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第二章:謎の悪魔 求婚者グレイヴ

麦の魔界でのメイド生活が本格的に始まりました。

ミリアとのやり取りにも慣れ、笑顔で仕事をこなす麦。けれど、その穏やかな日常の裏で、黒いベールのメイド・ネーベルはある「違和感」を抱き始めていて──。

今回は、少しずつ動き出す感情と、不穏な影の気配を描きます。

次の日から仕事が始まった。

麦はミリアの厳しさにびくびくしながらも、日々の家事をこなすうちに少しずつ要領を掴んできた。ミリアも最初の頃の厳しさは少し和らぎ、二人は笑いながら仕事の合間に雑談を交わすようになっていた。


「麦、今日の掃除はだいぶ上手くなったじゃない」とミリアが少しだけ微笑みながら言う。


「えへへ、ミリアさんのおかげです!」麦も嬉しそうに返した。


ミリアと並んで廊下を掃除していたときだった。

「そういえば、麦は人間界でなにをして――」

「いや~、特になんにもしてなかったけど……ん?」


突然、屋敷の奥から「ゴン、ゴン」と重々しい音が響いた。大きな門が叩かれている。

ミリアの顔がぴくりと強張る。

「……来ましたね。また」


麦が「誰?」と聞くより早く、ミリアはモップを置いて姿勢を正した。

麦も並んで隣に急いで並んだ。

しばらくして、門の前に立つその人物が現れた。


黒曜石のように艶のある髪を後ろで一つに結い、白いタキシードには一点の汚れもない。手には真紅のバラの花束。目元にはやたら艶めいた笑みを浮かべ、完璧な美形――だが、その空気は尋常ではなかった。


「ネーベル様は……いらっしゃいますか?」

まるで舞台俳優のような、柔らかく甘ったるい声だった。


ミリアが一歩前に出る。冷たく、容赦のない声で言い放つ。

「お引き取りください、グレイヴ様。ネーベル様はお会いになりません」


しかし、男――グレイヴは笑顔を崩さず、屋敷の中へ勝手に足を踏み入れる。


「またまたそんなことを……ふふ、ミリア様はいつもお厳しい。今日こそ、ネーベル様のお顔を見せていただけるのでは?」


麦は慌ててミリアの後ろから飛び出した。

「だ、だめですって!勝手に入って来ないでください!」


「ん?」とグレイヴは初めて麦を見た。つやつやした目でじっと見つめてくる。

「……新顔ですね。ふふ、ネーベル様の新しいお友達かな?もしくは、新しい恋敵、かな?」


(いやいやいや、ぜんっぜん関係ないんだけど!?)


麦は内心で全力ツッコミを入れつつも、目で助けを求めた。ミリアは淡々とした声で言う。


「ネーベル様はただいまご不在です」


「……いつもそうおっしゃる。ですが私は信じております。ネーベル様は私と会うのが照れくさいのだと。あんなに可憐なお方ですから」


(これ、あかんやつや……)


グレイヴはにっこりと笑い、花束を抱えたまま、廊下の突き当たり――あの黒いベールの部屋の前まで来てしまった。


麦の背筋がぞわっとする。


しかし、ドアの前には誰もいなかった。中に人の気配もない。


「ご不在なら仕方がありません。今日はこのバラをお届けするだけにしておきましょう。また来ます」

グレイヴは静かに一礼すると、踵を返した。


その場に残されたバラの花束と、重苦しい沈黙。

麦はそっとミリアの袖を引いた。


「……あの人、なに?」


「ただの……手のつけようのない、迷惑な求婚者です」

ミリアはため息まじりに言った。

その目には、かすかな疲れと苛立ちが滲んでいた。


ミリアとふたり、ため息まじりに花束を見つめていたそのときだった。


 ――カチャ。


 控えめな音とともに、廊下の奥の扉が静かに開いた。


「……えっ」


 麦は思わず声を漏らした。


 さっきまで、確かにあの部屋には誰もいなかったはずだ。いや、念のためノックしても返事はなかったし、ミリアも「今は不在です」と言っていた。それなのに――今、そこから黒いヴェールをかぶった少女が、まるでずっと中にいたかのように、音もなく出てきた。


(え、いたの!? いつの間に!?)


 驚きで口が開いたままの麦をよそに、その少女――ネーベルはまるで時間が止まっていたかのように、静かな微笑みを浮かべていた。


「ごきげんよう、ミリア、麦様」


 変わらぬ、静かで、整った言葉。抑揚の少ない声は、まるで冷えたガラス細工のよう。


「え、あっ、あれ? ネーベル……様?」


 麦は慌てて言葉をつなげた。


「さっき……あの、ミリアさんが“いない”って……」


「いましたよ?」


 ネーベルはそう言って、ゆっくりと近づいてくる。その動きは人形のように滑らかで、足音もほとんど響かない。


「ずっと部屋にいました。ただ……出たくなかっただけです」


 “出たくなかっただけ”――それが、まるで『あの男がいたから』というふうに聞こえたからだ。そう思った瞬間、麦はネーベルのヴェール越しの瞳と目が合った。

 ぞくり、とした。


 目は笑っているようでいて、ぜんぜん笑っていなかった。


「お騒がせして、申し訳ありませんでした。花は……そこにあるものでしょうか?」


「あっ、はい、これ……」


 麦が指をさすと、ネーベルは花束へと近づき――手を伸ばす。だがその手は、バラに触れることなく、ほんの寸前で止まった。


「……その方、今日もお変わりなかったですか?」


 問いかけというより、確認するような口調だった。


ミリアが「相変わらずなご様子でした。」とあきれたように報告する。


「あの人、いつもあんな感じなんすね…」


 思わず麦が本音を漏らすと、ネーベルの口元が、ふ、とわずかに緩んだ。


「そうですか」


 それきり、彼女は黙ってバラをひとつ手に取り、そのまま振り返って部屋へと戻っていこうとする――が、そこでふと、立ち止まる。


「……麦様」


「は、はい?」


「もし、あの方がまた来たら――」


 ネーベルは、ほんの少しだけ振り向いた。ヴェールの奥で、微笑がふたたび形づくられる。


「私のことは、何も知らないふりをしていてくださいね」


 その言葉に、麦は思わず背筋を伸ばした。


 優しい口調だった。でも、その“お願い”にはどこか“命令”のような圧があった。そしてその笑みが、どこか“誰かに見せる笑顔”ではなく、“誰にも見せたくない何か”を隠しているようにも思えた。


「……は、はーい。了解でーす」


 とりあえず明るく返してみたが、心の中にはちょっとだけ“本能的な警戒”が芽生えていた。


 この人、なにかある。


ネーベルが部屋の扉を閉じた瞬間、静寂が屋敷の廊下に戻った。


「……ふぅ~~~~~~~~……」


 麦は思い切り息を吐いて、膝に手をついてうなだれた。


「なんかもう……今日、情報量多すぎん……?」


 その隣で、ミリアがそっとため息をついた。


「全く、あの男……また勝手に入り込んで……門番は何をしているのかしら……」


 呟く声には明確な苛立ちが滲んでいたが、麦はそのミリアの顔を、ちらりと覗き込んだ。


「ねえミリアさん、ネーベル様って……いつもあんな感じなんすか?」


「どんな感じですか」


「なんかこう……“ふわっ”としてるけど、“ぞわっ”としてるというか……あんまり喋ってないのに、背筋が寒いっていうか……初めてあいさつした時もあんな感じだったんすよね」


「……慣れれば気にならなくなります」


 即答された。


「え、ほんとに?」


「……たぶん」


 目を逸らすミリアの横顔には、若干の遠い目が含まれていた。あ、これたぶん「私は慣れてないけど慣れたことにしてる」やつだな、と麦はなんとなく察する。


「ていうか、さっき誰もいないって言ってなかったですか?」


「……わたしの耳には、返事がなかったので」


「返事なかっただけか~。ってことは、ネーベル様は気配消せる的な? それとも……見てた……?」


「……知らない方がいいです」


 ミリアの言葉が、ほんのり低くなる。


 麦は腕を組んで少し考える。


「でも、あの花束、けっこう良いやつっぽいよね。……なんであんなイケメンなのに避けられてんだろう」


「顔の問題ではありません」


「やっぱ性格か~?」


「存在の問題です」


「うわ、根が深い」


 軽口を叩きつつも、麦の脳裏にはさっきのネーベルの微笑みが焼きついていた。やっぱりあの人、普通じゃない。別に悪い人には見えないけど、“人じゃない感”がものすごい。いや、実際人じゃないんだけど。


「……ミリアさん、ネーベル様って……どれくらい生きてるの?」


 麦がぽつりと尋ねると、ミリアはほんの一瞬だけ黙りこくり――それから、ゆっくりと答えた。


「私が仕え始めたときには……すでに、“長くおられました”」


「それって……」


「詳しくは私の口から申し上げられません。けれど――この城にいる者の中で、最も長く“時”を重ねておられる方です」


「ふぇぇ……」


 思わず変な声が出た。そりゃあ、いろいろな意味で“人じゃない”わけだ。


 でも、だからこそ、あの“笑顔”がずっと同じなのかもしれない。たとえば百年、二百年、三百年……変わらない時間のなかにいると、人間らしさの感情なんて、もう必要なくなってしまうのかも。


「……それでも、なんかちょっと気になるんだよな」


 麦はぽつりと呟いた。


 怖いっちゃ怖いけど、ネーベルは麦のことを拒んではいなかった。むしろ、初めて名前を呼ばれて、ほんの少し微笑まれたとき――なんだか、胸がざわっとした。


 あれが“歓迎”なのか、それとも“選別”なのかは、まだわからない。


 でもきっと、あの部屋の奥にあるものを、知る日が来る。


夕食の支度と片付けを終えて、麦はようやく自分の部屋に戻ってきた。

 広すぎる屋敷を行ったり来たりするのにもだいぶ慣れてきて、廊下の端から端まで走らなくても物の位置がわかるようになったのは、ちょっとした成長かもしれない。


「ふぅ~~~~……」


 ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。

 この屋敷に来てからもう何日経っただろう。毎日ミリアにしごかれながらも、掃除も洗濯も食事の用意も、なんとか形になってきた。はじめのうちはいちいち舌打ちされてビクビクしていたけど、最近ではミリアも雑談してくれるくらいには心を開いてくれている気がする。雑談も楽しい。


(……しかし、ネーベル様だけは、未だによくわからん……)


 お城の主。誰も逆らえない存在で、常に礼儀正しく、無表情な笑顔のままふわりと現れては消えていく。あの人の中で、自分がどう思われているのか、全然読めない。


 ――コン、コン。


 唐突に、部屋の扉がノックされた。麦は思わず飛び起きた。


「は、はい!?ど、どうぞ!」


 扉が静かに開き、そこに立っていたのは――ネーベルだった。


 漆黒のベールをかぶり、姿勢よく立つその姿に、麦は一瞬、心臓が止まりかけた。


(え!?なんかやらかした!?皿の位置とか!?いやでもちゃんと洗ったし……布団の角度とか!?)


 テンパりながらあれこれ思い出そうとしていると、ネーベルは静かに口を開いた。


「こんばんは、麦様。……勤務態度の確認にまいりました」


 さらりと言われて、麦はさらに狼狽する。


「えっ、そ、そんな堅い感じ!?や、やっぱ何かミスしてました!?わたし!? もしかして今日のスープ、塩入れすぎ――」


「いいえ、違います」


 ネーベルは小さく首を振った。


「……本日もよく働かれていました。掃除の行き届いた廊下や、丁寧に畳まれた衣類を拝見しました。とても、感心しております」


「そ、そうなんですね……? よ、よかった……」


 麦は思わず胸をなでおろす。怒りに来たんじゃない、と。


 だがネーベルの瞳は、いつもと変わらず冷静な光を宿したままだった。


「とくに……本日はミリアと、楽しそうにお話をされていましたね」


「……えっ? あ、はい。最近ミリアさん、よく話しかけてくれて」


 麦は苦笑する。「めっちゃ厳しいけど、根はいい人っぽいんですよね。なんかその、働きながらあれこれしゃべってると気もまぎれるし」


「ふふ……そうですね」


 ネーベルは微笑む。けれどその笑みは、どこかひやりとしたものに見えた。


「……楽しそうで、何よりです。……よかったです」


 麦はその口調に、なんとなく言葉を失う。なにか、変なこと言った?


 だがネーベルはそれ以上は何も言わず、部屋の中をちらりと一瞥した。


「このお部屋、お気に召されていますか?」


「え? あ、はい! 広すぎず、落ち着く感じで……私のサイズに合わせて家具も作ってくれてますし!」


「……そう。そうですか」


 ネーベルは一瞬だけベールの奥で目を伏せ、それからまた麦を見つめた。


「それでは、失礼いたします。夜分遅くにすみませんでした。……明日も、よろしくお願いいたしますね」


「は、はいっ!」


 ぴしっと返事をすると、ネーベルは一礼し、静かに扉を閉めた。足音ひとつ立てずに去っていく。


 部屋に残された麦は、ポカンと口を開けたまま立ち尽くす。


「……え、なんだったの今の」


 褒められた……たしかに褒められた。でもなんか、ゾクッとした。


 胸の奥にうっすらと引っかかる違和感を残しながら、麦はベッドに転がった。


朝の光が高い天井から差し込む。中庭には霧がうっすらと立ち込め、灰色の石畳がひんやりとした空気を跳ね返していた。


 麦はミリアと一緒に、食堂のテーブルセットを整えていた。食器を並べ、椅子を引き、パンの籠を置く。だいぶ慣れた作業だった。ミリアがときおりチェックを入れてくるのにも、もうあまりビビらなくなってきている。


 そのときだった。


「……あれ?」


 食堂の扉から顔をのぞかせたのは、黒いエプロンドレスを着た料理長――名前は知らない。麦が一度も話したことのない人だった。彼女は、部屋の中をざっと見渡してから、眉をひそめた。


「……ミリア、麦、だけ?」


 ミリアはテーブルクロスの端を整えながら、顔を上げた。


「はい。今朝も、他の者はおりませんが?」


「え……おかしいわね。いつもなら朝の支度はもっと人がいるはずなのに……」


 そのメイドは扉の外をもう一度振り返った。誰もいない。


「ここ最近、他のメイドたちが少しずつ辞めていったって話は聞いてたけど……まさか、ほんとに残りふたり?」


「いなくなったのは知ってたけど、まさか完全に二人きりになってたとは……」


 麦は思わず手に持っていた皿を置いた。

 たしかに、昨日もおとといも、他のメイドを見かけていなかった気がする。でも広い屋敷だし、部屋の持ち場が違えばそういうこともあると思っていた。


 ミリアは無表情のまま淡々と答える。


「……主に仕えるのに人数は関係ありません」


「……うっわ、メンタルつえぇ」


 麦は内心でそう呟いたが、それでも心のどこかにざわりとしたものが残った。


(……ほんとに、わたしとミリアさんだけ?)


 広すぎる屋敷に、誰もいない廊下。寝室に並ぶ使用人のベッドが、全部空だったこと。最近、妙に静かだったこと。そういえば、ネーベルと顔を合わせる機会が増えたのも……。


 ――コンッ。


 またノックの音がした。麦はビクリと肩を震わせた。振り返ると、開いた扉の向こうには、いつもの笑顔のネーベルが立っていた。


「……おはようございます。今日も良い朝ですね」


 麦は思った。


(……ほんとに、ここに残ってるの、私だけになったりしないよね?)


仕事を終えた麦とミリアは、館の奥にある広い書庫の掃除に取りかかっていた。棚にはぎっしりと古い本が詰まっていて、天井近くまで届いている。


「……脚立、取るの大変だなぁ……ミリアさーん、このへんの本ってどうやって取るんですか?」


「ちゃんと脚立を持ってきなさい。下の物からやりなさいって、前にも言ったでしょう?」


「ひぇぇ、すんません……」


 そんなやり取りの中、ふと棚の向こうから風が吹き抜けたような気配がした。麦が顔を向けると、長い黒いベールが視界の端で揺れた。


「あ……」


 ネーベルが静かに立っていた。


 彼女は無言で棚の上に手をかざすと、まるで風に導かれるように、一冊の分厚い本がふわりと宙に浮き、ネーベルの手元へ吸い寄せられた。


「おお~~っ!すご!」


 麦の目がまんまるになる。


「手、使わないで本が取れるんだ!?めっちゃ便利じゃないですか、それ!」


 ネーベルは、麦の方を一度だけちらと見ると、小さく首をかしげた。


「……恐れ入ります。ですが、これは……“便利”というほどのものではないですよ。ただ、当たり前のことです」


「いやいや、すごいって~。魔法とか、慣れてる人はそう言うけど、私からしたらめっちゃ憧れですよ。いいなあ、私も教えてほしい!」


 その瞬間、ネーベルのまつげがほんの僅かに揺れた。


 人ならざる力を使って見せれば、怯えられるか、遠巻きに見られるのが常だった。ミリアですら、必要以上のことは聞かない。けれど、この娘は──


「……あなたは、恐ろしくはないのですか?」


「えっ、なにが?」


「わたくしの術や……わたくしという存在そのものが」


 麦は首をかしげて笑った。


「うーん?怖いとか、あんまり考えたことないかも。だって、ネーベルさん、普通に丁寧で優しいし?」


 ネーベルは返答ができなかった。胸の奥が、少しだけざわめいた。


「……そう、でございますか」


 その表情は、相変わらず口角だけの仄かな微笑み。けれど、微かに揺れた声は、彼女の中に何かが芽生えたことを物語っていた。



静謐な空間に、蝋燭のような仄暗い光が揺れる。

 玉座の間にも似た高天井の部屋の中央には、無数の瓶や管、金属の筒が並んだ奇妙な装置が配置されていた。


 ネーベルは自室の黒曜石の机に向かい、静かに感情の「調整」を行っていた。


 ガラスの瓶には、液体とも煙ともつかぬ黒いものが渦巻いている。

 これは“憎悪”。あちらの小瓶は“羞恥”。そして、右端の重たげな壺には“後悔”が、重く沈殿している。


「──ベータ領の村より、新たな“嫌悪”が発生しました。感情の振幅は中程度、対象は自身。由来は幼少期の記憶による再発です」


 ネーベルは淡々と報告を受けながら、掌を翳した。瓶が震え、液状の黒が管を通って別の器に注がれていく。


「自傷性は低いものの、放置すれば罪悪感への転化が予測されます。上層処理は必要でしょう」


「……後ほど“昇華”の準備を。今は蓄積で構いません」


「承知いたしました、ネーベル様」


 言葉を交わすのは、感情を持たぬ無機質な使い魔たち。彼らはただ処理の正確さと効率だけを優先する。


 それが、この空間の常だった。


 けれど──

 数日前から、この空間に「気配」が混じるようになった。


 廊下の奥、閉じた扉の向こうから、かすかに聞こえる鼻歌。

 台所で食器を割っては「わー!やっちまった〜!」と笑っている声。

 洗濯物を干しながら、空を見て「いい天気〜」と独り言を呟く、あの声。


 ネーベルはふと、視線を天井の一点に向けた。


 ──無関係なはずの存在。

 だが、無視できない存在。


 負の感情を扱う自分にとって、“何も持たない存在”など、本来はただの空白でしかない。

 それなのに、なぜ彼女の気配は、これほど目障りで、心をかき乱すのか。


「……ゼロ。まるで最初から、感情の泥に触れたことがないかのような」


 目を伏せ、ネーベルは一枚の“記録札”を取り出す。


 そこには麦の記録がある。採用時の最低限の情報しかない札。


 だがその“空白”が、妙に気になって仕方がなかった。


仕事を終えて自室に戻った麦は、湯上がりの顔でソファに寝転びながら、頬をぷにぷにとつついていた。


「今日もよく働いた……えらい……自分、超えらい……」


 と、そんな他愛もない独り言をこぼしていると──扉が、コン、コンと控えめに叩かれた。


「はーい、どなたですか〜?」


 扉を開けると、そこにはネーベルが立っていた。


「こんばんは、麦。お部屋でおくつろぎのところ、申し訳ありません」


「ネ、ネーベル様!? うわっ、今日もなんかやらかしました私!? 風呂長すぎたとか?洗剤多かった?いや、勝手にお菓子とか食べてないですし……!」


「いえ、なにか問題があったわけではありません。ひとつ、伺いたいことがありまして」


 麦の脳裏をよぎる、“メイド失格”の文字。しかしその予想は外れた。


「……麦は、怒ったり、悲しんだりすることが、ありますか?」


「へ?」


 素っ頓狂な声が漏れた。ネーベルの表情はいつもと変わらぬ優美な笑顔だが、その目はどこか深く、探るように光っていた。


「たとえば……今日、ミリアに小言を言われていましたね。シーツを逆さに干したとか」


「ああ〜、あれか〜、いやぁ、あれ分かりにくいんですよね!ラベルとかないし!でも怒ってるっていうより、教育熱心って感じだし、なんかありがたいです!」


 麦はけろっと笑っている。気まずさもなければ、不満の色もない。


 ネーベルは小さく頷いた。


「……なるほど。では、昨日の食堂でお茶をこぼされて服が濡れたときは?」


「いや〜あれはびっくりした!でも魔族の方がめちゃくちゃ謝ってくれたし、クリーニング早かったし、むしろ感動でした!」


「……そうですか」


 ネーベルの目がふっと細まる。


 次に、彼女は扉の横にあった小さな盆栽にそっと指を伸ばした。


 ひとつまみ、枝を折る。


 パキンという音が、部屋の静寂に響いた。


「……あっ、あれ、枯れかけてたやつですね!」


 麦は目を丸くしたが、すぐに笑った。


「ちょうど剪定しなきゃなって思ってたんですよ〜!代わりに折ってくれたんですね、優しい!」


 ネーベルの手が一瞬だけ止まる。


 彼女は静かに微笑んだまま、手を組み直した。


「麦は──変わっていますね」


「え、そっすか?」


「ええ。大変興味深い」


 ネーベルの声は丁寧で静かだったが、その奥には、言葉にならないざわめきがあった。

 負の感情が出ない。恐怖も羞恥も、不快すらない。


 それは、人間にとって“不自然”であり、ネーベルにとって“異物”だった。


 ──そしてその異物に、視線が吸い寄せられる。


「もし、ご迷惑でなければ……また後日、お話ししても?」


「全然いいっすよ〜!こっちこそ、ネーベルさんが話しかけてくれてうれしいです!」


「……ありがとうございます、麦」


 その笑顔が、どこか胸に刺さった。柔らかく、鋭く、言葉にできない形で。


 静かにドアを閉じたあと、ネーベルは扉の前でほんのわずか、目を伏せた。


 ネーベルはそのあとも、小さな試みを重ねてきた。失敗を指摘しても、植木を壊しても、無視しても、笑って受け流されるだけだった。

 彼女の“負の感情”は、あまりに希薄だった。──いや、最初から存在しないかのように。


(ゼロではない。けれど、それよりもっと異質)


 ネーベルは混乱しながらも、麦という存在を頭から振り払うことができずにいた。


 ──そして、それに最初に気づいたのは、他でもないミリアだった。


 


 ある日、仕事終わりの回廊で、ミリアがそっとネーベルに声をかけた。


「ネーベル様。……あの子に、深入りなさいませんように」


「……深入り、とは?」


「ご自身が分かっておられるでしょう。あの子には、感情の波がありません。それは安定ではなく、“不在”です」


「不在……」


「見ていて、私には不安になります。ネーベル様が、揺らがれるのではないかと」


 ミリアの声音はいつになく静かだった。

 ネーベルは黙ってその忠告を聞いた。


 そして、何も返さなかった。


 


 その夜。

 ネーベルは静かな部屋で、再び感情の“管理”を始めていた。


 瓶に封じられた「怒り」「嫉妬」「後悔」。管を通して蒸留し、濾過し、慎重に保管する。

 彼女にとって、人の負の感情は“管理対象”であり、“素材”であり、“職務”だった。


 だが、あの子は──


「……空白ではない。なのに、汚れが一滴も見えない」


 ネーベルの手が止まった。瓶の中に映る己の顔が、どこか歪んで見えた。



ここまで読んでくださってありがとうございます!

今回は麦の日常の中に、ネーベルの心の動きをじわじわと混ぜてみました。

感情の管理者であるネーベルにとって、“負の感情をまるで持たない”麦の存在がどんな風に響くのか、これからじっくり描いていけたらと思います。

ちなみにミリアは怒ってるわけじゃないです、素で舌打ちが出ちゃうだけです。多分。


次回もゆっくり更新していきますので、よろしくお願いします!

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