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健全な男同士のオムニバス  作者: 陽花紫


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6/7

無口無愛想と控えめ気弱な幼馴染同士の不器用でありふれた愛の話

無口不愛想×控えめ気弱、西洋風

 ヨハンはその日、エルマーの笑顔を見て嫌な予感をおぼえていた。


 それはいつもの、場を和ませるための笑い方でもあった。口角だけが持ち上がり、その目は少しだけ伏せられていた。

 誰かに何かを合わせるとき、頼まれごとをされて断ることができないとき、自らを後回しにするときの、あの笑顔。


「……そうなんですね。ありがとうございます」


 エルマーの声は軽く柔らかで、確かに祝福の形をしていた。

 その言葉が向けられたのは、自らの未来であるというのに。


 部屋の中には数人の大人と、形式ばった話題と、しかしその中で“見合い”という言葉だけが浮いていた。


 ヨハンは黙って椅子に座り、背筋を伸ばしたまま何も言うことができずにいた。

 堂々としたその佇まいは、いかなるときも冷静沈着で無愛想であることの表れでもあったのだ。

 周囲がヨハンに抱く印象を、彼自身もよく知っていた。

 だがその胸の内側では、静かに、何かが崩れようとしていたのだ。


 ――エルマーが、誰かと結ばれる。


 それが祝うべきことであるとは、わかっていた。

 わかっているからこそ、言葉が出てこなかったのだ。


「ヨハンも、何か言ってくれ」


 ふいに声を向けられて、ヨハンはわずかに視線を上げた。

 艶のある銀の長い髪が、肩口で静かに揺れていた。


「……エルマーが幸せになれるのなら、それでいい」


 それは、嘘ではなかった。

 しかし、本心でもなかった。


 エルマーはその言葉に、少しだけ目を細めてまたいつものように笑っていた。

 まるで安心したかのように。まるで、許しを得たかのように。


 その瞬間、ヨハンは悟る。


 ――彼はもう、俺のことなど眼中にない。


 それが一番、耐えがたくもあったのだ。


 夜、エルマーと二人きりになっても、話題は増えるようなことはなかった。

 いつも通りの距離、いつも通りの沈黙。

 エルマーは湯を沸かし、ヨハンに向けて静かに茶を差し出す。

 互いの指が触れそうになるものの、それに気づいた途端エルマーの指はすぐさま離れていく。


「……見合いの話、……嫌じゃなかったのか?」


 ヨハンの問いは、ひどく低くまるで感情を抑え込むかのように静かに落ちる。

 エルマーは一瞬だけ言葉に詰まり、それから、またあの笑みを浮かべていく。


「僕なんかでも、必要としてくれる人がいるのなら……」


 その言葉を耳に入れた瞬間、ヨハンの胸の奥で、何かがはっきりと音を立てて割れていく。


 ――なぜ、自らを卑下する。


***


 ヨハンとエルマーは、隣り合った屋敷に住む昔馴染みでもあったのだ。

 幼い頃より互いの屋敷を行き来する仲でもあり、その日もヨハンはエルマーの私室で分厚い本を広げていた。

 そのような折に、見合い話が舞い込んだ。

 エルマーの父は、ヨハンが同席することをさほど気にも留めなかった。

 どのようなときであっても、常に二人は隣り合っていたのだから。

 だからこそ、内気なエルマーの背を押すようにと願っていたのだ。


 その日エルマーは、約束の時間よりも少し早く屋敷を出ていた。

 茶色の髪はいつもより丁寧に整え、あちらこちらへと向いてしまう巻き癖も抑え、その身に纏う衣服でさえも相手に対して失礼のないようにとわざわざ新調していたのだ。


 鏡に映るその姿は、少しだけ他人のようで、それでいて背伸びをしているようにも思えていた。


 ――ちゃんと、役目を果たさないと。


 しかしエルマーはそう思うことで、その胸の奥に燻る違和感から目を逸らすことしかできずにいた。


 ヨハンは朝の挨拶を交わすために、いつものように屋敷の門の前へと立ちその姿を静かに眺めていた。

 何も言わず、ただ、いつもより整ったエルマーの姿を視線でなぞる。

「……出かけるのか」

「うん。今日は、軽い顔合わせだけだけどね。すぐに帰るよ」

 エルマーは、努めて明るくそう言った。


 ヨハンはそれ以上、何も尋ねるようなことはなかった。

 いや、尋ねることができずにいたのだ。

 本当は、聞きたいことが山ほどあった。どのような相手で、どのような家柄なのか、エルマーはどのような顔をして、相手に向けて笑うつもりであるのかと。


「……気をつけて」

 それだけ言うと、ヨハンは視線を逸らしてしまう。


 一人になった私室は、やけに広く感じられた。

 椅子の位置も茶器の配置も、何も変わっていないはずであるというのに。

 いつもなら、朝の挨拶を交わした後、ヨハンの私室で二人は茶を飲むひとときを楽しんでいたのだ。


「静かなものだな……」


 ヨハンは窓際に立ち、外を見た。

 遠くの街路を歩く、小さな人影。

 その中にエルマーがいるはずであるというのに、見つけることができずにいた。


 一方、エルマーは向かい合う席で強張った面持ちをしていた。

 相手は穏やかな顔立ちをしており、話し方も至って丁寧で、周囲が良縁と評するのも納得できるような人物でもあったのだ。


「お仕事は、何を?」

「はい、今は……」


 会話は、途切れることもなく進んでいく。

 何度か互いに微笑むような場面もあり、穏やかな時間が流れていく。


 しかしエルマーの胸の中は、ずっと別の場所にあったのだ。


 ――ヨハンは、今頃何をしているのだろう。


 茶を淹れているのだろうか、窓辺に立っているのだろうか。

 それとも何も考えず、ただ静かに座っているだけなのであろうか。


 思い浮かぶのは、無愛想な横顔と、銀の髪と、何も言わずにひっそりと隣に佇む姿ばかりであった。


「……お疲れのようですね」

 そう声をかけられて、はっと目を見開く。

「いえ、そのようなことは……」

 エルマーは慌てて笑みを浮かべていく。

 それはいつもの愛想笑いであり、この場を壊さないための癖のような表情でもあったのだ。

「少し、緊張してしまって」

 相手は、優しく頷いた。

「無理もありません。突然のお話でしたから」

 その言葉に、エルマーの胸がわずかに痛む。


 ――突然じゃない。いつかは、こんな日が来ると思っていた。


 エルマーの笑みが、かすかに曇る。

 自らが、ヨハンの隣に立つ資格はない。そもそも、釣り合うようなことはない。

 だから、誰かに引き取られるほうがいいのだと。そうすれば、ヨハンの邪魔になるようなことはないのだと。

 近頃のエルマーは、そればかりを考えていたのだ。


「また、お会いできますか?」

「……はい」


 それは、正しい選択のはずであった。

 しかし帰り道、エルマーは頬を撫でる風をやけに冷たいものであるかのように感じていた。


「……ただいま」

 屋敷に戻ると、ヨハンはいつものように客間の机で何やら書き物をしていた。

 静かにペンを置いて、一言。

「……どうだった」

「うん、いい人だったよ」

 エルマーは、曖昧な声でそう言った。

「話も合いそうだったし……。安心したよ」

 その言葉に、ヨハンは一瞬目を伏せた。

「……そうか」

 それ以上、二人の間に続く言葉はなかった。

 エルマーは荷物を置き、椅子に深く腰を下ろした。


 ひどく長い、沈黙が訪れる。

 いつも通りのはずであるというのに、今宵は妙に重く感じられた。

「ヨハン」

 エルマーがそう呼びかけると、ヨハンはゆっくりと顔を上げていく。

「……何だ」

「……」

 しかし言葉は、続かない。


 ――本当は、行きたくなかった。ヨハンのそばに、いたかった。でもそれは、僕のわがままだ。


「……何でもない」

 そう自らの思いを押し込めて、エルマーはまた笑っていた。

 ヨハンはその笑みを目の当たりにして、胸の奥で別の感情が膨らむのを感じていた。


 ――何でもないような顔には、見えない。


 しかしその言葉を口にする気力もなく、再びペンを走らせた。


***


 それからの日々、互いの生活は少しずつ変化をみせていく。


 エルマーは、以前よりも外出することが増えていた。

 見合い相手との話し合いという名目で、屋敷を空ける時間が少しずつ長くなる。


「今日は、少し遅くなるかもしれないから」


 そう告げるたびに、ヨハンは短く頷いた。


「……わかった」

 しかし、それだけであったのだ。

 引き留める理由も、遅くなる理由を尋ねる資格も、自らは持ち合わせていないのだとヨハンは思い込んでいたのであった。


 そしてエルマーの背中を見送るたびに、胸の内で同じ言葉を繰り返す。


 ――俺は、何も言えない。言ってはいけない。


 エルマーが選ばれた道を、否定するような権利はないのだとも。


 夜、私室で机に向かっても、文字が進むようなことはなかった。

 視線は何度も、空いた椅子へと向かってしまう。

 そこにあるはずであった、柔らかな茶色の巻き毛。

 少し丸まった背中、穏やかな気配。

 それがないだけで、この場所はまるで別の部屋であるかのようにも思えていた。


 エルマーもまた、街をゆっくりと歩きながら別の重さを抱えていた。

 相手は丁寧で優しく、自らのことを必要としてくれていた。

「一緒に暮らすなら、静かな場所がいいですね」

「……そうですね」

 そう未来の話をされるたびに、胸の奥で何かが冷えていくような気配を感じていた。


 ――もし、この人と一緒に暮らすのなら……。


 それを想像しようとしても、エルマーの隣に浮かぶのはいつでもヨハンの姿ばかりであった。

 穏やかな沈黙、真っ直ぐに伸びた背、そして時折見せる不器用な優しさ。


 咳をしたときには、何も言わずに水を差し出し。

 夜遅くなったときには、灯りを残してまで待っていた。


 それらは、言葉にされるようなことはないものの。

 ずっと、エルマーにだけ向けられてきたヨハンの優しさでもあったのだ。


 ――それなのに、僕は……。


「……ごめんなさい」


 ふと、吐き出した言葉に相手の言葉は止まってしまう。


「今、何か……?」


 エルマーははっとして、首を横に振っていた。


「いえ……。少し、ぼんやりしてしまって……」


 慌てて、いつもの取り繕うような笑みを浮かべる。

 しかし本当は、心から笑うことなどできずにいたのだ。


 屋敷に戻ると、ヨハンは窓際に立っていた。

 夜の街を、黙って見つめていたのだ。

「……ただいま」

 その背に声をかけると、彼はゆっくりと振り返る。

「……おかえり」

 それだけの言葉であった。


 沈黙が、落ちる。

 その中で、エルマーは耐えることができず、ついに口を開いてしまう。

「……ヨハン」

「何だ」

「……もし」

 しかし言葉が、喉で止まる。


 ――もし、僕がいなくなったら?なんて……。


 そのような問いを投げるのは、ヨハンを試すようで、卑怯であることのような気がしていた。


「ううん。……何でもない」


 そう言って、エルマーはまた笑った。

 ヨハンはその様子を、ただじっと見つめていた。

 銀の髪の奥で、目元がわずかに細められる。


「近頃のお前は、そればかりだ……」


 その声には、怒りが含まれていた。


 思わずエルマーは、目を見張る。


「……行くな。誰のところにも」


 それはヨハンの、心からの叫びであった。

 語尾はひどく落ち着いていたものの、長年隣で過ごしてきたエルマーの胸にはその言葉の響きが痛いほどに刺さっていく。


「ヨハン……」

「俺の隣にいろ、エルマー」


 あたたかな腕が、エルマーの身を包み込む。ヨハンの胸の鼓動が大きく音をたてていた。

 エルマーは、ゆっくりと首を振っていく。

「……ずるいよ」

 そう涙を含んだ声色で、いつものように笑っていた。

「そんなふうに言われて……。行けるわけ、ないじゃないか」

 ヨハンの目が、わずかに見開かれる。

「僕は、これからもずっとヨハンの隣にいたい。でも……怖かったんだ」

「怖い……?」

「ヨハンも、同じ気持ちなのかが……わからなくて……」

 その言葉に、ヨハンは腕に力を込めていく。

「エルマー」

 その名を呼ぶ声は、今までで一番弱々しいものでもあったのだ。

「俺も、同じ気持ちだ」

 耳元で囁かれた低い声に、エルマーもまた真っ直ぐに伸びたその背に自らの腕を回していた。


「本当に……?」

「本当だ」


 互いの抱きしめ方は、あまりにもぎこちなく、不器用で強くもあったのだ。

 しかし、決して互いに逃がさないようにと確かな意思が込められていた。


***


 その後、エルマーの見合い話は破談となって幕を引く。

 理由は、本人の意思によるもの。

 それ以上、何も語られるようなことはなかった。


 やがて、ヨハンとエルマーは同じ屋敷で日々を共にすることとなる。

 それはこれまでと変わらぬものの、エルマーの笑みはあたたかなものへと変わっていた。


 その夜、灯りを落とした寝室は、昼間よりもずっと狭く感じられた。

 窓の外には月が浮かび、白い光が、床に細い線を引いていた。

 エルマーは寝台の端へと腰を下ろし、落ち着きがないように指先を組んだりほどいたりを繰り返していた。

「……ヨハン」

「何だ」

 返事はしたものの、互いの視線はわずかにずれる。

 これまでにない緊張感が、辺りを包み込んでいた。

「……その……、今日は……」

 エルマーは、小さく息を整えた。

 しかし続きの言葉が、見つからなかった。

 ヨハンは、エルマーにゆっくりと近づいてその手を静かに包み込む。


「無理に、早まるようなことはない。俺たちには、時間がある……」


 そうヨハンは、エルマーの額に唇を落とした。

 エルマーの頬が赤く染まり、照れたようにヨハンの顔を見上げていた。


「うん。ありがとう……」


 かすかな音をたてて、エルマーもまたヨハンの頬に口づけを返す。

 それだけで、互いの心は満たされていく。


「おやすみ」

「ああ、おやすみ」


 エルマーが規則正しい寝息を立てはじめた頃、ヨハンは静かに身を起こす。

 茶色の巻き毛に指を絡ませ、悩まし気に静かに息を吐いていく。


 ――エルマーが、隣にいる。


 ヨハンは未だ、この幸福を素直に受け止めることができないでいたのだ。

 しかし頬を撫で、確かな温もりに目を細める。


「これからも、隣に……」


 その小さな願いは、夜風が静かにさらっていった。


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