RESET
【3人組】だけど、ふたりしか登場しない小さな話です。
キャプテンでエンジニアのリック・シルヴァー、パイロットで料理長のマチアス・ターラー、ナヴィゲーターのルイ・マルロー……人命救助のために銀河中を飛び回っている16歳の少年3人組が主人公で、一話完結のシリーズです。
帰りのチケットを捨てるのは、さほど難しいことではなかった。だが、左の手首からはずしたブレスレットをダストボックスの中に落としたとき、6年という歳月の重みが立てる音に、マチアスは震えた。
すぐに背中を向けて、搭乗口に駆け込んだ。
さよなら、リック。
はっきりと、そう声に出すつもりでいたのに、できなかった。
その名を口にするのが怖かったから……。
1
辺境に近いティンセルが最終目的地だった。旅は長く、乗客も多い。だから、客船バーズ・アイを選んだのだ。
出発間際に取れたチケットの、コンパートメントナンバーはT24。
幅の狭いベッドと、小さな折りたたみ式のテーブル。シャワー室。窓代わりのようなモニタースクリーンと、硬そうなソファ。それだけの空間に閉じ込められ、旅がはじまるのだ。
マチアスはベッドにトランクを寝かせると、何もすることがないことに気づいた。
軍への書類や別れの手紙も、今は手をつける気になれなかった。食欲もなければ、眠気もない。ただ、コンパートメントの床に立って、呼吸とまばたきだけしている存在。
外に出ることにした。
ワープインまでは、乗客たちもコンパートメントに下がらない。通路はまだ、乗客で騒がしかった。家族連れ、カップル、ビジネスのために乗ったらしい男、ひとりきりの少女。
旅立ちに興奮気味の人々が、紺の制服の乗員をつかまえて、自分のコンパートメントの場所を尋ねたりしている。
通路そのものは殺風景なだけで、見るべきものはなかった。
乗客の間を抜けて、泳ぐようにさ迷いながら、マチアスはその緑の瞳から光を消したままだった。
人々のさざめきが、それぞれのコンパートメントに引きはじめると、マチアスは歩きまわる意味も見いだせなくなって、T24に戻った。
ドアを開けようとしたとき、不意に背後から肩をつかまれた。
振り向くマチアスの鼻先に、濃いサングラス。
「な……」
「頼む、ここに」
「あなた……」
「追われてるんだ」
ひそめられた、切迫した声に、マチアスは反射的に通路の先を見た。まばらになりはじめた乗客の間に、明らかに誰かを捜している動作の男……。
マチアスは飛びすさるようにして、コンパートメントに入った。サングラスの青年の上着をつかんで。
青年は室内に転がりこみ、あわてたようにそばのソファにしがみついた。
ドアはオートロックだが、マチアスはロックされたことを確かめ、そのドアを背にして、右手をヒップポケットに滑らせた。今はまだ宙軍人であるマチアスだ。チェックは受けたが、ヒートガンの携帯は咎められない。
すぐに銃を抜ける姿勢のまま、マチアスはゆっくりと青年を見た。
不自然なほど黒いサングラスのせいか、肌が白く見えた。くすんだ金の髪はゆるく波打って、首筋までを覆う長さ。着古した革のジャケットに、細身のジーンズという姿だった。両手は空いている。
「ぼく、悪いやつをかくまう趣味はないんだよね」
「そりゃ、よかった」
青年の唇が笑った。
マチアスが押し黙ると、すぐに続けて、
「オレは、君の趣味に逆らわない。ほんとだよ。この顔が悪者に見える? ん?」
青年はサングラスをはずす。
マチアスは目を見開き、倒れ込むように背中をドアにつけた。
青年がいった。
「ごめん。あいつらが諦めて、このフロアから行っちまうまで、ちょっとの間だよ、頼む、ここに置いてくれよ」
「……」
「オレはオスカー。ね、どうかした?」
「……」
マチアスは答えようとして、ただ唇を震わせた。
オスカーと名乗った青年は、マチアスの前に立った。
「どうかした? ねぇ、答えてくれよ。そんなに見つめられると、オレ、困っちまうよ。照れ臭いよ。オレの顔、何かついてる?」
真顔で問われて、マチアスは首を横に振った。
「お……驚いただけ……」
「あんまりハンサムだから?」
マチアスの答えにホッとしたのか、ひとなつこくオスカーが笑う。
マチアスは泣き出しそうに眉を歪めた。
「友達に……そっくりだから」
誰より遠く離れようと思った、誰より近くにいた友に。
2
「マチアスか。君に似合う名だよ、素敵だ」
オスカーがいった。
ソファにかけ、脚を組み、まるで彼の方がこのコンパートメントの主であるかのように。マチアスは人見知りする客人のように、ベッドの隅に浅くかけているだけだ。
「ティンセルには、観光? いや、ひとりで観光ってことはないか、君の若さで。君、いくつ?」
「16」
「若いなぁ」
感心したようにオスカーがいうので、マチアスはつりこまれるように、
「あなたは?」
「オレ? オレは19」
「人のこと、『若い』っていえるほどの年じゃないじゃない」
「ノンノンノン」オスカーが指を振る。「人生経験の量を含めてさ。君、学生だろ? 高校生? オレは、14のときから社会に出てるんだぜ。自慢じゃないが、17のときには女房持ちだったんだ」
「女房……」
「ま、今は独り身だけどな」
初めて、オスカーがその目を伏せた。
瞳は、濃いグレー。
まつ毛を伏せていると、その静かな表情は、リックに瓜二つだ。年齢や、オスカーのいう『人生経験』の差はあるだろうが、そこにいるのはリックと同じ顔をした、しかし、リックとは何のつながりもないはずの青年……。
聞き慣れないブザーの音に、マチアスは立ち上がった。
オスカーも緊張した顔で、ドアを振り返った。
「やつらだ」
「わかるの?」
「わかるさ」
ブザーが繰り返される。
オスカーはすがるように、マチアスを見上げた。
「オ、オレ……」
「しっ」
マチアスはトランクを床に引き下ろし、衣類を物色した。ひだのたっぷりした白いシャツを選び、広げた。
「ど、どうするの?」
「シャワー室に入って」
「へ?」
「シャワー室。急いで、オスカー」
名を呼ばれたことで、スイッチが入ったように、オスカーはシャワー室に飛び込んでいった。
マチアスはオスカーがいたソファの背もたれにシャツをかけると、自分のシャツのボタンを胸まではずしながら、苛立たしげに繰り返されるブザーに応えるために、ドアを開けた。
ドアの外にいたのは、ふたりの男だった。制服のように、同じようなブルージーンズに幅の広いベルトをしめ、ひとりはチェックのシャツ。もうひとりは黒いTシャツを着ていた。
「なぁに?」
マチアスは、うるさそうにいった。
「ここ、坊やの部屋かい?」
チェックの方が聞いた。黒いTシャツの男が、露骨に室内をのぞき込んでいる。
マチアスは男の視界を塞ぐように移動しながら、
「そうだよ。何か用なの?」
眉を寄せてみせた。
「いや、人を捜していてね」
「へぇ」
「坊や以外に、誰かいるようだね」
「いちゃ悪い?」
「いや……。誰がいるのかなと思ってね。見てもいい?」
「やだね」
マチアスが言い放つと、男たちが鼻白んだ。
「大事なことなんだがね」
「ぼくも、大事なところなんだ。お楽しみはこれからなんだから」
マチアスはちらっと、室内に目をやった。
シャワー室から、かすかに水音が聞こえている。ソファには、脱ぎ捨てられた服……。
チェックのシャツの男が、マチアスににやにやしてみせた。
「あんな狭いベッドで?」
「だからいいんだよ」
マチアスも、にやにやしかえした。
「ソファでってのも、いいしな」
「床でもね。わかったら、行ってよね」
チェックのシャツの男はにやにやしたまま、もうひとりの男は首をすくめながら、T24を離れていった。
マチアスはドアを閉め、ロックを確認すると、深い溜め息をついた。
しばらくの間、ドアに寄りかかっていた。
シャワーの音が続いていた。
やがて、バスタオルを腰に巻いただけの姿で、オスカーが出てきた。
マチアスは唖然として、
「本当に、シャワーを浴びてたの?」
「ついでだからさ。いやぁ、マチアス、君、頭がいいんだなぁ、助かったよ。オレ、感心してるんだ」
「ぼくは呆れてるよ。もし、ぼくがあなたを売ってたら、どうする気? 裸で逃げるの?」
オスカーはまた、ノンノンノンと指を振った。
「あいつらに売られたら、その場で撃ち殺されてる。裸なら、検死官にかける手間がひとつ減る」
「オスカー……」
マチアスは、明るくいってのけるオスカーの顔を見つめた。
オスカーの顔。
それは、リックの顔でもある。
マチアスが重たげに目を伏せると、オスカーが半裸のまま歩み寄って、マチアスの頬を両手に包んだ。
「いつも女の子、連れ込んでるんだな。可愛い顔して、やるじゃないか」
顔を上げさせられ、間近で瞳をのぞかれて、マチアスは怯えたように視線を伏せた。
オスカーは愉快そうに目を細め、
「とにかく、ありがとう」
マチアスの頬に、軽く唇をつける。
マチアスは一瞬目を見張り、それからありったけの力でオスカーの手を払いのけた。
「リックの顔で、そんなことするな!」
思わずその名を口にした。
呆然としているオスカーを置きざって、シャワー室に飛び込む。
ドアに寄りかかって、無意識に手首を探った。
ブレスレットを捨てた、裸の手首を。
3
T24に入ってドアを閉めると、マチアスはサンドイッチの皿を、ソファの肘掛けに置いた。
「まだ、うろうろしてた。あいつら、よほどオスカーを気に入ってるんだな」
ソファに所在なさそうにかけていたオスカーは、短く礼をいった。サンドイッチをかじりながら、首をすくめて、
「君は?」
「え?」
「君は、オレを、ずいぶん嫌ってるみたいだ」
「そんなこと……」
「オレの顔、まともに見ないもん」
「ぼくは……」
「オレに似てるっていうその友達のこと、嫌いなの?」
マチアスはベッドにかけた。
それから、そっと自分の膝に向けていった。
「違うよ」
「ふうん。じゃ、オレが似てることが許せないほど、その友達が好きなんだ」
「違うよ」
マチアスは誰にでもなく、小さく笑った。
オスカーがマチアスを見つめている。
マチアスは一瞬だけ、その瞳を見つめ返した。
もう一度目を伏せて、
「10才のときから、すぐ近くにいたんだ。10才だよ、声変わりもしてない頃からさ」
「幼なじみってやつだな。見てみたい。写真、持ってないの?」
「ないよ。だって、写真を見る必要がないくらい、いつも一緒にいるんだから」
「隣に住んでて、学校も同じで……って?」
「まぁ、そうだね」
マチアスは小さくうなずき、少しの間、迷うように自分の手を見つめていた。
サンドイッチを手にしたまま、オスカーは待っていた。
マチアスはそのままの姿勢で、
「こんなの……初めてなんだ。こんなこと……今までなかった。そいつと同じ道を歩いていくのがあたりまえだと思っていたし、そのことがいやじゃなかった。なのに……どうして? 急に……そいつがそこにいて、ぼくが同じ場所にいるのが、息苦しくてたまらなくて……ぼくは、逃げ出したんだ」
予定外の休暇が手に入った。
休暇はそれぞれ別に過ごすのが普通だ。
のんびり船に乗るよ、行き先はポートで決める。じゃあね、いってきます。
そういって別れ、往復のチケットを取った。帰りの分は、ブレスレットと一緒に捨てた。ジプシーの証でもあるブレスレットと一緒に。
「うまく説明できない。今までだって、喧嘩したり、腹を立てたりしたんだ。でも、こんな……原因がないままなんて、自分でも不思議だ」
「オレ、経験あるなぁ」
と、オスカーが笑った。
怪訝な顔をされるだけだと考えていたマチアスは、上体をオスカーに傾けていた。
「オスカーも?」
「14のときだ。すごく気のあう友達がいて、ずっとそばにいたかった。お互い家に帰らずに、四六時中一緒にいられたら、どんなにいいだろうなって思ってたよ。夏の休暇に、それを実行した。ふたりで旅に出たんだ。ヒッチハイク。大陸横断……それで、何が起こったと思う?」
オスカーが悪戯っぽく、マチアスを見つめる。
マチアスはおそるおそる、
「ぼくみたいなこと?」
「お互いがお互いに耐えられなくて……これといって原因は思いつかないんだけど、だんだん口もきかなくなってさ。小さな駅で、オレ、西行きの貨物に乗せてもらうよっていったら、相手も、僕は港へ出て船に乗るよって……お互い、『なぜ?』とは聞かずにさ」
「……」
「おかしいよな。嫌いだとかいうんじゃないんだ。ただ、ひとりになりたいっていうだけのことだったのかな。あの旅に出なかったら、そいつとは今でもいちばんの友達だったと思うのに」
「仲……こわれたまま?」
マチアスが不安げに聞くと、オスカーは愉快そうに目を細めた。
顔立ちはリックに似ていても、その表情はずいぶん違う。まだ慣れなかった。マチアスは戸惑っていた。『リックがそんなことするはずがない』というような気持ちになって、落ち着かない。そこにいるのはオスカーで、たとえ顔が似ていても、まるで違う人物なのだということを、いちいち自分に言い聞かせている気がする、出会ってからずっと。
オスカーがいった。
「もしかしたら、また一から始めるためのやり直しボタンを、神さまが押してるのかもしれないな。だから、こっちには原因がわからないのさ」
「何のためにやり直すの?」
「愛してることを、思い出すためさ」
「……」
「ずっとそばにいて、それがあたりまえになると、どうしてそばにいるのか、忘れちゃうだろ? 神さまってのがいるなら、そのくらいのこと、してくれるだろうしさ」
オスカーはくつろいだ表情になって、サンドイッチの残りをほおばりはじめた。
マチアスはオスカーの『くつろぎぶり』に呆れて、真面目な口調で尋ねた。
「今夜、どこで寝る気?」
「どこでって、ここでさ」
「ひとり用の部屋なんだけど」
「あ、いいよ、オレ、ソファで寝るの、慣れてるから」
「ぼくは、誰かがソファで寝てるそばでベッドに入るの、慣れてないんだけど」
「そう? じゃ、 オレの方がベッドを使おうか?」
マチアスは細く長い溜め息をついて、半分の大きさになったサンドイッチの山に顎をしゃくった。
「それ、半分、ぼくのなんだよ」
「え……ダイニングルームに行って、食べてきたんじゃなかったの?」
「あのおっさんたちに、ぼくがひとりのところを見られたら、まずいだろ。どこかの誰かとベッドに入ってる時間なんだから。それに、のんびりディナーってわけにいかないよ。得体の知れないあなたをここに残していくの、やだもん」
オスカーはきちんと姿勢を直し、皿をマチアスに差し出した。
「ごもっともです」
4
窓のない部屋にいても、船がどういうふうに飛んでいるのか、マチアスにはわかる。ワープの速度も、空気の重さで『感じる』ことができる。
船に乗る者が、いつしか身につける感覚だった。
硬めのベッドの、糊のききすぎたシーツに横になって、マチアスは闇の中で目を開けていた。
くつろぐ気分になれず、服を着たまま……銃も身につけたままだ。
オスカーの、かすかないびきが聞こえている。
バーズ・アイは、深夜のワープに入っていた。
闇を見つめながら、マチアスはオスカーの問いかけに答えていた。
『その友達のこと、嫌いなんだ』
違うよ。
『じゃ、その友達が好きなんだ』
違うよ。
マチアスは闇の中にいるのに、目を閉じて、拳でまぶたを塞いだ。
「眠れないの?」
オスカーの声がした。
いびきがやんでいたことに、マチアスは気づいていなかった。
声の方に寝返りをうって、
「考えごと、してただけだよ」
眠ろうと思えば眠れるんだよ。そう、ムキになっているようにいった。
「あのさ」
オスカーが、ためらう口調でいった。
「何?」
「君の友達は、どうするんだろうな」
「え?」
「君がこうして家出してきちゃってさ、その、オレに似てるとかいう友達は、どうなるのかなって、思って……。オレに似てるってことはさ、きっと、その子も、君をなくして寂しいと思うんだ」
「オスカーに似てるのは、顔だけだよ」
「それでもさ、オレは君と離れるの、寂しいよ」
静かすぎる声に、マチアスは枕から頭を上げて、
「オスカー?」
「まだ、何時間かしか、一緒にいないのにさ。6年もそばにいたのなら、どんなに……」
「そんな、寂しいとか何とか考えるようなやつじゃないよ! ぼく以外の友達だって、そばにいるしさ。そりゃ、仕事は、ぼくの代わりが見つかるまで、面倒かもしれないけど、それだけのことだよ」
「君だって、きっと寂しくなるよ。その子と離れて、ひとりになったら」
「ならないよ。現に寂しくなってないもん」
「現にって……君、まだ『ひとり』になんて、なってないじゃないか」
闇の中で、オスカーがくすくす笑っている。
マチアスは二の句がつげない。
確かにそうだ。
リックから離れるつもりでバーズ・アイに乗って、間もなく出会ったのが、リックにそっくりなオスカー。彼と今まで、一緒にいる。
マチアスが黙り込んでいると、笑いやんだオスカーが、
「今、『仕事』っていったね。学生じゃないの?」
「……」
「ま、何でもいいけどさ。じゃあ、仕事も辞めちゃうわけだ」
「別の仕事を選んだっていいんだからね」
「もちろんさ。でも、辞めるときには、オレみたいなことにならないようにしなよ」
「どんなこと?」
「船の中でまで、命を狙われるようなことさ」
マチアスは起き上がった。
闇の中で、思わずオスカーの方に手を伸ばしながら、
「オスカー、何やったの?」
「ちょっとした盗みさ」
「ちょっとした盗みくらいで、命まで狙われるの?」
「オレがいた組織の、秘密の顧客データだからねぇ」
のんびりとオスカーがいった。ソファの上で、伸びをしたようだ。
「なんで……」
言葉を見つけられないマチアスに、オスカーは溜め息とも笑いともつかない音をたてた。
「ボスが、オレの大事なものを盗んだからさ」
「……何を?」
「女房の、命」
「……」
「オレは仕事でしくじった。それは悪かったと思う。詫びる気持ちがあるなら、女房を差し出せってわけだ」
「それで差し出しちゃうなんて、最低だよ!」
鋭くいうマチアスに、オスカーはゆったりと、
「断われば殺される。オレは、命が助かる方を選んだんだ。甘かったな。ボスに好き勝手なことされて、生きるの、やめちまった」
「……」
「仕返しできる日を、オレはへらへら笑いながら待ってたんだ。いいんですよ、ボス、オレ、あの女にはもう飽きちまってたし……って、大嘘だよ、マリー」
「……」
オスカーの声はもう、寝言に近かった。実際に、半分は夢の中にいたのかもしれない。マチアスには見えない、なくした『マリー』の夢……。
マチアスは黙り込み、もう一度ベッドに仰向けになった。
そして、気づいた。
ワープエンジンが止まっている。
深夜のワープに入ってから、さほどたっていないはずなのだが……。
マチアスは、毛布をはねのけた。ベッドを降りながら、
「オスカー」
声をかけた途端、ブザーが鳴り渡った。壁の非常用ライトが灯り、その淡い黄色の光の中で、オスカーが身を起こしていた。
「な、何……?」
「事故だ」
「そ、外に出たら、やつらに見つかる……」
「ここにいたら、船と一緒に死ぬかもしれないんだよ」
「オレはどうせ……」
マチアスは言い募ろうとするオスカーの腕をつかんだ。その目の前に、ヒートガンを差し出した。
オスカーが目を見張る。その表情も、マチアスにはかすかに違和感があった。リックの持つ表情とは、どこか違う……。
マチアスはオスカーの顔を見つめたまま、銃をポケットに戻した。
「ぼくから離れるな、絶対に」
「君は……」
「行こう」
オスカーの質問には答えなかった。
5
通路は、乗客でごった返していた。安全な場所へ誘導するはずの乗員の姿は見えず、ブザーだけがどんどん音量を上げてゆく。人々は、それにつれてますます青ざめ、ぶつかりあっては悲鳴を上げている。
「舷側へ出てください! 救命ポッドには全員乗れます、あわてないで!」
マチアスは声を張り上げながら、オスカーの腕を引いて走った。
しかし、けたたましいブザーが、マチアスの声を呑んでしまう。小さなトラブルでも、乗客自身がそのパニックのせいで怪我をするという例も多い。
マチアスは乗客の間を縫って、その混乱を走り抜け、ようやく乗員の詰め所を見つけた。
ドアは半開きだった。
動きが感じられない。すでに無人かと思ったが、のぞいてみた。
息が詰まった。
背後で、オスカーが短く悲鳴を上げた。
紺色の制服を着た男女が数人、折り重なって倒れていた。皆、額か眉間を撃ち抜かれている。
「……やつらだ」
オスカーがうめき、
「やられた」
マチアスも喉の奥でいった。
オスカーを燻りだすため……。
本当の事故かどうかも怪しい。
「ど、どうするの?」
オスカーのかすれた声に、
「逃げ道を探す」
マチアスは倒れた乗員たちのそばをすり抜けて、奥のコンソールに駆け寄った。モニターも撃ち抜かれているが、コンソールの下にセットされているマニュアルは無事だった。
ファイルを開き、船内図を探す。
そのページをちぎりとって、オスカーを顧みた。
オスカーがリックに似た顔を、不思議そうにマチアスに向けていた。
「マチアス……」
「何?」
「君の仕事が何だか知らないけど……君はきっと、辞められないよ」
マチアスは曖昧に笑った。
「乗客に紛れた方がいい。戻ろう」
オスカーの手をつかむと、通路に駆け戻った。
しかし、そこに彼らがいた。
「おや、坊やには見覚えがあるぞ」
チェックのシャツの男が、にやにやした。その手には銃があり、銃口はマチアスに向いている。
黒いTシャツの男の銃は、マチアスの肩越しにオスカーを狙っていた。
チェックの男が、マチアスを見つめたまま、
「ディスクを出しな。そうすれば、命は見逃してやる」
「……なんて、信じられる?」
オスカーが首をかしげてみせた。
「出さないと、マリーのところへ行くことになるぜ。きっとおまえさんを恨んでるマリーのところへな」
「会ったら、謝るさ」
「じゃ、俺からの伝言も頼む。おまえさんやボスのお下がりでもいい、もう一度、あんたと寝たいぜってな」
男が、マリーにしたことやさせたことを自慢げにしゃべりだす。
マチアスは、男のにやにや笑いから目をそらした。そうしないと、今すぐ相手を撃ちそうだったから。オスカーは黙っている。しかし、マチアスの頭の中は激しい怒りのために、言葉にならない叫びに満ちていた。
「ディスクを出しな」
相棒を遮るように、黒い方の男がいった。
「出しちゃだめ」
マチアスが、駄々っ子のようにいう。
オスカーが、マチアスの背後でかすかに笑った。
いきなり背中から抱き締められて、マチアスは身をこわばらせた。
それから、オスカーはホールドアップの姿で、横這いになってマチアスから離れ、
「ディスクは、この坊やにあげちゃった。この子に聞いてくれ。拷問でも何でもしていいから、さ。あばよ、坊や。悪く思わないでくれ」
次の瞬間、身を翻した。
マチアスはハッと、その背中を見た。
「信じるかよ」
「馬鹿が」
男たちの銃が、同時にオスカーを撃つ。
オスカーのジャケットの背に、ふたつの黒い穴が開く。
自分でも意識しないうちに、マチアスの手も動いていた。
男たちの腕を熱線でなぎ、足も撃った。
オスカーの思惑どおりに……。
マチアスの銃は男たちに向いたまま、その瞳はオスカーを見つめたまま……。
宙を掻くようにして、オスカーが倒れた。
「オスカー……」
呼んだが、声にならなかった。
マチアスは震えながら自分の手を見た。
男たちは床で、悲鳴とうめきにまみれて転げまわっている。彼らが立っていた空間を、熱線が焦がしていた。向かいあう壁がただれている。
「あ……」
マチアスは力を込めて、トリガーから指をほどいた。
銃を放り出し、転がるようにオスカーに飛びついていった。
「オスカー!」
引き起こし、胸に抱える。
オスカーが……リックと瓜二つの彼が、重たげな瞳をマチアスに上げた。
「うまく、いったろ? オレだって、頭、いい。感心して」
「オスカー……」
「オレはなくしてばかりいるけど……大丈夫……本当になくせない友達なら、きっと、一から、始められる」
「何? 何いってるの?」
「オレは、だめだった。あいつが乗った船は、海の底に沈んだんだ。家に帰ってそれを聞いたオレは、それきり家も街も捨てて……ボスに拾われるまで、野良猫みたいに……」
「……」
「神さまが、押したんだ。リセットボタンを。もう一度、君が、はじめから、その子を愛せるように。必ず、帰れよ。オレの顔した子を、悲しませるな」
通路に鳴り渡るブザーが、オスカーの声をかき消そうとする。
マチアスはオスカーの頭に頬を押しつけて、
「ゆ、許さないから……。リックの顔で死んだら、ぼく、恨んじゃうからな」
「そうそう。リックという名だったな」
オスカーの唇が笑う。
マチアスは、激しくかぶりを振った。
「許さないったら! 聞いてるの? 今、誰か呼んでくる。安全なところへ……オスカー! 人の話、聞けよ! 笑ってる場合じゃないだろ!」
宙に上がったオスカーの指が、ノンノンノンと動いた。
そのままマチアスの頬に触れたが、もう『時間』はなかった。拭えた涙は、ひと粒だけだった。
6
目覚めかけてはじめに感じたのは、頬に触れた指だった。
まぶたを開く瞬間、瞳が熱く溶けた。新たな涙のしずくが、こめかみに滑り落ちていった。
目の前に、リックがいた。
その手がまだ、マチアスの頬に触れていた。
驚いたように静止して、マチアスの顔を見つめていた。
マチアスは、リビングルームの奥のソファにいた。腰掛けたまま、背もたれに頭をのせて、眠り込んでいたのだ。
リックはその前に立ち、マチアスの顔をのぞくようにして屈みこんでいる。
マチアスはほほえんでみせ、
「何でもない。夢を見てただけ。おまえが死ぬ夢。ごめん、縁起でもない……」
「……」
リックはそのまま動かない。
マチアスも押し黙り、リックを見つめた。
不思議だった。
瓜二つだと思ったのに……そのはずなのに……思い出せないのだ、オスカーの顔を。
それだけでなく、どうしてオスカーに出会うことになったのかも、思い出すことができなかった。
リックから離れ、船を降り、ジプシーという仕事も捨てるつもりだったことは覚えている。だが、どうしてそうまで思ったのかがわからない。
リックが、ようやく動いた。シャツの胸ポケットから、折りたたまれた白い紙を引き抜いて、マチアスに差し出した。
「報告書。やっと来たぜ」
「……」
「ディスクはコンパートメント……T24のシャワー室の天井から見つかったそうだ。麻薬、殺人、人身売買……ぞろぞろ逮捕されるらしい」
「……」
「ひどい休暇だったな」
リックがいい、ソファから離れた。離れるとき、マチアスの頬に残っていた涙を、何かのついでのように袖口で吸い取っていった。
リックは当直だ。
ブリッジに帰らなければならない時間だった。
マチアスは立ち上がり、リックを呼び止めた。
振り返るリックに駆け寄り、報告書を押しつけた。
「これ、預かって」
リックは怪訝そうに、
「読みたくて、こんな時間まで待ってたんだろ?」
「怖くて読めない。おまえが読んで」
「……」
「そして、何年かしたら、あの事件はこうだったんだって、ぼくに教えて」
「おれ、先に死んじまうかもしれないんだぜ、話す暇もないまま」
リックが首をすくめる。
マチアスは怒りに似た何かに弾けるように、リックを抱き締めた。
「ひとりでいかせないよ、もう!」
泣いているわけではないのに、体が震えていた。
リックの腕がそっと背中にまわったとき、また少し涙がにじんだ。
マチアスは目を閉じた。
記憶の海の彼方に、オスカーの面影を探した。
オスカー。
神さまがリセットボタンを押すなら、そのたび、ぼくは何度でもやり直す。また一からはじめる。また一から愛する。
くりかえし……くりかえし。
きっと。
(1995.5)
この話は№87です。
次回はもう少し長いお話を投稿する予定です。