第九章:歪む独占欲
ネーベルは名残惜しそうに麦を見つめてゆっくりと話しかけた。
「残念ですが、一度亡くなった人間が地上に出ることは魔窟や地獄、天国すべての場所で禁止されています。私も麦のもとを離れるのはとても不安なのですが、これに限っては仕方ありません。麦、決して屋敷から出ないでくださいね。またグレイヴがやってくるかもしれません。でも、安心してください。あなたにだけは絶対に危害を加えさせません。」
麦は笑顔で答えた。
「ネーベル様!心配ですけど、きっと大丈夫ですよね!私、信じて待ってます!本当は付いていきたいんすけどね…。無事に帰ってきてください!」
ネーベルは優しく微笑み、名残惜しそうにゼクと共に屋敷を後にした。
地上に行くのには専用のゲートがある。
そこのゲートをくぐった先には異常な光景が広がっていた。
夜の街は異様な静けさに包まれていた。
通りには無表情で立ち尽くす人々、その肩や背中に重くのしかかる霊の影。
霊が一斉にネーベルとゼクに気付き、無数の目がこちらを睨みつける。
その瞬間、こちらに無数の霊が襲い掛かってきた。
ネーベルは絡みつく霊を黒い煙に包んで正しい裁きの間へ落とす。
その横で、ゼクは閃光のように輝く大きな聖剣を握り、霊を無力化していた。
「……ひどいな」
ゼクが低く呟く。
「ここまで蔓延しているとは思わなかった」
ネーベルは短く頷く。
「霊が“生きた体”を奪い合う……こんな現象、前例がありません」
その時、空気が変わった。
冷たい風が吹き抜け、街灯が一瞬だけ暗くなる。
「……見つけた」
低い声が背後から響いた。
ネーベルとゼクが同時に振り向くと、そこには白いタキシード姿の男――グレイヴが立っていた。
相変わらずの微笑を浮かべている。だがその瞳は底冷えするほどの無機質な赤だ。
「……グレイヴ?」
ネーベルはわずかに目を見開いた。
「なぜ地上に……あなたは、ここにいてはいけないはず――」
グレイヴはネーベルに一歩近づき、首をかしげるように微笑んだ。
「ネーベル。君は……疲れているね。汗をかいて、目の下に影を作って。誰がそんな顔をさせたのかな?」
ゼクが前に出て、剣を構えた。「後ろに下がれ、ネーベル」
ゼクはネーベルを自分の後ろに隠すように前に出た。
ネーベルは驚きを隠せず、霊を処理しつつグレイヴとゼクを交互に見つめた。
グレイヴはゼクの方へ視線を移すと、淡々とした声で言った。
「ネーベルの気配が地上にあるのを感じたから、心配でついてきてしまったんだ。…ところで、そこの天使はなぜここにいるんだい?ネーベルのお知り合いかな?」
ゼクの眉がわずかに動く。
「お前は、グレイヴだな。何をしに来た。地上に出るゲートは通れないはずだ。」
グレイヴは微笑を崩さないまま、静かに答えた。
「よく私のことをご存じで。ただ私はネーベルが心配で心配で、ちょっとゲートにいた門番と話をして通してもらったんだ。少し乱暴だったかもしれないけどね。」
その声音に抑揚はなく、無機質さこそが寒気を誘った。
ゼクは小さく息を吐く。「やはり厄介なやつだ。いつか戦うことになるとは思っていたが、今日がその日か」
グレイヴ――悪魔の中でも特別な存在。
彼の名はすでに地上で広まり、「悪魔は恐ろしい」というイメージを決定づけた張本人だった。
その影響はあまりにも強く、善良な悪魔ですら疑われ、忌避されるようになったほどだ。
天は幾度もグレイヴの排除を試みたが、魔窟に送り込んだ天の使いはことごとく全滅。
唯一、ゼクだけが互角に戦える存在として残っていた。
「……ネーベルを利用するのか?」ゼクの声は低く鋭い。
グレイヴは小さく首を振る。「違うよ。私はただ……ネーベルを守りたいだけだ。君の手が触れる場所にいたい、私の目が届かないことが……耐えられないだけだ」
淡々としたその告白に、ネーベルは背筋が凍った。
(グレイヴ、なぜこれほどまでに私に執着するのですか。)ネーベルは一つだけ心当たりがあった。
だがグレイヴの表情は笑顔のままで、その瞳には一切の揺らぎがなかった。
ゼクが足を踏み出す。「……やはりお前は狂っている」
「そうかもしれないね」
グレイヴの声は柔らかかった。
だが次の瞬間、その体がふっとかき消え、ゼクの目の前に現れていた。
鋭い爪が横薙ぎに振るわれる。
ゼクは聖剣で受け止め、衝撃波が周囲の街灯を粉砕する。
グレイヴの動きは一切無駄がなく、笑顔のまま淡々とゼクに攻撃を繰り出す。
「……速い」
ゼクは呟き、光の翼を広げて後退する。その動きを追いかけるように、グレイヴが滑るように迫った。
薔薇の花弁が舞い散る。それはやがて黒い棘に変わり、雨のようにゼクに降り注いだ。
ゼクは障壁を展開、火花のような光が弾ける。
「ネーベルは私のものだ」
淡々と繰り返す声。そこに激情はない。ただ確信と執着だけがあった。
ゼクは目を細めた。「……やはり、この街の異常もお前か」
グレイヴは答えなかった。ただ口角を上げたままのまま、さらに踏み込み、鋭い蹴りを繰り出す。
ゼクは光の剣で受け流し、互いの衝撃が弾けて夜空が一瞬だけ白く染まった。
ネーベルは一歩も動けなかった。霊を処理しながら、二人の戦闘を目の当たりにしていた。
(……グレイヴ……あなたは何を考えているの?)
その疑問は、グレイヴの淡々とした声によってかき消された。
「ゼク。君は強い。でも私は譲らない。ネーベルに触れる手は、切り落とす」
ゼクは低く息を吐き、剣を構え直した。「……ならばやってみろ」
夜の街に、天と悪魔の衝突が響き渡った――。