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一夜の恋人(Hitoyo no Koibito)

キャプテンでエンジニアのリック・シルヴァー、パイロットで料理長のマチアス・ターラー、ナヴィゲーターのルイ・マルロー……人命救助のために小型宇宙船で銀河中を飛び回っている16歳の少年3人組が主人公で、一話完結のシリーズです。


この話は第83話にあたります。

 ハッチの内扉が、背後で閉まった。

 天井のライトが赤に変わる。減圧(排気)が始まった合図だ。

 彼女は不安そうに、非常用宇宙服に身を包んでいる自分を抱き締める仕草をした。ヘルメットをつけ、バイザーも降ろしているので、その表情まではリックには見えなかった。

「聞きたい」

 ぼつりとリックがいうと、その声をヘルメットの中のスピーカーから聞いた彼女は、顔を上げた。

 リックは彼女を顧みて、バイザー越しに、

「あんた、名前は?」

「マルグリット」

「想像力はあるか?」

「え……」

「おれを、父親か兄貴か恋人だと想え」

 赤い光が消えた。

 リックは腕を伸ばした。

 マルグリットは、両手でリックにしがみついた。

 外扉が開く。

 床が振動する。

 金属の裂ける音が伝わってくる。

 どこかが爆発したのだ。

 マルグリットの手に力がこもる。リックが引き寄せる。

 裸の宇宙へ飛び出す瞬間、リックは耳にした。

「アンドレ……」

 確かに、彼女の声を。




『どう?』

 ブレスレットから、マチアスのテノールが聞こえた。

 ルイはそっと手首を上げた。

「まだ」

『そう』

「リックは?」

『リビングルームにいる。あいつは心配することないぜ。背中にアザができただけ。蒙古斑みたいなもんだ。先祖返りさ』

 マチアスが笑った。リックの曾祖父は、一方の親が東洋人である。

 まもなくミッドナイトに入る。

 救難信号をとらえていなければ、今頃はリビングルームで夜のお茶でも飲み、キャビンに戻ろうとしている時刻だ。当直はルイだった。

 だが、今。

 マチアスはキッチンにいる。

 ルイは医務室にいた。

 スクリーンを降ろして仕切った、いちばん奥のベッドのそばに。

 ベッドには、ひとりの少女が横たわっていた。

 銅の色の肌に、同じような色合いの赤みがかった艶やかな髪……長く、渦を巻いてシーツに広がっている。

 それを見つめたまま、ルイがいった。

「あの船は?」

『だめだな。さっき、映像を分析してもらうために送ったけど。船体は、破片さえ見つからないよ。粉々さ』

 爆発の際、近くに停船していたホワイトネビュラ号の船体にも、擦過傷ができた。破片を浴びたからだ。

 宇宙服には衝撃を吸収する機能がある。リックはアザですんだ。でなければ、背中からふたつに裂けていたはずだ。

 爆発を知った瞬間リックが抱き締めてかばったその少女は、気を失っていた。

 リックはリビングルームのタイプライターの前で、マチアスはキッチンのレンジのもとで、ルイは医務室のベッドのそばで、彼女が目覚めるのを待っている。

『キッスで目覚めるなら、いくらでもしちゃうんだけどなぁ』

 マチアスの溜め息が聞こえたかのように、少女のまつ毛が震えた。

「声だけで十分効き目があるよ、マチアス。また、後で」

 ルイが交信を切ったとき、少女の目が開いた。

 黒い瞳が宙を見つめ、少女は一度まぶたを閉じてから、もう一度開いた。気配を感じたのか、そのときにはルイの方に視線を移していた。

 ルイは近寄りすぎない位置に立ち、少女の瞳をのぞくようにして、

「気分は悪くありませんか?」

「ここは?」

「ジプシー船の中です」

「ジプシー?」

「あなたは、乗っていた船から救出されたんです。ぼくたちは救助隊員です」

「あなたは誰?」

「乗員のひとりで、ルイといいます」

「私は、誰?」

 少女がいった。

 ルイは絶句した。




「あ……おいしい」

 少女がそういったので、マチアスがその緑の瞳を見開いた。

 普段なら、もう少しはしゃぐところなのだが。

 まるで出会ったばかりの少女にはにかんでいる人見知りの少年のように、マチアスが頬を赤らめたのは、少女の漆黒の瞳がマチアスに向いたせいだ。

 記憶を失っていても味覚はある。そして、そのスープを作ったのがマチアスだということは、彼女にもわかる。マチアスはまだ白いエプロンをつけたまま……胸にトレーを抱えたまま、なのだから。

 少女は空腹だったらしく、マチアスに勧められるままにダイニングルームに降りた。彼女が求めたときのために、マチアスは彼女が意識を取り戻す前からキッチンに入って、食事の支度をしていたのだ。

 ミッドナイト。

 少年たちはすでに夜の食事を終えているので、テーブルについているのは少女だけ。マチアスは給仕に徹している。

「あの……マージ?」

 彼女の瞳が自分に向いているうちに、マチアスは呼びかけた。そうでないと、自分が呼ばれたのだと気づいてもらえないかもしれないからだ。

 マチアスに『マージ』と呼ばれた少女は、次の言葉を待つように首を傾ける。

 その仕草に、ためらいながらマチアスは問う。

「あの……ほんとに……マージで、いいのかな」

「えぇ」

「でもさ……」

「私、キャプテンを信じます」

「ぼ、ぼくだって、信じてるけど」

 少女は、自分の名前を記憶から失っていた。

 そのことにいちばん驚いたのは、リックだった。

「君に名前を聞いたとき、『マルグリット』と名乗ったって、リックはいうんだ。だから今、ぼくらは君を『マージ』と呼んでいる。でも……」

「それでいいんです。本当に、私はマルグリットなのでしょう」

 マルグリットは、自分の中のこだまに耳を澄ますように遠い目をした。

 その名が……マルグリットという名が、彼女の中でどんなふうに響いているのか、マチアスにはわからなかった。

 ただ、彼女を見つめていた。その横顔の、額のあたりを。

 彼女が着ているのは、どこにも『身元』を示す印のない、制服のようにも見えるネイビーブルーのジャンプスーツだった。たとえばスチュワーデスのような、大きな船の乗員なのかもしれない。スーツは体に柔らかく沿ったシルエットで、肌があらわなわけではないのに視線を当てるのがためらわれた。だから、マチアスは彼女の額ばかり見ているのだ。

 事故に遭い、自分の名まで失っていても、彼女は取り乱さなかった。

 戸惑いも不安もあるに違いない。リビングルームでコーヒーを飲んだとき、カップを持つ指先はずっと震えていた。しかし彼女の口からこぼれたのは、小さな溜め息とジプシーへの感謝の言葉だけだった。彼女が空腹であることを聞き出すことさえ……マチアスが聞いてさえ……むずかしかったのだ。

 伸ばしたままのしなやかな背中。滑らかな銅色の、凛とした横顔。

 マチアスは我知らず、息を止めていた。もし吐息をつけば、それは甘い溜め息に聞こえたかもしれない。

 緩んだ腕から滑ったトレーが、テーブルに当たって音を立てた。

 マチアスは催眠術から覚めたようにハッと身じろぎ、

「えっと、あの、ワイン蒸し……魚……次の料理……魚、嫌いじゃないといいんだけど……」

 マルグリットがマチアスを見つめた。微笑して、うなずいた。嬉しそうに見えた。

 見つめられたまま、マチアスは逃げるようにキッチンに戻っていった。



 長く息を吐きながらソファに座り込んだリックが、軽くうめいて、あわてたように上体を立て直した。

 リビングテーブルのもとで、からのコーヒーカップを片づけていたルイが声をかける。

「大丈夫?」

「ああ」

 リックは伸ばしたままの背中に手をやりかけて、やめた。

 心配そうに自分に向いたままのルイに、怒ったような視線を向けた。

「ただの打撲だ」

 骨にも内臓にも異常がないなら、放っておけばいいんだ。そういって、リックは放置している。しかし、ソファに寄りかかることができない程度には痛むらしい。

 しつけの良すぎる男の子のように背を伸ばして浅く腰掛け、動けないリックに、ルイはつい、くすっと笑ってしまった。

 リックは、さらに目を怒らせた。

「答えは?」

 ルイは真顔に戻った。

「まだ返ってきません。どういうことなんだろう。認識番号がわかってるのに」

 爆発、消失する前の船は、ホワイトネビュラ号に残された映像でしか、その船籍を確認することができなかった。宙軍、近隣の星々、どこに照会しても、回答らしい回答は得られなかった。『我が国に籍のある船ではない』といわれるばかりなのだ。

「どこへ行くつもりだったのか……」

 リックがつぶやく。

 マルグリットが乗っていた船は、普通は『宇宙艇』と呼ばれる程度の大きさしかなかった。しかし、星系内を走る惑星間ボートのような艇ではない。船体のほとんどをワープエンジンとエネルギータンクに塞がれた長距離用だ。積んでいたエネルギーの種類や量にもよるが、

「ここからでも、銀河の向こう側まで行けるね。地球まででも……コンボトルでも、ヴァン・ラヴでも」

 ルイがそっといった。

「ひとりで……」

 いいかけ、リックは立ち上がった。

 ルイの瞳がリックの動きを追う。

 リックは不機嫌そうにいう。

「いざとなったら、明日ヴェントのプラネットに降ろして、厄介払いする」

 彼らのいるポイントからいちばん近いプラネット(救助隊基地)はヴェント。それがあるヴェント共和国は、星系ひとつを統合した巨大な貿易国だ。

「素姓がわかれば、ヴェントから船に乗せる。プラネットで船体の修理もする」

「はい」

「どのみち、ヴェントに寄ることになるんだ」

 リックはつけ加え、ルイをにらんだ。

 ルイはじっと、リックを見つめている。

 リックが鼻白む。

「つ、冷たいやつだ、放りだすなんて……とか何とかいう気じゃないだろうな。マチアスみたいに」

 ルイは愉快そうに目を見開いた。

「いいません。ぼく、知ってるもの」

「何を?」

「君は『熱いやつだ』って」

リックは眉を吊り上げた。

「お、おれは……」

「なぁに?」

「おれは、寝る」




「記憶のない美少女。ああ、ミステリアス! ううん、ミステリアスというには、あまりにキュートだ、笑顔が」

 マチアスが、リビングルームの天井の方に向けていった。

 ルイはマチアスの顎のあたりを見ている。

 ルイの手には、小さなカップ。濃いココアが、まだ熱い。浮かべたマシュマロが半ば溶けている。マシュマロとほぼ同じ状態のマチアスがルイに運んできた夜食のトレーには、温かな香ばしいビスケットが手をつけられずにのっている。

 船は、まだ停まっていた。

 マルグリットの身元は知れない。だから回答を待ち、夜の間は動かないことにしたのだ。

 リックはキャビンに戻り、マチアスは眠れずにリビングルームに上がり、当直のルイはココアを手に、マチアスを見つめているのだった。

「彼女……」

 おずおずと、ルイはいった。

 マチアスの瞳がふらりと揺らぐように、ルイに戻ってきた。

「マージのこと?」

「ん……彼女、年齢もわからないよ」

「うん」

「住んでいる星も」

「うん」

「姓も」

「うん」

「それに……」

 ルイは口をつぐんだ。

 結婚しているのかもしれない。ステディな相手がいるかもしれない。マージは16、7才に見えるが、実際の年齢は彼女自身にもわからないし、たとえジプシーの少年たちと同年代の若さだとしても、『フリー』とは限らない。

 などと口に出すことは、ルイにはできなかった。

 口にしても、マチアスの耳には入りそうもない。

 代わりに、少し口調を変えた。

「マージは、キャビンに?」

「ちゃんと送ったよ。ドアの前まで」

 本当は中まで送りたかった。そのままそこにいたかった……とマチアスの顔に書いてある。

 ルイに向いてながら、マチアスの瞳の中に、今ルイはいなかった。

 それでも、ルイはいった。

「早く回答が来るといいね」

「ああ、どうして船籍がわからないなんてことが起こるんだろう。何か深い事情があるんだろうか」

「そうだね……」

「彼女みたいな女の子が、長距離船に、たったひとりで……。いったいどこへ、何のために走っていたんだろう。あぁ、ルイ」

 マチアスはルイの両腕をつかんで、顔をのぞき込むようにした。

 ルイは両手でカップをつかんだまま、マチアスの瞳を見つめ返した。

「ルイ、ぼくは落ちたぜ」

 どこに? と尋ねてみたかったが、ルイにはもう答えがわかっていた。こういうことは初めてじゃないのだ。

 そうだ、眠ろう、そうすれば、マージの夢が見られる!

 そういって、キャビンに飛んで帰ってしまったマチアスの背中を見送ると、ルイは誰にも知られないのに、ひそやかに溜め息をついた。



 眠れなかった。

 ベッドに横になると、体じゅうが疼いた。

 しかし、眠れないのはそのせいなのか……。

 リックは睡眠を諦めてベッドから降り立つと、ジーンズを身につけた。乱れた髪に指を突っ込みながら、キャビンを出た。ガウン代わりに羽織ったシャツは、ボタンもかけないまま。歩みにつれてかすかに翻った。

 地上で暮らしていたら、こんな夜、風の中に出てゆくのだろう。空には星がまたたき、あるいは流れ落ち、ゆるい呼吸のうちに冷えた空気が肺を満たし、肌を包むのを感じて……。

 船の中にいるリックにとって、キャビンの内も外も変わらなかった。通路には風もない。どこも同じ濃さで空気が存在するだけだ。

 それでも、星だけは……またたかない銀河の光だけは、間近に見ることができる。

 両舷にある展望室のどちらでもよかったのだが、彼が足を向けた右舷展望室には先客がいた。

 あまりにひっそりと立っているので、目を伏せていたリックには、数歩入るまで気づけなかった。

 相手が先に気づき、ハッと振り返った。

 顔を上げたリックは、一枚の光のスクリーンのような無数の星のきらめきの中……影のようにそこに立つ少女を見た。

 見て、顔をしかめた。ここへ来たことを後悔した。

 だが、背を向けて歩み去ることができなかった。

 リックに目を当てたままのマルグリットが、静かに頭を下げる。肩からこぼれた髪が星の光を含んで、透き通って見えた。ささやくような声で彼女がいった。

「ごめんなさい、眠れなくて」

「……」

「ひとりになると、怖くて」

「……」

「自分が誰なのか、どんな人間なのか、考えずにいられなくて。あなたは……リック、あなたは私が……私を乗せていることが、怖くありませんか?」

 リックは、マルグリットに歩み寄った。

 彼女から少し離れた場所に立った。

「乗せていることが、怖い……?」

「だって、私は……そうだわ、悪い人間かもしれないでしょう?」

「どんなふうに?」

「どんな……えぇと……」

「……」

「あ、そうだわ、非行少女とか」

 リックは吹き出しそうになった。そんな自分に驚いてもいた。ただ唇を引き、やがて答えた。

「別に」

 怖くなどない。今の彼女が『怖くない』から。記憶を失っても、別人になるわけではないはずだと思った。

 マルグリットが言葉を続けられず、困ったようにうつむくと、リックはつぶやくようにいった。

「自分でも、わからない」

 マルグリットの瞳が、リックの横顔を見ている。

「なぜ、あのとき、あんたの名を聞いたのか」

「そういう規則があって、そうしたのだと思っていました」

「ない」

 普通、そんな余裕はない。あのときもなかった。船は燃えはじめていた。そして、名前を知っていても知らなくても、救出方法に変わりはない。

 リックの答えの短さに、叱られた子供のようにマルグリットはまつ毛を伏せた。

「私は、名前だけはなくさずにすみました。あなたのおかげで。聞いてくださって……それでよかったんです」

「たぶん……あんたが怯えていた……そう見えたからだと思う」

 あの長距離艇の中で、マルグリットは震えていた。しかし、取り乱してはいなかった。ただ、事故にどう対処すればいいのか知らないように見えた。もしその方法を知っていたら、冷静にやってのけたにちがいない。

 そうだ。

 リックは自分の記憶を追った。

 彼女は、そらに慣れていない。その印象だけが強かった。

 宇宙服ひとつで、宇宙空間に飛び出す……一般の地上人にとって、それはは容易なことではない。

 一緒にそらへ落ちるなら、彼女がしがみつける相手の方がいい。

 父親か兄貴か恋人……。

 リックは、マルグリットを見た。

 マルグリットもリックの瞳を見つめた。

「マルグリット。『アンドレ』はあんたの、何だ?」

「……」

 マージの答えは、言葉ではなかった。

 見張られた黒い瞳からこぼれ落ちる、涙のしずくだった。

 マルグリットは両手で頬を押さえた。彼女自身、その涙に驚いていた。『アンドレ』の記憶は、脳以外のところにあるのだろうか。その体が震えだした。鳴咽が、きつく結んだ唇から漏れた。

 呆然とその涙を見ていたリックがマルグリットに手を伸ばしたのは、彼女が揺れているような気がしたからだ。

 指が腕に触れると同時に、マルグリットはリックの胸に飛び込んできた。

 その衝撃に、背中が痛んだ。

 リックは息を詰めたまま、肩先で震えているマルグリットの髪を見た。

 しがみつく、マルグリットの指の強さ……。

 父親か兄貴か恋人と想え。

 自分の言葉の責任を取らなければならない。リックはためらう両手を上げ、マルグリットの背にまわした。

 抱き締める。

 自分が……『アンドレ』が、マルグリットの父親なのか兄貴なのか、それとも恋人なのか、わからないまま。

 それがわかるまでは、それ以上の『代役』はできない……そう思った。

 たとえ、マルグリットが望んでも。

「アンドレ」

 目を閉じたまま、心をどこか遠くに向けて、マルグリットが呼びかけた。

 初めて彼女を抱き締めたとき、ふたりは虚空にいて、宇宙服を着ていた。爆発した船の破片の衝撃にも耐えられる宇宙服だ。相手の感触を伝えるはずはない。

 が、今は違った。

 ネイビーブルーの布の下に、少女の肌がある。ボタンをかけそびれたままのシャツの隙間から、体温も震えも、その声も熱い涙も、直接リックの胸にしみ込むのだ。

 父親か兄貴か恋人……?

 やっと思い当たった。リックは苦笑した。

 そういう名だとしても、父親を『アンドレ』と呼ぶ娘がいるだろうか。たとえば、リックは父親に『ラルフ』と呼びかけはしない。

 兄貴なら?

 呼ぶかもしれない。

 だが……。

 マルグリットのぬくもり。

 手を離すには遅すぎた。

 まるで溶けあってしまったように、リックの腕はマルグリットの背からほどけない。




 マルグリットの夢を見るためにキャビンに向かっていたマチアスは、立体的なスナップ写真のように、歩いている格好のまま凍りついてしまった。

 目の前……交差する通路を通ったのは、リックだった。

 ひとりではなかった。

 夢ではなく現実のマルグリットが、そこにいた。リックの腕に抱かれて。

 抱き上げられたまま、リックの首にしがみついているマルグリットが何かささやいたようだ。リックが耳を寄せるような仕草をした。

 ふたりは立ちすくむマチアスに気づくことなく、マチアスの視界から消えた。

 マチアスがようやく動けたときには、足音も聞こえないほど離れていた。

 爪先立って、通路を進んだ。

 リックがどこに向かっているかは、察しがついていた。

 そのとおり、追いついたマチアスの視線の先で、リックはマルグリットを抱いたままAキャビンに入っていった。

 ドアが閉ざされ、ふたりの姿が再びマチアスの視野から消えると、彼はブレスレットを見た。

 室内を横切り、ベッドにマージを降ろし、毛布でくるんで……そんな時間を計っていた。リックが出てきたら、声をかけてみるつもりだった。

 医師のように冷静に「マージが、どうかしたのかい?」

 幼なじみの悪友的に「マージと何してたのかな?」

 それとも、血の気の多い恋人のように「マージに何をしやがったんだ?」

 自分がリックに何をいうつもりなのかわからないまま、マチアスはブレスレットをにらみつづけていた。

 ベッドにマージを降ろし、そうだ、靴くらいは脱がせてやって、毛布でくるんで……あいつは不器用なところがあるから、途中で一度つまずきかけて……そうだ、あいつだって男だ、マージの寝顔を3秒くらいは眺めて……。

 マルグリットを10回ベッドに運べるくらいの時間が過ぎても、リックは出てこなかった。

 動悸が痛い。

 リックにかけるつもりの言葉をいくつも胸に溜めたまま、マチアスは通路を引き返しはじめた。

 その瞬間、地震にも似た、突き上げるような振動が来た。

 マチアスは肩から壁にぶつかった。思わずうめく。

 痛みのせいか、木造船のように船体が軋んだ気がした。

 マチアスは一瞬、Aキャビンのドアを振り返った。

 動きのないドアから目をそらし、ブリッジを目指して駆けだした。



 ルイはブリッジにいた。発信音に呼ばれたからだ。交信を求められていた。

 マルグリットの船、あるいは彼女自身について、どこかから回答が届いたのだろうか。それを期待してレシーバーを耳にかけ、コンソールに指を置いた。

 スクリーンを見上げたが、映像はなかった。その声だけが、ルイの耳に流れ込んできた。

『君たちの船に乗っている人間を、渡してもらいたい』

 古いSF映画の中でロボットがしゃべっているような、作りものめいた声だった。

 ルイは困惑し、虚空しか映していないスクリーンを見つめた。

「おっしゃる意味が、理解できません」

『君たちは船に、ポアニード王国からの逃亡者を乗せているのだ。速やかに引き渡してもらいたい』

 まさか、マルグリットが『ポアニード王国からの逃亡者』だというのだろうか。

 ルイはしばらくの間、唇を結んだが、

「そのような人物は、この船にはおりません」

『隠すとためにならないぞ、ジプシー。その人間は、反逆者である』

 ナヴィのコンソールの前に立ち、片手をキーに置いて、片手をレシーバーにあてたまま、ルイはつぶやいた。

「反逆者……」

『我々は、気が長い方ではない。ジョークも好まない。我々がどの程度本気か、お見せする』

 船の底から、波のような衝撃が来た。

 ルイはナヴィのシートに横ざまに転げ込んだ。

 身を起こす。キーに指を走らせ、船体をシールドする。

 しかし、第二波は来なかった。

 ルイは顔を上げた。

 フロントウィンドウの向こうには、銀河のきらめきが広がっているだけだ。肉眼で見つけられる『相手』ではない。

『我々は、反逆者の死を望んでいる。その船ごと……でも、かまわないのだ。我々の忠告を受け入れるよう、よく考えてみることだ。時間を与えよう。繰り返すが、我々の気は長くない。次はメインエンジンノズルを狙わなくてはならない』




 その衝撃で、マルグリットはベッドから転がり落ちそうになった。

「マルグリット……!」

 リックはとっさに腕を伸ばしたが、すでに打撲のある腰から壁に叩きつけられた。奥歯を食い縛って、うめき声を抑えた。

「マルグリット」

 振動の余韻の中で、ベッドに飛びつき、マルグリットの肩をつかんで引き寄せた。

 マルグリットが一瞬、自分の前にどうしてリックがいるのかわからないという目をした。

 それを見て、リックも戸惑った。

 ここに運んできたのはマルグリットが泣きやまないからだし、ここにいたのはマルグリットの指がリックのシャツをつかんだままだったからだ。ひとりになると自分に怯えてしまうなら、彼女のために、朝までここにいてもいいと思っていた。どのみち、眠れそうにない。

 ただの身代わりだ。恋人役に過ぎないのだ。

 そういうことはできる。それ以外の意味はなかった。

 しかし、マルグリットの瞳に見つめられていると、それが『言い訳』に思えてくる。

「おれ……ブ、ブリッジに上がらなけりゃ……」

「……」

「ここに……ここにいな、このまま」

 リックは、マルグリットから手を離した。

 その手に、マルグリットが手を重ねた。

「リック」

「え?」

「どうもありがとう……優しい方ね」

「……」

「きっと私、愛していたのね、あなたを……いえ……」

 今リックがいる場所にいた誰か……アンドレという名の誰かを。

 リックは応えず、マルグリットの濡れた瞳を見つめた。



「ルイ!」

 マチアスがブリッジに飛び込んできた。

 何事もなかったかのように、すでに船体の震えはおさまり、空気も静まり返っている。

 マチアスは息を弾ませたまま、

「いったい何なの? 怪我は?」

「ぼくは大丈夫……」

「攻撃されたのか?」

「今、警告の……あ! マージを……」

 彼女を助けに駆け出そうとしているようなルイの腕を、マチアスがあわててつかまえた。

「彼女は心配ない」

「マチアス?」

「たぶん……心配ない」

 マチアスのかすかに歪んだ微笑に、ルイは言葉を返せなかった。

 ドアが開いた。

 片手でシャツのボタンをかけながら、リックが駆け込んできた。

 それをひと目見た瞬間、マチアスは耳まで赤くなった。

 そのまま、逃げるように背を向けた。



 ひとり残されて、マルグリットはベッドの上にいた。

 キャビンの薄暗い空気を、じっと眺めていた。

 両手を上げる。そっと頬を包む。ゆっくりと目を閉じる。

「リック……」

 もう船は揺れてはいない。

 さっきの振動がウソのように、あたりは静まり返っている。

 だが、そのまま眠ることはできそうになかった。



「反逆者?」

 リックの声が重い。

 エンジニアシートのアームレストに寄りかかるように立ったまま、腕を組み、リックはスクリーンに目を上げていた。

 スクリーンには、無数の星が映し出されているだけだ。

 パイロットシートで、フロンウィンドウの向こうに目をやったまま、マチアスがいった。

「何か、誤解されてるんだぜ」

「でなけりゃ、マルグリットが、その……」

「彼女のどこが『反逆者』に見えるんだよ?」

 リックの言葉に、マチアスは立ち上がった。

「マチアス……」

「裸にしてみたら、どこかにそう書いてあったわけ?」

「……」

「それとも、私のせいで攻撃されてごめんなさいとでもいってくれたの? 彼女が」

 リックは驚いたようにマチアスを見たまま、押し黙っている。

 マチアスは力を込めて眉を寄せた。

「だぁいじなときに、邪魔が入って残念だったね」

 敵……ホワイトネビュラ号を撃った謎の船は、巧みにレーダーから逃れていた。それでも、探し続けるしかない。このまま離れていくことはないだろうから。

「あとはぼくとルイで敵を探すから、リックは続きをしにいけば?」

「何の話だ?」

「はっきりいってほしいの?」

「マチアス……」

「いってもいいなら……マージの男になれってことさ」

 リックは怪訝そうに、

「……知ってるのか?」

 マチアスは息を吸い込んだまま絶句し、もう一度真っ赤になった。

 そのとき、ブリッジのドアが開いた。




 少年たちは同時に、そちらを顧みた。

 開いたドアのもとに、マルグリットが立っている。少年たちの視線に気圧されたのか、それ以上踏み込めずに。

 何かいいかけたリックに、彼女はさっと顔を向けた。

「ごめんなさい、じっとしていることができません。何か、私……」

 自分のせいでトラブルが起きているのではないか……言葉にしなくても、マルグリットの心がわかる。

 いつもなら、マチアスが真っ先に歩み寄っているはずだった。優しく、柔らかく、少女の手を取り、ささやいて、その硬い瞳から不安を消すことが、彼にはできるのだ。

 だが、マルグリットに対して、マチアスは目を伏せただけだった。

 ルイは、そんなマチアスに目をひかれずにいられなかったが、リックがマルグリットに歩み寄ると、思わずそちらを振り返っていた。

 いつもなら、リックの方が少女に近づくことなど考えられないのだが、

「マルグリット」

 リックの声は平静だった。彼は、彼女を『マージ』とは呼ばなかった。

「はい……」

 マルグリットの瞳が、目の前に立つリックに上がる。

「ポアニードという国名に、聞き覚えはあるか?」

 マチアスが今見ているのは、マルグリットにそう問いかけたリックの横顔だった。

 ポアニード王国の、反逆者。

 それがマルグリット自身だとは、リックも信じていないはずだ。マチアスはそう思ったが、リックの表情は、マルグリットの罪をただしているように冷ややかに見えた。

 マルグリットはその瞳をリックの瞳にあてたまま、動かない。記憶を探っているのだろう。自分の脳の奥に触手を潜らせるように。

 しばらくの間マルグリットはそうしていたが、やがてゆっくりと、申し訳なさそうにかぶりを振った。

 マチアスは鼻を鳴らした。

「マージが『反逆者』のはずないって、おまえだって信じてるだろ、リック」

「信じてない」

 リックの瞳が自分に向くと、マチアスは唇を引き結んだ。

 リックはくりかえして、

「信じていない。マルグリット自身、信じていないはずだ。自分が誰なのかわからないのに、どうして『違う』といえるんだ」

「……」

「マチアス?」

「そうかもしれない。きっとそうなんだろう。でも、今夜のぼくには、そんなふうに考えられないんだ」

 マルグリットが『反逆者』と呼ばれることにも、彼女と親密なリックが冷静すぎることにも、納得がいかなかった。

 そう、冷静すぎる。

 マルグリットにときめき、溶けかけていた。自分なら彼女に対して……それもふたりきりの時間を過ごした後で、こんなふうに冷ややかではいられない。

 ふたりきりの時間を……。

 リックがさらに何かいいかけたが、マチアスは一方的に会話を切って、フロントウィンドウに向き直った。

 そのとき突然、ブリッジにあの声が流れた。

『結論は、容易に出たと思う』

 少年たちはハッと身構えて、スクリーンを見あげた。しかし、やはりそこにはそらが映し出されているだけだった。

 次の瞬間、マチアスはパイロットシートに飛び込んだ。

 ルイはコンソールに手を伸ばした。

「シールドを強化しろ」

 リックはルイに命じてから、素早くマルグリットを顧み、

「リビングルームに行け。そこで、じっとしているんだ」

「私を……」

「ああ」リックはうなずいた。「信じていない」

「……」

「でも、得体の知れないやつらに、あんたのことを教える気もない」

「リック……」

「『恋人』ってのは、そんなこと、しないんだろ?」

 マルグリットの見張られた瞳に、リックがいった。一瞬、照れ臭そうな笑みがリックの瞳に昇ったが、彼はすぐに表情を消して、自分のシートに向き直ってしまった。

 そのとき、また声がいった。

『答えよ、ジプシー。逃げられはしないのだ』

 ルイがリックを見た。リックは制止するように、ルイに手を上げた。

『反逆者に伝えよ。おまえをかくまったジプシーともども、アンドレ・キャトルのもとへ行け、と』

 なぜマルグリットが怯えたように息を呑んだのか、なぜリックが凍った瞳で彼女を振り返ったのか、マチアスにもルイにもわからなかった。

 マルグリットが、薄く口を開いた。

 もどかしげに拳を振りあげたが、言葉は何も出なかった。

「マルグリット」

 狂ったように頭を振るマルグリットを、リックの手がつかまえる。

「わかった、マルグリット。アンドレのもとへは行かせない」

「リック……」

「あんたを、行かせない」

 マルグリットの顔に目を当てたまま、リックは命じる。

「マチアス、エンジン全開。ヴェントのプラネットに逃げ込む。ルイ、ヴェントを呼び出せ」

「了解……リック!」

 キーに手を伸ばしたルイが、跳ね返されたようにリックに目を戻した。

「どうした……」

 振り返ったリックの言葉も、途中で飲みこまれた。

「どうして……」

 マチアスも同じように絶句し、スクリーンを見あげた。

 ルイがキーに指を走らせると、メインスクリーンにその船が姿を現わした。

 その船……見たこともない戦艦が。

 すべての砲塔が、ひとつの方向を見つめていた。

 その視線の先にいるのが、ホワイトネビュラ号だ。

 熱線砲。

 主として障害物の除去に使われるホワイトネビュラ号の砲とは、口径も出力も桁違いだ。

 その熱線に直撃されたら、どんなシールドがあっても、ホワイトネビュラ号はその存在を3秒と許されないはずだ。

『ポアニードの未来を御案じ下さるな、陛下』

 声が笑った。

 マルグリットの体が、折れるように揺らいだ。

 リックの腕が受け止める。

 次の刹那、砲塔のすべてが白い光を放った。




 マチアスを動かしたのは本能……死を回避するための、意識を越えた力だったのだろう。

 追いすがり、行く手を塞ぎ、船体をえぐり取ってゆく幾条もの熱線を、ホワイトネビュラ号はくぐった。

 それでも、死を先に伸ばせるのは、ほんの数秒だったにちがいない。

 もし、それが起こらなければ。

 突然、フロントウィンドウの彼方に巨大な火球が現れた。

 襲いかかる熱線は不意に去り、少年たちは光量を絞ったスクリーン上に、虚空に四散する戦艦を見た。

「なぜ……」

 かすれた吐息が、マチアスの唇から漏れる。

「リック」

 ルイが呆然としたように、リックを顧みる。

「あいつか……」

 意識をなくしたマルグリットを腕に抱いたまま、リックがスクリーンを見あげている。

 まったく別の戦艦が、銀河のきらめきを背景に浮かんでいた。

『応答願う。こちらはポアニード国軍司令官、カダーレン将軍だ。応答願う』



「アンドレ・キャトルは、近衛隊長でした」

と、カダーレン将軍はいった。

 将軍は見知らぬ軍服に身を包んだ、痩せた長身の男だった。灰色に近いブロンドをひと筋の乱れもなく後ろになでつけている。口ひげも同じ色だ。

 リビングルームでジプシーの少年たちと向かい合った将軍は、勧められた椅子もコーヒーも丁重に断わり、彼らの前に立っていた。

 リックは壁際に立ち、マチアスとルイは並んでソファに浅くかけ、将軍を見ていた。

 彼らを救った戦艦からやって来た宇宙艇は、将軍と数人の若い兵士、そして女医を乗せていた。マルグリットは意識を失ったまま医務室に運ばれ、母親くらいの年齢に見えるその女医がそばについている。

「彼らは、真っ先にキャトルの命を奪った。そうすれば、陛下の力を削ぐことができると考えたからでしょう」

「彼ら、というのが、あの……?」

 マチアスが将軍に問う。

 将軍は自分よりはるかに若い、宙軍での階級も地位もない少年たちに対して、見下げるような態度は一切取らなかった。丁寧な口調は、決して嫌味ではない。

「そうです。私は彼らを追っていた。彼らは、ポアニード王室に背いた反逆者として処刑されました」

「彼らの方が反逆者?」

「国王を追い落とし、政権を奪うために軍の一部が、つまり……」

「クーデター?」

「標準語では、そう呼ぶのでしょうな」

「彼らは、この船に反逆者が乗っているといっていましたよ」

「思想が反する……標準語に訳せば、そうとしか表現しようがないのです」

 将軍の瞳は、青みがかった黒だった。

 マチアスはその瞳に顔を向けたまま、

「彼女は、どうなるんですか?」

「今、記憶を戻すための薬を……」

「記憶を戻す……薬? 彼女の記憶喪失は意図的なものなのですか?」

「反逆者たちに捕らえられることを恐れたのです。こんなふうに第三者の手に渡ったとき、自分が何者なのかわからなければ、それだけ危険が少ないと考えたのです。あなたがたのように、かくまってくださるとは限らない。もし、無事にヴェントにたどり着けなかった場合……」

「目的地は、ヴェント?」

「そこからい地球へ……銀河連盟へ。ボアニードは、銀河連盟に加盟してはいますが、事実上鎖国状態です。他の星との貿易もない、情報の流出もありません。いわば……」

 言葉を探す将軍に、マチアスはいった。

「強盗に入られて、警察に知らせたいのに、電話がない状態?」

 将軍に瞳がほんの少し緩んだ。ずっと厳しい顔つきをしているが、本来の性格は十分にユーモアを解すらしい。

「だから、自分で走って助けを呼びにいったのです。あのときは、それが唯一、ご自身を救う方法でもありました。つまり、逃げることが」

「でも、反逆者に追跡され、乗っていた艇も事故に……」

 ルイがいった。

 将軍の瞳が、ルイに向いた。

「艇は、万一のことがあった場合、反逆者にこちら側の情報を奪われないため、脱出時に自爆するようプログラムされていました。そして自爆と同時に、記憶を失うように……」

「彼女、生身の人間でしょう?」

 マチアスが目を見張っている。

 将軍は、今度ははっきりわかるほどの苦笑を見せた。

「生身の人間にも、そのプログラムはできます」

 ルイが小さく、「催眠術……?」

「そう呼んでもいいでしょう。ただし、プログラムの解除は薬物で行ないます。施術者が指を鳴らせば意識が戻る、というパフォーマンスとは違います」

「では今頃、彼女は記憶を取り戻しているんですね?」マチアスが身を乗り出した。「ぼくら、彼女こと、何もわからないまま……」

「そして、記憶を失っていた間のできごとを忘れます」

 遮るような将軍の言葉が、マチアスの瞳から輝きを消した。

「忘れる……?」

「すべて」

「ぼくらと出会ったことを?」

「名前も、交わした言葉も」

「そんな……」

「すべてです」

 ルイがマチアスを見た。

 マチアスもルイを見た。

 カダーレン将軍も、ひげの下の唇を結んだ。少し間を置いてから、痛ましげにいった。

「そういうものなのです。薬をうたなければ、自分についての記憶を封じられたまま……。薬をうてば、その間の記憶は白紙に……」

「ちがう」不意にリックが言葉を発した。「そんなプログラムをされていても、彼女はひとつだけ、記憶をなくしていませんでした。彼女は『アンドレ』を覚えていた」

 将軍が目を見開いた。

「まさか……」

「彼女の船が自爆した、その直後だけですが……それでも覚えていました」

 将軍は、ゆっくりと顔を伏せた。

「そんなことが起こるのだろうか……。キャトルは、いずれ夫となっていたはずの男です。プログラムが不完全だったのか……あるいは、記憶を封じても、消し去ることができないものがあるのか。そのような例は、これまで報告されていませんが」

「その人のことを、それほど愛していたってことですか?」

 問うマチアスの瞳は、リックの横顔に向いていた。

 リックはそれに気づかないのだろう。ただ将軍を見ていた。

「だから、キャトルはいちばんに狙われたのです、反逆者に」

 将軍の言葉を聞くマチアスは、泣きだしそうに眉を歪めた。その瞳はまだ、リックの動かない横顔を見つめていた。

 重い沈黙の後、リックがいった。

「彼女……何者ですか」

 カダーレン将軍が答えた。

「マルグリット・エリアーデ・ソル・ポアニード三世、ポアニードの女王陛下です」




 女王を無事取り戻し、追ってきた『反逆者』の戦艦が撃沈されたことで、こちらが優位に立った。ポアニード本国でも反乱軍が鎮圧されるはずだ。

 そういって、覚醒したマルグリットのもと……医務室に、カダーレン将軍は降りていった。ホワイトネビュラ号を離れる準備が始まっているのだ。

 マルグリットは、ポアニードに帰る。

 女王の座に。

 それは、ジプシーの少年たちにとっては(コンボトルの未来の国王であるマチアスにとってさえ)遠い場所だった。

 リビングルームに取り残された3人は、それぞれに宙を見つめて、それぞれの思いに沈んでいた。

「記憶を取り戻せば、アンドレっていう人を失ったことも思い出すことになるんだね」

 マチアスが小さくいい、ルイがその横顔に視線を向けた。

 リックがつぶやいた。

「自分の名を忘れても、アンドレの死を覚えていた……」

 マチアスもルイも、今度はリックを見た。リックは胸で腕を組み、目を伏せていた。

「死んだことを……?」

 マチアスが首をかしげ、リックはうなずいた。

「彼女は泣いていた……泣きやまなかった」

「で……」マチアスは眉を寄せる。「そういう彼女を、うまいことやってモノにしたわけね。知らないぜ、リック、カダーレン将軍に撃ち殺されても」

「何?」

「一国の女王に、イケナイこと、したんだからね。ぼく、かばってやらない」

「お、おれは何も……」

「何もしてないっていえるの? さわってもいませんか?」

「おれは……」

 答えの代わりに、リックは赤面した。

 マチアスは、さらに顔をしかめた。

「おまえの方が手が早いとは!」

「おれは……おれは、『アンドレ』の代わりに……」

 マチアスが、ヒュウッと口笛を鳴らす。

 リックは黙り込んだ。

 両手を、空気を抱えるような形に上げた。

 自分が何者かわからず、怯えていたマルグリット。

 胸に落ちた涙は、熱かった。

 抱き締めて、リックも動けなかった。

 あれから、まだ数時間しかたっていない……。

 不安そうに、ルイがリックを見ていた。

 いつの間にか、マチアスの眉間のしわも消えていた。

 リックは戸惑い顔で、ひとりごとのようにいった。

「おれは、アンドレの代わりにはなれない。どうして代役に……今夜だけ、恋人になろうなんて思ったのか、もう忘れた。とにかく……おれには不向きだ」

 言葉は、かすかな苦笑で結ばれた。

 自分を見つめる二対の瞳に気づき、リックは軽く首をすくめた。

「おれたちには関係のない、遠い国の話さ。さっさとお引き取り願おうぜ」

「リックは、冷たいやつだなぁ」

 マチアスがいった。

「おれたちの名前さえ記憶してない女のために、熱くなっていられるかよ」

 リックはうそぶくと、リビングルームを出ていった。



 マチアスとルイは、肩を並べてリビングルームを後にした。

 リックのいう『名前さえ記憶していない女』を見送るために。

「女王陛下……か」

 マチアスがぽつりといった。

 ルイはマチアスの横顔にうなずいた。

「17、なのにね」

「想像を超えてるよ。彼女が……ちくしよう……今回の恋は短かったなぁ。一晩のうちに始まって終わったぞ」

「マチアス……」

「リックは、本気だったのかな」

「……」

「ぼくの恋って、どうして実らないんだろう。ぼくが、いやなヤツだからかな」

「いやなヤツ?」

「まず、嫉妬深い」

「そうなの?」

 ルイの瞳が丸くなる。

「ぼくが石みたいな心の人間ならよかったんだ。なのに、マシュマロさ。惚れっぽい。だから、嫉妬に苦しむんだ」

「ぼくね」

「ん?」

「君って、本当に惚れっぽいと思う。ふられてばかりだなぁとも……」

「う……」

「でも、君は決して、ふらないね」

「慰めにならないよ、ルイ。失恋は失恋さ。ふるよりふられるのが早いだけだ」

「君は、相手を嫌いにならないんだ。ふらないって、そういう意味だよ。それって、素敵なことだと思う」

 マチアスが歩みを止めたので、ルイも一歩余計に進んで立ち止まった。ふりかえるルイに、マチアスはかすかに笑った。優しい笑みだが、自嘲に見えた。




 ハッチに接続されたチューブが、トンネルのように伸びている。

 その先は、ポアニードの宇宙艇。

 接続部には若い兵士が、人形のように無表情に直立していた。

 左右に将軍と女医を従えて、マルグリットは立っていた。

 向かいあって立つジプシーの少年たちは、マルグリットを見つめていた。

 服装も髪型も何も変わっていないのに、顔つきが違う。

 マルグリットの黒い瞳は、彼らが見ていたよりずっと大人びて、生気にあふれている。

 記憶を封じられたことで、ホワイトネビュラ号での彼女は、美しい容姿の内側にしおれた心を抱えていたのだ。自分を取り戻した今は確かに、年若いが女王らしい。金属的な空気を身にまとい、威厳さえ感じられた。

 思いだしたはずなのに、押し隠しているのだろうか。『アンドレ』を愛していたマルグリットの面影も、今の彼女にはなかった。

 マルグリットが膝を折り、上体を倒して礼をした。肩から髪が流れ落ちて、姿勢を戻した彼女の頬にかかった。

「あなたがたが、私を助けてくださったジプシーのみなさんなのですね」

 声さえも、マルグリットではないようだった。いや、今の彼女こそがポアニード女王のマルグリットなのだが、少年たちには、見知らぬマルグリットにしか思えないのだ。

 記憶を失った彼女が……少年たちが見た彼女が、素顔のマルグリットなのかもしれなかった。しかしもう誰も……彼女自身も、それを見ることはない。事故船から救い出され、ブリッジで気を失うまでの間、たった一夜のことだ。マルグリットにとっては、失って惜しい記憶ではないのだろう。

 3人は、マルグリットにとっては、今初めて会った少年たちだった。『はじめまして、陛下』と挨拶すべきかもしれない。だが、

「感謝いたします。さようなら、みなさん」

と、マルグリットがいったので、

「さようなら」

 マチアスも、そういった。

「幸運を……」

 ルイがいった。

 マルグリットはゆったりとうなずき、その隣に立つリックにも目を向けた。当然、何か、言葉をかけられると思ったようだ。

 が、リックは無言のままだった。

 マルグリットは表情も変えず、それ以上待たず、チューブに向き直った。今の彼女にはリックも、『自分を助けてくれたという見知らぬ少年』なのだろう。

「参りましょう、陛下」

 エスコートする将軍が、そっと手を伸ばした。

 マルグリットの手が、上がりかけて宙で止まる。

 戸惑ったように、自分の指の先を見つめている。

 まるで勝手に唇だけが動いたように、その声がこぼれた。

「リック……」

 リックが、驚いた顔でマルグリットを見つめた。

 マルグリットは振りむき、自分に向けて見張られているセピアの瞳を見つめ返した。

 だが、ふたりの視線が触れあったのは、その一瞬だけだった。マルグリットはすぐに将軍に目を戻し、待っている手の上に自分の手を重ねた。

 女王は帰っていった。女王の世界へ……彼女自身の戦いの場へ。

 マルグリットの姿が宇宙艇に消えても、リックはマルグリットのいた空間を見つめていた。

 リックが見ているものが何なのか……誰なのか……マチアスには見えない。

 ただ……リックの横顔を見つめるマチアスの瞳に涙が浮かび、まつ毛ににじんだ。

 それに気づくと、マチアスは瞳を返し、通路を去っていった。



 ソファの上で膝を抱えているマチアスのために、ルイがコーヒーをいれた。

 リビングルームに朝陽はささないが、銀河標準時……船内時間では、すでに夜が終わっていた。

 ルイからカップを受け取って、マチアスは目で礼をいった。それから、

「おまえはさ、ぼくを『素敵』といってくれたけど、本当は全然素敵じゃないんだ」

「どうして?」

 カップを手に、ルイが床に座った。ソファの前に。顔を上げて、マチアスを見つめた。

「ぼくさ、自分が、マージにも嫉妬してるような気がした。変だろ?」

「マチアス」

「リックにあんな顔させる人間は、そんなにいそうもないから」

「……」

「笑ってくれよ、ルイ」

 ルイは、ゆっくりと首を横に振った。

「笑わない。君のいってること、ぼく、よくわかるから」

「ルイ……」

「それでもやっぱり、恋してる君は素敵だよ」

 マチアスは不思議そうにルイを見ていたが、やがて、はにかんだ顔でいった。

「リックのやつ、どこかで、めそめそ泣いてるのかな」

 その声が耳に入ったかのように、リビングルームのドアが開いた。

「おい」

 マチアスもルイも、ビクッとしてそちらを顧みた。

 めそめそしていないリックが、マチアスにしかめ面を向けている。

「こんなところで何してるんだよ」

「は?」

「めし」

「え……」

「作らないのか?」

「食欲、あるの?」

「ないはずないだろ」

「……」

「食事がすみ次第、ヴェントヘ修理に向かうぜ」

「あ……うん」

「どうかしたのか?」

「どうもしてないけど……こっちこそ、おまえがどうかしてやしないかと……」

「おれが……?」

 きょとんとしているリックに、マチアスはふくれ面で、

「ああ、もう! 失恋慣れしてないやつは、これだから嫌いだ! どうやって慰めればいいんだろうって、ずっと考えてたのにさ! まったく、心配しがいのないやつだよ、おまえは!」

 拳をふりながら、リビングルームを出ていってしまった。

 料理を手伝うためにマチアスに続こうとするルイを、リックは呼びとめた。

「あいつ、なんて言ったんだ?」

 ドアのもとで足を止めたルイが、リックに片目をつぶる。

「君のことが大好きだ……って」

「……」

 ルイは去り、ドアが閉まった。

 呆けたリックの目の前で。



(1994.5)

この先も、リリース順に関係なくアップしていきます。

「続きもの」の上げる場合はそのことをご説明しますね。

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