第四章:囚われの温度
少しドロドロにしすぎました。
悪魔なので許してください。
朝から屋敷の掃除に追われていた麦は、鼻歌を歌いながら廊下をモップで磨いていた。
ミリアが別邸に出向いてから数日、仕事量は増えたけど、だんだん慣れてきた。
「うーん、今日のノルマ終わったらお茶でも飲もうかな~」
独り言をつぶやきながら踊るようにモップを動かしていたとき、扉がノックされる音が聞こえた。
「はーい!」
開けると、そこにはシグリスが立っていた。
紫がかった黒髪を後ろにまとめ、赤い瞳をいたずらっぽく光らせている。
「よっ、麦。元気そうだな」
「シグリスくん! どうしたの?」
「ちょっと寄っただけ。お前、魔界の町にも慣れてきただろ?」
「うん! 前に教えてくれたパン屋さん、おいしかったよ!」
「だろ? あそこ穴場なんだよ」
軽快に話しながらも、シグリスは少しだけ真剣な顔になった。
「なあ、最近グレイヴの噂、聞いてないか?」
「え? グレイヴさん? この間お城に来た人?」
「そう。あいつ、ネーベル様にまだしつこいらしい。しかも……最近お前のことも気にしてるって話、聞いたぞ」
「え? 私? なんで?」
「さあな。とにかくあいつに近づくなよ。マジでヤバいから」
「そ、そうなんだ……」
シグリスの忠告は本気だったが、麦は深刻さを完全には理解できていなかった。
その日の午後、食堂で一息ついていると、静かに足音が近づいてきた。
振り返ると、そこにいたのは白いタキシードを纏った長身の悪魔――グレイヴだった。
「こんにちは、青山麦さん」
「え? あ、こんにちは……!」
突然の訪問に驚く麦。しかしグレイヴは柔らかな笑みを浮かべていた。
「ネーベル様は……あなたを気に入っているようですね」
「え、あ、そうなんですかね?」
「ええ。ですが、あの方は感情を表に出さない。だからあなたは少し不安ではありませんか?」
麦は戸惑いながらも首をかしげた。「……そう、なのかな?」
グレイヴは微笑を深める。
「私は知っています。ネーベル様を喜ばせたいと思っているのでしょう? ならば、あなたにひとつ提案があります」
グレイヴが差し出したのは、魔界の地図の一部を示した紙だった。
「ここに、とても珍しい使い魔がいるのです。ネーベル様にぴったりな性質を持つ。あなたが捕まえて差し上げれば、きっとお喜びになる」
「えっ、私でも捕まえられるんですか?」
「もちろん。小さくておとなしい。怖がる必要はありません」
その言葉に、麦の表情が明るくなった。
「じゃあ……行ってみます!」
「ふふ、では案内いたしましょう」
到着したのは、巨大で美しいが、どこか不気味な屋敷だった。
真っ白な壁、左右対称すぎる廊下、鏡張りの天井――まるで整いすぎていて息苦しい。
「わぁ……すごい」
麦が見とれていると、カツンとヒールの音が響いた。
姿を現したのは金髪の女性。長身で、軍服のようなラインを持つメイド服を纏っている。
「ようこそ。当屋敷へ。私、クラウディア・ヴェルナーと申します」
完璧な姿勢でお辞儀するクラウディア。その目は無機質に澄んでいるのに、どこか底知れない熱を帯びていた。
「この方が……麦様でいらっしゃいますか?」
「え、はい……あの、よろしくお願いします」
「主様が直々にお連れになったお客様など、久しぶりでございますわ。どうぞ、こちらへ」
クラウディアに案内されながら、麦はなんとなく背筋を正した。
廊下を歩く途中、クラウディアがふと笑った。
「ネーベル様の……お世話係をなさっているのですよね」
「あ、はい。最近お仕事だいぶ慣れてきました」
「そうですか……羨ましいですわ」
クラウディアの声には僅かに棘があった。
「ネーベル様は長年、主様の心を独占しておいででした。あの方の冷たさすら、主様にとっては魅力だったのでしょうね……私には理解しかねますが」
「え、えぇと……?」
クラウディアの笑顔は崩れない。それがかえって怖かった。
「あなたは違います。無垢で、無警戒で……きっと主様のお気に召すでしょう。……だから逃げないでくださいね?」
その言葉に麦は思わず足を止めたが、クラウディアは何事もなかったように歩き続けた。
案内された部屋は美しい応接室……のはずだった。
しかし扉が閉まると、外側から鍵がかかる音がした。
「あれ……?」
「ご安心を。主様はあなたに特別な興味をお持ちですから」
クラウディアはにこやかに言い、外に出ていった。
(え、ちょっと待ってこれって……閉じ込められてる?)
麦が扉に手をかけるも開かない。窓も厚い鉄格子がはめられている。
一方その頃。
シグリスが駆け込んできた。
「ネーベル様! 麦が……グレイヴに連れて行かれた!」
「……何?」
ネーベルの声は低く、冷たく響いた。
だがその手は小さく震えている。
「場所を教えてください」
「こっちだ!」
二人はグレイヴの屋敷へと急いだ。
到着すると、クラウディアが立ちはだかった。
微笑んだまま、しかし目は鋭い。
「ネーベル様。主様は今、お客様とお話の最中です。お引き取りくださいませ」
「その“お客様”は私のもとで働く者です」
「……やはり、あなたは主様の愛情を独り占めなさる」
クラウディアの目が一瞬だけ歪んだ感情で揺れた。
だがすぐに微笑に戻り、両手に短剣を構える。
「ここは通せませんわ」
ネーベルは一歩前に出た。
「……どきなさい」
次の瞬間、冷たい気配が走った。
ネーベルはクラウディアを制し、監禁されていた麦のもとへ辿り着いた。
扉を開け、麦を抱き寄せる。
「大丈夫ですか」
「ネーベルさん……! あの、閉じ込められて……」
「……二度と、勝手なことをしないでください」
声が震えていた。
麦は驚きつつも、笑って答えた。
「ありがとうございます。助けに来てくれて嬉しいです」
ネーベルはしばし無言で見つめたあと、麦の手を取り、屋敷を後にした。
高いバルコニーから、その様子を見下ろす影があった。
グレイヴだ。
「やはり……あなたは面白い、ネーベル様。もっと揺れてください。その子は……あなたを変える」
不気味な笑みを浮かべるグレイヴの横で、クラウディアが膝をついた。
「……申し訳ありません、主様」
「いいのですよ。あなたはよくやってくれた。むしろ、これは始まりだ」
その言葉に、クラウディアの瞳が複雑に揺れた。
屋敷への帰り道、麦はネーベルの横を小走りでついていった。
ネーベルは無言だったが、その手はしっかりと麦の手首を握っていた。
「……ネーベルさん」
「何ですか」
「えっと……ありがとう。私、ちょっと怖かったけど……助けに来てくれて、本当に嬉しかった」
ネーベルは立ち止まり、麦の方を振り向いた。
黒いベールの下から見える瞳は、僅かに揺れていた。
「……怖かったなら、なぜあの者について行ったのです」
「えっと……ネーベルさんのためになると思って……」
「私は、あなたに危険を冒してまでしてほしいことなどありません」
少し強い口調。その響きに麦はびくりとしたが、すぐに笑った。
「でも、助けてくれたじゃないですか」
「……当然です」
ネーベルの手が麦の手首から離れ、代わりにそっと指先が触れる。
その温度に麦はくすぐったさを感じ、無邪気に笑った。
「これからは気をつけますね!」
「必ず、です」
ネーベルはそう言って再び歩き出した。
その横顔は無表情なのに、どこか赤みを帯びているように見えた。
一方、グレイヴの屋敷。
クラウディアは誰もいない廊下に立ち尽くしていた。
握りしめた拳は小刻みに震えている。
(なぜ……なぜネーベル様なのですか。主様はあの人に、何百年も……)
歯を食いしばり、唇を噛む。
普段の無機質な仮面は剥がれ落ち、そこにはむき出しの感情があった。
(あの人がいる限り、主様は私を見てくださらない。……でも、あの人の周りを揺らがせる存在なら……)
クラウディアの視線は、先ほどまで囚われていた麦の座っていた椅子に向いた。
(あの子……青山麦。あなたは駒。主様の心を揺らがせる……便利な駒)
唇が笑みに歪む。
(利用できる……ええ、利用してみせます。主様の愛情を、あの人から取り戻すために)
クラウディアの瞳は狂気を帯び、やがて無表情の仮面に戻った。
「……準備を進めましょう。これは、まだ序章です」
麦とネーベルが屋敷に戻ると、静けさが広がっていた。
麦は扉を閉め、深呼吸をした。
「ふぅ……なんか、すっごい冒険した気分です」
「冒険ではありません。危険です」
「はいはい、気をつけますよ~」
麦は笑いながらエプロンをつけ直し、掃除用具を手に取った。
「ネーベルさんは休んでてください。私、仕事してきますね!」
「……」
その背中を見つめるネーベルの瞳は、まだ微かに揺れていた。
指先が自分でも気づかぬほど強く握られている。
(……私は……なぜ、こんなにも)
胸に残る熱に戸惑いながら、ネーベルは自室に戻った。
グレイヴはバルコニーに立ち、空を見上げていた。
「やはり君は面白い、ネーベル様。……そして、あの子も」
口元に浮かぶのは不気味な笑み。
「もっと揺らいでください。もっと苦しんでください。そして……いつか私の方を見てくださいね」
背後にはクラウディアが控え、無言で主を見つめていた。
(主様……あなたの愛情は私のものになる。そのためなら、私は……)
狂気と忠誠が絡み合う二人の影が、闇に溶けていった。
グレイヴは静かに自室の扉を閉めた。
カチリという鍵の音が、やけに重く響く。
部屋に入った途端、空気が変わる。甘ったるい香水と、鉄のような冷たい匂いが入り混じった異様な空間だった。
壁一面に貼り付けられているのは、全てネーベルの写真だった。
戦場で無表情に剣を振るう姿、無感情に書類を捌く姿、たまたま振り向いた横顔――どれも完璧な角度で切り取られている。
写真は古いものから最近のものまで、年単位で時系列順に並べられ、何層にも重ね貼りされていた。
その中央には、異様に大きな一枚――無表情でこちらを見るネーベルの正面顔。それだけは額縁に入れられている。
机の上には、魔道具で録音された声が詰まったクリスタルがいくつも散らばっていた。
クリスタルをひとつ撫でると、冷たい声が部屋に流れる。
『契約書は後ほど提出します』
『了解しました』
淡々とした声。その抑揚のない響きが、グレイヴには甘くとろける旋律に聞こえた。
グレイヴは笑った。
口角が不自然に吊り上がり、喉の奥で笑いがにじむ。
「……やはり、あなたしかいない」
ゆっくりと写真の一枚を剥がし、手のひらで撫でる。
指先が紙の表面をなぞるたび、わずかに震えていた。
まるで聖遺物を触れるかのように丁寧で、狂信的な仕草。
目を閉じると、あのときの記憶が蘇る。
かつて怒りと憎悪に飲まれ、自分すら壊していたあの日。
唯一、静かに立っていたネーベル。
あの瞳に見下ろされたとき、負の感情は嘘のように鎮まった。
だが――ネーベルは何の感情も示さなかった。
「私を救っておいて……一瞥すらくれない。
それが、あなたか。だからこそ……」
写真を額に押し当て、笑みが深まっていく。
「……美しい」
部屋の隅に置かれた魔道具が、不規則なリズムでネーベルの声を再生していた。
ひとつの声が途切れると別の声が重なり、まるでネーベルが何人もこの部屋にいるかのように響く。
低く乾いた笑い声がその合間に混じった。
「もっと見せてください……あなたの揺らぐ姿を。
無表情でいられなくなる、その瞬間を……」
壁の写真たちが、暗闇の中で生きているかのように見えた。
無数のネーベルがこちらを見つめ、拒絶するでもなく受け入れるでもない――ただ冷たく静かに存在している。
グレイヴはその視線を浴びながら、陶酔したように笑い続けた。
グレイヴの部屋の前を通りかかったクラウディアは、微かな声に足を止めた。
鍵がかかっているはずの扉が、わずかに開いている。
主様の部屋を覗くべきではない――そう分かっていながら、足が勝手に動いていた。
扉の隙間から見えた光景に、クラウディアの呼吸が止まった。
壁一面に貼られた無数の写真。どれもネーベルのものだった。
机には録音魔道具が散乱し、淡々とした声が何重にも重なって響いている。
『承知しました』
『了解しました』
冷たく、感情のない声。それを聞いているグレイヴの背中はわずかに震え、陶酔に似た気配を放っていた。
その視線は、まるで恋人を見つめるかのように熱を帯びている。
(主様……なぜ、あの女なのですか)
胸の奥がじりじりと焼けるように熱くなる。
あの無表情なネーベルに、主様は数百年もの間囚われている。
あの方がいなければ――主様は、きっと私を見てくださるのに。
クラウディアの指先が震え、扉の取っ手を掴んだ。
しかしその先に踏み込むことはできなかった。
主様の笑みがあまりに幸福そうで、その幸福の理由が自分ではないことを突きつけられたから。
(……許さない。ネーベル様……あなたさえいなければ)
クラウディアはゆっくりと扉から離れた。
その目には嫉妬と執着が入り混じり、先ほどまでよりもずっと深く歪んでいた。
(麦……あなたは駒。必ず使ってみせますわ。主様の愛を取り戻すために)
廊下に響くヒールの音は、いつもよりも硬質だった。
次回はもっとドロドロします。
ちゃんとした内容も書きますので待っていてください。