病弱な皇子と嫁いだ僕の白い記憶
異郷、切ない、儚い、死ネタ
その渇いた咳を聞くたびに、この胸の奥がひどく締め付けられるようでもあった。
それは遠い故郷で夜毎咳き込んでいた弟の声が、壁を越えて届いてくるようでもあったのだ。
けれど弟は、もうこの世にはいなかった。
そして隣に眠るこの皇子の命もまた、そう長くはなかった。
それなのに、僕はこの皇子の伴侶としてここにいる。
生まれつき病弱で、王城の奥に位置するこの離れに、まるで隔離されるかのように息を潜めて生きてきたこの皇子。
誰もが、成人を迎えることなく死ぬだろうと囁いていたその存在。
けれど皇子は生き延びて、無事に成人を迎えていた。
それを祝うように、あるいはそれを口実にするようにして、大きな戦が起こったのだ。
皇子の伴侶を得るための戦。
そして敗れた僕の国から、嫁ぐ者が差し出されることになっていた。
けれども僕の国の王族は皆、男だった。男しか、いなかった。
その中で唯一、華奢で一際声も高く、顔立ちも女に見紛うとされたこの僕が選ばれたのであった。
薄絹の衣をこの身にまとい、髪を結い上げ、白粉を塗って。
偽りの姫として、僕はこの国へと送られた。
僕が生き延びるためには、仕方のないことでもあった。
皇子を初めて目にした瞬間、僕は言葉を失った。
骨ばったその身に、薄く張りついたような青白い肌。艶を失くした銀の長い髪は痛み、頬は削げ、鎖骨がはっきりと浮き出ていた。
しかしその青い瞳だけは、恐ろしいまでに美しく、澄んだ光を宿していた。
それはまるで、死を知り尽くした者だけが持つ、静かな輝きとも言えよう。
「このたびは……、申し訳ありません」
皇子はそう言って、わずかに頭を下げていた。
それはあまりにも優雅な動作で、あまりにも優しい謝罪であったのだ。
気づけば、僕はその髪に手を伸ばしていた。
指先が触れた瞬間、白銀の色がさらりと揺れる。
まるで氷柱であるかのように、細く、冷やかに感じられた。
「謝るのは、僕のほうです」
そう言うと、皇子は驚いたように目を見開いた後に、ゆっくりと顔を上げていく。
「あなたは……」
「僕は、男なのですから」
その言葉に、皇子は一瞬だけ息を呑む。
しかし安堵したように、ほっと目を細めていた。
その理由を後に尋ねたとき、皇子は苦い笑みを浮かべてこう言った。
「もうこれ以上、この血を継ぐものが生まれない。そう考えて、この心が軽くなりました」
皇子の病は、血によって継がれる病でもあったのだ。
だからこそ、皇子は末の子として生まれ、隔離されるように育てられていたのだ。
「この病が引き継がれることを、私は恐れていたのです」
悲しそうに笑う皇子を、僕は強く抱きしめた。
折れてしまいそうなほどに、細いその身は柔らかな花の香りがした。
胸に伝わる鼓動は弱いものの、それでも確かに息をしていたのだ。
「……離れの中では、どうぞ、好きなようにお過ごしください」
皇子はそう言って、僕に自由を与えていた。
外出も、読書も、その他の時間の過ごし方も。
けれど僕は、決して皇子のそばを離れようとはしなかった。
書物を寝台に持ち込んでは、皇子に向けて読み聞かせる。
時折窓の外を眺めては、羽を休める小鳥を目にして笑みを浮かべた。
咳が出るたびに、その背をさすり、温めた水を口に含ませてやる。
「すみません」
その度に、皇子は僕に向けて謝った。
そのような言葉よりも、別の言葉を欲していた。
時には手を繋いで、ただ静かに呼吸を揃えるような夜もあった。
「あなたの手は、温かい」
そう言って微笑む皇子の手は、いかなるときも冷たくあった。
だから僕は、何度も何度も、その細い指を包み込む。
いつしか、この言葉を交わさずとも心が通ずるようになっていた。
孤独を知る者同士の、静かな共鳴とでもいったところであろうか。
だが秋が深まる頃から、皇子は床に臥せる日が増えていく。
医師たちは皆、一様に目を伏せては首を横に振るだけであったのだ。
僕はただ、その背をさすってやることしかできずにいた。
***
ついには雪が降り始めたその日、皇子は目を覚ますと、か細い声でこう呟いた。
「雪を……、見せてほしい」
窓辺まで寝台を寄せて、二人で静かに外を眺めた。
たちまち、雪は降り積もる。
白く覆われた山々は、音もなく、すべてを包み隠すようにそこにあったのだ。
「……このような話を、知っていますか」
皇子は、か細い声で語ってみせた。
それは遠い昔のこと、ある国の姫が雪の中で突然行方をくらませた。
やがて季節が巡り、雪が溶けはじめた頃に、その姿はかつての雪山の中から発見されたという。
「眠るようなその亡骸は、かつての姿のまま美しくあり、身にした衣服にも何の変化もなかったという……」
皇子曰く、亡骸が急速に凍結したことにより、その腐敗が止まったのだと考えられているのだとか。
呼吸を置いて、皇子は震える手で僕の頬に触れた。
「……私も、そうありたい……」
気付けば僕は、その青白い頬に唇を寄せていた。
「それなら、僕が……。あなたを雪の中に埋めてみせましょう」
冗談めかして言ったはずであったその言葉に、皇子は静かに、心からの微笑みを返していた。
「ありがとう」
その夜、皇子は僕の手を離しはしなかった。
細い指が力なく絡まり、まるで離れることを拒むかのように。
そのわずかな温もりが、永遠であればいいと僕は初めて願ったのだ。
翌朝、皇子が目覚めることはなかった。
何度名を呼び掛けても、決して目を開けることはなかった。
とても穏やかな顔をして、瞼を閉じていた。
僕だけが、そのことを知っていた。
誰にも知らせる必要もなく、僕は準備をしていた通り雪山へと足を向けていた。
白い衣に皇子の身を包み、それを抱えて。
驚くほど軽いその身に目を見開きながらも、それでも僕は一歩一歩力強く積もる雪を踏みしめていた。
息が白く、視界が霞む。
それでも、立ち止まるようなことはなかった。
やがて、かつて皇子が眺めていた白い山の一角へと辿り着く。
人の寄りつかぬ、静かな場所。
雪を掘り、その中へと皇子の身を横たえた。
その頬に触れるだけで、指先が凍えた。
「……綺麗だ」
生きていた時よりも、むしろ穏やかで安らかな顔をしていた。
その唇に、そっと唇を寄せる。
それは僕たちの初めてであり、最後にもなりえる口づけでもあったのだ
「また……、会えますよね」
答える声は、なかった。
しかし、皇子は確かにそこにいたのだ。
再び雪を手にして、その身を覆っていく。
白が、白を飲み込んでいく。
すべてを終えたあと、僕は皇子の隣に横になる。
冷たい雪が、背中からこの身を包み込むようでもあったのだ。
不思議と、恐れはしなかった。
むしろ胸の奥に広がるのは、懐かしさにも似たような感覚であったのだから。
故郷で失った弟、皇子と重なるその面影。
守れなかった命と、最後まで共に生き抜いたその命。
「今度こそ……、一緒に……」
やがて、瞼が重くなる。
僕のこの身も、白で埋め尽くされていく。
それはまるで皇子からの抱擁であるかのようにも思えて、僕はかすかな笑みを浮かべていく。
いつか、この雪が溶ける頃。
再び、この地に人が訪れるであろう。
そのときに、僕たちが二人並んで眠る姿が見つかるかもしれない。
この身は決して変わらぬまま、まるで時に置き去りにされたかのように。
それでもいい。
この愛は、確かにここにあるのだから。
雪の中で、永遠に。
そして僕の意識は、優しく攫われていくのであった。
END




