現にレオを連れてきたし、彼と過ごしたんだから。
言葉を交わし、瞳をのぞき、髪に触れさえしたんだから。
ルイが静かに、でも力強くつけくわえる。
「そう心配していたんだよ、リックは」
ぼくは派手に首をすくめた。
そうしないと、泣いちゃうかもしれなかったから。
リックの表情の理由も言葉の意味を知らずに……耳も貸さずに……殴って封じた。
殴って……。
殴られたままでいたリック。何もいわず、それどころか、まつ毛も動かさずに殴られてくれた。
「とりあえず、ぼくが『最低野郎』の部類に入るってことは自覚したよ」
ぼくのつぶやきにルイがほほえんだとき、ドアが開いた。
一枚の紙を手に、リックが入ってくる。
テーブルについているぼくを見ると、足を止めていった。
「当時、ロスマリン号から脱出した赤ん坊のひとり、ロンドンに住む男から連絡があった。もちろん彼も、ロスマリン号のことは何も覚えていない。レオ・ニュートンの名に心当たりもない。ただ、ニュースを知らせてくれただけだ。あのボートで見つかった9人の名がわかったと……その名を書き並べて、送ってくれた」
リリー・ランドール。エディ・T・ジマー。オーティス・デイル……。
「LILY、EDIE、OTIS……」
9人の頭文字が、LEO・NEWTONと並んでいた。
「レオ……」
ぼくが触れたレオがそのうちの「誰か」だったのか、「みんな」だったのか、わからない。
ただ、帰り道を失ったボートで身を寄せ合って、「故郷へ帰ろう」と……「きっと帰れる」と……9人で励ましあったこと、それだけは信じる。
涙があふれそうだったので、ぼくは急いで席を立った。
それなのに、リックの腕に逃げ道をふさがれてしまって……だから、しかたなくしがみついて、ぼくはその肩で泣いた。
リックは辛抱強く、ぼくを支えていてくれた。涙で襟が濡れても、怒らなかった。それどころか、一度だけ、ぼくの髪を撫ぜてくれた――ぼくがレオにしたように。
昨日よりリックのことが好きだ……と思った。
そう、1.5倍くらいは。
(おわり)
一話完結で「どれから読んでも大丈夫」とはいえ、書いた時期によって、少しずつ文体や主人公のキャラが違っています。
調整を加えずに投稿しているので、ブレているように見えるかも……ごめんなさいね。