第六章:ネーベル邸襲撃
戦います!
買い物袋を両手に抱え、麦は鼻歌を歌いながら門へと向かっていた。市場でのやり取りは少しだけ不思議なものだった。あのクラウディアという女性の冷たい笑顔が、どうしても脳裏にちらつく。
(ネーベル様は繊細なお方です……か。私、そんなに影響与えちゃってるのかな……)
胸の奥に小さな不安が生まれる。しかし、麦はすぐに首を振った。
「うーん、考えすぎ考えすぎ! ただいまーって言ったら、ネーベルさんも笑ってくれるだろうし」
そう言って笑顔を取り戻し、軽い足取りで門をくぐろうとしたその瞬間――。
――ゴォッ!
低い唸り声のような風切り音が耳をつんざく。麦は思わず足を止めた。
「……え?」
視線を向けると、森の影が不自然に揺れている。木々の間から黒い影がいくつも這い出してきた。輪郭は獣のようで、しかし四足の足は異様に長く、体全体が黒いもやで覆われている。目だけが赤く光っていた。
「な、なにあれ……!」
魔窟特有の魔物。ここに来てから耳にしたことはあったが、実際に遭遇したのは初めてだった。
「やば……逃げないと……!」
麦は走り出したが、袋の中の野菜がぶつかり合って音を立て、バランスを崩す。
「うわっ――!」
足がもつれて転倒する。砂利道に手をついた瞬間、影の獣が跳びかかってきた。咄嗟に目を閉じた。
――しかし、衝撃は来なかった。
「下がれ」
低く鋭い声が耳に届く。恐る恐る目を開けると、カーディスが麦の前に立っていた。両手に握られた短剣がクロスを描き、魔物の爪を受け止めている。
「カ、カーディスさん!」
「立てるか」
「は、はい!」
カーディスは一瞬で麦の前から飛び出し、魔物を蹴り飛ばした。地面に転がった影の獣が立ち上がるより早く、カーディスは短剣を回転させて構えを変える。
「後ろにいろ」
呟くと同時に足元に魔法陣が浮かぶ。赤い光が一瞬だけカーディスを包み込み、次の瞬間――彼の身体が弾丸のように加速した。
「ハァッ!」
二本の短剣が閃光のように走り、魔物の首筋を一撃で切り裂く。黒い霧が散り、影の体は砂のように崩れていった。
「ひっ……!」
麦の背筋が凍る。恐怖ではない。その動きはあまりに速く、力強く、美しかった。
しかし安堵する暇はなかった。森の中からさらに複数の影が飛び出してくる。
「数が多いな」
カーディスは短剣を逆手に持ち替え、低く構えた。その背後で麦が息を呑む。
「……私が麦を守る」
その声に麦は振り返った。ネーベルがそこに立っていた。黒いベールを揺らし、冷たい瞳を獣たちに向けている。
「ネーベル様 !」
ネーベルは無言で手を掲げ、氷の魔法陣を展開する。空気が一瞬にして冷たくなり、影の獣の足元が凍りつく。
「……遅いぞ、ネーベル」
「あなたが早すぎるだけです、カーディス」
二人の視線が一瞬交わり、すぐに前を向いた。敵は五体。だが二人の殺気は一気に場を支配した。
「私は左を抑える」
「なら右を」
言葉と同時に二人は動いた。カーディスが一気に踏み込み、右側の二体を両断。短剣を地面に突き刺すと衝撃波が走り、敵が吹き飛ぶ。その勢いを利用して二本目の短剣を投げ、後方の一体の頭部を貫いた。
左側ではネーベルの魔法が炸裂する。氷の槍が雨のように降り注ぎ、影の獣の動きを止める。その隙に彼女はするりと接近し、冷たい刃を突き立てる。氷が瞬時に獣を閉じ込め、砕け散った。
「あと一体!」
麦が声を上げた瞬間、最後の影の獣が一直線に突進してきた。狙いは麦だ。恐怖で足が動かない。
「来るなああっ!」
麦の叫びと同時に、カーディスがその前に立ちふさがり、両腕を交差させる。短剣に赤い光が宿り、次の瞬間――爆発的な衝撃波が解き放たれた。魔物の体は宙に吹き飛び、地面に叩きつけられたときにはすでに動かなくなっていた。
静寂が戻った。森のざわめきだけが耳に残る。
「大丈夫か」
カーディスが振り返ると、麦は涙目でこくこくと頷いた。
「は、はい……助けてくれて……ありがとう」
ネーベルが近づき、麦の肩に手を置いた。
「怪我は?」
「ない……と思います」
「よかった」
短くそう言うと、ネーベルはカーディスに視線を送る。
「……助かりました」
「仕事だ」
それだけを言って、カーディスは短剣を鞘に収めた。
ミリアや使用人たちが遅れて駆けつけてくる。
「何があったんですか!」
「魔物だ。でももう終わった」
カーディスの低い声に、皆が息を呑んだ。
麦は二人を見上げ、胸がいっぱいになった。
「守られてるんだな、私……」
そう呟いた彼女の言葉に、ネーベルは小さく微笑んだ。カーディスもわずかに目を細め、言葉にはせずとも同意しているように見えた。
屋敷に戻る道すがら、麦はずっと二人の背中を見つめていた。自分は確かに守られている――その実感が胸に残り、足取りがいつもより少しだけ軽く感じられた。
暗闇の中、その光景をじっと見ていた者がいた。
クラウディア。
月明かりに照らされたその顔は笑っていた。しかし、その笑みには温かさなど微塵もない。
「やっぱり……面白い。ネーベル様が、あんな顔をなさるなんて」
彼女の指先には、小さな水晶玉が握られている。その中には麦とネーベルとカーディスの姿が映し出されていた。
「でも……壊れるのも、時間の問題ですね。ふふ……」
低い笑い声が夜に溶けた。
もっといい感じになります!