第五章:護衛の名はカーディス
「ただいま戻りました」
昼下がり、屋敷の玄関が開く音とともに、聞き慣れた声が響いた。
「ミリアさん!」麦は箒を置き、ぱっと駆け寄る。
黒いメイド服の裾を揺らしてミリアは微笑む。
「麦、お変わりはありませんでしたか?」
「全然! っていうか……ミリアさんがいない間、ネーベルさんがずっとついてきてくれたんですけど、なんか距離近かったです」
「……ネーベル様が?」ミリアは一瞬だけ驚き、すぐに表情を引き締めた。
「詳しくはあとで伺います。それと──」
ミリアの後ろから、背の高い男性が無言で現れた。
暗めの赤髪を後ろで束ね、琥珀色の瞳が鋭く光る。
服装は軽装だが動きやすく、腰には短剣が二本。
「彼はカーディス。用心棒です。今後しばらくこの屋敷を警護します」
「よ、よろしくお願いします……?」麦が思わず距離を取ると、男は淡々と頷いた。
「……カーディスだ。仕事の範囲で守る。以上だ」
その低い声と無駄のない言葉に、麦は小声で「怖い……でもイケメン……」とつぶやいてしまった。
翌日。
またしても門を叩く重い音が響いた。
「えぇ……また?」麦は顔をしかめつつ門を開ける。
そこに立っていたのは、いつもの白いタキシードに赤いバラを持ったグレイヴだった。
「ごきげんよう、麦」
「あ、あの……」
「今日はあなたに用があるというより──」
グレイヴの視線が、背後に立つカーディスに止まった。
「……おやおや。これは驚いた」
カーディスは眉一つ動かさず答える。
「……グレイヴ」
「やっぱり君か。まだ生きていたとはね、カーディス」
「お前もな」
短い言葉に、かすかに刺のある空気が走る。
麦が目を丸くする。
「え、知り合いなんですか?」
「昔、同じところにいたんだよ」グレイヴはにやりと笑う。「いやぁ、懐かしいなぁ。まさかこんなところで会うとは」
ミリアはぽかんとした。
「……カーディス、あなたとグレイヴが?」
「過去の話だ。仕事に支障はない」カーディスは淡々と言い放つ。
「ふふふ、仕事ねぇ。君は本当に変わらないな」グレイヴは楽しそうに目を細めた。「また会いに来るよ。麦も一緒にね?」
麦は曖昧に笑い、カーディスは無言で門を閉じた。
グレイヴが去ったあと、ミリアは腕を組んだ。
「カーディス、なぜそのことを教えてくださらなかったのです?」
「聞かれなかった」
「……あなたって人は」ミリアは額を押さえる。
カーディスは表情一つ動かさず言った。
「過去は過去だ。今はこの屋敷を守るだけだ」
麦は二人のやりとりを見ながら、そっとつぶやいた。
「……なんか、また面倒になりそうな予感しかしないんだけど、まいっか!」
その夜。
屋敷は昼間の賑やかさが嘘のように静まり返り、冷たい空気だけが漂っていた。
カーディスは無言で廊下を巡回する。
長い廊下、無数の扉、広いホール──まるで迷宮のようなこの屋敷を、彼は迷いなく歩いた。
(変わらない。どこも静かだ)
そんなとき、足音が響いた。
「わ、びっくりした!」麦が水差しを持って廊下の角から現れた。
「……起きていたのか」
「ちょっと喉乾いちゃって。カーディスさんこそ、ずっと歩きっぱなしじゃないですか?」
「仕事だ」
「ずっと一人で? 眠くならないんですか?」
「慣れている」
「すごいなぁ……私なら眠くて三歩で寝落ちするかも」
麦が冗談めかして言うと、カーディスは一瞬だけ視線を向けた。
「……それは警備には向かないな」
「わかってますって! でもなんかカーディスさん、頼もしいなぁって思って」
「……頼もしい、か。そんなふうに言われたのは久しぶりだ」
「え? じゃあ前にも言われたことあるんですね」
「……昔の話だ。忘れた」
「そっか……。なんかカーディスさんって、話すの苦手そう」
「……得意ではない」
「ふふっ、正直者。なんかカーディスさん、いい人っぽいなぁ」
「いい人ではない」
「えー、そんなことないと思いますけど」
麦の笑顔に、カーディスはほんの一瞬だけ目を細めた。
「……部屋に戻れ。冷える」
「はーい、ありがと。おやすみなさい!」
「……おやすみ」
麦が去っていく背を見送り、カーディスは巡回に戻る。
(不思議な人間だ……)
翌朝。
ネーベルは廊下でカーディスと出会った。
「……護衛、ご苦労様です」
「仕事だ」
「麦に近づきすぎないようにしてください」
「……それはどういう意味だ?」
「そのままです。あなたは護衛です。麦に情を移さないでください」
「……心配しすぎだ。私は仕事をするだけだ」
「仕事だからといって、距離を詰める理由にはなりません」
「……あなたは過保護だな」
「そうかもしれません。でも麦は大切な人です」
「……ふっ」カーディスは鼻で笑った。「護衛としては理解できる発言だ」
「理解していただければ結構です。――ただし、もし麦を危険にさらすようなことがあれば、そのときは敵として対峙します」
「……承知した。だが、敵になるつもりはない」
二人の視線が交わる。
火花のような空気が一瞬だけ走り、すぐに何事もなかったかのように消えた。
「……あなたも過保護ですね」カーディスがぽつりと言う。
「お互い様です」ネーベルはわずかに口角を上げた。
翌日、麦は朝から市場に出かけていた。
ミリアの用事で新鮮な野菜と布巾を買うためだ。
ネーベルは屋敷で仕事中、カーディスは外回りをしており、今日は一人だった。
(うーん、このトマト安い……よし、これにしよう!)
袋いっぱいに野菜を詰めて帰ろうとしたとき、横合いから声がした。
「あなたが……麦さんですね?」
「え?」
振り返ると、黒いドレスを着た女性が立っていた。
美しいけれど、どこか冷たさを感じる。
彼女の瞳は笑っていない。
「えっと……どちら様ですか?」
「私はクラウディア。この前、白いタキシードを着ていた方――グレイヴ様のお世話係です」
「えぇぇ!? あ、あのバラの人の!?」
麦が驚いて声を上げると、クラウディアは薄く笑った。
「お世話になっていると聞きまして、ぜひ一度お会いしたいと」
「お世話……いや、あの人は勝手に来てるだけっていうか」
「そう……ですか。でも、あなたは危険ですよ」
「へ?」
「ネーベル様は繊細なお方です。あなたが近くにいると、ネーベル様は変わってしまうかもしれない。……そうなれば、この関係は壊れるかもしれません」
その声は淡々としていたが、言葉の奥に何か刺すようなものを感じた。
「え、えぇと……」
麦は笑ってごまかすしかなかった。
「でも、私そんな……大したことしてないです」
「それが一番危ないのですよ。無自覚な影響は、ときに刃より鋭い」
クラウディアは静かに会釈すると、すっと人混みに消えていった。
麦はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(……なんだったんだろう、あの人。怖っ……)
その夜。
カーディスはいつも通り廊下を巡回していた。
そこに、再び麦が現れる。
「カーディスさん、今日もお疲れ様です」
「……また夜更かしか」
「いや、寝られなくて……。あの、今日ちょっと変な人に会ったんです」
「変な人?」
「グレイヴさんのお世話係って名乗ってたんですけど……なんか、怖かった」
カーディスは立ち止まり、麦を見た。
「……クラウディアだな。あまり関わるな。あれは……厄介だ」
「そうなんですか?」
「ああ。ああいう類は、表情と声が合っていない」
「たしかに、笑ってるのに怖かったなぁ……」
麦はため息をついた。
「ねえ、カーディスさんって昔からこういう危ない人と戦ってたんですか?」
「……そうだな」
「どんな仕事してたんです?」
「……昔のことだ。話したくない」
「そっか。じゃあ、いつか話してくれる日を楽しみにしてますね」
麦はにっこり笑う。
カーディスは少しだけ目を細め、そして首を横に振った。
「……物好きだな」
「よく言われます!」
その無邪気さに、カーディスの胸にわずかな温かさが広がった。
翌朝。
ネーベルとカーディスは廊下で再び顔を合わせた。
「護衛、ご苦労様です」
「仕事だ」
「麦に情を移さないでください」
「……心配しすぎだ。私は仕事をするだけだ」
「ですが、あなたは過去に……」
「過去は終わった。今は護衛だ」
短い沈黙のあと、ネーベルは静かに告げた。
「なら、それで結構です。――ただし、もし麦を危険にさらせば、私は容赦しません」
「……承知した」
視線が交わり、空気がわずかに張り詰めた。
「あなたも過保護ですね」カーディスがぽつりと言う。
「お互い様です」ネーベルは無表情のまま、わずかに口角を上げた。