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健全な男同士のオムニバス  作者: 陽花紫


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5/7

腹部に大きな傷痕がある俺が異世界転移をした話

異世界転移、シリアス、ほのぼの

 目を開けたとき、ミノルは見慣れぬ空の下にいた。

 霞んだ光がやわらかく降り注ぎ、空気はどこかほのかな甘さを秘めていた。

 辺り一面に木々が生い茂り、爽やかな風が若葉を揺らす。


 見上げれば、二つの太陽が空に滲んでいた。

 昼と夕暮れとが、溶け合うような不思議な光景。

 

 ――なんだ、夢か。


 そう思ったのも束の間、頬をなぞった風の感触があまりにも現実的で、ミノルは思わず頬をつねる。

 鈍い痛みが走り、これが現実であることを知ったのだ。


 思わず衣服に手を入れて、胸から下にかけて、腹部に大きく残る手術痕を無意識のうちに押さえつけた。

 指先に触れたその感触はまだ固く、淡い痛みを宿していた。


「……やっぱり、あるんだな」


 ぼんやりと呟いた声は、森へと深く吸い込まれていく。

 異世界転移、というありふれた言葉が頭をよぎるものの、その現実味は非常に薄くもあったのだ。


 それからの数日、ミノルは必死にこの世界の言葉と習慣を覚えていく。

 運よく、森の外れにある村で助けられ、寝床と仕事を与えられていたのだ。


 村人たちは皆、一様に穏やかであり、誰も彼の過去を詮索するようなことはしなかった。


 それでも、夜になるとミノルの手は腹部の傷に触れてしまう。

 何度も、治癒魔法を試みた。

 しかし、いかなる術者の手を借りても、その傷は薄くなることすら叶わない。


「こっちでも、治らないか……」


 この世界では、魔法で腕を生やすこともできるという。

 けれど、自らのこの傷だけは、まるで別の世界の法則に縛られているかのように、いつまでも残り続けていたのである。

 その事実は、ミノルを静かに蝕んでいく。


 そのような彼に、最初に声をかけたのがリイウであった。


 リイウは隣の家に住む青年で、金色がかった淡い髪と、少し眠たげな灰色の瞳を持っていた。

 猫のように秘めやかな足取りで、気づくといつも傍にいた。

「ミノル、また考えごとしてた?」

「えっ……?」

「顔に、出てる。……たぶん、寂しそうな顔」

 そう言って笑う彼の声は、春風のように柔らかなものでもあったのだ。

 初めて耳にしたそのとき、そのあまりのあたたかさに、ミノルはしばらく言葉を返せずにいた。


 リイウは村では薬草師をしており、些細な怪我であっても必ず手当てを施した。


 ある日、ミノルが市場で指を切ったときも、すぐさまリイウは駆けつけた。

「ほら、見せて」

 リイウの指先は温かく、軽く光を帯びていた。

 魔力がなせる術であった。

 小さな切り傷が、あっという間に消えてしまう。

「……ありがとう」

「そんな顔しないで。治るのは、当たり前のことだよ」

 リイウのその笑みは、痛みの代わりにミノルの胸を締めつけた。


 しかし腹部の傷だけは、リイウに見せることができずにいた。

「きっとリイウも、気持ち悪いって思うよな……」

 そのような思いが、胸の奥に巣食う。


***


 季節が移り変わるように、日々は流れるように過ぎていく。


 ミノルはリイウの優しさに支えられながらも、心のどこかでその距離を置いていた。

 この傷がある限り、誰かに愛される資格はない。

 そのように、信じながら。


 ある、夕暮れのことであった。

 二つの太陽が重なり合い、世界が黄金色に染まる頃。

 リイウが、いつになく真剣な表情でこう言った。


「ミノル。俺、君のことが好きなんだ……」


 その言葉が、わずかに空気を震わせた。

 風が止まり、時が、一瞬だけ息を潜めたように感じていた。

 ミノルは、ただ呆然とリイウの姿を見つめていた。

 告白など、これまでのミノルの人生において、無縁なものであると思っていた。


「……どうして、俺なんかを?」

 声が、掠れた。

 リイウは小さく首を傾げ、少しだけ笑っていた。


「どうしてって……。なんだか、放っておけなかったんだ。君はときどき、すごく遠くに行ってしまいそうな顔をするものだから」

 ミノルの胸が、わずかに疼く。


 しかし、伝えることなどできずにいた。

 この、傷のことを。

 それがすべての拒絶の理由になりえることが、ひどく恐ろしくもあったのだ。


「……ごめん、リイウ」


 ミノルは、目を伏せる。


「うん……。そう言うと、思ってた」


 リイウは、それ以上追及するような真似はしなかった。


 しかしそれからというもの、彼の視線はどこか強さを増していく。

 まるで、ミノルの心を見透かしていくかのように。


 やがて太陽が沈み、深い夜が訪れる。


 窓の外で、しゃらりと星が揺れる音がした。

 ミノルは眠ることができず、ぼんやりと天井を見上げていた。

 胸の奥が、ざわつく。

 リイウの言葉が、何度も蘇る。


 ――好きなんだ。


 その声が、夜気の中で確かに響く。


 翌日も、その次の日も、リイウは変わらずその笑みをミノルに向けていた。

 押しつけがましさなど一切なく、ただ傍に佇むだけである。

 しかそその穏やかさが、かえってミノルの心を追い詰めていく。


 やがて、ある雨の夜。

 ミノルはとうとう、心を決めた。

 逃げてばかりではいけない、と。

 自らのこの傷を、初めて誰かに見せてみようと。

 拒絶されてもいい、気味悪がられても構わない。


 それでも、今のままよりは、きっと前に進めるであろうと。


 リイウを家に招いたのは、その夜のことであった。

 窓の外では、なおも静かな雨が降っていた。

 部屋には、淡く揺れる灯りがひとつ。

 ミノルは深く呼吸をしてから、震える手で服の裾を持ち上げた。


***


 部屋の中に、雨の音が静かに流れ込んでいた。

 ぽつり、ぽつりと屋根を叩くその音が、まるで胸の鼓動であるかのように響いていた。


 ミノルはランプの灯りを少しだけ弱め、リイウのほうへと向き直る。

 彼の灰色の瞳が、揺らめく光の中でやわらかな光を放っていた。

 いつものように笑みを浮かべているというのに、その笑みはどこか無理をしているようにも思えていた。


「……話が、あるんだ」

 ミノルは、静かに口を開く。

「うん」

 リイウは短く返事をし、椅子からそっと立ち上がる。

 彼が一歩近づくたびに、空気が静かに熱を帯びていくような気がしていた。


 ミノルは、両手で強く服の裾を握りしめていた。

 ランプの灯りが、わずかに震えるその手元を照らしていた。

「見せたいものが、あるんだ」

 そして、ゆっくりと布をめくり上げる。


 露わになった肌の中央に、大きく湾曲した赤い傷痕がはしっていた。

 縫合の痕がうねり、古い痛みの記憶がそこに刻まれていたのだ。


「治らない傷がある」

 ミノルは、顔を伏せていく。

「この傷を、見せるのが怖かった。きっと気味が悪いと思うだろうし……。何より、俺は……人に見せられるような身体をしていない」


 雨が、少し強くなる。

 沈黙の中、リイウは一歩、また一歩とミノルのもとへ近づいた。

 そして、ためらいもなくその傷跡に手を伸ばす。


「……それで?」


 その言葉に、ミノルは息を呑む。

 リイウの手のひらが、肌の上をそっと撫でる。

 その指先はひどく優しいものであり、慈しむように赤い色へと添えられていく。

「ミノルは、頑張ったんだな」

 リイウは、穏やかな声をして告げた。

「こんなに深い傷なのに、……君は今も生きている。……それだけで、すごいよ」


 ミノルの視界が、ぼやけて滲む。

 何かが、胸の奥でほどけていくような気がしていた。

 この傷を見られることを、ずっと恐れていた。

 しかしリイウは眉ひとつ動かさず、この傷痕を受け入れたのだ。


「俺、怖かった。嫌われると思って……」

「そんなことで、嫌うわけないよ。君がここまで生きてくれたことのほうが、……ずっと嬉しい」

「……リイウ」

 呼んだその名は、震える吐息のように消えていく。


 リイウは顔を近づけ、ミノルの額に唇を落とした。

 その温度が、静かに流れ込む。

 そして頬、喉、胸元へと。

 触れられるたびに、ミノルの身は少しずつ力を失い、抗うことができなくなっていく。

 それは痛みではなく、溶けるような安堵でもあったのだ。


「君の全てが、綺麗だ」

 リイウの声が、耳元で甘く囁く。

 ミノルは言葉を失ったまま、ただその温もりにこの身を静かに預けていく。


 雨音が外で優しく混ざり合い、やがては二人を包み込む。


 わずかな衣擦れの音が響き、互いの肌と肌が静かに触れ合う。

 リイウの指が傷の縁をなぞるたびに、ミノルは小さく震えていく。

 痛みは、なかった。

 ただ、どこか懐かしいような光が流れ込んでくるようでもあったのだ。


「ここに、君が生きてきた証がある。俺にしか、見せなくていい……」


 リイウの言葉は、まるで祈りのようでもあった。

 その祈りに包まれるかのように、ミノルの心は溶けていく。


 やがて二人の呼吸だけが、部屋中に響き渡る。


 ミノルはただ、リイウに向けて微笑んでいた。


 いつしか雨は止み、窓の外では薄青い霧が漂っていた。

 朝が、きたのだ。

 ミノルが目を覚ますと、その身はリイウの腕の中にあった。

 胸元に頬を寄せれば、鼓動が優しく響いていく。


「おはよう」


 リイウの声が、夢の続きであるかのように柔らかな音へと変わる。

 ミノルは、かすかに笑いながら挨拶を返した。


「変な夢を、見たような気がする……」

「それは、……どんな?」

「俺の傷が、光ってて……。それが、空に昇っていく夢」

「……それ、夢じゃないかも」


 リイウはにこやかに微笑み、ミノルの腹部のあたりを撫でる。

 そこに確かにある傷は、昨夜よりも、わずかに淡くなっていたのだ。


「リイウ……?」

「たぶん、君が許せたんだ。……自分のことを」

 リイウはそう言って、ミノルの髪を指で梳いていく。

「魔法なんて、たいしたことないんだ……。よく癒えるのは、君の心の力だよ」


 ミノルは、その言葉に静かに目を閉じた。


 あの日、拒絶の理由にしていた傷が、今はただの模様であるかのように思えていた。

 それは痛みなどではなく、確かに、ミノルが生きてきた証でもあったのだ。


 ミノルは、静かに息を吐く。

 新たな光が、窓の外の世界を染めていく。

 二つの太陽が、また昇る。


 その光は、もう痛くはなかった。


 やがて、ミノルはリイウと共に暮らすようになる。

 その方が、互いにとって好ましくもあったのだ。

 リイウは片時も離れず、その傷痕ごとミノルのことを愛していく。

 ミノルもまた、与えられる愛を感じては穏やかな笑みを浮かべていた。

 そして、同じくらいの愛を返したいとも思っていたのだ。


***


 朝の光は、透きとおるように静かであった。

 窓の外には薄い霧がまだ残り、世界が柔らかい膜の中に包まれているようでもあったのだ。

 隣では、リイウが寝息をたてていた。


 昨夜のことを思い出せば、まだその身の奥がかすかに震える。

 けれどそれは恥といったものではなく、確かに生きているという実感でもあった。

 ふと、腹部に視線を落とす。

 そこには、まだ傷痕があった。しかし、着実にその色は薄くなっていた。

 まるで、夜の中で溶け出した痛みの残滓が、光に溶かされたかのようでもあったのだ。


「……リイウ」

 声をかければ、リイウはゆっくりと目を開ける。

 その瞳は、朝の霧と同じ色をしていた。


「起きてたの……?」

「うん。……なんか、少し眠れなかった」

「身体、平気?」

「平気。……不思議と、心のほうが楽なんだ」

 ミノルがそう微笑むと、リイウは安堵したように息をつく。


 簡単な朝食をとりながら、ミノルは何度も迷った末に口を開く。

「ねえ、リイウ。……君は、怖くなかった?」

「なにが?」

「俺の、傷を見て……。……あんなの、普通じゃないだろう?」

 リイウはスプーンを置いて、少しだけ笑っていた。

「怖くなんかないよ。むしろ、君の生きざまを見たような気がしたよ」

「生きざま?」

「うん。俺も、ずっと……欠けたものを抱えていたから」


 その言葉に、ミノルは思わず顔を上げる。

 リイウは窓を見つめながら、ゆっくりと言葉を選ぶように続けていく。


「俺、生まれつき……魔力の流れが歪んでいるんだ。本当は、薬草師なんかじゃなくて、癒やし手になりたかった。でもどれだけ努力しても、人を完全には治せなかった。……君の傷に触れたときも、正直、治せないってわかってた」


 ミノルの胸の奥に、小さな痛みがはしる。


「それで……。怖く、なかったのか?」

「ううん。むしろ、嬉しかった」

「嬉しい?」

「だって……。俺にも、届かないものがあるって……知ることができたから」


 リイウは、柔らかく微笑んだ。

 その表情には、昨夜とは違う静けさがあった。


「ずっと俺は、完全な癒しを与えられないこの力を恥じていた。でも、君の傷を見て……ようやくわかったんだ。傷は、消すためにあるんじゃない。触れて、受け入れるためにあるんだって……」


 その言葉は、ミノルの胸の奥へとまっすぐに落ちていく。

 世界が、静止する。

 二人のあいだに漂う光が、ゆっくりと揺れていくようでもあったのだ。

 気づけば、ミノルはリイウの頬に手を伸ばしていた。


「リイウ。……ありがとう」

 リイウはその手を取り、静かに唇を寄せていく。

 指先が触れ合うその瞬間、二人の間に淡い光が生まれる。

 それは魔法などではなく、もっと原初的なものでもあったのだ。


 それは、互いを赦し、受け入れる温もり。


「君の傷は、きっとこのまま残ると思う」

「うん」

 でも……、それは君の証だから。俺はそんな君を……、ずっと見ていたい……」


 ミノルは、小さく息を呑む。

 リイウの瞳はあまりにも真剣な光を帯びており、そこに嘘などひとつも感じられなかったのだから。


「俺も……。リイウのことが、好き。大好きなんだ、リイウ」


 その言葉は、雨上がりの空に放たれた光のようでもあった。

 リイウは、そっと笑った。

 

「やっと、言葉にしてくれた」

「えっ……」

「気づいてなかった……?告白の返事、もらってなかった……」


 ミノルは驚きに目を見開くものの、リイウは腕を広げてその身を包み込む。


「ごめん……」

「いいよ。だって、俺のこと……愛してくれているから……」

「リイウ、大好き。それに、愛してる。これからちゃんと言葉にするよ」

「……嬉しい」


 二人は、強く抱きしめ合う。


 もう夜のような熱ではなく、朝の光のような爽やかな温もりで。


 手のひらの下に感じる鼓動が、確かに生きていると告げていた。


 窓の外では霧が晴れ、遠くの森が黄金色に光りはじめていた。

 鳥たちの声が溶け、風がやわらかに吹き抜ける。

 この世界のどこにも、完全なものはない。

 誰もが少しずつ欠けながら、それでも誰かを想っている。


 ミノルは、リイウの胸元に顔をうずめた。

「……俺たち、似てるんだな」

「……うん。欠けたまま、ちゃんと生きている」

 その言葉に、ミノルは静かに笑っていた。


 ――この世界に来た意味を、ようやく見つけたような気がした。


 いくら薄くなっても、この傷は決して消えはしない。

 しかし、それを抱きしめてくれる愛しい人がいる。

 その事実が、何よりも温かく感じられていた。


 窓の外で、二つの太陽が重なり合う。

 その光は柔らかく、やがて二人の影をひとつに溶かしていくのであった。


END

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