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涙を拭ってあげたいよ

レスキュアなのに、彼らがずっと地上にいる話。

テーマ的に、わたしにとっては大事な話なんですが(作中の「映画」を「小説」に置き換える)、内容的には地味な方です。


キャプテンでエンジニアのリック・シルヴァー、パイロットで料理長のマチアス・ターラー、ナヴィゲーターのルイ・マルロー……人命救助のために銀河中を飛び回っている16歳の少年3人組が主人公で、一話完結のシリーズです。

現在投稿済みのものは、どれから読んでいただいても支障はありません。

 リック、マチアス。今までありがとう。とっても楽しかった。さようなら。




「正式な休暇願い?」

 マチアスはジョークを聞く瞳で、ソファから上体を乗りだした。

 その拍子に、手にしたカップの縁からミルクティが跳ねた。

「あぁ、しまった。……それで?」

 指先で膝の上の紅茶のしみを拭いながら、マチアスはリックを見上げている。

 リックはテーブルに寄りかかるようにして、ポットからミルクも砂糖も抜きの紅茶をカップに注いでいた。

「『それで』も何も、許可したさ。書類に不備はなかったし、こっちも係留時間は明日まであるしな」

「どうせぼくらは、行方定めぬジプシーだし」

 マチアスは肩をすくめてみせ、ミルクティを飲みほした。

 ホワイトネビュラ号のリビングルームは、オフホワイトで統一されている。室内に満ちた空気までもが、温かみのある白っぽい光を含んでいるのだ。

 その中で、マチアスのきらめく瞳とスーツの明るいモスグリーンが鮮やかに見える。

「やっぱり、この街には知りあいがいるのかな」

「そんなことは、いわなかったぜ」

「秘密の知りあいかもしれないよ。それとも、映画の世界がなつかしくなったのかな。タシケントまで一晩中、盛り上がったもんね、お客さんと」

 そらで救助し、この惑星タシケントに送り届けた紳士は映画好きで、マチアスとウマがあった。

 そしてルイは、かつて俳優として、映画に出た側の人間でもある。

「どう思う? リック」

「別に」

「リックって、冷たい」

「たまには地上で暮らしたいんじゃないか? あいつはそらを飛ぶようになって間もないし、その前は15年近くも地上人だったんだ」

 半世紀もそらで暮らしている男の口調で16才のリックはいい、それきりルイの休暇には興味がないという横顔を見せて、マチアスから離れた椅子に雑誌を持って腰かけた。

 オフホワイトのリビングルームには、かけ心地のいい椅子やソファが島のように点在している。

 リックは背もたれにゆったりと体を沈めて、雑誌に目を落とした。その瞳はセピア。今日は同じような色合いのセーターを着ている。

「ルイが地上に戻りたがってるみたいないい方、しないでよ」

 マチアスは、すねたように口もとをふくらませる。

 リックは応えない。

「ルイはジプシーになったんだからね! ぼくらと飛んでるんだからね!」

「ああ、わかったわかった」

 リックはうっとうしそうに前髪の蔭で眉を寄せ、ふと、読んでいたページからマチアスに目を移した。

「夕食は?」

「ルイを驚かせるつもりだったんだけどな」

「……」

「シティのレストラン、席をとってくれたんだよ。お礼だって」

「ビリー・アンデルが?」

 リックが、いぶかしげに問う。それが、この星に運んできた『お客さん』の名だ。

 マチアスはうなずいて、

「補給が順調に終わったら、誘おうと思ってた」

 その前に、ルイは船を降りていってしまった。

 リックがいった。

「補給は済んだ」

「じゃ、リックも誘ってやる」

「おれがふたり分、食ってやる」

 マチアスは完全なふくれ面で、ソファから立ちあがった。

「ルイの分を食べるのは、ぼくだ。よし、出かけよう。リック、タクシー呼んでよ。店の名は聞いたけど、どこだかわからないよ。タシケント・シティ、初めてなんだから」


★★★


 うなじに指の先が触れたとき、痛みにも似た冷感が貫いた。

 その指が髪を梳いてゆく間、彼はずっと目を閉じていた。




「このまま西銀河に入るの?」

 貝のフライに当てたナイフを止めて、マチアスが目を上げた。

「ああ。ジャンブールのプラネットからの要請も来ている。隕石群が街道沿いに移動してるらしい。クルーザーの事故が続いてる。小型の船は、隕石に弱いから」

「そんな街道はさっさと封鎖すればいい」

 マチアスは不機嫌にいい、つけあわせのニンジンを口の中に放り込んだ。

 今度はリックが手を止めて、マチアスの顔を見つめる。

 マチアスはそれに気づき、言い訳するように唇を尖らせた。

「わかったよ。危ないね。再整備のために、データがほしいんだろ? わかったよ、行くよ」

「……」

「行くってば」

「……」

「ルイが戻ってきたら、すぐに! あぁ……」

 マチアスは肩を落とし、ナイフとフォークを置いた。

 リックはきかん坊の弟を見るまなざしで、マチアスを見つめたまま黙っている。

「気になる……気に入らないよ。休暇願い、なんてさ。ぼくにはひと言もいわずに」

「おまえはルイの管理人か」

「そういうんじゃなくて……。『じゃあね、マチアス、ちょっと行ってくるね』っていえばいいんだ。先月だって、休暇は別々だったけど、ルイは『行ってきまぁす』っていって出かけたじゃないか」

「ああ……」

「リックって、そういうこと、全然気にしないんだから」

 マチアスは怒った顔をしたが、リックは『弟を見つめる瞳』を一層深めただけだった。

 マチアスが言葉の続きをなくして、皿に目を戻したとき、彼らのテーブルに男がひとり歩み寄ってきた。白い上衣。年格好からすると、料理長らしい。少年たちが注文していないワインを手にしていて、親しげに、リックとマチアスのグラスに注いだ。

「オーナーのジャンといいます。ビリーを助けてくれて、ありがとう。あいつは、あたしの幼なじみでね」

 そういって笑った。人なつこい笑顔だった。

 その目が不思議そうに、空いている席を見る。その席だけはグラスが伏せられたままだ。

「お連れの方は?」

 もともと他人と話すのが苦手なリックは、困ったようにマチアスを見た。

 マチアスはやわらかな笑顔をジャンと名乗る男に返して、

「すみません、本当は3人で来るはずだったんだけど、ひとり欠席で……ごめんなさい、ひとり分、ぼくらで分けていただいちゃいました、おいしかったから」

 ジャンはいくどかうなずいてから、

「ほうほう、楽しんでいただけましたか?」

「堪能しました。素晴らしい海の幸でした」

「地球から直送しています」

「そういえば……」

「そう、タシケントには海がないんでね」

 ジャンはそこで、首を傾げた。遠くを眺めるような顔でいった。

「海だけじゃない。タシケントには、観光地と呼べるものもない。外からのお客さんは珍しいんです。スターを夢見て渡ってくる若者は多いから、小さい国のわりににぎやかですがね。シネマ・スクエアはもう見ましたか?」

「シネマ……?」

「この街の、唯一の夜遊びの場ですな。クラウドスクリーンに刺激的な映画がかかるんで、お子さまは入れませんがね」

「クラウドスクリーン?」

「ああ、まだ、見てませんか。タシケントの夜はたいてい曇るんでね。雲をスクリーンにして、空一面に映画を映すわけです。入口で、専用イヤフォンをくれますよ」

「へぇ」

 マチアスは目を輝かせたが、リックは知らん顔でワイングラスをあけている。

 ジャンはちらりとリックを見てから、マチアスに、

「映画は、お好きじゃない?」

「ぼくは大好きです。ビリー・アンデルと、ずぅっと映画の話をしてました、船で」

 料理をほめられたときと同じようにうれしそうな顔をして、ジャンは少し屈んだ。マチアスに耳打ちするように、

「じゃ、どうです? この際、あんた方、おふたりでオーディション、受けてみちゃ。ひとつあたれば、大きい。車も女の子も、欲しけりゃすぐに手に入るってわけです。あんた方なら、有望だ。監督でもプロデューサーでも、紹介しますよ」

 ジャンの目がもう一度、ずっと黙っているリックに移った。

 リックは誰も見ていず、からになった皿を脇へ押しやっている。それが、映画も車も女もどうでもいい、という態度に映ったのだろう、ジャンは軽く溜め息をついて残りのワインをグラスに注ぎ、

「じゃ、ごゆっくり。とにかく、ビリーのこと、ありがとう」

 そういうと、からの皿とともに、店の奥に消えていった。

 マチアスが声を落としていった。

「おまえって、本当に愛想がないな」

「ああ」

 リックが認める。

「ときどきさ、おまえって、自分と自分の仕事以外のことはどうでもいいと思ってるんじゃないかって、思えるんだ」

 リックはちらりとマチアスを見たが、マチアスが待っている否定の言葉は口にしなかった。

 マチアスも、諦めていたのだろう。

『そんなことはない、おれはいつもおまえやルイを大切に思っている』

 などいう言葉がリックの口から出るはずはないと。

 だから、すぐに話題を変えた。

「ルイが戻ったら、すぐにジャンブール、ね」

「そうだ」

「リック」

「ん?」

「ごめん、顔洗ってくる」


★★★


 体じゅうが重い。

 髪の裾をくぐって指は離れ、うっとりした声がいう。

「とってもきれい」

 あなたは誰?

 知りたい。

 けれども、目を開けられなかった。




「見な」

 といわれてバーノンはカウンターから顔を上げたが、何を見ればいいのかわからなかった。

「何なの? お姉さま」

「あれだよ、あのテーブル。何だい? あの席、皿が残っていやがるだろ?」

「ほんと! ウェイターの気がきかなくて……」

「そんな話をしてるんじゃないよ」

「はぁ……」

「3人で来るはずじゃなかったのかい? あのテーブルに間違いないんだろ?」

「ジャンは、料理は3人分出てるっていってたわ」

「でも、あたしたちが店に入ってから、あのテーブルはずっとふたりだ」

「ふたりともキュートね」

「それは認めるよ。今席を立っていった方には〈ヴァイオレット〉、もうひとりは……そうだな、〈ホールド・アップ!〉に使うか」

「アン・ラクスマンと?」

「アン・ラクスマンが立ち直ったらね。おいおい、バーノン、そんな話をしてるときじゃないだろ」

「あら、ほんと」

「分裂しやがったのか。気に食わない。バーノン、ちょっと電話をかけてきな」

「誰に?」

「ゴビーのダンナにさ」

「でも、彼女たちは予定どおり……」

「第二案さ。ダンナに、若いのを4、5人貸してくれっていやぁいいのさ。あっちとこっち、同時進行と行こうじゃないか」

「はぁい」

 バーノンはスツールを降り、歩きだしかけたが、ふと振り返ってしみじみと、

「お姉さまって、そうやってるとヤクザみたい」

「バカ! 余計なこと、いうんじゃないよ!」

 背中をどやしつけられて、髪を振り乱しながら、バーノンは飛んでいった。



 リックの皿が空っぽになっても、マチアスは戻ってこなかった。

 ウェイターがリックの皿を下げにきて、不思議そうに向かいの席を見たが、リックが軽く顔をしかめたせいか、何も尋ねずに戻っていった。

 隣のテーブルの太った男が満足そうに食後の煙草を吸っている。リックには喫煙の習慣もなく、ただ手持ち無沙汰だった。

 ぼんやりと、店内を見まわす。

 石造りの壁にオレンジ色のランプがいくつも飾られ、それが照明だった。空気が黄色っぽく光って見え、壁に、床に、揺らめく影が幾重にも映った。

 ビリー・アンデルの友人のジャンとかいう男のものらしい、海の幸の料理をメインにしたこの店は、タシケント・シティのポート・ストリートに面した一角にあった。

 ラフな服装でも入れる店だった。

 夕食時間には少し遅く、空いているテーブルの方が多かった。

 奥にはバーカウンターがあり、数人の男女がフロアに背を向けてスツールにかけ、酒や会話を楽しんでいるようだ。

 マチアスは戻ってこない。

 煙草を吸っていた男も、ウェイターを呼んで勘定を済ませた。

 入口から数人の娘たちが入ってきて、店の奥に向かった。

 リックのテーブルについているウェイターが、コーヒーのおかわりを注ぎに来た。

 リックは左手首を見、ブレスレットで時刻を確認した。

 マチアスが席を外した時間を計っているわけではなかったが、他にすることがないのだ。

 何か、アクシデントでも……?

 リックは迷っていた。

 ようすを見に行こうと思いながらも、少しの間、ためらっていた。

 マチアスが『顔を洗って』いるのなら、そのままひとりで『洗って』いたいかもしれない。

 リックはもう一度時刻を確かめた。

 しばらくすると、奥の方から、笑いさざめく声が近づいてきた。

 その声の群れは止まり、足音がひとつだけ駆け寄ってくる。

「リック、ごめん! そこで彼女たちと意気投合しちゃってさ! シネマ・スクエアに踊りにいくことになったんだ」

「シネマ……? ああ」

 ジャンがしていた話は、リックの耳にも入っている。

 マチアスは、『顔』どころか声やしぐさまでさっぱりしたようだ。

 リックは、肩越しに『彼女たち』を顧みた。ランプの光で、『彼女たち』のアクセサリーがきらきらと揺れている。そのことしか目に映らなかった。

 雲に映画の映る広場とやらで『彼女たち』と踊る。それだけのことでこんなにうれしそうな顔になれるマチアスが理解できない、という気持ちを表情にはっきりと現わして、リックはさっと手を振った。

「勝手にしな」

「念のために聞くけど」

「何だ?」

「リックも行く?」

「帰る」

「そう」

 リックが一緒に行くはずはないと知っているマチアスはあっさりとうなずいて、出口に向かいかけた。

「念のためにいうが」

 リックはマチアスの背中にいった。マチアスがふりかえる。

「何?」

「お子さまは入れないぞ」

「う、うう」

 マチアスは絶句し、仕方なく拳を振りあげた。それきりリックを無視して、『彼女たち』に合流した。

 彼らの笑い声が出てゆくと、リックは溜め息をつきながらウェイターに合図をし、もう一杯コーヒーを頼んだ。




 タシケント・シティの夜は、妙に暗い。まるで、シティ全体が映画館の中にあるようだ。

 普通は頭上から照らす街路灯も、腰くらいの高さに設置されている。雲のスクリーンを見上げたとき、光が目に入らないようにするためだろうか。その光そのものもオレンジがかって淡く、通りに光る靄が流れているようにも見えた。

 誰かが、何かが、動くたびに、ビルの壁や歩道にゆらゆらと頼りない影が映る。

 宙港に通じるポート・ストリートは、シティの主要道路のひとつだったが、オフィスビルが多いのか、この時刻、ひと気はほとんどなかった。

 マチアスが踊りにいったシネマ・スクエアというのは、ビルの向こうに見える、空の明るい一画なのだろう。その明るみや色合いが刻々と変わるのは、映しだされている映画のせいらしい。

 主要な公共交通機関はすべて地下を走っているので、上空に見えるのはタクシーくらいだ。

 リックは、帰り道ではタクシーを呼ばなかった。ポートのパイロットランプを目指して、道の中央を歩いていた。

 あたりを満たす炎の色の明かりが、彼の影を伸ばしたり縮めたり、二重にしたりする。

 靴音がまろやかに響き、光に溶けるようにして消えてゆく。

 しばらく行くと、靴音が増えた。

 それらは不協和音を奏でながら、いつしかリックの前と後ろに、その距離をせばめていた。


★★★


 その腕に包まれたとき、なつかしい匂いがした。

 どうしてなつかしいと感じるのか、わからなかった。

 なつかしいと感じさせられている……感覚まで操られているようで恐かった。

 瞳の底に涙が湧く気配を感じた。

 自分の心の奥に瞳を向けて、そこに生まれてくる感情を見極めようとした。自分がまだ自分であることを、確かめたかった。


★★★


「……何か?」

 リックは、低く尋ねた。

 前に3人。

 後ろにふたり。

 年は18、9だろうか、いずれも筋肉質で、均整のとれた体つきをしている。肌や髪の色はさまざまだが、それぞれに整った顔立ちで、マネキン人形のように姿勢がいい。他人の容姿に無頓着なリックでさえ、そのことに気づいた。そのことが、奇妙な感じを与えるのだ。

 リックはただ、そこに立っていた。

 前に立ち塞がった3人のうち、中央の青年がジャックナイフを抜いたときにも、無表情のままだった。

 ジャックナイフがかすかに振られた。

 そのきらめきを合図に、素手の青年が飛びかかってきた。

 まっすぐに突いてくる拳を、身を沈めたリックの腕が下から払う。背後から別の青年が組みついてくる。正面から、また別の青年が踊りかかる。

 リックは強引に体を返して、背に組みついている青年を盾にした。仲間の拳を受けた青年が、リックの肩の後ろで呷いた。

 次の瞬間、いくつもの拳が交錯した。

 羽交い絞めにしようとする手が伸びた。

 背負い、投げ飛ばす。

 拳をよけ、肘を叩き込む。

 その間には、腹を殴られていた。だが、その勢いに似合わず、気迫のこもらない拳だった。さほどダメージはなかった。

 気がついてみれば、どの拳もそうだった。

 青年たちの動きは軽やかだったが、軽やかすぎた。どのパンチにも迫力がなかった。

 リックはいつしか、自分が加害者であるような錯覚にとらわれはじめていた。

 すでにふたり、リックに急所を突かれて、道にうずくまっている。

 リックはハッと振り返った。

 ジャックナイフの青年は、まだそこに立っていた。

 呆れている……あるいは驚いているような目をして。

「カット、カット! 気づかれちまった。あんたたち、そんなことじゃ、来週の〈ヤングブラッズ〉のオーディション、危ないよ」

 まったく別の方向から、女の声が飛んだ。

 その声がジャックナイフより鋭く思えて、リックはそちらに身を返した。

 低い照明灯を背にして、すらりとしたシルエットがふたつ、立っていた。路上に映る影は輪郭がぼやけ、ゆらめいていた。

 女が一歩踏み出すと、影は生きもののように伸び縮みした。

「悪かったね、驚いたかい? ま、あんたは〈ホールド・アップ!〉、合格だよ」

「いったい……」

「さ、握手をしようじゃないか」

 女は、リックに向きあって立った。

 潔い短さに切り揃えられた赤っぽい髪に、同じ色合いの瞳をした女だ。指先の細い手を差し出し、リックを見つめている。目の高さは、ほとんど変わらなかった。

「何のために?」

 リックは目をすがめる。手を動かそうともしない。

「そう……契約さ。あたしはアビリーン・リュデリッツ」

「……」

「わかったかい?」

「何が?」

「あたしはアビリーン・リュデリッツって……」

「おれはリック・シルヴァーだ。この星では、ケンカのとき名乗りあうのか?」

 リックは吐き出すようにいった。

 苛立ちをそのまま、アビリーン・リュデリッツという女にぶつけていた。その『苛立ち』は、ずいぶん前から続いていた。そうだ、たぶん、ルイが『正式な休暇願い』を出したときから……。

 アビリーンは押し黙り、その背後で、彼女と共にいたスーツ姿の長髪の男がクスッと笑った。

「バーノン!」

 アビリーンは肩ごしに一喝してバーノンを黙らせると、もう一歩、リックに近づいた。

「そうだ。あんたはアビリーンを知らないんだな」

「ああ。タシケントのヤクザに知りあいはいない」

 途端にバーノンが激しく吹き出し、今度はまわりに立っている青年たちも、道にうずくまっている者も、声を殺して笑いはじめた。

 アビリーンは、彼らに拳を振って怒りだした。

 リックはけげんそうに、怒る女と笑う男たちを見ているだけだ。

 まわりで何が起こっているのか、まるでわからなかった。




「リーック! きゃほぉぉ! 今帰ってきたの? 寄り道してたんだね! いい夜だねぇ!」

 ポートのゲート前に滑り込んできたタクシーから、マチアスが踊るように降りてきた。

 ちょうど中に入ろうとしていたリックは、その場に棒立ちになった。

 そのまわりを、衛星のようにマチアスがくるくるまわりだす。

 タクシーが去ると、あたりは静まりかえった。マチアスの声はポートを囲む高いフェンスを通り抜け、船たちが翼を休めている広大なフィールドに消えてゆく。

 あちこちに金や赤のパイロットランプが灯り、コントロール・タワーの明かりも半ば落ちて、空も暗い。映画こそ上映されていないが、雲が低く空を覆い、星はほとんど見えない。

 雲に呑まれるように、ゆっくりと上空に昇ってゆく宇宙船の光が見える。

「リックも来ればよかったのにぃ。あ、そうかぁ、お子さまは入れないんだもんねぇ。空の映画ねぇ、すっごぉく刺激的だったんだよ。〈ネプチューン〉だ、古いの。とっても挑発的なんだから……」

 マチアスがリックの首に、だらりと両腕をかけた。

 リックは顔をしかめ、

「酔ってるのか?」

「いいの! 休暇なんだからね!」

「マチアス……」

「今頃あいつだって、どっかで楽しくやってるよ!」

 リックは唇を結び、その背を抱えるように腕をまわすと、夜の風を透かしてマチアスの瞳を覗いた。

 マチアスは急にそうされて戸惑い、頭を引いた。

「な、何?」

「そんなに気になるのか?」

「ぼくは……」

「……」

「ぼくは、『正式な休暇願い』なんて出さないからさ」

 目を伏せると、マチアスのまつ毛が頬に影を作った。ゲートを照らす明かりが、マチアスにも光を投げかけているのだった。

 リックはマチアスから腕をほどき、マチアスはそっと、リックの肩にのせた腕を降ろした。

「ごめん、リック。船に帰ろう」

「ちょっとお待ち……!」

 あわてたように声が飛んだ。

 マチアスはぎょっとし、声の主を捜した。

『主』より先に見つけたのは、リックのうんざりした横顔だった。

 リックはマチアスに背を見せる形に向きを変え、

「いいかげんにしてくれ」

「あたしは諦めないよ。話を聞けっていってるんだ。あたしはアビリーン・リュデリッツ!」

 アビリーンはそのスリムな体形に不釣り合いなほど豊かな胸をそらしてみせ、その後ろに控えて立つバーノンが激しくうなずいた。

 マチアスはリックの蔭からのぞくようにして、

「誰、この人たち……」

「アビリーンとバーノン」

 リックは心底うんざりしていたので、その発音は『アビリィィンとバアァノォン』に近かった。

「アビリーン・リュデリッツと、バーノン・リュデリッツ」

 アビリーンが尖った発音で訂正した。

 マチアスはきょとんとしたまま、

「ああ、つまり、リュデリッツ夫妻……」

「バカお言い! こいつは弟だよ!」

 アビリーンはいい、まったくよそ者はしようがないね、と口の中でつけ加えた。

 マチアスの表情は変わらない。

「それで、あの……?」

「『それで』もくそもあるかよ。ほっとけ。帰るぞ」

 リックはいい、ゲートへ歩きだす。

「でも……」

 相手が『女性である』というだけでないがしろにできないマチアスは、リックの服の背中をつかみながら、困ったようにアビリーンを見つめた。

 アビリーンはマチアスにうなずきかけて、

「用件を聞いてもらおうじゃないか」

「ほっとけ、といってるだろ」

 リックが遮る。

 彼は、服をつかんでいるマチアスの手首を握り締めると、それ以上、有無をいわせない強い歩調でゲートをくぐった。

 くぐるとき、左手首を上げた。

 センサーが反応し、彼のブレスレットのID信号を確認する。

 マチアスは特にブレスレットを上げなかったが、ゲートのセンサーが勝手に彼のIDを確かめてくれた。

「待ちな!!」

 アビリーンはゲートに駆け寄る。

 バーノンがその腕をつかんで引き止めようとしたが、間に合わなかった。

 開いたままだったゲートが、アビリーンの目前で音を立てて閉じた。

 アビリーンの手が、いきなり現われたフェンス状の壁に突き刺さる。

「ちょっと! あたしを誰だと思ってるんだい!? あたしはアビリーン・リュデリッツだよ!? 畜生、マニキュア! 爪が割れちまったじゃないか。どうしてくれるんだい!?」




「ねぇ、あのひとはいったい何なの?」

 マチアスの声が通路に響く。

 船に着いてから、もう何度聞いたかわからない。

 しかし、リックはむすっとしたまま、ひと言も答えようとしなかった。

 エレベーターを降り、リビングルームへ足を向けたとき、

「あのひとに、何かしたの?」

「されたんだ!!」

 マチアスの真剣な問いかけに、リックは初めて振り向き、そういった。

 マチアスは大きな瞳をなお大きく見張り、

「何、されたの?」

 リックは押し黙った。

 それから、軽く溜め息をついて、

「妙なこと、いいやがるのさ。契約……とか何とか……」

「契約?」

「おれたちをプロの殺し屋だとでも思ってるんじゃないか? あのヤクザ」

 リックはようやく、眉間の皺をゆるめた。

 リビングルームに入り、コーヒーメイカーに足を向けた。

 そのとき、壁のコンソールがふたりを待っていたように青白く光った。

 マチアスが小走りに近づく。

「ルイからかな?」

 ひとり言のようにいいながら、キーを弾く。

 リックはそのままコーヒーメイカーに歩み寄り、カップにコーヒーを注いだ。

 何もいわないマチアスを振り返ったのは、コーヒーをひと口すすった後だった。

「電報だ……」

 マチアスが、ぼんやりした声でいった。

 その頬が青ざめて見えるのは、スクリーンの光を映しているせいか。

 リックはカップを手にしたまま、その文字を見た。

『リック、マチアス、今までありがとう。とっても楽しかった。さようなら』



「いわれたとおりだ。手強い相手だねぇ」

 アビリーンはいった。

 半ば無意識に、左手で右の中指を撫ぜていた。爪が欠けただけでなく、軽く突き指していた。

「『手強い』ですって! お姉さまが認めるなんて、珍しいことだわねぇ」

 半歩後ろを歩いているバーノンが、笑みを含んだ声でいう。

「うるさいね。よそ者相手だから、調子が狂ってるだけだよ」

 アビリーンは叱りつけたが、勢いのない声だった。

 夜の風は柔らかい。

 ふたりの髪を後ろに梳きあげながら、ポートの方に去ってゆく。

 アビリーンは、肩越しにポートの明かりを見た。

「何としてでも、欲しいもんだねぇ」

「でも、あの船は、じき行っちゃうんでしょ?」

「そいつを何とか止めなけりゃならないね。多少、汚い手を使ってでも、ね」

「あぁ、お姉さまって、本当にヤクザみたい」

「ヤクザ……か」アビリーンは今度は怒らなかった。「なら、それでもいい。あたしゃ、この契約に賭けてるんだ、アビリーン・リュデリッツの名をね」

「お姉さま……」

「作戦を練り直す。ゴビーのダンナに電話して、彼女たちを呼んでおいてもらってくれ。『結果』を聞いとこう」


★★★


「いい子ね、いい子、お帰りなさい……」

 子守歌に似ていた。

 呪文かもしれなかった。

 動けない。

 それとも、動きたくないのか?

 柔らかな腕に抱かれ、耳の上で髪をかきあげられて……。

 そんなはずない。

 だって、ぼくの母さんじゃないもの。

「いい子ね、いい子よ、坊や」


★★★


「わからないな」

 リックはいい、コンソールに背を向けた。その瞳はマチアスを見たが、マチアスはリビングテーブルに頬杖をついたまま、遠い壁を眺めていた。

「タシケント市内らしいが……」

「ルイが自分で打ったのなら、発信地がつきとめられないようにするくらい、当然さ」

 唇を尖らせているマチアスに、リックはかすかに笑い、

「ガキみたいなやつだな」

「リックは怒らないの? 何だよ、あの電報! 『今まで楽しかった』だって? ジプシーになったのは、ルイにとっては『娯楽』だっていうの?」

「おまえは怒ってるのか?」

「あたりまえさ」

「おまえは悲壮な義務感と使命感に燃えてジプシーになったのかもしれないが、ルイが『楽し』くジプシーをやってたからって、怒ることはないさ」

「ぼくは……」マチアスはいいかけ、ハッとリックを顧みた。「今、過去形でしゃべったね!」

 リックは目を丸くし、それから首をすくめた。

 自分を見据えているマチアスの緑の瞳が、かすかに濡れて光っていた。

「『正式な休暇願い』の次は、電報だ。ぼくらをからかってるのか?」

「そうかもな」

「からかってるなら……それなら、ちょっとだけ叱って、あとは、すぐに許しちゃうのにな……」

 ルイが船に乗ってから、ルイのことをいろいろと知った。少なくとも、マチアスは『いろいろと知った』と思っていた。

 ルイには欠けているものがたくさんある。

 冷たさ、意地悪な言葉、欲張りな心……。

 からかってるなら……とはいったが、ルイはそんなことをしないとマチアスにはわかっていた。

「だとしたら、ふたつにひとつだ」マチアスはいった。「ルイの『本心』か……」

「何事かに巻き込まれたか」

 リックの淡々とした口調に、マチアスは立ち上がった。

「ならば、ルイを救い出す。ぼくらはジプシーなんだから!」

 そのとき、沈黙していたコンソールが、彼らを呼んだ。

 リックは身を翻して、キーを指で弾いた。

 リックの背に飛びつくようにしてスクリーンを見たマチアスは、そこに現われた文字を呆然と読みあげた。

「『深夜二時、タシケント中央公園の薔薇園で待つ』。……デートのお誘いだ」




 いったい幾種類の、何千本の薔薇があるのか、見当もつかない。

 甘い香りが、体を抱き締めてくるような気がする。

 タクシーに運ばれてきたタシケント中央公園は、その敷地のほとんどが広大な薔薇の迷路だった。

『深夜二時』

 タシケントの長い夜明けの始まる時刻だ。

 見上げると、混みあった雲がかすかに紫を帯びてきたことに気づく。

 空の数ヶ所が、ちらちらと光っている。シネマ・スクエアだけでなく、シティのあちこちに、クラウドスクリーンがあるらしい。地理にまだ不案内なふたりには、どの光がシネマ・スクエアか、はっきりとわからなかった。

 リックとマチアスは、花壇の間を縫うように続く小道をゆっくりと歩いていた。

 風がやんでいる。淀んだ薔薇の香りがゼリーのようだ。歩く足が重い。

 いつしか『深夜二時』を大きくまわったが、ふたりは黙って歩き続けた。

 他に人の気配はなかった。

 公園のあちらこちらに立っている照明灯の金色の光が、無数の薔薇の花を浮き上がらせている。

 真紅の薔薇、黄色い薔薇、白い薔薇、ピンク、紫、朱色、銀に見える薔薇……。

 すべての香りが、濃く混ざりあっている。

「気持ち悪い……」

 マチアスのつぶやきに、リックは足を止め、振り返る。

「休むか?」

 軽く頭を振り、マチアスは再び歩きだす。

「いったい、どうしてこんな……。ルイに何があったんだろう」

「誰もいないようだぜ」

 リックは、マチアスの言葉に直接答えはしなかった。ただ歩調を緩め、かばうように、マチアスと肩を並べた。

 マチアスはリックに目を上げた。

「ルイは、ジプシーをやめたりしないよね?」

「さぁな」

「あんなに苦労して、あんなに泣きながら、ジプシーになったんじゃないか」

 ルイは、母親を定期船の事故で亡くした。14才のときだった。ルイを助けたのは、当時少年RAPにいたリックとマチアスであり、彼らもルイと共に、ルイの母親が青い炎に呑まれる瞬間を見た。

 それから一年後、ルイはジプシーとなって、ふたりに再会した。

 普通は三年かかる士官学校のカリキュラムを一年で終え、リックとマチアスがジプシーとして飛んでゆくその日に追いついたのだ。

 ルイは、自分からは何もいわない。語らない。

 苦しい一年だった、とも。

 会いたかった、とも。

 その思いの深さも……。

「『とっても楽しかった』だって? そんなものじゃなかったはずだろ?」

 マチアスはつぶやきながら、何気なく、薔薇の花にかすむ地平に目をやった。

 影。

 ここにきて初めて見た、人影だ。

 長い髪を背に揺らめかせた、ほっそりした影だった。長いスカートの裾を引いているようだ。うつむいて、薔薇の茂みの間を抜けてゆく。

 駆け寄ろうとして、マチアスは傍らの薔薇の花を手ではねのけた。

「痛……!」

 思いがけない鋭い痛みに、一瞬身を縮めた。

「どうした?」

 背後から支えるように、リックが問う。

「何でもない。今……」

 マチアスは、目を凝らした。薔薇の海を漂う人影は消えていた。幻だったのかもしれない。少なくとも、呼びだした相手ではないのだろう。それならば、接触してくるはずだ。

 マチアスは言葉を呑み、傍らで揺れている薔薇を見下ろした。

 ひざまずき、淡い光の中で透かし見るようにして、その花を間近で見つめた。

「今、これが、刺さったんだ。こんな薔薇、初めて見た。『きれいな薔薇にはトゲがある』とかいうけど、この薔薇、本当にトゲだ。花びらの先がみんな尖ってる。香りをかごうとした途端、鼻に刺さっちゃうよ」

 リックも、そこにたたずんだままその花を見た。

 ひとつの花がようやく両手におさまるくらいの大輪種だ。肉の厚い花びらはどれも先の方で錐のように硬く尖り、先端ではかすかに金属的な光を放っている。

 薔薇の株にはすべて、白い、紙幣ほどの大きさの札がかけられている。品種名が書かれているのだ。

 その薔薇の名は、ローゼンハイム・ブルー。

 血のように赤い花なのに、なぜ『ブルー』なのか。

 リックはそのときそう思い、そのためにその花の名を覚えていた。

 マチアスが立ち上がり、歩きはじめた。

 今は、どんなに珍しい薔薇もそれ以上マチアスの興味を引くことはなかった。

 目の前に差し出されたハンカチを、彼は不思議そうに見た。それから、それを差し出しているリックを。

 リックはかすかな溜め息と共に、

「血が出てるぜ、手の甲」

「……」

「三時を過ぎてる。一度、船に帰ろう」

 マチアスはうなずいた。

 ゲームに負けたスポーツ選手のような顔で。




「貴様……」

 思わず、その言葉が出た。

 リックは身構え、マチアスは困惑に眉を寄せた。

 リビングルームのドアは開いていて、その間にふたりは立っていた。同じように、室内の一点を見つめていた。

「コーヒー、いただいてるよ」

 その声は笑っていた。

 アビリーン・リュデリッツがリビングテーブルに腰かけ、湯気の立つカップを差し上げている。それがルイのものだとは知らないのだろう。

 細く長い脚を派手に組み、頭をぐっとそらし、自分の鼻越しに少年たちを見ている。

「どうやって入った?」

「なぁぁいしょ」

「野郎……」

「この美女に向かって『野郎』はないだろ? キャプテン?」

 アビリーンは首をかしげ、脚を組み替えた。

 リックは押し黙り、室内に足を踏み入れた。

 マチアスも続いた。彼は、リックのように怒ってはいなかった。驚き、困惑してはいたが、怒りは湧かなかった。だが、それも、リックの言葉を聞くまでだった。

「おれたちを、おびき出したな?」

「ルイをどうするつもり!?」

 マチアスは甲高くいい、テーブルに歩み寄る。

 アビリーンが膝を高く上げて、再び脚を組み替えた。

 マチアスは思わず目をそらし、足を止める。

「純な坊やだねぇ。あの娘たちがいってたよ、マチアスは見かけほど軽い男の子じゃないわって。酔って、踊って、空には〈ネプチューン〉だ。その気にならないとはおカタいよ。キスのひとつもしなかったって」

 マチアスは黙り込んだまま、アビリーンの笑う口元を見つめた。

 何が起こっているのか、何をされているのか、わからない。

 ルイと同じように、自分も、リックも、『何事かに巻き込まれ』ているのだろうか。

「なぜ、薔薇園……?」

 リックが問う。

「この時間に呼びだせる場所は、タシケントにはそうないんでね。あそこ、迷路みたいだろ? 入ったら、出るまでに時間が稼げると思ってさ。やり方を変えたのさ。もともと、あんたたちがどういう男なのか、見極めてから行動するつもりだったんだがね」

「……」

「あたしは諦めの悪い女。でなきゃ、この世界ではやっていけないんでね。1に情報、2に『押し』さ。サシで話させてくれりゃ、落とす自信はある。大して迷惑はかけない。契約金もたっぷり弾む。ジプシーには夢みたいな額の契約金だよ? 流行の服、好みの娘、車、たいていのものは手に入る。期間は半年。あんたたちは仕事をしていていもいいし、遊んでいてもいい。お望みなら、あんたたちもスターにしてあげるよ。リックは〈ホールド・アップ!〉で旅から旅の正義の使者、マチアスは〈ヴァイオレット〉で、あの大物、スティーヴン・パーンの弟役……」

「パーン、好きだよ」

 ぼんやりと、マチアスがいった。

 アビリーンは目を見開いて、

「ね? とにかくさ、どっちにしても契約金は弾む。もし、このまま彼と別れてくれるんなら、額を二桁上げてやるよ。16の男の子には使い切れない額、だよ?」

「彼……?」

 マチアスの声が、かすれている。

 アビリーンは対照的にあふれでるような声で、

「ルイ・マルローさ!」

「ルイの行方を……?」

 マチアスの声はなおかすれ、聞き取れないほど低い。

「いっただろ? 1に『情報』さ。おぉ、ルイ・マルロー! ルナの天使! あたしはルナで、あの子の舞台は全部観た。映画も、手に入るかぎりのヴィデオを集めた。事故死したと聞いたときの絶望感が、あんたたちにわかるかい? そして、実際は生きているけど、再起不能なのだ、と聞かされたときは? あの子が舞台に立てないなら、きっと死んでいた方が幸せだっただろうと、あたしは思ったね」

「待ってよ!」

 マチアスは叫んだ。枯れていた喉が裂けてしまいそうな声だった。

 うっとりとしゃべり続けていたアビリーンが、我に帰った顔でマチアスを見た。

「どうして? どういうこと? 半年? 遊んでいてもいい? 金? 契約? ルイを何だと思ってるのさ! おまけに……ルイと別れてくれたら、だって? ルイはぼくのものだ。ぼくのナヴィだ。ルイはこの船に乗りたくて、この船に乗るために一年の間……きっと苦しかったのに……不安だったはずなのに……それなのに……。いい? 銀河中の国を買えるほどの金を積まれても、ルイは売らない。ルイは商品じゃない。絶対に渡さない!」

「……」

 アビリーンは、唖然としている。

 マチアスは一歩踏み出し、

「あなただな? いったいどうやってルイをだましたの? どんな方法で、ルイに、心にもないことをいわせたの? 『さようなら』なんて、ルイが、ルイがぼくらにいうはずのない言葉を、どうやっていわせたの? 脅したの? 暴力? ルイに何かしたら、生きてここから出さないんだから……」

「お、おい、ちょ……」

「ルイを返してよ! どこに隠したの!?」

「ま、待って……」

「ぼくは……」

「待てといってるだろうが!!」

 アビリーンが、手にしたままだったカップをテーブルに叩きつけた。

 カップが激しく割れる。その音にマチアスは口を閉ざし、アビリーン自身も体をすくめていた。

 その後つづいた静寂の中、リックがマチアスに歩み寄り、腕をつかんでそばの椅子にかけさせた。

 アビリーンは、窓ガラスを割って叱られた小学生のように、黙りこくってカップの破片を拾い集めはじめた。

 ドアが開いた。

 リックもマチアスも、そちらを顧みた。

 アビリーンも顔を上げた。

 いきなり注目されて、バーノンは開いたドアの前で立ちすくみ、

「ど、どこにも、いないのよ、お姉さま」

「らしいね」アビリーンは溜め息をつく。「どうやら、ルイはどっかに行っちまったらしい」

「ま……」

 バーノンがぽかんと口を開けたとき、コンソールで発信音が上がった。

「電話だ」

 いちばん近くにいたリックが、コンソールに飛びついた。




「ルイ? ルイなんだろ?」

 無言のままの相手に、マチアスがそういった。先に電話を受けたリックを、脇に押しのけていた。

 息を詰める気配が届いたように、マチアスには思えた。

「ルイ? わかるよね? ぼく……」

 コンソールにしがみつくようにして、ひそやかに話しかけるマチアスの想いを遮るように、通話はだしぬけに切られてしまった。

 マチアスは、傍らのリックを見た。

 リックのまなざしは、マチアスに向けられていた。

「リック。ルイだよ、絶対にルイだ」

「……ああ」

「どうしたんだろう、いったい」

 電話をかけることができても、声を出せない状況……。

 おそらく、ルイはまだこの街にいる。

 しかし、助けを求めるなら、他に方法があるはずだ。ブレスレットを使ってもいい。タシケントにいるなら、信号は容易に届く。発信源を追うこともできる。

「電話をかけられるのに、ブレスレットも使えないって、どういう状況なんだろう」

 マチアスはうつむいて、自分の胸に落とすようにつぶやいた。

 取り残され、所在なさそうなアビリーンとバーノンが、互いの顔を見ている。それから、アビリーンは軽く咳払いをして、

「ルイは消えちまった……か」

 マチアスが、アビリーンの前に歩み寄った。もう激昂の跡は消えていて、その表情は冷たすぎるほどだ。

「アビリーン? あなたがルイをどうするつもりだったのか、話してくれない?」

「う……」

 アビリーンは硬いものを噛み締めているような顔で、リビングルームの椅子の中でいちばん背もたれの高いものに歩いた。椅子と同じ形になろうとしているように、そのしなやかな背中を伸ばして、

「あたしはプロデューサーとして、タシケントで……ううん、この南銀河で五本の指に入ると思うわ。これといって資源もないタシケントでは、映画が重要な産業なの。とはいえ、これは……そう、5年後の台詞ね。タシケントは小さな国だし、すべてがまだ赤ん坊同然よ。とにかく、売れる映画を作ることがあたしの仕事だし、そんなあたしの耳には、ルイ・マルローの消息だってちゃんと入ってくるのよ。もっとも、あたしにその情報が届いたのは、この船からだけどね」

「どういう意味?」

「あんたたちが助けてタシケントに運んできた男……」

「え……あの、アンデルっておじさん? 映画好きの」

「そうそう。ビリー・アンデル。彼は、ゴビーのダンナ……俳優養成学校の校長なんだけどね、そのゴビーの秘書なのさ。そこまで詳しく調書は取らなかったと思うけどね」

「……」

「彼がこの船からあたしに電報を打ってきた。『ルイ・マルローが生きてるってのは本当でした。私は彼に救助され、まさに今、同じ船でタシケントに向かっています』って……目を疑ったけどね」

 マチアスが眉を寄せた。

「わかった」

「へ?」

「それで、ぼくらの船がタシケントに降りるのを待って、ルイを誘い出したんだ」

「違う」

「でもルイは、タシケントに降りると同時に『正式な休暇願い』を出して、どこかへ行ったんだ」

「だから、そこがもう予定外なんだってば」

 あぁ、もう、まったく、と、アビリーンは口の中でつけ加えた。

「予定外?」

「ビリーがジャンのレストランであんたたちとあたしを接触させるよう、お膳立てしたのさ。まずルイの仲間を……あんたたちを、だよ……こっちの味方につけなくちゃって思ってね。ビリーからあんたたちのことを聞いて、どういう手を使おうか、考えてみたんだけどね。ま、力ずくってのは無理そうだとわかったし、女の子を餌にするのも通用しないみたいだし……」

 そういって、アビリーンはリックを見、マチアスを見た。

 リックは首をすくめ、マチアスは頬をふくらませた。

「ところが、肝心のルイが消えちまってたとはね、まぬけな話だよ。ルイは、行き先もいわずに出かけたのかい?」

「そうだよ」

 ひっそりと秘密めいたその行動に、マチアスはいらだっていたのだ。普通なら、行き先も理由もいって、「じゃ、いってきます」と笑顔を残して出かけてゆくはずなのに。そのうえ、『楽しかった。ありがとう』だ。

「ルイはタシケントにいる」

 ぽつりと、リックがいった。

 マチアスの瞳がリックに向く。アビリーンもリックを見、バーノンもリックを見つめた。

 リックはコンソールのそばで腕組みし、その瞳を青く消えたきりのスクリーンに向けたまま、

「アビリーンがルイを知っていたように、ルイもこの星の誰かを知っていて、会いにいったのかもしれない」

「だとしたら、捜せないね」

「……」

「この国には、警官よりヤクザより、俳優の数が多いんだ。映画立国タシケントは、映画産業従事者は税金も安いし審査も甘いわけだ。直接間接あわせたら、ルイが知っている、ルイを知っている人間は、この星には……」

「星の数ほどいるってことか」

 マチアスは首をすくめ、静かにターンしてドアに向かった。

「どうする気?」

 アビリーンの声に足を止め、

「朝食を作る」

「……」

「食べてく? 毒を盛ったりはしないよ」

「じゃ……」

「じかに殴り倒したい気分だからね」




 上着を脱ぎ、シャツのカフスを折りあげて、手伝うわ、とバーノンがマチアスを追っていった。

 4人分の朝食を作るくらい、マチアスにとっては『朝飯前』だったが、リックはあえて引き止めなかった。

 とはいえ、アビリーンとふたりきりになりたかったわけではない。

 ふたりきりになってしまうことには、バーノンが出ていくまで気づかなかった。

 取り残され、戸惑い、リックも急いで部屋を出ようとした。とりあえず、アビリーンと一緒にリビングルームにいる必然性はない。

 背を向けかけるリックを、アビリーンが小さく呼び止めた。

 振り返るリックに、アビリーンは手を上げた。

「これ……どうすればいい?」

 カップのかけらだった。

 集めたまま、ずっと持っていたのだ。

 リックは歩み寄り、手を差し出した。

「貸せよ」

「……」

 アビリーンが、黙って従う。

 砕けたカップを受け取ったリックは、彼女が怪我をしていることに気づいた。

「血」

「え?」

「切ってる」

「何ですって?」

「手」

 リックはアビリーンの手をつかんだ。傷口を上に向けようとすると、アビリーンが喉でうめいた。

「痛むのか?」

「傷の方じゃない。さっき、突き指したんだ、ゲートのとこで」

「……」

「あんたが邪険にゲートを締めちまったからだよ」

 実際は、リックのせいとはいえない。ゲートは自動的に閉まるし、見境なく深追いしようとしたアビリーン自身のミスだ。

 しかし、

「待ってろ。動かすなよ」

 リックは厳しい口調で言い置いて、リビングルームを早足に出ていった。



 突き指と切り傷を手当てする間、リックはひとこともしゃべらなかった。

 アビリーンの顔を、いや、その椅子の脚さえも見ようとしなかった。

 このアビリーン・リュデリッツに対して、ずいぶん失礼な子じゃないか……と、他のときなら腹も立ったにちがいない。だが、アビリーンは怒ることができなかった。傷ついた手を、リックは自分の手にのせている。病気の小鳥でも手当てしているように、その手の動きは真摯で優しい。手だけは、『リック』ではないような気さえした。

 リックは手当てをすませると、

「欠けた爪はどうにもできない」

 といって、顔を上げた。

 いきなり目があって、アビリーンはとりあえず顎を突き出した。

「いいもんだね」

「……」

「美少年が足元にひざまずいてる図ってのは」

「び……何だって?」

 リックはどうでもよさそうに救急キットを片づけ、アビリーンのそばを離れる。それから、ひとりごとのように、

「いつもなら、これはルイの仕事だ。あいつの方が手際がいい」

「へぇ……あのルイ・マルローがね」

「そのルイ・マルローかどうかは知らないぜ」

 リックが眉を寄せる。

 キットをリビングテーブルに置き、その脇に軽く腰を乗せた。

 アビリーンはうなずいて、

「そうだね。あたしは今のルイを知らない。わかってるのは、ルイが傷跡ひとつない美形のままで、この船ではジプシーだったってことだけだ。ゴビーのダンナのオフィスでビリーはいってたよ、ルイがジプシーの役を演じている立体映画の中に入ったみたいだったって」

「ルイは、この船以外でもジプシーだ」

「どうかな」

「何?」

「休暇願いは自分で出したんだろ? 帰ってこないのには、それなりの理由があるのかもしれないよ。マチアスは、帰りたくても帰れない状況だって思ってるようだけどね」

「どういう意味だ?」

「お別れをいいだせないでいるだけかもしれないってことさ」

「……」

「わかるよ。お互い、遊び半分でしてきた仕事じゃない。ルイだって……」

「そんなはずない」

 リックが遮る。

 その声の鋭さに、アビリーンは唇を引き結んだ。

「あんたは知らないんだ。あいつが、この船に乗るためにどれほど……努力したか」

「そりゃ、努力したろうさ。いってるだろ、遊び半分じゃないって。だけど、過去が消えたわけじゃない。ルイは、そりゃ魅力的な俳優だったし、その仕事も愛してたはずだ。その頃の気持ちがよみがえったとしても、不思議とは思えないね」

「ジプシーの仕事より、役者に戻ることを選ぶ……?」

 体のどこかが痛むように、リックが眉根を寄せた。その声も、溜め息のようだった。

 アビリーンは椅子から立ち上がると、

「聞き捨てならないね」

 低く、そういった。

 リックがアビリーンの瞳に目をあてると、

「思いあがってんじゃないのかい? ジプシーの仕事は崇高なもので、映画は単なる娯楽に過ぎないって」

「え……」

「あたしのまわりにもいたけどね、映画に財産をつぎこむくらいなら、老人病院でも建てた方が世のためだ、とかさ」

「おれは別に……」

 鼻白んだようにいいかけるリックに、アビリーンは一歩踏み出して、

「違うね。俳優よりもジプシーの方が立派だ、そういいたいのさ。あんたの心の中にはあるんだよ、娯楽映画を作るより人命救助の方が『上』だって考えがね。自分が『下』に見られたときだけさ、職業に貴賎なし、なんて建前を持ち出すのは」

「……」

「見損なったよ! そんなヤツの自己満足のために手当てさせる傷なんか持っちゃいないね!」

「……」

 リックは唇を引き結んで、テーブルから降りた。手の包帯をもどかしげにむしり取るアビリーンに背を向け、リビングルームを出ていこうとした。

 が、ドアを開ける前に足を止め、目を伏せたまま振り返った。

 ゆっくりとその瞳を上げて、

「悪かった」

 と、いった。

 リックの声は静かなものだったが、矢のようにまっすぐにアビリーンの胸に刺さった。

 なおもまくしたてようとしていたアビリーンも、続く言葉をなくしてしまった。床に叩きつけようとしていた包帯が、力なく舞い落ちた。口の中で未練がましくうなりながら、アビリーンは、自分を見つめてくるリックのまなざしを見ていた。

 リックが、アビリーンのそばに戻る。

 新しい包帯を手にアビリーンの足もとにひざまずくと、一から、その手当てをやり直した。

 ほうけたようにリックを見下ろしたまま、アビリーンは少しの間、何もいえずにいた。

 リックが、アビリーンの手に向けて、ひとりごとのようにいった。

「そういうつもりじゃなかった。でも……そう思っていたのかもしれない。おれにとっては、この仕事が何よりも『上』だから」

「リック……」

「不愉快にさせたなら、謝る」

「あ……うう……」

「でも、ルイは……」

「ん?」

 手当てを終えて立ち上がると、アビリーンの瞳の奥を挑むように見つめて、リックはいった。

「でも、ルイは、こんなやり方でこの仕事を捨てたりはしないと思う」

「そうだな。そんな子じゃないはずだ。となれば……」

「となれば……?」

 アビリーンはニヤッと笑ってみせて、

「どうだい? 先に見つけた方が、ルイを手に入れる……」

「そんな……」

「ジョークジョーク! でも、交渉の余地は残してほしいもんだね。ルイがもし、あたしを選んだら、そのときは恨みっこなし。どう?」

 リックはあきれてでもいるような表情でアビリーンを見つめ返していたが、やがて軽く首をすくめて、

「わかった。とにかくルイを捜す」

 リックがリビングルームを出てゆく。

 アビリーンはそこに立ったまま、その後ろ姿を見送った。欠けた爪を唇にあて、つぶやいた。

「気に食わないね……まったく」



10


 過去の時代を描いた映画でしか見ることができないような電話機が、ルイの前に置かれている。

 電話機の上には金属の大きなボタンが並び、そこに数字と記号が刻まれている。

 順番にナンバーを押していけば、通じる。

 その先にふたりがいる。

 声を聞くことができる。 

 だから、それだけは、決して、したくない。

 彼らの声を耳にすれば、どうなるか、ルイにはわかっている。

 だから、決して、聞きたくないのだ。


★★★


 ルイを捜す。

 リックは、自分自身の言葉を虚しく思い返していた。

 リビングルームを出ても、その先へ一歩も進めなかった。

 むろん、『捜す』。

 そのつもりだ。

 でも、今どう動けばいいのか、わからない。

 タシケントのことを知らない。アビリーンについても知らない。

 そして何より、ルイのことを知らない、そのことに初めて気づいたのだ。

 ルイは、リックとマチアスを追ってジプシーになった。

 そのことを聞かされたのは、ルイ自身からではなかった。ルイは、そんなことを口にする少年ではなかった。

 ジプシーになってから、ルイがそらで傷ついたことは幾度となくあった。リックが見た涙の数より、隠した涙の方がずっと多いに違いない。

 ルイが涙以外に何を心に隠しているのか、リックにはわからない。

 知ろうとしたこともない。

 ルイがその荷を抱えきれなくなれば、いつでも肩代わりしただろう。ルイが泣けば、慰める方法を探す。でも、隠した涙は拭ってやれない。ルイがほほえんでいる間は、リックにはその胸の内は読めない。たとえ明日別れるつもりでもいても、今日のルイがいつもの笑顔を見せるなら、そんな明日を想像することはできないのだ。

 そして、そうやって隠せるなら、確かにルイは『役者』なのだ。

『今までありがとう。とっても楽しかった』

 そんな言葉を残してルイがこの船を去っても、それはルイの選択だ。

 不備のない正式な休暇願いを受け取らざるをえないように、リックにルイを止める方法はない。

 アビリーンの声が、耳から離れなかった。

『あんたの心の中にはあるのさ、人命救助の方が上だって考えがね』

 ルイが俳優『なんかに』戻るはずはないと、おれは信じている……?

 リックは、深いところからあふれてくる溜め息を押し殺した。

 自分に言い聞かせるように、胸でつぶやいた。

 ルイは、何だって選ぶことができる。

 ルイ自身の意思で、どの道を選ぶこともできるのだ。

 銀河市民は職業選択の自由を有し、その職業に貴賎はない。



 コンソールで発信音が上がった。

 スクリーンが明るいブルーに代わり、いくつかのキーが光った。

 ただひとりリビングルームにいたアビリーンはコンソールに駆け寄ったが、鳴り続ける音と点滅する光に音をあげた。どこをどう操作すればいいか、わからなかった。

 コンソールに悪態をつき、リックを呼ぼうとドアに駆け寄ったとき、そのドアが開いた。リックが大股に入ってきた。衝突に備えてアビリーンは思わず堅く目をつぶったが、気がつくとリックに腕をつかまれ、脇に振り出されていた。

 目を開けるアビリーンの鼻先を、もうひとつの影が駆け抜けていった。

 マチアスだった。

 マチアスは駆け込んできた勢いのまま、リックとほぼ同時にコンソールにたどり着いた。実際、点滅するキーに触れたのは、マチアスの方だった。

 しかし、スクリーンに変化はなかった。

 スピーカーからも、言葉は聞こえてこなかった。

 リックとマチアスは一瞬目を見交わし、マチアスの方がコンソールに顔を寄せるようにして、

「ルイ? ルイなんだろ?」

『……』

「今、クロワッサンを焼いてる。ルイ? 朝食、もうすませた? 今朝はね、変な助手がいるんだ。おまえの代わりに……」

『……』

「ルイ、ルイだよね?」

 また、一方的に切られた。

 スクリーンが暗くなり、マチアスが悲しげにかぶりを振った。

 マチアスはコンソールから後ずさり、リックがなだめるようにマチアスの少しもつれた前髪を弾いた。

「泣いてる」

 マチアスがつぶやく。

 リックの手がそっと、その腕をとらえる。

 リックに支えられて立ったまま、マチアスはくりかえした。

「ルイが泣いてる。ぼくにはわかるんだ」



11


『事情はわかりました。私にも責任があるのかもしれない』

 スクリーンの中で、ヒゲ面の男がいった。

「ゴビーのダンナも人使いが荒いね。事故から救い出されて帰った途端、もう出張だって?」

『ルナまでね。あと15分で、ワープインですわ』

「ご苦労さん」

 アビリーンはいった。コンソールの前に置かれた椅子にかけている。脚を組み直した。

 壁際に並んだプリンターから、ひっきりなしに用紙が吐き出されてくる。ネクタイをゆるめたバーノンが、あちらからこちらへ、踊るように移動しながら、情報を整理している。

 アビリーンが今関わっている映画は、8本。そのうち6本は順調に進行中だ。

「ルイさえ手に入れば、残りのうちの一本は、GOサインが出る」

 電話中でありながら、誰にともない口調でアビリーンがいった。

 ホワイトネビュラとかいう宇宙船のコンソールと違って、アビリーンのオフィスの電話は単なる電話だった。通話方法にまごつくこともない。

 スクリーンの向こうにいるのは、ビリー・アンデル。

 契約だ、連絡だ、送迎だ、と日々走りまわっている男だ。今は、太陽系への直行便に乗っている。髪もヒゲも眉も黒いが、そこらじゅうに白い毛が混ざっていて、模様のように見える。瞳も黒い。今日は、着ている服まで黒に近いグレーだった。

 スクリーンの中で、ビリーは顎をもみながら、

『でも、特別、話はしなかったように思えますねぇ。ルイの方から、誰それは元気ですかというような言葉はなかったし、映画の話そのものもしませんでしたよ、ほとんど。映画についちゃ、パイロットのマチアスの方が詳しかった。彼、〈赤毛のマリガン〉も〈イノセント・ウーマン〉も観てるんです』

「そりゃ、うれしいね」

『でしょ? だから、マチアスと話す方が多かったくらいです。手があいてるときはルイもそばにいて、にこにこしながら聞いてたな。ほんと、夢のようでしたよ。舞台やスクリーンで見てもきれいだが、間近で見てもきれいなんだ。透き通るみたいだった。〈ネプチューン〉、オットーが無理なら、ぜひルイで撮りたいですよね』

 うなずきかけ、アビリーンはふと声を落として、

「その話、したかい?」

『〈ネプチューン〉を撮る話、ですか?』

「ああ。ルイに」

『いいえ。〈ネプチューン〉の話をマチアスとしたときにその場にいたと思いますけど、あなたがオットーの代わりにルイを、と考えてるなんて、あのときは知りませんでしたからね。半世紀ぶりに〈ネプチューン〉をリメイクするって話だったけど、主演のオットー・ローゼンハイムが引退して、企画が宙に浮いちゃってね、みたいな話はしました。その程度なら、タシケントの新聞に出てるから、市民として不自然じゃないですよね?』

「うーん。じゃ、具体的に名前が出たのは、いくつかの映画と、オットーの名くらいなわけだね」

『そうですね。その中から、ルイが誰かを思いだして、ひそかに会いにいった……?』

「見当がつかないね。オットーはタシケントを出ていったんだから、会いにいこうと思っても行けないし」

『それに……』

「何だい?」

『あのジプシーの船で、ルイは仲間とその……うまくやってました、仲良くね。こりゃ、かなり押さないと映画に出る気にはならないだろうなと思いましたからね』

「そんなルイ・マルローが消えるはずない、か?」

『そういうことです』

「気に食わないね」

 アビリーンがうめくと、ビリー・アンデルはその黒い瞳を細めた。妹でも見るように、ほほえんだのだ。

 アビリーンは溜め息を隠さず、

「あんたのいったとおりだった」

『何がです?』

「あのリックって子さ」

『てこずってますか?』

「悔しいけどね。本当に、何があっても平然としてる。女の話には乗ってこなかったし、暴力にも平気。なだめても、脅しても、効きそうにない」

『ふむ』

「ま、逆にいえば、リックの方はルイをあっさり手放すかもしれないってことだ。未練なく、さ。マチアスの方は気持ちはわかりやすいが、抵抗も強いかもしれないな」

 どうでしょうねぇ、とビリーが笑った。

 どういう意味だい? そう聞こうとしたとき、

『おや、青ランプだ。ワープインです。ひとまず切ります』

 ビリーがいって、スクリーンは青っぽいグレーに変わった。

 アビリーンは脚を組み替えながら、しばらくの間思案した。

 それから一件、電話をかけた。

『はい』

 老婦人の小さな顔が、画面に現われた。

 アビリーンは口の端で笑ってみせ、

「ご無沙汰してます。マダムはお元気?」

『マダムは、お元気です』

 古いロボットのように、老婦人はおうむがえしする。

「ね、ちょっとお聞きしたいんだけど、最近、若い男の子がオットーを訪ねてきたり、オットーのことを問い合わせてきたりってこと、なかったかしら?」

『存じません』

「マダムは? 直接お話できないかしら」

『できません』

「薔薇園に出てらっしゃるの?」

『マダムの薔薇園ですから』

「そうね。けっこう。ごめんあそばせ」

 通話を切ると同時に、背後にバーノンが立った。

「お姉さま、鳥肌が立ってる」

 そういって、むきだしの腕をなぜてくれる。

 アビリーンは短く溜め息をつき、

「オットーが出ていきたくなる気持ちはわかるわ。あの陰気なお屋敷からね」

「だからって、タシケントを捨てることもないのにね。オットーの〈ネプチューン〉は、度胆を抜く美しさだったでしょうに」

 バーノンがうっとりとした目を、暗いTELスクリーンに向けた。


★★★


「ね、また電話をかけましょうよ」

 そうささやかれても、ルイは応えることを拒んだ。

 ささやきはそよ風のような笑い声に変わり、

「あなたの涙を見たいわ」

「……」

「ね、電話しましょう。泣き顔が見たいのよ。大丈夫、涙は、ママが拭ってあげますからね」

 ママじゃない。

 ママなんかじゃない。

 動きたい。

 ここから出たい。

 心では叫び続けているが、ひとことも発することができなかった。

 ありがとう、と電報を打った。

 動けないぼくを待たずに旅立ってほしい、そんな思いを込めたつもりだが、本当はそうではなかった。諦めずに捜してほしい。「ばかにするな!」と叱るためだけでもいいから、ぼくを捜してほしい。もう一度生きてふたりに会えるなら、叱られて、蔑まれて、それきり見放されるのでもかまわない。

 ふたりを愛している。だから、追いかけてきた。しかし、引き離されるまで、気づいていなかった。こんなにも愛していることを。同じ船で飛び、すぐそばで暮らすうち、離れていたとき以上に想いは深まっていたのだ。

 この叫びを叫ぶことができたら……。

 まるで、人魚姫の物語だ。

 荒れた海で助けた王子に恋をした人魚姫は、魔法の助けを借りる。王子のもとへゆくために、足を得て、声を失うのだ。愛する王子に愛を語る術を。

 リックとマチアスのそばにゆくために、俳優としての『ルイ・マルロー』を消したルイは今、現実に声まで失ってしまった。

 リック、会いたい。

 マチアス、助けて。

「まぁ、涙だわ。いい子いい子、泣かないのよ」

 幸福そうな声がそういった。冷たい指先が、ルイの頬を滑っていった。



12


 ホワイトネビュラ号に戻ったアビリーンとバーノンは、今度は礼儀正しく船内に入った。

 リックとマチアスも、ふたりを客として扱った。

 少なくともマチアスは自分でコーヒーを入れたし、リックも軽く首をすくめはしたが、追い出そうとはしなかった。

 それぞれ好きな椅子にかけ、一杯目のコーヒーを飲んでから、アビリーンがいった。

「ビリーとも話したが、やっぱりわからないね。ルイが何を思って、タシケントの街に出ていったのか。シティをさ迷ってるんじゃないといいけどね」

「〈ネプチューン〉みたいに……」

 バーノンがつぶやいた。

 マチアスがバーノンを見、リックが不審げに、

「ネプチューン?」

 アビリーンは短い溜め息のように笑った。

「リメイク予定の映画さ。主役が降りたので、クランクインできないままだ」

 マチアスが、手にしていたコーヒーカップをテーブルに置いた。

「それ、まさか、ルイに……?」

「そうだよ」

「なんてこと! ぼく、オリジナル、全部観たんだよ。シネマ・スクエアでも空にかかってた。ネプチューンって……」

 そこでリックを見、謎に包まれた美貌のジゴロ、といった。

 リックが眉をひそめ、アビリーンは明るい声で、

「ルイ・マルローの再デビューには、持って来いじゃないか」

「や、やだよ。ベ、ベッドシーンが、いくつもあるじゃない」

「マチアス、照れてるの?」

「て、照れてるんじゃないよ。主役が降りたのは、そのせいじゃないの?」

「オットーはそんな子じゃない。初めての汚れ役に乗り気だった。美しいだけの人形役者といわれるのをいやがってたんだ」

「……」

「実際、ローゼンハイムの御曹司とは思えないような、枯れた目をした子だった」

「ローゼンハイム……」

 ぽつりと、リックがいった。

 アビリーンは鋭く反応し、

「心当たり、あるの? ルイの口から出たとか」

「いや……どこかで見たと思って……」

 リックは目を伏せて、彼の中の記憶をサーチしている。

 アビリーンはリックを見つめたまま、

「タシケントの街で見たんだろうね。ローゼンハイムはリュデリッツと並んで、タシケントでいちばん古い家のひとつだ。開拓者の子孫ってやつさ。タシケントが王国なら、間違いなく国王の一族ってことになるけど……ローゼンハイム家は代々、政治的手腕より芸術に秀でた家系だから、表立ったところには出てこない」

「リュデリッツ家も、何かに秀でてるの?」

 胡散臭そうに、マチアスが問いかける。

 アビリーンは悪戯っぽく、

「経済」

「それがどうして、映画?」

「映画は産業だ」

「芸術じゃなく?」

「芸術でもある」

「それで、芸術に秀でていたローゼンハイムの令息が俳優だったわけか」

「まぁ、そうだ。でも、ローゼンハイムは結局没落した。代々仕えた使用人も、今や最後のひとりだ。ローゼンハイムは芸術を産業にできなかったんだ。映画は、人を養える。俳優や製作者だけじゃなく、広報や興行関係者、クラウドスクリーンの技術者や、専用イヤフォンの開発者。タシケント中にある撮影スタジオの建設業者や、スタッフ用の料理人。数えきれない人間が、この星で映画に関わっている。そして、作品は輸出もできる。早い話、薔薇を育てても売らないってとこが、違うのさ」

「薔薇?」

「旅先で夫が消えて以来、今の当主は女性でね、マダム・ローゼンハイムは薔薇作りの名手だ」

「薔薇……」

 小さく弾けるように、リックがつぶやいた。

「リック?」

 マチアスがいぶかしげに、リックを顧みる。

「そうだ、ローゼンハイム・ブルー」

 アビリーンがうなずいた。

「ああ、薔薇園で見たんだね。あそこも、マダムのものだよ」

「マチアスが刺した」

「痛かったろ、あの花びら」

 アビリーンはほほえむ瞳でマチアスを見たが、

「ブルーなのになぜ赤いのかと思ったから、名前を覚えてる」

 というリックの言葉に、再びそちらをふりかえった。

 リックは目を上げていて、ぴたりと視線があった。

 アビリーンは、引き寄せられるようにリックのセピアの瞳を見つめたまま、

「赤じゃない。ローゼンハイム・ブルーは、鉄みたいに青いんだよ」

「赤だった」

「見間違いだよ、夜中だったろ? とにかく、そのローゼンハイムだ。ビリーが乗っていたとき話に出た人名はそのくらいだね。あとは映画……だが、ルイが何かを思い出したり、思いついたりしても、それはわからないわけだ、ルイ自身以外にはね」

 リックは自分のコーヒーを飲みほすと、コンソールの方に顔を向けた。

「無駄かもしれないが、電話は発信源を逆探知するようにセットした。タシケント警察にも届けた。係留も延長した。初めて降りた星だ、闇雲に捜しまわることはできない。だが……」

「何だい?」

 つりこまれるように、アビリーンがいう。

 リックはアビリーンを顧みた。

「いつまでもここにいるわけにはいかない。要請が来てる。こうしている間にも、隕石流に遭遇している船がいるはずだ。こんなに近くにいて、何もしないでいることはできない」

「ルイ抜きで、出かける気かい?」

 アビリーンの言葉に、マチアスが不安げにリックを見つめた。

 リックは誰も見ずにいった。

「おれにはおれの任務がある」

「リックのばか!」

 マチアスは椅子から飛びたつようにして、リビングルームを出ていった。

 それでも、リックは誰も見なかった。



 バーノンもリビングルームを出ていってしまったので、またリックとアビリーンがふたりで取り残された。しばらくはどちらも動かなかった。やがて、

「やっぱり」

 と、アビリーンがいった。

 リックは伏せていた目を上げたが、アビリーンを見なかった。

「あんたは、冷たいのか……」

「さぁな」

「……」

「おれはジプシーだ。ジプシーになりたくて、ジプシーになった。すべきことは決まってる。それはマチアスも同じだ」

「ルイを置いて、飛び立てるかね、マチアスが?」

「マチアスも、ジプシーだ」

「けどね……」

「あいつがいつ、どうやって立ち直るかは、あいつの問題だ」

「クールだね、呆れるほど」

 アビリーンがつぶやいたとき、コンソールが鳴った。

 アビリーンはぎょっと身をすくめ、リックが素早くコンソールに飛んだ。

 しかしそれは、ルイからの電話ではなかった。



13


「ぼくさ……怖いんだよ」

 マチアスはいった。キッチンテーブルに、頬杖をついたまま。

 そのテーブルに寄りかかって、少しネクタイをゆるめたバーノン・リュデリッツは、柔らかなまなざしでマチアスを見下ろしている。

 レンジの上では、深鍋がほのかに湯気をたてていた。

「リックって、ああいうやつだもん。簡単にルイを諦めちゃいそうで、怖いんだ」

「タシケントに置いて、仕事に戻っちゃう?」

「やりそうに見えるだろ?」

「そう……かしらねぇ」

 バーノンの瞳は、からかうようにマチアスを見つめている。それを見あげたマチアスは、顔をしかめた。

「バーノンも、ルイのファン?」

「もちろんよ」

「そうだよね、ルイはとびきりきれいだし」

「あら、私、これでも人を見る目はあるのよ。きれいなだけなら、惚れないわ」

 そういって自分の腕を抱き締めるバーノンに、マチアスはかすかに笑った。

「そうか。ぼくら、気が合うんだ」

「光栄だわ」

 バーノンが照れている。本心らしい。

 マチアスは、バーノンのウィンクに鼻に寄せたシワで応えてから、

「ルイが事故にあったとき……リックとぼくは実習に出てたんだ。ルイの目の前でルイのママが亡くなった。ぼくらもそれを見てた。あの事故で、俳優のルイ・マルローは本当に死んだんだと思う。それはルイの選択で……それでルイが幸せかどうか、ぼくにはまだわからないけど」

「……」

「事故の一年後、リックとぼくはジプシーになった。士官学校出のナヴィが同じ船に乗ることになって……でも、しばらく、あの事故で会ったルイだって、気づけなかったんだ。だって、そらに来るなんて、考えてもいなかったもん。ね、バーノン、ルイはね、ぼくらを追ってきたんだよ。追いかけて、追いついて……こうして、同じ船で飛びはじめて……どうなったと思う?」

 バーノンは黙って、小さくかぶりを振った。

 マチアスはその緑の瞳を細めて、

「ぼくはルイのとりこになったんだ」

「まぁ」

「はじめは、想われてることがうれしかった。でも今は、想われてるだけじゃない。ぼくの大切な友人だ。ぼくのナヴィだ。なくせないんだ。ルイがもし俳優に戻ったら……何もかも、一からやり直しだ。ぼくの心も、白紙に戻さなくちゃいけない」

「……」

「問題は……リックが、いとも簡単に白紙に戻しちまいそうだってことなんだ。心配してるのはわかる。取り戻したいとも思ってるはずだよ。でも、もしだめだとわかったとき、リックはすぐに諦めるだろう。すぐに気持ちを切り替えて、仕事をこなすだろう。『ルイ、おまえが決めたことなら、おれには何もいえない』なんていって、それで終わりだ。ぼくには……できそうもないことだ」

 バーノンが腰を屈め、内緒話のようにいった。

「お姉さまを、恨んでる?」

「どうして?」

「ルイが見つかったら、お姉さまは自分のすべきことをするわ」

「アビリーンとバーノンも、古い家柄なんだ」

「そうね。ローゼンハイム家と違って、ずいぶん血筋が枝分かれしてるけど。まぁ、お姉さまが直系で、当主ってことになるのかしら」

「すごいじゃない」

「でも、貧乏よぉ。ぜーんぶ、映画につぎこんでるから」

「うれしそうだね」

「つまり、映画が好きなのよ」

「思い出した」

「え?」

「ビリー・アンデルも、そういう顔してたよ」

「そうね、私たち、基本的に映画馬鹿なのよ」

 バーノンは本当に幸福そうだ。

 マチアスは小さくいった。

「ルイも、映画、好きだよね」

「マチアス?」

「メインの仕事は舞台の方だったと思うけど、いくつも出てるよね、ルイって」

「お姉さまがすべきことをして、それでもし、ルイが〈ネプチューン〉にやりがいを感じたら……」

「ルイが女優にあんなことするの、いくら演技でも見たくないなぁ」

 バーノンはくすくす笑いをして、

「でも、オットーはそのせいで逃げたんじゃないのよ」

「若いの? その御曹司俳優」

「18だったかしら」

「美形?」

「モデル出身よ。きれいだった。中性的な魅力というのかしら。私みたいね」

「……ちょっと違うと思う」

 マチアスはつぶやき、それから、ようやくマチアスらしい笑顔を取り戻した。

 バーノンは夢見る瞳で、

「きれいだった。陰があった。これからの俳優だったのにね。ロマンスの噂もあってね、はじめは逃避行かなって、ゴシップにもなったわ。相手が身寄りのない新進女優だったせいもあって……」

「いわゆる、身分違いの恋?」

「オットーがタシケントを出ていってから、彼女もダメになってしまったわ。彼女がヒロインに決まっていた〈ホールド・アップ!〉って映画も、製作が進まないの。監督が彼女で撮りたいって、彼女が戻るのを待ってくれてるんだけどね。それと〈ネプチューン〉。この二本が、お姉さまの悩みのタネよ。他に抱えてる作品はうまくいってるもの。あぁ、アン・ラクスマン。今はどうしているのかしら……」

 そのとき、インターフォンが呼んだ。

『マチアス、リビングに上がってきてくれ』

「リック? 電話?」

 マチアスが飛ぶように立ち上がる。

『違う。客だ』

「客……」

 そこに、リックのそばにいるらしいアビリーンの声が割り込んだ。

『バーノン? 一緒かい? 来ておくれ。アン・ラクスマンだ』

 マチアスとバーノンは、顔を見合わせた。



14


 リビングルームに足を踏み入れた途端、マチアスは「あ!」と声を上げていた。

 シルエットだけで、わかったのだ。

 腰までの長さの、ふわふわと波打った髪。ほっそりした体が、ゆったりしたブラウスとロングスカートに包まれている。

 深夜の薔薇園で、幻のように見た影。

 彼女だ。

 タシケントを去った恋人の、母親の薔薇園。つながりがないとはいえない。

 アンは決して、美しいとはいえなかった。13の少女のようにあどけない顔だちで、目の下にはそばかすもあった。肌は青く見えるほど白く、髪は赤みがかったブロンドだ。

 カメラの前の彼女がどんな女優なのかまではわからないが、今は、演技とは思えないおどおどした目でジプシーの少年たちを見ている。

 マチアスがそっと椅子を勧めたが、なかなかかけようとしなかった。

 アビリーンが苛立って、

「いいから、さっさと腰掛けな」

 といい、アンは肩を縮めるようにして、椅子の縁に腰をのせた。

「オフィスに電話したら、こちらだとうかがったので……」

 細い声でいった。

 アビリーンは肩をすくめ、

「あんたのいいたいことはわかってる。『オットーが私を捨てるはずない』だろ? 〈クランクアップ〉の記事で読んだよ。〈スターレット〉の記者にも同じようなこと、しゃべってたね?」

 捨てられた女には興味ないんだと、アビリーンの目がいっている。

 それを見ないようにするためか、アンは顔を伏せたきりだ。

「違うんです」

「何が?」

「オットーは、殺されたんです」

「は?」

 アビリーンが呆けた。

 バーノンは目をしばたたかせ、リックとマチアスは戸惑って互いを見た。

 自分の声が届かなかったと思ったのか、アンが繰り返した。

「オットーは、殺されたんです」

「新説だね」

 アビリーンはいい、これ以上相手をしたくないという代わりに、アンに背を向けた。

 アンは顔を上げた。

「私、ずっと、ローゼンハイム邸を見張ってたんです! だって、オットーが私を捨てるはずないんですもの! オットーは殺されたのよ!」

「誰に?」

「マダム・ローゼンハイムに」

「母親に!」

「マダムはオットーを溺愛してたわ……」

「それは知ってる」

「私や映画に盗られたくなかったの。だから、邸を出ると宣言したオットーを、マダムは殺したんです! そして、薔薇園に埋めたのよ!」

 ふられ女の妄想につきあう暇はないね。こっちは今、それどころじゃないんだから。

 アビリーンは口の中でそういい、もっとはっきりとアンの言葉を塞ごうとした。

「いい加減に……」

 そのとき、電話が入った。

 アン以外の4人が緊張し、コンソールを振り返った。

 マチアスが飛びつく。

 スクリーンは青く光ったが、何も映らず、何も聞こえてこない。

 マチアスはそっと、

「ルイ? 電話、ありがと」

『……』

「早く、帰っておいで。そんなところで、泣いていないで」

『……』

「泣いてるんだろ? わかってるよ。ルイ、ここへおいで。おまえに会いたい。涙を拭ってあげたいよ」

『……』

「ルイ。そこ、どこ?」

 マチアスの声にかぶせるように、アンがヒステリックにいった。

「どうして私の話を聞いてくれないの! たいへんな事件なのに!」

「こっちもたいへんなんだ!!」

 アビリーンが一喝した。

 リックもマチアスも、コンソールから振り向かなかった。

 アンが押し黙った一瞬、かすれた声がスピーカーからこぼれた。

『ばら……』

 そして、通話は切れた。


★★★


 ルイは電話の前にいた。

 動きたくても、動くことはできなかった。

 応えることもできないまま、マチアスの声を聞くのは、拷問だ。

『電話、ありがと』

 と、マチアスはいった。

 心からの……優しい……甘い声だった。

 それだけで胸がいっぱいになった。

 泣きたくない。

 思いどおりになりたくない、これ以上。

 ルイは抵抗した。

 だが、

『おまえに会いたい。涙を拭ってあげたいよ』

 とマチアスがいったので、ルイの涙はあふれて頬にこぼれ落ちてしまったのだ。

 そのときだった。

 どうして私の話を聞いてくれないの!

 初めて聞く若い娘の声が、ルイの心を貫いた。

 ホワイトネビュラ号で、何が起こっているのだろう。どうしてぼくは、今あの船にいないのだろう。指先さえ自由に動かせず、人形のように座ったきり……。

 叫ぼうとした。

 左足に、不意に痛みが走った。

 その一瞬、バッテリーの切れかけた玩具が、最後の力をふりしぼるときのように、かすれた声がほとばしった。

「ばら……」

 それだけ。

 そこで、通話は切られてしまった。


★★★


 暗くなったスクリーンの前で、リックとマチアスは互いを見つめていた。

「薔薇?」

 マチアスがいぶかしげにつぶやいたとき、アンが立ち上がって拳を振った。

「信じて、アビリーン! オットーは、薔薇園の土の下よ! オットーの血を吸ったのよ! 真っ赤なローゼンハイム・ブルーが咲いてるわ!」



15


「絶対に信じないね、あたしは。たとえ、この薔薇が赤くても」

 くすんだ紅色のローゼンハイム・ブルーの花に囲まれて、アビリーンは繰り返した。

 リックとマチアスは株の根元にひざまずき、掌で土を探っている。

 柔らかな黒い用土が、どこまでも続いていた。

 まるで、土そのものが薔薇の香りを含んでいるようだった。しっとりとして、甘い匂いがした。

 空に、雲が湧きだしていた。

 タシケントの長い長い黄昏が、はじまろうとしていた。

 彼らの周囲には、赤いローゼンハイム・ブルーが咲き誇っていたが、根元の土に、アン・ラクスマンがいうような、死体を埋めた形跡は見当たらない。

 バーノンは腰を屈めて、不安そうに少年たちの手もとを見つめている。

 アビリーンは深く腕組みをしたまま、黒い土をハイヒールで踏みしめている。

 ローゼンハイム・ブルーの花の下に潜り込んでいるリックとマチアスは、すでに何か所も、花びらのトゲに傷つけられていた。

 リックの頬には斜めの浅い掻き傷があり、花びらよりも鮮やかな赤の血が、にじんでしずくになりかけていた。

 マチアスも、花をかきわけた腕に、数条の傷を負っている。

 しかしふたりは、傷をいとわなかった。

 まるで、どこかにルイが隠されているのだというように土を探り続けた。

 その姿を見つめているうち、アビリーンの苛立ちは募った。何かに負けたような気分だったが、敗北を認める気持ちにはなれなかった。

「気に食わないね。あたしは帰る」

「で、でも、お姉さま……」

「薔薇園はマダムのものだし、タシケントの薔薇は彼女のものだ。あの女は気にいらないし、屋敷も嫌いだが、殺しの疑いをかけるわけにはいかないだろ? それも、ふられたアン・ラクスマンの言葉を鵜呑みにしてさ」

 アビリーンは、その甲高い声にも顔を上げようとしないリックの横顔を見つめ、それからまわれ右をした。

「行くよ、バーノン!」

「でも、このまま……あら、いやぁん」

 アビリーンに伸ばしたバーノンの腕に、ローゼンハイム・ブルーがからみついた。そのトゲに、上着の袖口がかすれた悲鳴をあげて裂けた。

 アビリーンはふりかえり、弟の腕をつかむ。

「ほらね! こんなとこにいたって、いいことないんだよ」

 バーノンの袖から引き離したローゼンハイム・ブルーの枝を、アビリーンは高々とあげたハイヒールで踏みつけた。

 枝が土に沈み、株全体が傾いた。

 葉ずれの音が思いがけず盛大に鳴り、アビリーンはあわてて抱きとめようとした。花びらの先のトゲが顎をかすめた。痛みに舌打ちし、受け止めるのを放棄した。

 黒い土を振りまきながら、その株は根こそぎ倒れた。

 そして、そこに白い手。

 抜けていった根に追いすがるような形に伸ばした指が、硬直している。

 バーノンが、貴婦人のように悲鳴を上げた。

 薔薇の倒れる音に手を止めていたリックとマチアスが、立ち上がってそちらを見た。

 バーノンは、唸って仰向けに倒れる。

 一歩分リックより近くにいたマチアスが、その背中を受け止めた。

 マチアスの瞳は、黒い土から伸びた手に釘付けだ。

 アビリーンもその手を見つめたまま、そこに立ちすくんでいた。

 倒れたローゼンハイム・ブルーが足首を縦に傷つけていたが、にじみだす血を拭うこともできなかった。

「おれので悪いけど」

 リックがいって、ハンカチでアビリーンの足首を覆った。

 アビリーンは我に帰り、足元にひざまずいているリックを見た。

「リック……」

 呼びかけた途端、膝が抜けた。落ちるように崩れるアビリーンを、リックが抱きとめた。



16


 その屋敷の扉には、薔薇をかたどった紋章があった。

 黒ずんだ厚い木の扉は重たげに外に向けて開き、やせた老婦人が無表情に出迎えた。

「マダムは、お会いになりません」

 アビリーンは顎を突き出すようにして、

「オットーのことで、お聞きしたいことがあるのよ。通してくださらない?」

「マダムは、お会いになりません」

 老婦人の灰色の目が、アビリーンの足首に巻かれたままのハンカチと、ハイヒールについた黒い土を見つめる。

 アビリーンは唇を噛んで、肩ごしにリックを顧みた。

 リックはアビリーンにうなずき、扉の奥を見た。

 王族にも匹敵する家系だとアビリーンはいったが、中世の城を思わせる外観の屋敷も、中はがらんどうだった。調度らしい調度もなく、窓はないのに明かりも少ない。リックが今まで見たこういう屋敷には、手織りの絨緞やタペストリー、古代の遺跡からの出土品、当主の肖像画、複製ではない名画や彫刻、そういったものが当然のように並べられていた。玄関ホールにさえも、だ。

 ローゼンハイム邸のホールは広いが、埃っぽい匂いがするだけで、飾るものは何ひとつなかった。

 ホールの奥にある黒い手すりの階段を、ローズピンクの影が降りてきた。

「まぁ、ミス・リュデリッツ、お久しぶりね」

 舞台で歌うオペラ歌手のようだった。その声も、発声法もコロラチュラ・ソプラノ(玉を転がすような美声)だ。

 アビリーンはぐっと息をためてから、

「オットーに連絡を取りたいんです。あー、昨年の映画の件で……」

「昨年の?」

「えぇ、連絡先を、ご存じありませんか?」

「オットーは、帰ってきましたのよ」

「え……」

「ここで、私と暮らしておりますわ」

 いいながら、ローズピンクのドレスが歩み寄ってくる。

 老婦人は顔を伏せて脇に下がり、マダム・ローゼンハイムはアビリーンとリックの前に立った。

 彼女は若い娘のように見えた。唇はドレスと同じ色に染められ、ふっくらと結い上げたブルネットの髪にも薔薇のつぼみを差している。

「でも、オットーはもう、映画のお仕事はしませんの。ずっと、私のもとで暮らすと申しておりますわ」

「会わせていただけますか?」

 リックが静かにいった。

 マダム・ローゼンハイムの無邪気な瞳が、甘くほほえみながらリックを見つめる。

「ミスター・リュデリッツはご一緒じゃありませんのね」

 リックを見つめたまま、アビリーンにそういった。

 アビリーンはただ、うなずいた。

 バーノンは、薔薇園に置いてきた。マチアスが、失神したバーノンとともに、薔薇園で警察の到着を待っている。

「オットーは、会いませんわ」

「誰にも?」

「誰にも」

「アン・ラクスマンが訪ねてきても?」

「まぁ、それはどなたですの?」

「オットーの恋人です」

「ま! オットーはまだまだ、坊やですもの」

 薔薇色の唇が、軽やかな笑い声を上げた。



 ルイの髪を梳いている手を止めて、彼女は部屋を出ていった。

 ドアが半ば開いていて、どこか遠くの、今までにはなかった人の動きが感じられた。

 誰かが訪ねてきたのだろうか。

 声をあげれば、ぼくの存在に気づいてくれるだろうか。

 叫ぼうとした。

 しかし、かすれた息がもれるだけだ。

 ルイは、全身に力を込めた。

 左足が、また痛んだ。

 あのとき痛みを感じて以来、それは続いている。何かが刺さっているようだった。その痛みが、ルイの神経をつないでいるのだ。だが、足首から上は自由にならない。逃げ出すことはおろか、何かを動かして物音を立てるということもできそうにない。

 動かして……。

 痛みにさえ耐えれば、動かせるものがひとつだけある。

 人魚姫。

 声と引き替えにした足は、歩いても踊っても鋭く痛んだ。

 王子への愛のために得た、痛む足……。

 ルイは足の指で床を探った。

 ぬめる感触は、血だろうか。痛みをたぐりよせ、左足を感じ取る。

 踵をつけたまま、ルイは足の裏で床を叩いた。



 マダム・ローゼンハイムの笑い声がやむと、玄関ホールにもその音が伝わった。

 何かいいかけたアビリーンを、リックが手で制した。

 どうしたの? という目で振り返るアビリーンに、リックは片手を耳のそばに上げることで答えた。

 アビリーンも気づいたようだ。

 どこかで、何かを打つような音がする。

 音は鳴り、音は止む。音と音の感覚はごく短いときと、一拍以上あくときがある。

 マダム・ローゼンハイムも気づいた。

 困ったように、階段の上を見た。

 その視線の先を確かめると、リックは無言のまま駆け出した。

「どこ、行くの!」

 アビリーンの言葉に答えず、老婦人の非難の声も無視した。

 アビリーンが追う。ハイヒールから、乾きかけた土がはがれ落ちた。



 扉が半分開いていたので、すぐにわかった。

 吐き気がするような薔薇の濃い匂いが、暗い廊下に洩れ出ていた。

 ルイは椅子にかけていて、その前には小さなテーブル。古い形式の電話機が、その上にのっていた。

 室内の光はかすかでも、ルイは純白のローブを着ていたので、ほのかな光のようだった。

 そこは、薔薇園に似ていた。あるのはすべて切り花だが、無数の、色とりどりの薔薇がみずみずしく咲いている。

 そして、ルイ自身が新種の薔薇のようだった。薔薇に埋もれ、動かない美しい横顔。

 リックは少しの間、ルイを見つめて立ち尽くしていた。

 我に帰り、薔薇をかきわけて、ルイの前に駆け寄った。

 ローゼンハイム・ブルーがあった。夜明けのように青い花だった。指の付け根がその花びらのトゲに咬みとられた。

 ルイの瞳をのぞくために、腰を屈めた。

「ルイ」

 溜め息で呼んだ。

 ルイの見開かれた瞳が濡れる。

 その左足が小さく、新たなメッセージを打つ。

 それを聞き取って、リックはいった。

「あたりまえだ。おれはジプシーだぜ」

「……」

「救難信号を聞いて、駆けつけないはず、ないだろ」

 ルイの頬に、涙が転がる。

 リックは何かいいかけたが、唇を引き結んで、ルイの頬を指で拭った。

 ルイの白い頬に、リックの指から、血がこぼれた。

 真紅のしずくは、ルイのローブにもしたたり落ちた。

「ルイ……!」

 まるでルイが血を流しているのだというように、痛ましげに、リックはその背中に腕をまわした。まわして、堅く、抱き締めた。

「まぁ……!」

 遅れて駆け込んできたアビリーンが、薔薇に圧倒されたようにそこで足を止めた。

 薔薇に埋もれているルイと、ルイの髪に頬を埋めているリックの、目を閉じた横顔を見つめていた。

 エアカーの停る気配、いくつかの足音が、玄関の方から伝わってきた。



17


 目を開けると、柔らかな光が満ちていた。

 夢……?

 夢だったのだろうか。

 リックに瞳をのぞかれ、見つめ返した。リックの瞳はセピア色。どこまでも透きとおり、世界にたったひとつの宝石のような。

 リックの腕に包まれ、その力強い鼓動を聞いた。

 あれは夢だったの……?

「目が覚めた?」

 その声は優しくて、耳ではなく心にしみこんできた。

「マチアス?」

 呼んでみた。

 声が出た。

 唇に触れてみた。

 手が動いた。

「解毒剤、効いてるね。足の手当てもすんでるから。刺さってたんだよ、薔薇の花びらが」

 目を動かす。首をまわす。厚い布越しにものに触れているような頼りない感じは残っていたが、すべて可能だった。

 今、身を横たえているのは、ルイのキャビンの彼自身のベッドだった。

 壁のライトだけが金色にともっていて、マチアスの微笑を横から照らしている。

「オットー・ローゼンハイムを知ってたの?」

 マチアスが静かに問う。

 ルイはマチアスの瞳を探し、

「ううん。でも、彼はぼくを知っていた。あの事故で、ぼくも死んだといわれていることは、知らなかったのかもしれないけれど、事故の後、不思議な手紙をくれたんだ」

「手紙?」

「『いつか僕が、もし映画をやめたら、僕は母に殺されたと思ってほしい。誰もそれを知らないはずだから、君だけは知っていてほしい。母親を亡くした君を、うらやんでごめんなさい』」

「……」

「船で、オットーが映画の主演を降りたと聞いたとき、もしかしたら何かあったのかもしれないと思って、あの屋敷を訪ねた……」

「オットーは、予期してたのか」

「じゃ……本当に……」

 目を見張るルイに、マチアスが顛末を語った。

 アビリーンが見つけた手は、オットーの父親のものだった。防腐処理を施され、全裸で埋められていた。

「というか、夫の上に薔薇を植えたんだな、彼女は。何年も前に、旅に出て行方知れずってことになってたらしい」

「……」

「オットーも、すぐに見つかったよ」

「そう……」

「青いはずの、赤い薔薇の根元で……」

 ルイの青い瞳に、涙があふれている。

 マチアスは、それを見つめていた。

「彼女はルイを、オットーの代役にしたんだ。アビリーンが、そうしようとしたように。彼女は病んでいた。夫を愛していた。夫が去ろうとすると殺して埋めた。次は、オットーだ。彼女の愛はすべて、息子に注がれた。ときには薬の力も借りて、母親として、してはいけないこと……口には出せないようなこともしていたらしい。その薬が、糸口になったんだけど」

「……糸口?」

「ハイドランジアって、知ってる?」

 植えられた土によって、花の色を変える植物がある。

 たとえばハイドランジア(アジサイ)の花(正しくは萼)は土のpHの影響を受け、酸性土壌では青、中性やアルカリ性の土では赤紫になる。

 似たことが、ローゼンハイム・ブルーにも起こった。土の性質を変えたのは、オットーの体内から滲み出た薬物だった。

 まるで、その血を吸ったように赤く変化した、ローゼンハイム・ブルー。

 マチアスがそっと、手をルイのシーツにのせた。

「ルイ」

「はい」

「どうして、黙って出かけたの? 休暇願いなんか出して……」

「……」

「いってくれればよかったのに。もっと早く、おまえを救い出せたのに」

「オットーのこと、いえなかったんだ。映画俳優の友人に会いに行くと思われたくなかった。タシケントに着くまで、ミスター・アンデルがたくさん映画の話をしたでしょう? とても愉快だったよね? 昔が恋しくなったんだって、思われたくなかったんだ。本当に事件が起きているとは、考えていなかったし……」

「じゃ、あの電報、嘘だよね?」

「彼女は……ぼくを泣かせて、慰めるために……」

「泣かせる……ため?」

「気がつくと声も出せなくて……自由がきかなくて……。君の声を聞くたび……ぼく……」

 ルイは枕に頬を埋めた。きつく押し当てて、唇を噛んだ。

 まつ毛ににじんでしずくになった涙は、鼻の上を滑り、枕にしみこんでゆく。

 温かな指が、ルイの頬に触れた。

 マチアスが、涙の跡を指先で消してゆく。

 瞳を寄せて、そっといった。

「よかった、帰ってきてくれて」

「マチアス」

「よかった、おまえを取り戻せて。本当におまえをなくすのかと思った」

「そんな……。だって、君は、王子さまだもの。救われたのは、ぼくだけど」

 本当に王子さまであるマチアスが、きょとんとしている。

「そばにいたくて、『ルイ・マルロー』を捨ててきたんだもの。ごめんなさい。もう、黙って、出かけない……」

 小さな子のようにそういって、ルイは目を閉じた。

 やっと、眠ることができる。薬を与えられている間、一睡もできなかったのだった。

「おまえの涙は、ぼくのものだ……全部」

 マチアスのささやきを聞きながら、ルイは温かな闇に沈んでいった。



18


「オットーがもういないっていうのは、タシケントにとっちゃ、大損失だよ」

 アビリーンは力ない脚を組む。その足首には、もうリックのハンカチではなく、包帯が巻かれている。

 リビングテーブルに寄せた椅子に斜めにかけて、アビリーンはテーブルに肘を突いていた。

「アン・ラクスマンが立ち直れそうなのは、皮肉ね。捨てられたのじゃないってわかったのが、よかったのかしらね」

 と、そばのソファで、バーノンがひとりごとのようにいった。

 女って、わからないわ。

 それから、壁に寄りかかってコーヒーを飲んでいるリックを、不安そうに窺った。

 リックは、身じろぎもしない。ルイが目覚めてからも、硬い表情を崩さない。誰も見ようとしないし、まだルイと話していないアビリーンに遠慮しているように、ルイのもとにも行かなかった。

 ドアが開いた。

 反射的にバーノンが立ち上がり、アビリーンも顔を上げた。

 マチアスに支えられるようにして、ルイが入ってきた。

 ドアのすぐ内側に足を止め、はにかんだ瞳でバーノンを見つめ、アビリーンに会釈した。

 アビリーンは、ゆっくりと立ち上がった。

 ルイの前に行き、右手を差し出した。

「会いたかったよ、あの頃からね」

「ありがとう、あの……」

「いいよ、アビリーンで」

「はい、アビリーン」

 アビリーンがその手を握り締めると、ルイは照れたようにまつ毛を伏せた。

 室内が、沈黙した。

 BGMも効果音もない、演出ミスかと思えるほど長いストップモーションだった。

 やがて、アビリーンが口を開いた。

「ルイ、君にね、いいたいことがいっぱいあったんだ」

 マチアスが下唇を噛み、リックがドアに歩きだした。

 だが、アビリーンはリックの背中に向けて続けた。

「でもね、もういいんだ」

 リックが足を止め、アビリーンをふりかえる。

 マチアスも不思議そうに目を見張り、アビリーンを見つめた。

 ルイにだけは、その言葉の意味がわからない。ただ柔らかに微笑した瞳を、アビリーンに向けているだけだ。

「ルイ」

「はい」

「芝居が、好きだったかい……あの頃」

「えぇ、ぼく、幸せでした」

「でも、もう、今はジプシーなんだね」

「はい」

「未練、ないかい?」

「そう……もし、ぼくがふたりいたら……」

 いいかけて、ルイは首をかしげた。

 アビリーンはバーノンを顧みて、指で招いた。

「帰るよ」

「で、でも、お姉さま……」

 バーノンが子供のようにかぶりを振っている。

 アビリーンはニヤッと笑うと、その瞳をまっすぐにリックに向けた。

「半年も引き離せるわけないよ。半日だってむずかしいね」

 あの薔薇の部屋で、リックにはルイしかいなかった。

 リックからルイを奪えるはずがないと、アビリーンにもわかってしまった。

 リックが冷ややかに見えるのは、決してポーズではないのだろう。マチアスが案じていたように、「ルイが望むなら、引き止めない」というのも本心に違いない。でも、リックがひとりひそかに抱えるはずの心の空洞の深さを考えたら、アビリーンには何もいえない。

 リックを、そんな目に遭わせることができない。

 なんてこった、たった16の子に。このアビリーン・リュデリッツが!

 アビリーンは肩をすくめると、まずマチアスに別れの握手を求めた。

 マチアスは信じ難いという顔のままアビリーンと握手を交わしたが、アビリーンがリックに向き直ったとき、リックの方から歩み寄り、その右手を伸ばしたのを見て、呆然とした。

 アビリーンも絶句していた。

 しばらくの間、それが何なのかわからないというように、リックの手を見つめていた。

 その手の傷も、まだなまなましい。ルイを取り戻すために、ローゼンハイム・ブルーを薙ぎ払ってできた傷だ。

 アビリーンは目をあげた。

 リックの瞳が、その視線を受けとめた。

 操られるように、アビリーンは握手に応えた。

「取り消す」

「……」

「あんたは熱いよ」

「おれは……」

 リックはいいかけたが、ただ「さよなら」と続けた。

 名残惜しげなバーノンが少年たちに別れの挨拶をし終えるのを待って、アビリーンはリビングルームのドアを開けた。

 外に踏み出しかけて、立ち止まり、ふりかえってルイを見据えた。

「ルイ、もし君がふたりいたら、ひとりは今でも芝居をしてるかい?」

 ルイはアビリーンを見つめていた。

 そして、はずかしそうに答えた。

「ふたりとも、この船に乗っていると思います」

「まったく、気に食わないね!」

 アビリーンは高らかに笑いながら、ジプシーの船を出ていった。




                      (1997.6)

この話の通し番号は90です。


以下は、pixivにあげたときのキャプションです。


わたしはTIGER&BUNNYにハマって二次創作を読むためにpixivに登録したのですが、初めてこの番組を見たとき「アニエスとケインさんって、キャラ的にアビリーンとバーノンみたいだなー」と思ってました(ネイサンじゃなくてケインですよ)。そうやって親しみを持てたこともTIGER&BUNNYを見続ける(結果ハマる)一因だったんじゃないかなと思っていたのだけど……投稿のためにチェックして気づきました……この話「青い薔薇」も出てきます!

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