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妨害―interposing―

【3人組】というのは、このシリーズのニックネームです。


キャプテンでエンジニアのリック・シルヴァー、パイロットで料理長のマチアス・ターラー、ナヴィゲーターのルイ・マルロー……人命救助のために銀河中を飛び回っている16歳の少年3人組が主人公で、一話完結のシリーズです。


「妨害」は第30話にあたりますが、内容的にシリーズ紹介に便利なため、最初に投稿しています。

*0*


「リック……それ、本当?」

 通路を小走りに医務室へ向かいながら、マチアスは、肩を並べているリックの横顔を見た。

 リックはまっすぐ前を見据えたまま、

「調べて損はないはずさ。催眠ガスがまったく減ってないなんて、難破船では考えられないことだ。パイロットは、眠ってたんだからな。まさか、居眠りをしてたわけじゃないだろう。それに……あいつ、惑星間ボートにしちゃ、重すぎる」

「中庭にいれておけば、大丈夫だろ?」

「得体の知れないものは、できれば外へ出したい。もう太陽系エリアだ。ジプシーのおれたちがトラブルを起こすわけにはいかない」

「うん」

「あのパイロット、無理にでも覚醒させてやる」



 彼らは難破した短距離航行用のボート(宇宙艇)を救いあげた。

 ボートは、救難信号を発信すると同時にパイロットを催眠ガスで眠らせる構造になっている。救助されるまで、少しでもエネルギーと酸素の消費を抑える必要があるからだ。

 ボートを、彼らの船、ホワイトネビュラ号の中庭(中央格納庫)に収容すると、彼らは深く眠っているパイロットの青年を医務室に運んだ。

 医務室では今、この船の3人目のメンバー・ルイが、青年の覚醒を待っている。



 リックとマチアスは医務室につき、ドアを開けた。

 マチアスが、体にまといつく重苦しさを払い飛ばそうとするように、明るく声をかけた。

「ルイ! お客さんのようすは……あ、ルイ!」

 パイロットを寝かせていたベッドの下にルイが倒れていた。

「どうした!」

 ふたりは駆け寄り、布人形のようにぐったりしたルイの体をマチアスが抱え起こした。リックはすぐそばにひざまずいた。

 ルイが眉を震わせる。

 力ない手を上げて、みぞおちをさする。

 薄く目を開き、掠れた声で、

「ご、めんなさい……」

「何をいってる。あいつか?」

 リックはルイの耳元でいった。

 ルイはうなずき、

「油断、してた。急に……」

 そのとき、船内スピーカーから、その声が聞こえてきた。

『乗組員はただちにブリッジに集合しろ。……聞こえたな?』



 彼らは、銀河連盟の中の一組織、宙軍の一部門であるRAP(RESCUE AND PATROL の略)に属する、ジプシーと呼ばれる救助隊のメンバーだ。

 銀河中の航路、非航路を自由に飛び、救難信号をとらえては救助に向かう。

 それが、ジプシーの任務である。

 彼らの船の名は、ホワイトネビュラ号。

 人口の増加や資源危機に喘ぎつつも太陽系から外に出られなかった人類を、ワープ航法を開発して救った英雄、ケイ・シルヴァーが初めてワープに成功した船と同じ名だった。

 ケイは自らの名声を逃れるように太陽系を離れ、科学者や技術者のための星を開いた。

 現在『ヴァン・ラヴ』と呼ばれているその星の管理者は、ケイの孫、ラルフ・シルヴァー。

 そのひとり息子のリックが、ジプシー船・ホワイトネビュラ号のキャプテンだ。

 ワープ航法がケイによって確立されてから、三分の二世紀が過ぎていた。

 それは、銀河中に地球人類を運んだ。何千という惑星・衛星が開拓され、国家を形成していった。

 同時に、宇宙空間での事故を、地上の交通事故のように増やすことになった。

 それらの事故に対処するために、宙軍内に正式にRAPが整備されたのは、最近のことである……。



*1*


「おまえたちだけか?」

 青年は、まずそういった。

 リックは、青年の手の中のヒートガンを見つめていた。その背後で、マチアスもルイも息を止めていた。

 青年はブリッジの中央、パイロットシートの後ろに、少年たちを向いて立っていた。ひょろりとした体つきで、尖った顎が目立つ。

「質問には答えろ」

 冷たく細めた灰色の目が、リックを見た。

「おれたちだけだ」

 リックは、のんびりとした口調で答えた。

「へぇ、ガキ3人の船か」

 相手はヒートガンを扱い慣れている、とリックは思った。彼のポケットにも小型のヒートガンがあるが、そして、素早く抜いて撃つ自信もあるが、万一、相手がトリガーを引いて誰かを、あるいはブリッジの設備を傷つけることになったら……それを考えると手を動かすことができない。

「キャプテンは誰だ?」

 青年は、リックの顔の中央に銃口を向けて尋ねた。

 リックは低く、

「おれだ」

「銃を持っているな?」この質問には答えを待たず、「床に放り投げろ。3人ともだ」

「あんた、ハイジャッカーか?」

 リックが、ゆっくりとポケットに手を伸ばしながらいった。

「そうだよ」青年は笑い、「僕をどうこうしようと思わないことだ。銃は、おとなしく捨てたまえ。僕が死んだら、君たちも死ぬよ」

「……」

「ハッタリだと思わない方がいいな」

 青年は、軽い声を立てて笑った。

 リックはすぐには反撃しないことに決め、ヒートガンを青年の足もとに滑らせた。

 マチアスとルイも、リックに従った。

 足のそばの3つの銃には目もくれず、青年がいう。

「この船は、僕がもらった」

「そんなヒートガンひとつで、この船を乗っ取れたと思ってるのか?」

「キャプテン、僕はそんなことしないよ。そこらの宇宙海賊とは、一緒にしないでほしいな。僕はこんなヒートガンで乗っ取ったわけじゃないんだよ」

「……」

「こんなもの、しまってもいい。君たちが事情を飲み込んでくれたら、君たちのヒートガンもお返ししよう」

 青年は自分の言葉を証明するように、構えていたヒートガンを下ろした。

 青年の肩の向こうにあるフロントウィンドウ。

 星たちが静かに光っている。

 青年のボートを収容してから、船は止まっていた。

「僕の名は、レフ・キングだ」

「……」

「この船で、これから地球に向かう」

「……」

「ここからなら、明後日には着けるね」

「……」

「僕のボートには、爆弾が積んであるんだ。すごいやつだぜ。投下先は、オーストラリアだ」

 リックはかすかに眉を寄せた。

「あんた、オーストラリアのどこかの街を壊すために、この船を乗っ取ったのか?」

 レフが、リックを見つめて笑う。

「よく聞いてくれたまえ。僕は、オーストラリアに投下するといってるんだ」

「な……」

「大陸ひとつを消せるんだよ、あれで、ね」

 少年たちは絶句し、レフは靴の爪先で床を鳴らした。

 その床の遥か下、中央格納庫に、彼の『重すぎる』ボートが横たわっているのだ。

「そんなこと、させないぜ」

 リックはしぼるようにいった。

 レフは首をすくめ、

「するよ。この船はもう……ああ、この船、なんていう名?」

「ホワイトネビュラ号」

「かの有名なケイ・シルヴァーの船の同じ? 科学史や銀河史にも登場する名だね。そりゃ、素敵だ。チェスでは白が先手だからね。僕は3つのポーン……君たち3人という兵卒を従えてる。キング自らチェックメイトってわけだ」

「たった3つのポーンで戦えるもんか」

「ポーンは、敵の懐に飛び込めば、クイーンにだって昇格できるんだよ」

 リックは押し黙った。

 レフ・キングの薄笑いが、その唇から顔中に広がる。

 リックの肩の後ろにいたマチアスが、リックの肘のあたりに触れた。

 リックは、無意識に止めていた息を、静かに吐いた。

「この船は、おれたちのものだ」

「僕のものさ。試しに、そこのコンソールをいじってごらんよ」

 レフが顎をしゃくってみせた。

 ホワイトネビュラ号のブリッジには、3つのコンソールが配置されている。

 正面中央、フロントウィンドウの下が、マチアスのパイロットコンソール。その後ろにふたつ……右がリックのエンジニアコンソールで、左がルイのナヴィゲーターコンソールである。

 レフの顎が、ルイのコンソールを示していた。

 リックはハッとしたようにそちらに飛び、いくつかのキーを叩いた。

 マチアスとルイが、不安げに見守る。

 リックの顔色が変わっている。

 彼は長い間、コンソールを見つめていた。やがて、レフに顔を向け、

「貴様、何をした?」

「メインコンピューターをいただいた」

「……」

「決められた時間に決められたキーを打ち込まないと、この船のワープエンジンが自爆する。もちろん、僕しか知らないキーだ」

「何……」

 万一の場合に備えて、ワープエンジンには自爆の機能が備わっている。たとえば、船がどこかの星に落下して、地上に被害を与えそうなとき、乗員は救命ポッドで脱出し、ワープエンジンを爆発させて船を破壊することができるのだ。

「ついでに、中央コンピューター室や銃器庫も封鎖した。無理に開けようとすると、同じ命令を実行する」

「まさか!」

 叫んだのはルイだった。

 いつもひっそりとした優しい声で話すルイの鋭い叫びに、リックは思わずそちらを顧み、レフも嬉しそうにルイを見た。

「坊や。さっきは驚かせてごめんね。眠ってると思ってた男に不意打ちを食らって、寿命が縮まったんじゃないかい?」

 ルイは眉を寄せ、低くいった。

「そんなこと、できるはずない。収容してから、たったこれだけの時間でそんなプログラムをすることは……」

「僕にはできるんだよ、坊や。僕が作ったユニットなんだ。それをコンピューターに接続するだけでよかったんだ。この船のコンピューターは、〈凍結〉してるのさ。僕の命令があったときだけ、必要な働きをしてくれるっていうわけだ。今頃は、格納庫の封鎖も完了している。ボートに触れようと思うなよ。最終命令を実行されたくなかったら」

 薄く開いたルイの唇から、冷えた、細い溜め息が漏れた。

 マチアスの手がそっと上がって、慰めるようにルイの腕をつかむ。

 リックは、ナヴィゲーターコンソールの前に立ったままだ。

 それきり、時間までが『凍結』してしまったように少年たちは動かなかった。

 レフは足もとから3つの銃を拾いあげ、

「信じてくれたかい? キャプテン」

 リックは、黙ってレフを見ただけだ。

「さぁ、コーヒーでもいれてくれないか?」

 というレフに向けて、マチアスがその緑の瞳をすがめた。

「コーヒーメイカーは、ぼくの意思で動かせるんだろうね?」



*2*


 ブリッジと同じフロアにあるリビングルームに、レフと少年たちはいた。

 少年たちのヒートガンは、すでに、それぞれの手に戻っている。

 だが、その銃でコンピューター室のドアを開けることはできないし、船の命を握っているレフを、殺すことも傷つけることもできない。そして、この『仕事』がいやだからといって自殺したってしようがないんだよ、とレフはいった。まぁ、死んでしまいたくなったらそうしてもいいけど。僕ひとりでも、『仕事』はできるんだからね。

 リビングルームは、壁もテーブルも温かなオフホワイトで統一され、いくつかの座り心地のいい椅子やソファが、カラフルな島のように点在している。

 テーブルに、湯気をたてるコーヒーカップが4つ置かれていた。

 レフはそのテーブルに腰かけ、少年のように足先を揺らしている。

 リックは部屋の奥のソファにかけている。

 マチアスはテーブルの近くに寄せた椅子に腰かけ、ルイはドアのそばに立っていた。

「どうした? コーヒーが冷めてしまうよ」

 レフが少年たちを見まわした。

 マチアスは目が合わないように天井を見上げ、リックは目を伏せていた。

 ルイはずっと、壁の一隅を占めるコンソール上のスクリーンを見つめていた。

 それは、灰色に消えている。

 ルイはその前に立ち、点灯させるためにコンソールのキーを打ち込みたかったが、一歩も動かなかった。ルイの指が放つルイの『願い』を、リビングルームのコンソール……この船のコンピューターは、聞き入れてくれないにちがいないからだ。

「坊や、名前を聞いていなかったな」

 ルイはハッとした。いつのまにか、レフが背後に立っているのだ。

 ルイはゆっくりとふりかえった。

「質問には答えるんだよ。名は?」

「……ルイ」

「殴って悪かったね」

「……」

「おや、元気がないじゃないか」

「……」

「気付け薬をあげようか」

 レフはジャケットの内ポケットから、薄いプラスチック板を取り出す。

 レフの顔を見ようとしないルイの青い瞳の前に、レフはそれを差し出した。

「見なよ」

「……」

 ルイは、力なくかぶりを振った。

 柔らかな金の髪が、うなじで泳いだ。

「見ろ」

 レフの声が低くなる。

 ルイはそっと顔を起こして、レフの手元に目をやった。

 が、次の瞬間、あっと声を上げてまつ毛を伏せてしまった。

 それは、裸の娘と裸の青年が、ベッドの上で絡みあっている立体写真だった。

「おやおや、今どき珍しく純情な坊やじゃないか、ルイは。うれしいな、これ、プレゼントするよ。この船をくれたお返しだ」

「い、いりません」

「遠慮することはないさ、まだまだいっぱいあるんだ」

 レフは手にしていた写真をルイの足のそばに投げ出し、続いてポケットから同じような写真の束をつかみだすと、ルイのまわりにばらまいた。

 それらは一枚一枚異なっていたが、被写体は同じだった。どうやら、その行為の始めから終わりまでを連続して写し続けたものらしい。

 ルイはきつくまぶたを閉じた。同時に、拳を握った。手が震えている気がしたからだった。腕をつかまれて引っ張られたとき、反射的に振り払いそうになったが、

「悪趣味な真似はよせよ、レフ」

 引き寄せられた耳元に聞こえたのは、マチアスの声だった。

 ルイはマチアスを顧み、彼の素早いウィンクに小さくほほえんだ。

 マチアスが、写真の群れを見下ろした。

 娘を撮ることが目的だったことは、はっきりとわかる。青年の方は、ほとんど顔も写っていないからだ。青年はダークブロンドで、年はレフと同じくらいに見えた。レフの髪は黒に近い茶色だ。

「これ、あんたの写真じゃないのか」

 マチアスが、ぽつりといった。

「僕の恋人の写真さ。綺麗だろう?」

「ああ。バストは85だな」

「なかなかじゃないか、君……」

「マチアスだ」

「マチアス君か。実は、86だ」

「ふうん」

 マチアスは興味なさそうにうなずいたが、写真からは目を離さなかった。

 それは、16才の健康な少年が他人の性行為のあらわな写真を興味を持って眺めている……というまなざしではなかった。マチアスは何かを読み取ろうとするように、写真の中の情景を見つめているのだった。

 レフがいった。

「今、シドニーに住んでるんだ」

「このブロンドの男と?」

 マチアスは顔を上げ、ニヤッとした。

 レフもニヤッとし返した。

「だから、消すのさ」

「根に持つタイプなんだな」

「愛しているからさ。これは本当の愛だ」

「去っていった恋人を、住んでいる大陸ごと消すことが……愛?」

「愛、さ」

「ぼくは、ぼくをふったガールフレンドたちに、幸せでいてほしいと思ってるよ。殺そうと思ったことなんかない」

 マチアスは、少女たちと仲良くなるのが得意だった。彼は、女性という女性、すべてに好意を持っているような性質だったし、相手も、陽気で人なつっこいマチアスには好感を抱かずにいられない。

 ただ、『ジプシー』だから、たいていはふられてしまうのだった。

 この時代、救助船を住みかにし、一か所に落ち着いて暮らさない『ジプシー』は、一般市民からは単なる『宇宙の放浪者』と思われることが多かったし、そこから微妙に変化して『ヤクザ』『ゴロツキ』と同義語だと思われることも少なくない……。

 レフはいう。

「愛を裏切られて、おとなしく身を引けるのは、たいして愛していなかったっていう証拠さ」

 マチアスは、不思議そうにレフを見た。

 レフはまるで聖者のように堂々とそこに立ち、マチアスを見つめている。

 マチアスは口を開きかけた。

 そのとき、聞き慣れたブザーの響きがリビングルーム中を震わせた。

 じっとしていたリックが、跳ねるように立ち上がった。

 マチアスもルイも、ドアに体を向けた。

「動くな!」

 レフがヒートガンを抜く。

「撃ちたきゃ撃て」

 リックは吐き出すようにいい、ドアに歩み寄る。

 レフは、ドアを出ようと歩きだすマチアスの腕をつかんで引き戻した。

 マチアスはそれを振りほどきかけ、こめかみに銃口を感じて動きを止めた。

 ルイが息を呑み、リックも足を止めた。

 ブザーは鳴り続けている。

 それは、船が救難信号をとらえていることを乗員に知らせるブザーだった。

 救難信号がごく近い宙域で発信されていると、その音からわかる。すぐにそこへ向かえば、それだけ救助が成功する可能性が高くなる。より多くの生命を救えるはずだ。

 リックは黙って、返された自分のヒートガンを抜いた。銃口をぴたりとレフの額に向ける。

「おもしろい! 僕を殺してでも行くかい? 君が撃つと同時に、僕も引き金を引くよ」

「引けよ」

 マチアスが軽く肩をすくめた。

「僕が死ねば、みんな死ぬんだ。先にマチアスが死んでも同じことだな。ま、それもよかろう。でも、忘れているよ。コンピューターがいうことを聞かないこの船を、どうやって事故船のところまで飛ばすんだい? 救難信号はキャッチしてくれたけど、そこまで運んではくれないよ、この船は」

「……」

 リックは唇をきつく噛み、そっと銃を下ろした。

 それ以上、何もできなかった。しなくてもよくなったのだ。

 ブザーは消えた。

 事故船が誰かに救われたからか、救われないまま消失したためか……。

 そら(宇宙)での事故の多くは、助かるか消え去る、二つのうちのどちらかで終わる。

 リックの銃が床を向くと、レフもマチアスのこめかみから銃口を離した。

「ちくしょう……」

 マチアスが口の中でいった。銃を持ったレフの手を上に押しあげ、その顔に拳を叩きつけた。

 が、レフは殴られたままではいなかった。

 マチアスの足を払い、わずかに前にのめる彼の首の後ろをめがけて大きく銃を振り下ろした。

 鈍い音と、マチアスのうめきと、ルイの叫びとが同時にあがり、次にマチアスはばらまかれた写真の上に倒れた。

「マチアス……!」

 リックの声が、室内に反響した。

「ルイ」軽く息を弾ませているレフが、立ちつくすルイを顧みる。「それは、何のためだい?」

 レフの顎で示されたのは、ルイの体の脇で震えている彼の拳だった。

 その指の関節が白い。

 ルイはレフにいわれるまで、自分の握り拳にも気づいてはいなかった。

「僕を殴りたいのかい? 君も」

「レフ……」

 ルイは拳をほどかなかった。ほどけなかったのだ。

「そんなに殴りたいなら、許可する。僕ではなく、彼を殴りたまえ」

 レフの手がまっすぐに上がって、リックを示した。

 ルイは、弾かれたようにリックを見た。

 リックは無表情に、ルイに目をやった。

「さぁ、早くしなよ」

 レフは笑いながらいい、倒れているマチアスの肩に足をかけた。ヒートガンが、マチアスの後頭部に向けられる。

「この引き金を引くのと、キャプテンを殴るのと……おや、キャプテンの名をまだ聞いていなかったな」

 レフはリックを見る。

 リックは瞳だけを動かしてレフを見、

「リック……」

「OK。さぁ、ルイ。君が決めるんだ。どっちがいい?」

「どっちもいや」

 かすれて漏れたルイの声は、駄々をこねているようにも聞こえた。

「選ぶんだ。でないと……」

 レフが銃口をわずかに動かして、引き金を引いた。

 白い光が走り、床に乱れているマチアスの髪と、その下の写真を焼いた。 

 ルイは目を見張り、細く煙をあげる写真を見つめた。

 髪の焦げる匂いと、プラスチック板の溶ける匂いとが、ルイを追いつめる。

「ルイ」

 その声に目を上げ、ルイはリックがほほえんでいるのを見つけた。

 操られるように、彼はリックの前にゆき、かためたままの拳を振りあげ……。

 振り下ろした。



*3*


「さぁ、いい加減にガキみたいな真似はやめろよ」

 意識を取り戻しかけたマチアスは、まず半ば途方に暮れたようなリックの声を聞いた。

 痛む頭を動かしてみる。

 目を開けると、視界はぼやけていたが、自分が仮眠室のベッドに寝かされていることがわかった。

 仮眠室には3つのベッドが並んでいる。天井の見え方で、いちばん奥のベッドだということもわかる。

 室内は薄暗い。

 いつもより空気が冷たいような気もする。

 これもレフのいう〈凍結〉とやらのせいだろうか、と考えた。

 リビングルームと仮眠室は向かいあい、ホワイトネビュラ号のいちばん上層部、ブリッジと同じフロアにある。レフが船のメインコンピューターを〈凍結〉させて以来、下の階には降りていない。どうなっているのだろう……。

 隣のベッドに、リックが腰かけていた。

 そのベッドのシーツがふくらんでいる。端から、金の髪がこぼれているのが見えた。

 ルイだ。

 いったい何をしているのだろうと、マチアスは思った。

「まったく、困ったやつだな」

 リックが、どこかしら嬉しそうにも聞こえる調子でつぶやいた。

 途端にルイがバッと起きあがり、シーツをはぎとって、

「ぼく、死んでしまいたい」

「へぇ」

「ぼく、ぼくにだって、プライドくらいあるんだ」

「本当か?」

 リックが目を丸くしてみせると、ルイはうつむき、

「ある! と思う。……たぶん」

「……」

「あんな人のいうこと、聞かなくちゃいけないなんて……」

「ルイ」リックの声が呆れたように、「『あんな人』じゃなくて、『あの野郎』とか『あんちくしょう』とか、いえないのか?」

「ぼく……」

 ルイは困惑しているようだ。

 リックはあやすように、

「わかったわかった。とにかく、屈辱に耐えかねて自殺するっていうんだな?」

「だって、あんな……」

 ルイはリックを見、泣き出しそうに表情を歪めた。

「何ともない。あのくらい」

「でも……」

「蝶々が、飛んできて止まったのかと思ったぜ」

 リックはそういって、頬をさする。

「本当?」

 ルイが、リックの目をのぞき込んだ。

 リックはちょっと視線を落とし、

「いや……」

「……」

「強くなった。おまえはどんどん強くなる。敵にまわしたくないぜ」

「敵になんかならないよ!」

 柔らかに伏せたままのリックのセピア色のまなざしに、ルイはもう一度シーツをかぶってしまった。

 リックは首をすくめ、ふと、マチアスのいるベッドを見た。

 マチアスと目があうと、彼は何かの合図のように軽く手を上げた。

 マチアスがいった。

「レフは?」

 その声を聞くと、ルイがシーツから飛び出し、マチアスのいるベッドにしがみついた。

「マチアス、気がついた? 気分は?」

「頭が痛いだけ。……ルイ? おまえ、泣いてたの?」

 マチアスは枕に頭をつけたまま、自分のシーツの端を持ちあげて、ルイの顔をこする。

 ルイはあわてたように、

「違う、違うよ、やだな。ぼくは男なんだからね、泣いたりしないんだ」

「へぇ! じゃあ、今まで……泣き虫だった頃、おまえ、女だったのかぁ」

 マチアスが掠れた声でいって笑うと、ルイは頬をふくらませた。

「ごめんごめん、すねないで、ルイ。今、どこ?」

 ルイはふくれ面をやめ、氷のように冷静な顔つきになった。

「あと三時間で、太陽系に入るよ」

「レフは?」

「ブリッジ」

「船は?」

 ルイは、黙ってイヤイヤをした。

「どうすればいい?」

 と、マチアスはいい、ルイからリックに視線を移した。

 リックはベッドのそばに立ち、マチアスを見つめていた。

「どうすべきかな」

「あの事故船、どうなったんだろうね」

「助かったぜ」

「連絡、とれたの?」

 マチアスが目を見張ると、リックとルイが顔を見あわせた。リックはマチアスに目を戻し、

「いきさつはこう、さ。あの事故船にはどこかの国のVIPが乗ってたんだ。ナイトが護衛してた。近い事故で、あっちのスクリーンでこっちを確認できたらしい。でも、おれたちは応えなかった。結局、近くを走っていた貨物船と、そのナイト、アトランタ号が救助にあたった。死者ゼロ、機関士が軽い火傷……だそうだ。で、そのアトランタがこっちの消息を尋ねてきたわけさ」

「救助が仕事のジプシーが何も応えなかったら、かえって不審がられるもんね」

「〈凍結〉のシステムがどうなってるのかはわからないが、あいつは通信回線の一部を開いたんだ。アトランタとのみ、交信できる。音声だけだがな」

「アトランタと交信した?」

「さぁな」

「『さぁな』?」

「あの王さまが、今はキャプテン同様だからな。彼がどうにか話をつけたんじゃないか。おれたちは、ブリッジを追い出された」

「どうするの?」

「ん?」

「これから……何をすればいい?」

「『引き算』だろうな」

「引き算?」

「どっちが多いか。その『差』を勘定するわけさ」

 マチアスは眉をひそめて、リックを見あげた。ルイも同じように、リックを見つめた。 リックはかすかにほほえみ、

「今、オーストラリア大陸には、二億の人間が住んでいるそうだ。それに大陸がひとつ消えちまったら、他にどんな影響が出るか……」



「あぁん、だめだめ!」

 マチアスがそういう声をあげたのは、これでもう三度目だ。

 調理台のもとで、リックはぶすっとして手を止めた。

 マチアスはリックの後ろにまわりこみ、泡立て器を握っているリックの手を取った。

「いい? 叩くようにっていうからって、本当に叩いちゃだめなんだ。相手は、デリケートな卵白なんだよ。もう少し優しく……」

「おれ、いやだぜ、こんなの。ハンドミキサーがあったろ? 一瞬にして……」

「メレンゲ誕生? だぁめだめ! 基礎を覚えてからだよ、機械に頼るのは」

「うう」

 リックはそれ以上何もいわず、ガラスのボールの底に横たわるタチの悪い(とリックには思える)卵白に泡立て器を『優しく』叩きつけはじめた。

「マチアス、こっちも見て」

 キッチンテーブルから、ルイが呼ぶ。

 マチアスは、いそいそとそちらに飛んでゆき、バターの練り具合を調べた。

「うん、OKだ。おまえは、誰かさんと違って、どんどん腕を上げる優秀な生徒だぞ」

 ルイはクスクスッと笑った。

 リックが、派手に鼻を鳴らした。

「それにしても」と、マチアスが首をすくめる。「宇宙船に乗ってて、ケーキを焼くしかすべきことがないなんて、情けない状況だなぁ」

「キッチンが正常に機能しているだけでも……」

「レフ・キングに感謝すべき?」

「う……ん……」

 ルイが真剣に悩みはじめたので、マチアスは吹き出してしまった。

 少年たちはしばらくの間、言葉を発しなかった。

 ホワイトネビュラ号は、地球に向かって飛んでいる。

 本来の主である少年たちには何も応えず、〈凍結〉ユニットでコンピューターを乗っ取った男のいいなりになって、その懐深くに『大陸ひとつを消せる爆弾』を大事に抱えたまま……。

 やがて、ケーキの種がオーブンに入れられた。

「焼き上がるまでに、クリームの用意だ」

 オーブンの前に立ったまま、マチアスは嬉しそうにいって、リックが顔をしかめるのをひそかに楽しんだ。

 マチアスはこの船の料理長だ。得意分野は『家庭料理』で、普段はルイが助手を務めていた。 幼い頃の彼には、一般的な意味での『家庭』がなかった。食事中の私語さえままならない環境にいて、料理について興味を持つこともためらい、体が弱いせいか食も細かった。あるいは食卓が楽しくないために食べられず、体力がなかったのかもしれない。

 10才の時に『家出』してしまうまで、彼は大国……コンボトル王国の王子だったのである。

 リックの顔を眺めて、マチアスは、幸福そうだ。

 リックは『暇つぶし』にケーキ作りを手伝ったが、めったにケーキなど食べない。年を追うごとに、甘いケーキ類を嫌うようになっている。

 10のときから彼と一緒にいるマチアスには、そう思えた。

『家出』した彼を保護したのは、かのケイ・シルヴァーの孫にあたる、ラルフ・シルヴァー。リックの父親だった。

 ラルフの尽力で、マチアスの切望はコンボトル国王に聞き入れられた。彼は21になるまでは何があっても帰国は認めないという勘当同然の『自由』と、料理について興味を持ち、自分で作ることもできる環境と、リックを得た。彼はもう、コンボトルの王子には戻らない。

 次に帰国するときには、『国王』になるからだ。

 もう6年、一緒にやって来たんだなぁと、改めて考えると、マチアスの胸の底は熱くなる。

 彼は12までヴァン・ラヴで過ごし、その後、リックと共に少年RAPに入った。救助隊員を目指す少年たちが学ぶ組織である。

 そして、救助隊員の『卵』として、救助する側とされる側、という形でルイに出会ったのは、14のときだった。

 事故船の中で、母を失って泣いているルイに、リックとマチアスは出会い、やがて、ふたりはジプシーに……。

 ルイも、ふたりを追ってジプシーになった。

 ホワイトネビュラ号に乗り、ジプシーとして、3人で飛びはじめた。

 3人で、ずっと……。

 レフ・キングの計画を阻止できなければ、それももうすぐ終わるのだろう。

 リックはまだ何もいわない。

 オーストラリア大陸の二億の人間と、この船に乗っている人間との『差』を求める引き算も、まだしてはいないようだ。

 彼はただ『退屈だ』といい、マチアスがキッチンに誘った。ルイが『マチアスの得意なあのケーキがいい』と笑った。

 それで、ここにいる。

 まだ、実感がない。

 もしかしたら明日か明後日には死ぬのだ、という実感が。

 なぜだろう。

 背後の、キッチンテーブルに寄りかかって何か笑いながら話している、リックとルイのせいかもしれない。

 マチアスは、安らかな想いで目を閉じた。

 オーブンの中で、熱に反応したケーキ種が心地よい香りを放ちはじめていた。

 しかし、静けさは長く続かなかった。

 何の前置きもなく、スピーカーがしゃべった。レフのふくらんだ声がいった。

『3人とも、すぐにブリッジに来たまえ』



*4*


 リックは何も応えなかった。

 マチアスも同じだ。

 ルイだけが、応えの代わりに短い溜め息をついた。

「……で、アトランタの船長が、こっちと話したがってるわけさ」

 レフは笑いながらいい、ナヴィのコンソールをリックのためにあけた。

 リックはレフを見ず、いつもはルイがいるシートに浅くかけた。

「こちらはシルヴァー少尉。ホワイトネビュラ号の船長です」

 リックは『船長』に力を込めた。そうした自分が子供っぽく思え、ちょっと唇を噛んだ。

 ブリッジには、フロントウィンドウの上部に、メイン、セカンド、サード……3つのスクリーンがある。それらはすべて、星の海を映しているだけだ。映像のない交信だった。

『こちらはナイト、アトランタ。船長のモーツァルトだ』

「は?」

 リックは目をしばたたかせた。

『そうだ、モーツァルトだ。あのモーツァルトと同じ名だ。気にせんでくれ、彼とは親戚でも何でもない』

 アトランタのモーツァルトはいって、口笛で〈アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク〉冒頭を吹いた。しかし、すぐにどういう状況なのかを思いだしたらしく、

『すまない、少尉。今、その……そちらの船に乗っているお客から、聞き捨てならないことを……その、打ち明けられたのだが……』

「打ち明けた、ということを、自分も今、打ち明けられたばかりです」

『そのお客はまともな……つまり、正常な男なのかね?』

 アトランタからの音声は、すべてブリッジ内に聞こえる。リックの背後で、レフが忍び笑いをした。

 余裕たっぷりだな、とマチアスは思い、ひそかに溜め息をついた。

「正常どころか」と、リック。「ずいぶん頭のいい客です。今のところ、手の出しようがありません」

『しかし、オーストラリア大陸を消す……とは』

「奇抜なアイデアだと思います」

『私の妻子は、その……メルボルンに住んでいるのだがね』

 モーツァルトの声が、消え入りそうになった。

 リックは思わず、深くほほえんでいた。

 ナイトもジプシー同様RAPの一部門であるが、そらを自由に飛びまわり飛び続けるジプシーと違って、大型船や公用船の護衛が専門のナイトには、いわゆる『家庭持ち』が多い。勤務に、比較的規則性があるからだ。

 ジプシーが……『生き残ったジプシー』が結婚を機にナイトに転属する、というのもよく聞く話だった。だから、ナイトのメンバーは、平均年齢も軍での階級もジプシーより高い。

 リックの沈黙に、モーツァルトは泣いているような声でいった。

『失礼した。これは、私事ではなかったな』

「いいえ。おかげで、オーストラリア大陸を守るための、明確な理由ができました。今までは、漠然としすぎていて……」

『我々は、どうすればいいのだね?』

「キングのいうとおりにしてください」

『つまり……公表を、かね?』

 リックは返事をしなかった。

 レフ・キングは、『これからオーストラリア大陸を消す』という事実を地球市民……いや、銀河中に伝えるよう、要請していた。

 公表の目的は少年たちにもわかっている。

 パニックなのだ。

 たったひとりの女のせいで、二億の人間が死ぬ。その女は、半狂乱の二億の人間に恨まれながら死ぬ。それをそらから眺めたい……そのための事前通告なのだった。

「もちろん、オーストラリア大陸の住民は一日や二日で避難できません。仮に人命をすべて救えたとしても、都市を、自然を、破壊することは、我々の本意ではありません」

『少尉?』

「RAPの総帥……マルロー閣下に、すべてを報告して下さい。閣下が、必要な手続きを行なってくれるはずです」

『わかった。君のいうとおりにしよう』

「ありがとうございます」

『君は、その……強いな』

 リックは、首をかしげた。そして、「いいえ」といって交信を終えた。

「モーツァルトか。オーストラリア全土に〈レクイエム〉でも流すかな。知ってるかい? モーツァルトの最後の作品だ」

 歌うように、レフがいった。

 その声が聞こえてくるまで、リックは無意識の世界にいた。

「すべて消してやる。あの女を生み育てた大地を、風土のすべてを、だ」

 リックはレフを無視して立ちあがり、ドアに向かった。

「おや、どこに行くんだい? ブリッジはお嫌いかな?」

 レフの声が追ってくる。

 リックはマチアスを見、

「ここにいろ。アトランタからの連絡があるかもしれない」

 マチアスは神妙に、

「ラジャ」

「ルイ、ちょっと来てくれ」

「はい?」

 自分をじっと見つめるルイの青い瞳に、リックはかすかに笑った。

「久しぶりにピアノを弾いてくれないか? 〈トルコ行進曲〉がいい」

「モーツァルトの、だね?」

 ルイが、笑顔を返した。



 しかし、リビングルームの奥、ピアノのある予備室のドアを閉めると、ルイの微笑は跡形もなく消えた。

 リックの表情も険しくなった。

 プライベートな時間にリックやマチアスのために、あるいは救助された人々のためにピアノを演奏するルイだが、ピアノの前にかけたきり、何も弾こうとはしなかった。リックも求めなかった。

 不意にうつむくルイに、

「ルイ?」

 リックの声が触れる。

 ルイは、小さく首を振ってからリックを見て、

「ごめんなさい。ぼく、こういうのに慣れてなくて」

「おれだって同じさ」

「学校でもっと勉強すればよかった」

 ルイはジプシーを目指して、士官学校に入った。通常三年かかる単位取得を一年でやってのけたのだ。

 リックとマチアスを追って、ジプシーになるために。

 そのためにルイは、ルナ(月の首府)の士官学校の、伝説的人物になった。

「船のコンピューターを奪われて、爆弾が投下されようとしているときの対処の仕方……。本当にどうにもならないのかな」

「ならないだろうな」

「……」

 リックはピアノの側板を指で叩いた。

「ナヴィのコンソールを、交信中にひとわたり眺めてみたが、あいつは今死んでるんだ。いや、『別人』になっているといった方がいいな。おれたちには操作方法のわからない、見知らぬ機械なんだ」

 ルイは眉をひそめた。ナヴィゲーターである彼は『親友』を奪われたのだ。

「あの男のあの自信はそれなりの裏付けがあるんだと思う。あいつは正常すぎるくらい正常だ。もし狂っているんなら、こんなことはできないだろう。おれたちにヒートガンを返したのも、絶対に自分は殺されないっていう自信があるからだ。そして、実際におれたちは今、あいつを殺せない。その先が読めないからな。すべてただのハッタリだということはできる。できても、それだけのことさ」

「爆弾のことも」

「ああ、マルロー閣下とおやじが、調べてくれるだろう」

「コンボトルの方は……」

 ルイは、その言葉を苦いもののように発音した。

 リックは、ちょっと不思議そうにルイを見た。

 ルイは口を尖らせてみせ、

「やだな。ぼくはそんなに察しが悪いと思ってた? 君がおじいさま……マルロー閣下のことをモーツァルトさんにいった瞬間から、わかってたよ。ただ……それまではまったく気づいていなかったけれど」

 そういってから、照れたようにちらっと舌を出した。

「おれだって同じさ。あいつを見てて、コンボトルの王子だなんて、覚えていられるもんか」

「そうだね」

 ルイが、愉快そうに笑い声をたてる。

 マチアスは、21才になったら故郷に帰って国王の座につく。それは決まっている。今の彼には王子としての特権も何もないが、王子であること……次期国王であることに変わりはない。

 それも銀河中の王制国家のうち五指に入る大国の、である。

 リックが静かにいった。

「あいつには、コンボトル国民に対しての責任がある。あいつの命はあいつひとりのものじゃない。何とかしなけりゃ……」

「そうだね」

「ごめん」

「え?」

「おまえの命とあいつの命が、違うものだっていってるわけじゃないんだ」

「違うよ。ぼくの命は、ぼくだけのものだもの。ぼくが自由にしていいんだ」

 ルイの笑顔には屈託がなかった。

「本当なら、おまえも救うべきだ。でも、ルイ」

「はい?」

「手伝ってくれるか?」

「もちろん」

 リックが生真面目に、

「『ひとり』が怖いんだと、思ってくれてもいいんだぜ」

「まさか、君がそんな……」ルイは即座にいったが、ふと目を伏せて独り言のように、「でも、もし、そうだったら、それも嬉しいな、ぼく」

 リックはルイから遠く瞳をそらし、何かをこらえるように細めた。

「自爆はたやすい。レフを殺せばいいんだ。でも、それはマチアスを外へ出した後だ。それまでは、何もしない」

 それまでは……。



*5*


 アトランタを経由して、RAPの総帥、ピエール・マルローからの返信があったのは、ホワイトネビュラ号が海王星の軌道を越えた頃だった。

 ジプシーの少年たちは、仮眠室で眠れない夜を明かした。

 船内の時刻は、常に地球標準時に合わせてある。宇宙船乗組員は、地球時間で生活しているのだ。体内時計もほぼ24時間のリズムで動いていて、昼も夜もない空間を飛び続ける彼らも『眠れない夜』を過ごしたのだった。

 レフの方は、救助された人々のために用意されたキャビンのひとつで、ゆっくりと睡眠をとった。

 レフ・キングは、リラックスしていた。

『勝利』を確信するがゆえの『余裕』だ。

 オートパイロットで船が地球に向かう間、彼はもうブリッジにいなかった。少年たちの動きを見張ろうともしなかった。

 幸せに暇をもてあましている、といったようすでリビングルームのソファにくつろぎ、かつての恋人の写真を順序よく並べては、それらを眺めて過ごしたりした。確かにその表情は『彼女を愛している』ようだった。

 アトランタとのみ交信できるマイクロフォンを、彼は少年たちに贈った。

 少年たちはたったひとつのおもちゃをもらった貧しい『三つ子』のように、それを分けあっていた。

 レフが消えた、自分たちには何も操作できないブリッジで、彼らは時を過ごした。

『公表』とはいえ、まだ一般市民に知らされたわけではない。おそらく宙軍の上層部だけしか、今はまだこの事件を知ってはいないだろう。上層部と、そして、ふたつの遠い星のふたりの男だけしか……。

『久しぶりだね』

 ピエール・マルローの声が、いつもより老いて枯れているようだった。それは月、RAP本部のあるニュールナ市から、アトランタを経て届くものだから、という訳ではないのだろう。

 アトランタは予定されていた任務を解かれ、ホワイトネビュラ号を追うようにして飛んでいた。中継ステーションとして、だ。

「お久しぶりです、閣下」

 ナヴィのシートにかけているリックがいった。

 マチアスとルイは、その後ろでマイクロフォンを見つめていた。

『つい先程、ヴァン・ラヴから返電があったよ』

「……」

『レフ・キングという青年は、ヴァン・ラヴの住民、及び関係者には見当たらず……』

「そうさ!」怒ったように、マチアスが口をはさんだ。「ヴァン・ラヴは平和のために研究する科学者と技術者の星なんだから、こんなことをするやつがいてたまるもんか」

 ピエールが、遠くで苦笑したようだ。

『ただし、お尋ねの爆弾に心当たりあり。ヴォルフ星独立戦争の際に開発された、いわゆる〈最終兵器リスト〉の第五番。銀河連盟の条約で、戦争終結後は使用を全面禁止されている。同じ性能を持つものなら、オーストラリア大陸を消滅させることも可能。近隣の、ニューギニア、ニュージーランド等も、ゆうに影響を受けうる。大陸消失の、他への影響は現在計算中。……という、ラルフ・シルヴァーからのこの返事に基づいて、ヴォルフ星での戦争関係者を調べている。同時に、シドニーに住んでいるという女性についても調査させているが、なにぶんにもデータが少なすぎる。おまけに、時間もなさすぎる』

「……そうですね」

『いや、すまない、リック。君たちがいちばん苦しいということを、忘れているわけではないのだがね』

「……」

『ラルフ・シルヴァーから、メッセージがある。読み上げてもいいかね? 今、マチアスの声が聞こえたが、ルイもいるのかな?』

「います。かまいません」

『君への伝言は次のとおりだ。〈私も同じ気持ちだ〉。わかるかね? これだけで』

「はい」

 リックはまつ毛を伏せた。彼にとってたったひとりの家族なのだが、もう父親のことはこれきり思い出すまいと決めた。

 ピエールは、少しの間黙っていた。が、次はマチアスを呼んだ。

『マチアス、君にも、メッセージが届いている』

「どうぞ」

 と、マチアスがつぶやくようにいった。

『〈君はまだ16である〉』

 21になるまでは、コンボトル王国とは一切関係のない身……という意味だ。

 マチアスは目を伏せ、

「ありがとうございます」

 再び、短い沈黙をおいてから、ピエールがいった。

『その女性を捜しだして、たとえばレフに、やめてくれとか、あなたともう一度つきあうから、とか、いったとしてだね、つまり、その女性に説得にあたらせたとして、レフ・キングは計画を中止すると思うかね?』

 リックは、背後の部下を顧みてから、

「ただいまの質問が、誰に向けてのものなのかわかりませんが……あの、そういう問題には、こういう状況以上に不慣れですから、お答えはしにくいのですが、たとえそうなったとしても、レフの計画に『中止』ということはないように思います。彼はその……相手の女性のことと同時に、オーストラリア大陸を消すという、この企みそのものに、執着しているようですから」

『そう……そうだな。いや、16才の少年に尋ねるべきことではなかったかもしれないね。つい……何だか、君たちがとても、大人のような気がしてしまって……』

 ピエール・マルロー総帥は、ニュールナで照れているようだった。



『どうだね?』

 祖父の声に、ルイは柔らかに答えた。

「元気です」

 今は彼が、自分のものであるナヴィゲーターシートにいる。ひととおりの話が済むと、リックとマチアスはブリッジを出ていってしまったのだ。

『おまえの父親が、今、こちらに向かっている。リックとマチアスはずいぶん無口な父親を持っているようだが、おまえの父親はどうだろうな』

「おじいさま……」

 ルイは、あやすような声でいった。

 リックとマチアスが出ていったのは、ルイに『閣下』ではなく『おじいさま』と呼ばせるためだった。

『リック・シルヴァーがおまえのキャプテンだ。そうだな?』

「はい」

『私ではない』

「はい、おじいさま」

『彼は、決めているのだな?』

「はい」

『彼が決めたのだな?』

「彼は、算数が得意なので」

『これは、超高等数学だよ』

「でも、答えはすぐに出ました」

『……』

「ぼくは、彼と行きます」

『……』

「少しも怖くないよ」

『……』

「だって、もともとジプシーになるということは……そらを飛ぶということは、もしかしたら、次の瞬間に死ぬかもしれないということだもの。だから、ぼくは大好きなリックとマチアス、ふたりと飛んでいるんだもの。一瞬も無駄にしたくない。ふたりを見つめていたいし、そばにいたい……」

『……』

「でも、本当は少し戸惑ってるの。予想もできない、曲がり角の出会い頭のように死にぶつかると思ってたのに、ここは一本道で、近づいてくるのが見えるから……」

『ルイ……』

「おじいさま、後悔していないよね? ぼくがジプシーになるの、許すんじゃなかった、なんていわないよね?」

 母を失った船の事故からリックとマチアスに救い出されて以来、ルイの夢はふたりと飛ぶことだった。ふたりが少年RAPで学び終えて、ジプシーになる日まで一年。その間に、ルイは一から始めなければならなかった。

 ルイはむろん、『苦しい』とも『つらい』ともいったことはなかったし、ジプシーを目指すこと、ジプシーになったことを悔いたこともなかった。それを知っているピエールには、『後悔』などできない。彼が後悔するのは、ルイが「ジプシーなんかになるんじゃなかった」という日が来たときだけだ。

『ルイや』

 ピエールは、まるで12年前のように呼んだ。

「はい」

 ルイは16才らしく応えた。

 それでも、それらの間に違和感はなかった。

『私は祖父として、幸せだよ』

「ぼくも、孫として、幸せです」

 ふたりとも、過去形は使わなかった。 



「アトランタは、律儀についてくるな」

 レフがブリッジに上がってきたのは、その日の夕刻、木星軌道の近くだった

 メインスクリーンに、付き従うアトランタの姿が小さく見える。

「まるで、この船の護衛をしているようじゃないか。さすが、ナイトだ」

 スクリーンは一定の範囲を、自動的に切り替えながら映し出していた。アトランタは偶然に、今そのエリアに入っているのだ。

「撃ち落としてみたいなぁ」

 レフがいって、ひとりで笑った。

 レフから離れたところに立っている少年たちは、アトランタの映像を見上げていた。

「射撃のターゲットの代わりにでもするのかい? あんたがいい腕してることは、ぼく、知ってるよ」

 マチアスがいって、そのつやつやしたライトブラウンの髪を撫ぜた。

 レフはふりかえり、

「いやに、からむじゃないか」

 マチアスはふくれ、リックが代わりにいった。

「こいつは髪が自慢だから、あんたに焦がされたこと、根に持ってるんだ」

「焦げた髪の先を切ってさ。見てよ、髪型が微妙に変わっちゃったんだからね」

 というマチアスに、レフが高笑いを返す。

 マチアスはそっぽを向いた。

 レフは再びスクリーンを見上げて、

「曲芸飛行でもしてみせろって、脅してみようかな。そうだ、僕のいうことを聞かなければ、爆弾はメルボルンに落とすぞ、とでもいって……」

 オーストラリア大陸のどこに落としても、メルボルンは消える。

「あんたのことだから、アトランタの髪の毛を焼くぞ、とでもいうかと思った」

 マチアスは髪にこだわっていた。本当に、自慢なのだ。

 レフはスクリーンを見たまま、笑い声で、

「この船の熱線砲で、かい? それもいいねぇ。砲撃の担当は?」

「……」

「質問には答えたまえ」

「おれだ」

 リックが、投げるようにいった。

 ジプシー船に搭載された熱線砲は、兵器ではない。航路上の障害物を処理するためのものである。

「へぇ。君なら、アトランタの髪の毛一本だって、狙い撃ちできるだろうね。そうだ。冗談抜きで、乗員のひとりをハッチから出して、そいつを撃とうか。もっとも、髪の毛を狙っても、一発で全身蒸発しちゃうんだろうね」

「あんたのような悪趣味なやつ、初めて見たな」

「そうかい? ありがとう、リック」

「もう、見たくないぜ」

「その願いは、叶えられるかもしれないよ。おとなしくしていればね。僕だって、いつまでも、君たちと一緒にいようとは思ってない」

「オーストラリアを消してから、おうちに帰るのか?」

「もちろん、送ってくれるね? 来るときに乗ってきたボートは、爆弾を積んだまま落としてしまうんだからね。いいボートなんだが……」

「おれたちを呼んだ、あの救難信号、偽だったんだな」

「だって、こっそり落としにゆくのと公表して逃げ惑わせるのと、どっちがいい? 君だって、より『反省』する方法を選ぶだろう? ジプシーが拾ってくれたのは予想以上に好都合だった。乗っ取るのは、貨物船でも何でもよかったんだけどね」

「……」

「あいつはいい女だった」

 レフが、同じ口調のまま、不意に話題を変えた。

 その顔が、夢見るようにフロントウィンドウを向く。

 少年たちは、その後ろ姿を見つめた。

「僕の前から消えたとき、僕は傷ついて、本当にかわいそうだった。僕がこんなに愛しているのに、僕を捨てるなんて……。ああ、本当は彼女ひとりを切り刻んでもよかったんだ。でも、問題は彼女をあんな女にした土地柄ってやつさ。僕は消すんだ。あんな男と暮らして、馬鹿な女だ。あの写真を届けた私立探偵の顔……僕を哀れんでくれていたなぁ」

 まるで狂人だ、とリックは思った。それでもなぜか、あくまでも『まるで』で、本当に狂っているとは思えなかった。この男の何がそう思わせるのか、リックにはわからなかった。

 しかし、レフが『正常』なら、逆転のチャンスもあるかもしれない。本当の狂人なら、リックに考えつける方法では対抗できないにちがいない。

 アトランタの姿が、メインスクリーンの左の縁に消えようとしていた。

「それで、アトランタを撃つのか? それとも、おれは休んでもいいのか?」

 リックがいった。

 レフはふりかえり、

「ああ、もちろん休んでいいとも。どのみち〈凍結〉中は、熱線砲は使えないんだから。使う必要もないしね。この船の存在そのものが、僕の武器なんだから」



*6*


「できますか?」

 リックはマイクロフォンにいった。

『やるとも』

 スピーカーが答えた。

「よろしくお願いします」

『時間と場所の変更があった場合は?』

「変更はありません。チャンスは一度です。ただ……」

『ん?』

「コンピューターを使えないまま、紙の上で軌道計算をしたので、どこかに誤差が出るかもしれない」

『いや、正確だ。今、こっちのコンピューターに計算させた。うちのナヴィが驚いている』

 リックはひとりきりのブリッジで、少し幼い笑顔になった。

「合図がない場合は、そのまま通過してください」

『OK』

[理由は、聞かないんですか?」

『かまわないよ』

 モーツァルトは歌の一節のようにいった。

 リックは黙り込んだ。

『かまわない。君を気に入ってるんだ』

「……」

『会いたいな。映像がない交信ってのは、不便だね。君の顔が見えない』

「……はい」

『会おうじゃないか、是非』モーツァルトの声は明るい。『私は黒人の血が濃い。アトランタってのは、北アメリカにある街の名で、昔から黒人が多かったところだ。モーツァルトが色黒ってのも、変だろうか』

「いいえ」

『きっと会おうな、少尉』

 リックは、はっきりとかぶりを振った。しかし、いった。

「お会いします」

 これは『嘘』かもしれない。『嘘』になるだろう。

 明日、地球に着く。

 リックは、明日のピエール・マルローの命令を知っていた。

 それを決めたのは、リック自身だからだ。すでに、その要請を終えていた。

 今、リックの手にはオーストラリアの二億の生命と、コンボトル王国の国民の未来、そして、部下ふたりの運命とが、のせられているのだった。

 誰もが、リックの手の上にあることで安心していた。

 だが、それは違う。

 リックは心の底で、そう叫ぶ。

 彼はその重みにつぶれそうだった。ただ、つぶれ方もつぶし方も知らないから、じっと立っているだけなのだ。

 もしかしたら……発狂するのはおれの方かもしれないな。

 リックは、苦笑した。



 深夜……。

 リックはリビングルームにいなかった。彼は自分のコーヒーを飲み干すと、どこかへ出ていった。

 レフは、とうにキャビンで安眠している。

 どうしてそんなに伸び伸びしていられるのか、わからなくなることがある。

 ルイは、だから、もうレフのことを考えてはいなかった。

 リビングルームのソファにかけ、今、ルイは、別のことで頭がいっぱいだ。

 別のこと……マチアスのことで。

 14のとき、事故船で出会い、ずっと、同じ船で飛び続けたいと願っていた。15のときジプシーとして再会し、一年。一年たってもなお、日ごとに彼を好きになる気がする。

 一年の間に何隻の船を救い、何人の生命を助け、そして、救いきれずに、いくつの生命を見送ってしまっただろう。力の及ばない自分に、涙を流したこともある。マチアスはルイを『泣き虫だ』というが、そのたびに涙を拭ってくれたのは、そのマチアスの優しい指なのだった。一年の間には、幾度か、気持ちのすれ違いもあった。でも、それがそのたびにふたりの心をより近づけてくれていた。

 ルイは、自分がどうしてこんなマチアスをいう友人を愛しているのか、わからなかった。自分の命を救ってくれたから、というだけで、こんなふうに想えるはずはない。

 おそらく『マチアスゆえ』だろう。他の誰でもない、マチアスだからこそ、こんなにも……。

 だからルイには、マチアスがどれほどコンボトル王国の国民に慕われているか、想像がつく。たとえそのとき10才に過ぎなかったとしても、彼は『王室の天使』と呼ばれ、国民のアイドルだった。それは、虚像ではなかったはずだ。その言葉に、笑顔に、心に、人々はひかれていたにちがいない。

 マチアスがどうすべきか……自分がどうすべきかは、わかっているつもりだ。

 マチアスはリビングテーブルに頬杖をついて、空っぽになったコーヒーカップを眺めていた。

 ルイは何杯でも、コーヒーをそのカップに注ぎたかった。中のコーヒーが飲んでも飲んでも空にならない魔法のカップというものがあったら、自分の持っている何と取り替えてもいい、とさえ思っていた。

 マチアスは、二杯目を飲み干してしまっていた。

 もうすぐ席を立って……そうだ、たぶん、『仮眠室で休む』といって出てゆくだろう。

 そして……。

「今夜だ」

 と数時間前、リックが耳打ちしたとき、ルイは知った。自分がしていた『覚悟』のもろさを。

 体の奥底から、細かな震えがあがってきて止まらない。

 今夜、マチアスは無口だった。

 いや、リックも。ルイ自身もだ。

 今夜はずっと、それぞれに、それぞれの心の中を見つめて過ごしているようだった。

 リックが『準備』をする間だけ、マチアスをリビングルームに引き止めておくのがルイの『役目』だ。しかし、マチアスを永遠にここに引き止めていたかった。

 だが、やがて……。

 とうとうマチアスは立ち上がった。

 ルイはビクッとして、顔を上げた。

 しかし、言葉は見つけられない。

「いろいろ考えていてもしかたないから、ぼく、寝るよ。寝不足は美容の敵なんだ」

 マチアスは、いつものマチアスの笑顔でいった。

 ルイは無言で、ドアまでついていった。

 ドアの前でマチアスはふりかえり、

「どうしたの?」

「……」

「元気がないなぁ」

「そ、そんなこと、ないよ」

「おやすみのキス、してあげようか? 熱烈なやつ」

 もちろん、それはマチアスの得意なからかい文句だった。彼は、ルイが赤くなったりうろたえたりするのを見るのが大好きなのだ。

 それは、ルイも知っている。だのに、何度からかわれても、それに慣れるということはなかった。

 最後になるに違いない夜にも、ルイの頬は赤らんだ。

 ルイはマチアスを見つめた。

 マチアスもルイを見つめ、

「どう?」

 ルイのふくれ面を待つように、ダメ押しをした。

 しかし、ルイは、

「うん、して」

「え……」

「熱烈じゃなくても、いいから」

 まぶたを閉じた。もう、震えを止められなかった。

「ばっ、ばか! ちぇ、一本取られちゃったなぁ」

 マチアスは笑い声でいい、目を塞いだままのルイの鼻先をちょんとつまみあげてから、部屋を出ていった。

 ドアが閉まる。

 ひとりになったことは、目が見えなくてもわかる。

 ルイは、あわてたように唇を噛んだ。

 マチアス……。

 呼びかけられなかった名が……今まで数え切れないほど呼んだのに、最後の一度だけ声にならなかった名が、心の底にこぼれ落ちた。

 それは、深い穴に小石が、まわりの壁にぶつかりながら落ちてゆくときのように、ルイの中で幾度も響いた。

 この部屋を出たマチアスを、リックがつかまえる。そして、連れてゆくのだ。

 別の世界へ。

 マチアスがいるべき世界へ。

 遠く……。



*7*


「リック、何だよ、こんなところまで」

 マチアスはわずかに不安そうに、薄暗い通路を見まわしながらいった。

 リックは何も応えず、先に立って歩いている。そのすらりとしたシルエットが、何の迷いも感じさせない足取りで歩き続けている。

 ふたりの足音は、硬く澄んだ響きをたてていた。

「こんなところ、普段だって来ないじゃないか。この先、作業用ハッチしかないぜ?」

 マチアスは追いついて、リックに肩を並べた。

 リックの横顔は動かなかった。

「リックってば」

「……」

「ぼく、眠いんだけど」

 リックが、そこで足を止めた。

 通路の先は暗くて見えない。

 後ろをふりかえると、同じように、今歩いてきた通路は闇の中だ。

 マチアスは黙り込み、リックが床から何かを取り上げるのを見ていた。

「スーツを着ろ」

 リックがいった。その手にあるのは、宇宙服だった。

 非常用スーツだ。普段は圧縮パックされている。しかし今、それはすでにパックから出され、ぐったりした人型のようだった。

 マチアスはきょとんとし、薄暗い空気を隔てたリックの瞳を透かし見た。

「何なの?」

「熱線砲で作業用ハッチを破ってもらう。そこから出れば、アトランタが拾う」

「そんな! 今さら、船を捨てるの? レフの好きにさせるの? この船と一緒に死ぬ方がいいよ、ぼく。おまえはいやなのか? ハッチを破ったら、レフのいう『最終命令』が実行されちゃうかもしれない。ワープエンジンがやられたら、この船は消えるんだよ。この船を愛してるおまえが、そんなこと、許せるの? それに、そんな派手な手、一度しか……」

 マチアスは早口にまくしたてていたが、突然、ハッとして言葉を切った。

 リックは、マチアスから目をそらした。

 次の瞬間。

 マチアスはリックの手からスーツをひったくると、力の限り高く、遠くへ投げた。

 それが床に落ちるより、マチアスの拳がリックの顔で弾ける方が早かった。

 リックが抵抗もせず、背中から通路の壁にぶつかったとき、ザッと音を立ててスーツが落下した。闇の中に落ちたので、それがどこまで飛んだのかは見えなかった。

 リックは口の端に指先をあてて、マチアスを見た。

「マ……」

「ばか!」

 マチアスが激しく首を振る。

 リックは、唇を閉じた。

「リック、どうして……」

「おまえの命は、おまえひとりのものじゃない」

「今さら! ぼくはジプシーなんだぜ? いつ死んでも……」

「でも、予期できる死からは回避……」

「ちくしょう!」マチアスは、リックの衿をちぎりそうな強さでつかんだ。「誰がそんなこと頼んだ!」

「……おれが決めた」

「勝手なことするな! ぼくの命のことは、ぼくが決める」

「だけど……」

「『だけど』じゃない! おまえ、ぼくに、『ひとりで死んでくれ』っていえるか?」

「おれはそんな……」

「そんなひどいこと、いえないだろ? いいか? ぼくに『ひとりで生き残れ』っていうのは、ひとりで死ねっていうのより千倍もひどいんだぞ。……わからないの?」

「わからない」

「……」

「わからないさ」

 マチアスの手が緩み、リックはそれを払いのけた。

 マチアスの声が震えていた。

「そうだ。おまえは何もわかっちゃいないんだ。最後まで一緒に戦うつもりだったのに……それでだめなら、一緒に死ぬ。それなら、諦めがつく、平気だって思ってたのに……ぼくがそう思っていた間、おまえはぼくをどこかに放り出すことばかり考えてたんだ。なぜ……ぼくがひとりで……。ひどい……屈辱だ。こんな命令……。ぼくにだって……プライドはあるんだぞ。ちくしょう……それでよく、ぼくのキャプテンでいられたな」

 マチアスは子供のように拳で目もとを拭った。薄闇の中できらめく瞳を、リックはじっと見ていた。

「マチアス」

「黙れ」

「おれは……」

「黙れったら!」

「……」

 リックは本当に黙ってしまった。マチアスが首にしがみついてきたからだ。

「ばか。鈍感。最低……」

「アステロイドベルトに入った。小惑星に紛れて、一度きりのチャンスなんだぞ」

「くそくらえだ」

 立ちつくしているリックの肩先で、マチアスは吐き捨てるようにいった。

「品のない王子さまだぜ、おまえは」

「ぼくは、ジプシーだ!」

「……」

 マチアスはリックの首から腕をほどき、彼のセピアの瞳を睨みつけた。

「ぼくを何だと思ってたんだよ、今まで」

 リックの唇から、不意にほほえみがこぼれた。

「ジプシー、さ」

 マチアスは、その表情にちょっとたじろいで、

「そ、そうとも」

 そして、ふたりは押し黙った。

 リックは、時刻を確かめようとはしなかった。ただ、力なく壁に寄りかかり、長い溜め息をついた。

 マチアスは暗く沈んだ床を見つめたまま、

「だいたいさ……ずるいんだよ、リックは」

「……ん?」

「二億の命を、ひとりで背負っちゃってさ。ヒーロー気取りで……」

「背負えない」

 リックのその声に、マチアスはビクッとして顔を上げた。まるで、泣いているように聞こえたからだ。

「背負えない。おれは強くもないし……大人でもない……モーツァルトたちがいうような意味では、な」

「……」

「重くて、体がつぶれそうだ」

 その声の余韻が消えると、マチアスは明るくいった。

「ホントにもう! それなのにぼくを追い出そうとするんだからな。あきれちゃうよ」

「……」

「1で割るより2、2で割るより3……さ。割り算は引き算より難しいから、おまえにはわからないかもしれないけどさ、少しは算数を覚えなよね」



 マチアスは行ってしまった。

 リックは動けなかった。

『最後まで戦う』

 そう、マチアスはいった。

 リック自身もまだ、諦めてはいない。

 でも、「一緒に」とはいえない。「負けたとき」のことを考えないわけにはいかないのだ。

 今なら、まだ間にあう。マチアスを説得して……それがだめなら、殴って気絶させてでも、外へ出せ。

 心の中で叫んでいるのは確かにリック自身の声だったが、背中は寄りかかった壁から離れず、その足は一歩もマチアスを追いかけなかった。

 リックは、掌で壁をひと撫ぜした。

 そして、壁と溶けあおうとするように目を閉じた。

(どうしちまったのさ、ホワイトネビュラ)

 壁を伝わって、応えるような快いうなりが聞こえるのは、錯覚なのだろうか。

(おまえは、おれたちの船なのに)

 リックは体を返して、壁に向かいあい、ふたつの拳を叩きつける……。

「おまえは、おれたちの船じゃないか!」



 背後でドアが開いたとき、ルイはまだ、そこに……リビングルームの隅にたたずんでいた。

 すぐにドアを顧みなかったのは、リックに顔を見られたくなかったからだ。涙をこらえている顔を。リックにいちばん辛い別れをさせて、自分だけ泣いてしまっては、『手伝って』いることにならない。それに、今リックの顔を見たら、子供のように彼にしがみついてしまいそうな気がした。

 マチアスを想うのと同じ深さで、ルイはリックという、上官でもある友人を愛していたし、しがみつけばリックが受け止めてくれることもわかっていたが、今はひとりで立っていなければならなかった。十才のときからの相棒を失ったリックのために、ぼくは気丈でいなければ、と思っていた。

「お帰りなさい、リック」

 と、ルイはいった。

 声がそれほど震えていないのを確かめてから、

「何も手伝えなくて、ごめんね。リック……ぼく、きっと、わがままなんだ。今まで、そのことに気づかなかった。わかってるのに……マチアスが、『誰』なのかわかってるのに……ぼく、行かないでって、いいそうになっちゃった」

「行かないよ、ルイ」

「!」

 ルイは、ふりむいた。

 閉ざされたドアの前で、マチアスが笑っていた。

「ど、どうして……」

「リックがあんまり阿呆なこというから、ぶん殴ってやった」

「だ、だめ……。もう、時間がない……早く……」

「ルイ」

「お願い、行かなくちゃ……」

「ルイ!」マチアスは鋭くいったが、すぐに声を和らげ、「嘘つき」

「……」

 ルイは、唇を結んだ。花がしぼむようだった。

「おまえもいってくれないの? 最後まで、一緒に、戦おうって」

 しばらくの間、石像にでもなったようにじっと、マチアスの穏やかな顔を見つめていた。

 それからマチアスに歩み寄り、おもむろに右手を上げて、マチアスの腕をつかんだ。

 うつむいて、

「ごめんなさい」

「ルイ?」

「ごめんなさい」

 今度は、もう一方の腕もつかまえた。

「ルイ……」

「ごめんなさい」

 ルイは両手に力を込め、蒼ざめた顔をゆっくりと上げた。

「ルイ? ね、なぜ……誰に、そんなに謝ってるの?」

「コンボトルのすべての国民と、国王陛下と君のお母さま。それから、君にも……。ごめんなさい。これ以上のわがまま、ないよね」

「ルイ?」

「大切な君を……ぼくがつかまえてしまった……」

 マチアスは首をかしげ、自分を見つめるルイの濡れた瞳の奥を、魅せられたように見つめ返した。

「マチアス」

「ん?」

「……行かないで」



*8*


 地球は、青い星だった。

 何度見ても、その青さ……美しさに感動するが、今日ほど地球が愛おしく思えたことはなかった。

 地球生まれのルイだけでなく、遠くコンボトルで生まれたマチアスも、ヴァン・ラヴを故郷とするリックも、同じ気持ちだった。

 メインスクリーンいっぱいに、真昼の地球が映し出されていた。

 オーストラリア大陸は、ほとんどが夜の半球に呑まれていた。

 少年たちは、パイロットシートの傍らに並んで立っている。

 フロントウィンドウの彼方の輝く点が、肉眼で見る地球だった。

「いよいよだな」

 ナヴィのコンソールの前で、レフ・キングがいった。冷徹といってもいいほど、落ち着いた声だった。

 もしも狂人じゃないのなら、この男はいったい何なのだろうと、リックは地球に目をあてたまま考えた。

 そのとき、マチアスが体ごとレフの方を向いた。

「レフ……」

「何だい?」

 その灰色の目を細めるようにして、レフがマチアスを見る。

「ぼく、ずっと考えてたんだけど、わからないんだ、悪いけど」

「何の話だい?」

「本当に、黙っていられるのが愛していない証拠、なのかどうか」

「それで?」

「愛なんて、ぼく、まだよくわからないんだ。リンゴとレモンを見分けるようにはいかないからね。ぼくは千個のレモンの中から、たったひとつのリンゴを見つけだすことができる。リンゴのことはかなり知ってるからさ。形や色や匂いや味。でも、愛ってのは、ほら、ひと目見て『これが愛です』ってわけにいかないだろ? だから……」

「……」

「でも、あんたのいってることが、本物の愛の証拠だとは思えないんだ」

「じゃ、何だろう?」

 レフはからかうように、首をかしげてみせた。

 マチアスは自信なさそうにまつ毛を伏せ、

「ううん、確かに『愛』かもしれない。あんたが愛してるのは彼女じゃなく、自分さ。彼女を愛してるから、許さないのが愛だなんて、ぼくは信じない。あんたは、自分が傷つけられたから、自分がかわいそうだから、自分を傷つけた女性を苦しめようとしているだけなんだ。自分を哀れんでるのさ。かわいそうでかわいそうで、彼女を許せないんだよ。本当に愛しているときはね、相手に命を持っていかれたって、ぼくは『かわいそう』じゃないんだ」

 レフは今、真顔になってマチアスを見つめていた。

 マチアスは無表情に、フロントウィンドウに向き直った。

 左右にいる友人に、彼はささやくようにいった。

「あの世ってところに、ジプシーの活躍の場はあると思うかい?」

「きっとあるよ」

 と、ルイが無邪気にいった。

 マチアスはうなずいて、

「だと、うれしいな。あの世では、ぼくはきっと永遠に飛び続けていられるんだ。21才になんかならずに……」

「なってもいいじゃないか、別に」と、リックが無関心そうにいった。「まさか、コンボトル王国まではないだろうからな」

 マチアスが目を輝かせる。

「確かにそうだね。ぼくは、最高に可愛いお嫁さんをもらってナイトに転属する。そして、定期航路を、船の護衛をしながら行ったり来たり」

「奥さんは、メルボルンで待ってる」と、ルイ。

「そう。そして、勤務があけたら、ぼくは飛んで帰る。『ただいま、ダーリン』」

「『お帰りなさい、あなた』」

「『会いたかったよ』」

「『寂しかったわ』」

「でも、また出かけていくんだ。そして、航路を行ったり来たり」

「退屈そうだな」

 リックが口をはさんだ。

 マチアスはちらっとリックの横顔を見、ほほえんだ。

「まったくさ。ぼくには無理だ。ぼくの結婚は80過ぎ……ジプシーやるには年を取り過ぎってことになってからだ」

「素敵」ルイがいう。「じゃあ、あと60年以上も一緒に飛べるね」

「おまえは、さっさと結婚しろ」

「いや。『ジプシー』と引き替えにできるほど誰かを好きになれるかどうか、自信ないし……」

「そりゃ……。でも、ルイ、人間はやっぱり『子孫繁栄』のために努力しなくちゃいけないぜ」

「マチアスがいうとなんとなく……いやらしいね、その言葉」

「こいつ!」

 そこでふと、彼らは黙り込んだ。そして、同時に笑いだす。『あの世における子孫繁栄』というのが、何だかおかしかったからだ。

「まぁ、詳しい打ち合わせは現地到着後、ということにしておこう」

 という、マチアスの声にかぶせるように、

「楽しそうだな」

 レフの声が、すぐ後ろから聞こえた。

「まぁな」

 と、リックが無愛想に応じた。

 レフは、少年たちのそばでフロントウィンドウを見た。

「結構落ち着いているものだね。説得工作でもするかと思っていたのに。地球では、パニックは始まってるいるんだろうか」

「パニックどころか、あんたの名前さえ聞いちゃいないだろうよ」

「……」

「第一、説得されて、応じるのか?」

「いいや、リック」

「だから、何もしないのさ。無駄なことは何も、な」

「……」

「レフ・キングという男についての調査も、たぶんもう急いではいないだろう。中庭に積んでいる爆弾の出どころも、のんびり調べてくれといってある。調べがついたからといって、どうなるものでもないし」

「どうせ爆発しちまうんだからな。あいつは最後のひとつなんだ。もちろん、もう一度作ることはできる。データは保管されてるからね」

「最後のひとつ? それじゃ、なお好都合だ。消えちまった方がいい」

 リックの安らかな声に、レフは目を丸くした。

「ほう。君は、僕の意見に賛成してくれるんだね? そう、消えちまえばいいんだよ」

 リックは哀れむように、ほんの少し頬を歪めた。

「主語を間違えないでくれ。消えるのは、『オーストラリア大陸』じゃない。『爆弾』さ」

「……何?」

「単純な計算なんだ。二億と四。どっちを取るか……」

 リックはスクリーンを見た。

 レフもつられたように目を上げた。

 こちらへ向かってくるらしい船が、スクリーンにはっきりと映っていた。

 一隻の船が、太陽光を受けてきらめいているのだった。



*8*


「何だ、あれは……」

 レフの表情が変わった。

「相手の駒さ。つまり……黒の、な」

 リックは愉快そうに答えた。

 レフは、リックを顧みる。

「何だって?」

「チェックをかけたのはこっちだ。相手は味方のキング……オーストラリア大陸を守るために、あの駒を送り込んできた。妨害のために……そう、チェスでいう、『インターポーズ』ってやつさ」

 チェック(王手)をかけられたとき、かけてきた相手の駒と味方のキングの間に、味方の駒を割り込ませてチェックから逃れることを、チェスでは『インターポーズ』といった。自分の王の前に立ち塞がって、相手からそれを守る手だ。

「まさか……」

「何が『まさか』なんだ? 先に勝負を挑んでおいて……。あの船を取り除かない限り、もう一度チェックに持ち込むことはできないんだぜ」

「まさか……」

 レフはもう一度、吐息のようにいった。

 スクリーン上に、光点が停止した。

「RAPの総帥が、この件に関する責任者だ。乗っ取られたのはジプシーの船だからな。彼は、けっこう茶目っ気のある軍人なんだぜ。あの駒の名前を教えてやろうか。たしか、連盟調停軍の巡洋艦だ。ブラックキャット・クイーン、黒猫の女王さ。こっちには白のキングと、まだ昇格もしていないポーンが3つだけ。……勝算は?」

「ナ、ナイトもいる。アトランタを呼び出せ! モーツァルトに命令しろ。あいつをどかせ!」

 白のキング……レフの命令にも、少年たちは動かなかった。

 リックが首をすくめ、

「残念ながら、モーツァルトは白くないんだぜ」

 そのとき、一条の熱線がホワイトネビュラ号の右舷をかすめて走った。

 フロントウィンドウが、白く光る。

 衝撃はなかったが、レフは床にうずくまってしまった。

「逆に、こっちがチェックをかけられたってわけだ」

 リックはいい、レフを無視して正面を向いた。

 レフはナヴィのコンソールに這い込んだ。

「アトランタ! アトランタ、応えろ!」

『何だね?』

 モーツァルトの落ち着き払った声が、スピーカーから聞こえた。

「やめさせろ! おまえがあいつを消せ! 今すぐだ!」

『何をいっているのかな』

「モーツァルト!」

『何だね?』

「今すぐにあいつを下がらせないと、ジプシーどもをひとりずつ殺す」

『わからない人だな。アトランタが一隻で巡洋艦と戦えるわけはないし、どのみちジプシーたちをブラックキャット・クイーンはホワイトネビュラ号ごと消すんだ。そんなものは脅迫にならないんだよ』

 モーツァルトは豊かな声でいい、〈フィガロの結婚・序曲〉の一節をハミングした。どうやら彼は、昔の、同姓の作曲家を気に入っているらしい。

「モーツァルト!」

 レフが叫ぶ。

 二度目の熱線が、今度は左舷をかすった。

 床が波打つような衝撃があった。

 少年たちは身構えていたのでじっとしたままだったが、レフはコンソールにしがみついた。

「シールドだ!」

 口の中で叫んで、指をコンソールに走らせる。

 が、思いどおりにはいかなかった。

 コンピューターの〈凍結〉のせいらしい。

「やめろ! やめさせろ!」

 レフの声が甲高くなった。誰に向かって叫んでいるのか、わからなかった。

 三度目の熱線。

 左舷の外殻を剥ぎ取っていった。

 下の方の区画で、小さな爆発が起こったようだ。

 床が揺れた。

 リックはパイロットシートに手をかけ、ルイの手がマチアスの服をつかんだ。マチアスはよろめきながらも、まだ正面を見据えていた。

「これは威嚇だ。威嚇だな? 軍人が……軍人が、ジプシーを見殺しにするわけがないじゃないか」レフはいい、リックに飛びついてふりむかせた。「そうだな? これは、単なる脅しだ」

「だといいけどな」

「見、見殺しになんか……」

「ブラックキャット・クイーンに乗って、このインターポーズの指揮をとってるのはたぶん、ルイのおじいさまだ」

 レフは横面を張られたようにルイを見た。

 ルイはちらっとレフを見、まるで仲のよい友人にそうするようにほほえんだ。

「孫……孫まで殺すのか? そう……そうだ……命乞いをしろ、ルイ、命令だ。『おじいさま、攻撃をやめて』と泣け!」

 ルイは一瞬レフを見つめ、すぐに目を伏せた。

「アトランタが、中継してくれるかな」

「させるんだ。やれ!」

 四度目。

 今度は下層部をえぐり取られた。

 皮を剥ぐように、熱線はホワイトネビュラ号のボディを狙っている。今のところ、そのせいでレフの『ユニット』が最終命令を発したりはしないようだ。

 しかし、船はダメージを受けていた。

 ブリッジの壁面を埋めるランプの群れのうち、いくつかの非常用ランプが、点灯、あるいは点滅している。

 リックは、ブリッジを見渡した。

 他人の顔をしたままのブリッジだった。せめて、友達の顔に戻ってから、さよならをいいたいものだが……。

 リックは、自分が考えていることに気づいて、小さく笑ってしまった。

(まるで、ルイみたいだな)

 ルイはナヴィのコンソールに入っていた。

 マイクロフォンに向かい、アトランタを呼んだ。

『何だい?』

 モーツァルトが、優しく応えた。

「ブラックキャット・クイーンに中継していただけますか? お伝えしたいことがあるんです」

『しばらく、お待ちなさい。……さぁ、いいよ。返事があるかどうかはわからないが、君の声は向こうに聞こえる』

 ルイはうなずき、レフを見た。

 レフは顎をしゃくって、促した。

「おじいさま。おじいさま、聞こえるね? こんな……こんな弄ぶような方法は、エネルギーの無駄だよ。後ろにまわってください。ワープエンジンのノズルを狙えば、この船は……」

 ガッという音とともに、ルイの凛とした声はとぎれた。

 ルイは、レフのヒートガンに側頭部を強打され、シートから転がった。

「ルイ!」

 マチアスが、初めてパイロットシートから離れた。

 レフは右手にヒートガンを握ったまま、ナヴィのシートに転げ込む。

「聞け! ジプシーどもを殺すぞ! 悲鳴を聞かせてやる! まずおまえの孫からだ! 聞いてるな?」

 レフの裏声に近い絶叫を遠いもののように聞きながら、マチアスは床にひざまずき、ルイを抱え起こしていた。

「クイーンは?」

 ルイはうめくようにいった。皮膚が裂けたのだろう、金髪が血で赤く濡れている。

 マチアスはハッとしたようにスクリーンを見上げ、青い地球を背景にして、きらめきながら移動する光の点を確認した。

「大丈夫。おじいさまは聞いてくれたよ」

「よかった。どうせなら、一瞬で終わらせたいんだ。ぼく、意気地なしだから」

「ぼくだって、さ」

「後のことは、後で決めようね」

「ああ、現地到着後に、ね」

「はぐれないで」

「もちろんさ、ルイ」

 マチアスの手に熱く力が加わり、ルイは目を細めた。

 レフのヒートガンが、ルイを狙っていた。

「止まれ! 消えろ! 本当に殺すぞ!」

「もちろん、本当に死ぬんだ」

 いつのまにかナヴィゲーターのコンソールに歩み寄っていたリックが、マイクロフォンにわめいているレフにいった。まるで、ききわけのない幼児に教え諭すような口調だった。

「うるさい。殺してやる」

 銃口が、リックにあがる。

 ブラックキャット・クイーンの砲塔が、また白い熱線を吐き出した。

 右舷の方から、激しい衝撃の波が襲った。

 レフが反動で引き金を引いた。

 リックは身を伏せた。

 レフが発した細い熱線は、サードスクリーンを粉砕した。

 ブリッジ内に、けたたましいブザーが響き渡る。

 警報だった。

「火災だ」

 ルイがうわごとのようにいって、立ち上がった。

 壁で狂ったように点滅しているランプの群れを見渡し、

「右舷第三倉庫で火災。右舷展望室、封鎖。倉庫の上の通路も封鎖したいね」

 キャプテンであるリックを顧みてそういってから、ナヴィゲーターのルイは気づいて笑った。

「ああ……もう、同じなんだ……」

 リックは首をすくめてみせ、マチアスがかばうようにルイの肩をつかまえた。

 新たなブザー音があがった。

 今度は、異常接近を知らせる警報だ。

 リックはハッとメインスクリーンを見た。

 レフも呆けたようにそれを見上げていた。

「おじいさまったら、ぼくのいうこと、全然聞いてくれないんだなぁ」

 ルイが笑った。

 ブラックキャット・クイーンは、ホワイトネビュラ号の正面に停止していた。

 フロントウィンドウ越しにでも、その姿が見極められるほど近い。

 ホワイトネビュラ号は、低速ではあるが走り続けている。このままではブザーは焼き切れ、巡洋艦の巨大な砲塔の前に飛び込んでゆくことになるだろう。

「きっと、後ろから斬りかかるのが性に合わないんだよ。紳士なのさ、おまえのおじいさまは」

 マチアスは、スクリーンを見あげるルイの耳元でいった。

 ルイは振り返らずにほほえんだ。

 大好きな祖父が、両手を広げて迎えてくれているようなイメージがあった。受け止めてくれそうな、そんな気がした。

 ブラックキャット・クイーンの砲塔が、動く。

 艦の前面に装備された熱線砲の砲塔すべてが、ホワイトネビュラ号に……そのブリッジに向けられてゆく。

 ブザーは鳴り続けている。

 しかし、うるさいとは感じなかった。

 こいつが焼き切れるのが先か……。

 あいつが火を噴くのが先か……。

 どちらでも同じことだが。

  リックはゆっくりと目を閉じた。何気なく右手を伸ばすと、ルイの手にとらえられた。

「リックも、はぐれてはいや」

「ぼくがつかまえててやるよ」

 マチアスがいって、手を重ねた。

 そのとき……。

 呆然としていたレフ・キングが、意味のわからない叫び声をあげてから、

「あんなもの! すぐに、撃ち落としてやる! 見ているがいい、妨害はさせない!」

 その手が、ナヴィのコンソールの上を走った。

 どんなキーを打ち込んだのかは、わからない。ただ、次の瞬間、ブリッジがその表情を変えたのだ。

 友達の顔だ。

 リックは胸の中で叫んだ。

 同時に、レフをナヴィのシートから殴り飛ばしていた。

 レフが向こう側の壁にぶつかるのと、マチアスがパイロットシートに飛び込むのとが同時だった。間髪を入れず、ルイが自分のシートを取り戻した。

 ブリッジ内が沈黙した。

 ブザーがだめになったのだ。

「頭を上げろ! ホワイトネビュラ!」

 マチアスが悲鳴のように叫んで、思いきり操縦レバーを引いた。

「シールドだ!」

 リックが声を上げたときにはもう、ルイの手はコンソール上を動いていた。

 フロントウィンドウの向こうが、まばゆい白に光った。

 激しい振動に、立っていたリックは機関士のコンソールに叩きつけられ、立ち上がろうとしていたレフは、再び壁に激突した。

 虚空を走る間……。

 ブリッジでは何も起こらなかった。

 スピーカーが、リックとマチアスとルイの名を呼んでいる。

 ピエール・マルローの声だった。

 ルイはおもむろにレシーバーを取り上げたが、そのままリックを顧みた。

 リックは腰をさすりながら、レシーバーを受け取った。

「こちらは、ホワイトネビュラ号。レフ・キングを、現在の時刻をもって逮捕します」

 レフ・キングは床にうずくまったまま、リックの顔を見あげた。

 これ以上何もしないだろうと、リックは思った。

 レフは悪夢から覚めたばかりのように、すすり泣いているのだった。

 リックはレシーバーを離し、低くいった。

「人を殺しても、自分が死ぬのはいやなのか? 貴様の涙には、吐き気がするぜ」



*10*


 フロントウィンドウの向こうに、船が降り立った。

 グレーのボディ……ナイトのアトランタだった。

 少年たちは動かなかった。

 ホワイトネビュラ号をニュールナポートのはずれに着陸させて、乗り込んできた捜査官たちにレフ・キングを引き渡し、その中の顔見知りの少佐に無言で温かく肩を叩かれ、中庭に爆弾処理隊が入るのを許し……。

 それでも、彼らはブリッジから動かなかった。

 リックはブリッジの中央に立ったまま、腕を組んで目を閉じていた。

 マチアスは、パイロットシートにかけたきり、ふりかえろうとはしなかった。

 ルイは、四角く黒い穴になっているサードスクリーンに目を向けていたが、それを見ているのかどうかはわからない。

「アトランタから、人が降りてくる」

 マチアスが、どうでもよさそうにいった。

 リックは目を上げた。

 アトランタからフィールドに降ろされたタラップの途中で、大柄な男がこちらに手を振っていた。

「モーツァルトだ」

 遠すぎて顔かたちを判別することもできないが、リックはそういった。

「じゃ、降りるとするか」

 マチアスが立ち上がり、のんびりとリックに歩み寄る。

 リックはうなずき、動かないルイに、

「行くぜ」

「だめ……」

 ルイが、切羽詰まった口調でいった。

「どうしたの?」

 マチアスが怪訝そうに、うつむくルイの顔をのぞきこむ。

「だめ。今、動いたら、ぼく、泣き出してしまいそう……」

 リックとマチアスが、顔を見あわせる。

「ばかだな……」マチアスはルイに目を戻して、「全然、だめじゃないよ」

「ぼく、男なんだからね」

「わかってるよ。でも、いいんだってば」

「本当?」

 ルイが、潤んだ瞳をあげた。

「もちろんさ」

「じゃ……あの……」

「ん?」

「だ、抱きついても……?」

「いいとも」マチアスが苦笑する。「どうしたのさ、いったい」

 しかし、ルイは無言でかぶりを振り、マチアスの首に両腕を投げかけた。

 ルイの頭の血はもう乾いていて、その金の髪は乱れたままだった。

 ルイは、ちぎれるほど唇を噛んでいた。

 その横顔を見ていたリックがふと、

「平気さ」

 マチアスの肩の上で、ルイがリックの方を見た。

 リックは溜め息のようにいった。

「おまえの涙は、平気さ」

「リ……」

 ルイはぎゅっと体をこわばらせ、それから溶けるように泣きだした。

 マチアスが、あわててルイを抱き締めた。

 リックは震えているルイに、そっと、

「平気さ。おまえの涙には、もう慣れた」

 まるで、おまえの涙を愛している、とでもいっているようにルイを包むリックのまなざしをルイの代わりに見、マチアスが嬉しそうに目を閉じた。



 ニュールナのRAP本部。

 その特別室で会ったモーツァルトは、制服を着ていた。

 階級章は、宙軍中佐。

 現在の宙軍には、階級は九つしかない。尉官、佐官、将官、それぞれに、大・中・小。そらでは、命令系統がシンプルであるほどいい。その考えから、整理されたのだ。もっともジプシーは若い軍人が主で、階級のない者がほとんどだが。

 モーツァルトの前に立ったリックは黙って敬礼したが、モーツァルトは笑ってその手を引き寄せ、握りしめた。

「会えたね、少尉」

 モーツァルト中佐は、コーヒー色のつややかな肌をした男だった。リックよりも10センチは背が高く、大樹のようにたくましかった。

 彼はひとりでその部屋にいて、少年たちを待っていたのだった。

 マチアスと、頭の裂傷の手当てを終えたルイも、敬礼ではなく握手をした。

 特別室には窓がない。

 高い天井。木目の美しい壁。深紅のびろうどの低いソファ。シャンデリアの光がまろやかに隅々まで照らし、奥の部屋に続くドアを包むようにびろうどのカーテンが深いひだを作っている。

 少年たちは、傷ついたブリッジを思い出していた。

 遠い昔に見た夢の断片のように、この二日あまりのことを回想した。

「キングは連盟警察に引き渡されることになる」

 少年たちをソファにかけさせると、モーツァルトは向かいあうソファにかけながらいった。

「地球のエリアで熱線砲を撃った理由は、閣下が宙軍詰めの記者団に、記者会見で発表する。君たちは単に『ジプシー』と報告されるだろう」

 リックは、無言でうなずいた。

「彼は、ヴォルフ星の出身らしい。たぶん、軍事関係者なのだろうが、どうやら、家族親族がいないようでね。戦争のせいかもしれない。まだ、わかってはいないんだ。相手の女性は、シドニーで見つかった。歌手らしいね。知りあった機会があったとしたら、戦争中、彼女が慰問でもしたときだろうか。もし知りたければ、調査が済み次第、報告書を送ってあげるけれど?」

「いいえ」リックは目を伏せて、小さく首を振った。「彼がどこの誰で、何をしていたか……それはもう、どうでもいいことです。うまくいえませんが……自分が見たレフ・キングだけで充分だと思えるので……」

 モーツァルトはうなずき、ソファに沈みすぎる体を居心地悪そうに動かした。

「最後の熱線で尾部を欠損したそうだね。間一髪とはこのことだ。修理と整備が済んだら君たちは、また飛んでゆくのだろうね? つまり……これに懲りたりせずに」

「はい」

「ジプシーか」少年たちを見るモーツァルトの目が、ふっと遠くなった。「私が君たちのように飛んでいた頃は、まだ『ジプシー』は正式名称ではなかったが、確かに……ジプシーだったよ、私はね」

「……」

「あぁ、飛びたい。自由に、どこまでも。……別に、妻や子に不満はないがね」

「……」

「彼女たちを救ってくれて、ありがとう」

「いえ……」

「本当に、家族に不満はない。『ない』どころか、世界の誰よりも愛しているよ。彼女たちのために、私は無茶をしなくなった。そうしたら、とんとん拍子に昇進した。少尉や中尉だった頃、私の目の前には何もなかった。星間物質さえなかった。何も引き止めず、行く手にも何も……。そう、インターポーズなんていう手を食らわなくて済んだんだ。こんなことをいったら、君たちは怒るだろうが……」

「……」

「けれど、正直にいうよ。私はこの二日あまりの君たちさえ、心のどこかで羨んでいるんだよ」

 モーツァルトは口をつぐみ、まぶたを閉じて笑った。

 少年たちはただ、黙って彼の微笑を見つめていた。

 やがて、モーツァルト中佐が顔を上げる。

「いや、すまない。つい、愚痴になったね。……そろそろ閣下の手も空くだろう。私室へあがってほしいとのことだ。行き方はわかるね? きっとまた会おう。君たちが救ったメルボルンに招待するよ。……ありがとう」



 マルロー閣下への挨拶と報告が済むと、リックとマチアスはルイを残して本部を出た。

 ニュールナは、黄昏時だった。

 市全体を覆う巨大なドームは、今、ラベンダー色の人工光を放っている。

 ひんやりと感じる風が、ふたりの髪を吹き上げている。

 風の中、傷ついたホワイトネビュラ号が待つポートへの道を歩きながら、マチアスが不意にクスッと笑った。

「最後まで戦う、なんていったくせにさ。ぼく、勝つこと、諦めてたような気もするんだ。なのに……なのに、あの瞬間、ちゃんと体は動いた。どうして、ぼく、つい、生きようとしちゃうんだろ」

「……」

「ジプシーだから、かな」

「人間だから、だろ」

 リックがいった。

 マチアスは目を見張り、平然と歩くリックを見つめた。

 それから、視線を落として、

「ぼく……心のすみで、残念がってるよ」

「……」

 リックは、盗むようにマチアスを見た。マチアスはうつむいたままだ。

「だってさ、80になるまで飛んでいられたかもしれないのに……あの世へ行けば、さ」

「ん……」

「いろんなものが、ぼくを引き止める。目の前で通せんぼをする。『今』っていうのは、なんでこんなに短いんだろう」

「うん……」

「誤解しないで。ぼくはコンボトルを愛してるよ。必ず帰る。でもね、ぼくは……ジプシーなんだ。こんなにも。体の芯から」

「……」

「終わっちゃったことだから言えるんだろうけど、あのレフでさえ、かわいそうなやつだな、なんて思えるんだ。まるで、この世に幸せな人間なんて、ひとりもいないような気までしてくるんだ」

「マチアス」

「本当に、あの世に行ってみたくなるんだ」

「ばか」リックは苦笑し、マチアスの頬を軽く叩いた。「あの世にはあの世の不幸があるさ。知らないから、きれいに見えるだけさ」

「……」

「それに、幸福と不幸は違うものじゃない気がする。ひとつのものが、見る角度によって幸福だったり、不幸だったりするんだ」

「そうかもしれないね。メルボルンの家族が彼の幸せで、足枷で……」

 歩道を走ってくる足音を聞き、ふたりは立ち止まってふりかえった。

 夕刻の光の中、走るルイの金髪の裾が跳ねていた。頭を取り巻く包帯の白さが、薄紫の空気に映えた。

「やっと、追いついた。足、速いね」

 ルイは息を弾ませながら、ふたりに笑いかける。

「こら、無理するなよ。傷が開くぞ」

 マチアスが、兄のようにいった。

 リックは驚いた顔で、

「ずいぶん早かったな。閣下……おじいさまに、甘えてればよかったのに」

 ルイはほほえんで、

「いいんだ。また、会えるんだもの。マチアス? 顔色がよくないね」

「この空の色のせいさ」

 マチアスは軽くいったが、瞳を伏せてしまった。

 ルイは無言のまま、何かを待つようにマチアスを見つめている。

 マチアスは小さく溜め息をつき、

「この世に幸せな人なんかいないんだって、話をしてたんだ」

「どうして? ぼく、幸せだけど」

 ルイがきょとんとすると、マチアスもルイに向けて戸惑ったようにまばたきをくりかえした。

「幸せ? どうして?」

 見つめられて、ルイははにかみ、うつむいた。

「どうしてか、なんて……そんなこと……」

 それから、彼はそっと両手をあげた。それぞれの手をリックとマチアスの肘に絡めた。

 マチアスは表情を和らげ、リックはくすぐったそうな目をした。

 ルイはほんの少しふたりの腕を引き寄せて、子供のようにいった。

「わけは、聞かないで」



(了)

実験的に投稿しています。

解説など、今後加えていくつもりです。

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