先輩に恋をする売れない若手芸人の話
現代、片思い
煙の中で、名前を呼ばれた。
劇場の裏口にある喫煙所は、いつも少しだけ湿っていた。
コンクリートに染みついた雨と、吸い殻の匂いと、失敗した夜の気配が混ざっていたんだ。
俺は、煙草を吸わない。
いや、吸えないといったほうが正しいと思う。
だけど、あの場所にはついつい行ってしまう。
そこに、先輩がいるからだ。
「今日もド派手に滑ったなーお前!」
そう言って、先輩は煙草に火をつける。
ライターの音が、やけに大きく響いていた。
先輩は俺より七つ上で、テレビには出ていないけれど、劇場ではそこそこ名前が知られている人でもあった。
「俺、間の取り方間違えちゃいまして……」
「うん、焦りすぎ」
「ですよねー」
「でも、ネタは悪くない!」
煙を吐きながら、しみじみ言う。
その煙は夜の空に溶けていく前に、一度、俺のほうへと流れてくる。
ひどく苦いその匂い。でも、俺は嫌いじゃなかった。
たぶん、それが先輩の匂いだからだ。
「お前吸わないのに、よくここまで来るよな」
「……ここ、なんだか落ち着くんです」
「変なやつ」
そう言って、先輩は大きな口を開けて笑っていた。
舞台の上では、ちゃんと面白い人なのに。
喫煙所では、ただの疲れた男みたいだった。
「ぶっちゃけ、芸人やめようかなって思うとき……あります?」
そう俺が聞くと、先輩は一拍おいてこう言った。
「そんなこと、毎日だよ」
「……ですよね」
「でもさ、」
煙を吸って、深く吐いて先輩はこう続けた。
「やめたら、何者でもなくなっちまうような気がしてさ……」
その言葉が、やけに胸に残っていく。
先輩は、いいことがあった日も悪いことがあった日も何かから逃げるように煙草を吸っていた。
煙を必要とするほど、うまく生きられない人間。
それが、先輩だった。
俺は、その姿に惹かれていた。
俺は、売れない芸人だ。
ネタをやっても、客席は笑うより先に、息を吸う。
先輩に比べて、俺は何も持っちゃいなかった。
才能も、実績も、その自信も。
だから煙草を吸う先輩の横にいると、少しだけ安心できるような気がした。
この人も、完全じゃない。
この人も、煙を吸わないと立っていられないんだと。
そう思えることが、何よりの救いでもあったんだ。
「お前さ」
「はい」
「喫煙所、好きだろ」
「……はい」
「なんで?」
少し考えてから、俺はこう言った。
「負けた人たちが、ちゃんといるから」
先輩は、派手に笑った。
「なんだそれ、最悪な理由だな!」
「でも、ここだけは……成功者がいないじゃないですか」
「いるけどなー。たまには」
「今日は、いませんよ?」
「たしかに!今日はなー」
その日、先輩は二本煙草を吸っていく。
一本目は、ネタの失敗で。
二本目は、俺の話を聞くために。
俺は、その不器用な優しさに恋をしていた。
告白をするようなことは、しなかった。
代わりに、喫煙所に通っていた。
「お疲れ様です」
「おー」
「今日のネタ、好きでした」
「どこが?」
「間、とか……」
「お前……、わかってないなー!あれは、ボケが効いたんだよ!」
そう言いながら、少し嬉しそうに煙を吐いていた。
その煙は、俺のほうに流れてくる。
吸わないのに、肺が覚えてしまうその匂い。
俺はいつまでも、その匂いを覚えていたいと静かに思う。
どんな時でも、背中を押してくれるその匂いを。
完




