第七章:揺らぐ感情
クラウディアは鏡台の前に立ち、変装用の外套を羽織ると街へ向かった。
その顔には僅かな興奮と、執念にも似た光が宿っている。
町外れの酒場。
シグリスはいつものように軽口を叩きながら酒を傾けていた。
そこに現れたのはフードで顔を隠したクラウディアだった。
「情報をネーベルに流してほしい。」
短い言葉と共に、机に小さな革袋が置かれる。中から金貨の音がした。
シグリスは驚いたように眉を上げ、そしてにやりと笑った。
「金払いがいいね。で、何すればいいの?」
「ネーベル邸の用心棒――カーディスと、その人間の少女……麦。二人の関係についてだ。この手紙をネーベルに渡してほしい」
「え、それだけでいいの?」
「そうだ」
クラウディアの唇が僅かに吊り上がる。
カーディスは魔窟では無口で不愛想だが、腕が立つことで有名な戦士だ。一時期は魔王のもとに仕えていたこともあったらしい。
シグリスは金貨を受け取りながら言った。
「おっけーじゃあ、今から行ってくるわ」
彼はそれが“だめなこと”とは思っていなかった。
ただ手紙を届ければいいだけの仕事。金になるなら、それでいい。
その頃、ネーベル邸。
黒いベールをかぶったネーベルは、自室で仕事を続けていた。
しかし心は落ち着かなかった。
(……麦と、カーディスが……仲良い?)
先ほどシグリスがネーベルの部屋にやってきて一通の手紙を手渡された。
差出人氏名などは書かれていない真っ白な封筒。
開けて見ると、カーディスと麦が二人で仲良く笑顔で映っている写真のみが封入されていた。
彼女は立ち上がりかけたが、机の上の報告書に目を落とす。
処理しなければならない感情管理の仕事が山積みだ。
立ち去るわけにはいかない――それが分かっているのに、胸の奥がざわついて仕方なかった。
(どうして……こんなに苛立つの……?)
クラウディアは次の一手を打った。
彼女は変装を解き、カーディスのもとに現れた。
「あなたに依頼があります。森で魔物が増えているとの報告がありました」
カーディスは首を横に振る。
「私はネーベル邸の用心棒だ。離れるわけにはいかない」
「……そうですか」
クラウディアは目を細めると、背後に立っていた麦に視線を移した。
「では、あなたに協力していただけますか?」
「えっ、私ですか?」
「ええ。荷物持ちとしてで構いません。彼もあなたが同行するなら離れられるでしょう」
麦は戸惑ったが、カーディスは渋々うなずいた。
「……離れるのは短時間だ。ついてこい。ただし、俺の後ろを離れるな」
森の奥へ向かう道すがら、麦は前を歩くカーディスに話しかけた。
「カーディスさん、グレイヴさんと知り合いなんですよね?」
「……ああ」
「過去になんかあったみたいな……」
「それでいい。知る必要はない」
短い返答。その横顔は険しかった。
(やっぱり何かあるんだ……)麦はそう思ったが、それ以上踏み込めなかった。
魔物の掃討は短時間で終わった。
帰り道、麦は笑って言った。
「カーディスさんってすごいですね! 強いし、冷静だし……なんか安心するっていうか」
「……褒められても困る」
「えへへ、でも本当のことですよ」
その笑顔に、カーディスの胸にわずかな温かさが広がった。
長い間忘れていた感情――信頼されること、受け入れられること。
(……変な子だ)
そう思いながらも、彼の表情はどこか和らいでいた。
木陰からその光景を見ていたクラウディアは、ゆっくりと微笑んだ。
「……いい顔をなさる。ネーベル様、あなたの時代は終わりです」
彼女の目には確信が宿っていた。
(あの少女は、もう“あなたのもの”だけではない。あなたは元の無感情に戻る……)
二人が屋敷に戻ると、夕暮れの空気が静かに満ちていた。
カーディスは無言で警備に戻り、麦は部屋で着替えを済ませた。
夜、ネーベルの部屋。
麦は寝る前にいつものように声をかけた。
「ネーベル様、ただいま戻りましたー」
その瞬間、ネーベルの瞳が揺れた。
「……カーディスと、一緒にいたのですか?」
「え、ええと……はい。森で仕事があって――」
「仲が良いのは……本当ですか?」
ベールの奥の瞳は、冷たくも熱を孕んでいた。
麦は思わず息をのむ。
「え、えっと……仲がいいっていうか、その……」
言葉を探す麦を見つめながら、ネーベルはゆっくりと近づいていった。
「……私だけを見ていてくれませんか?」
その声には、いつもの感情のない調子とは違う熱が混じっていた。
麦はただ頷くことしかできなかった。