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泡立つ脳  作者: 伊阪証
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本編

夜はやがて明けるものだが、それが希望とは限らない。高火力兵器とはいつだって光るものだし、あまりに高い威力は日だと比喩される。

その上で一身に浴びねばならない。

彼女が最初に動かしたのは、足だった。

シーツの内側で、つま先が僕の足に触れる。

僕はその反応を待っていたように、呼吸を少し深くした。

押し返すでもなく、受け入れるでもなく。彼女の指先は、ただ僕の足の甲に沿って滑っていく。

頭の向きはまだ枕に預けたまま。髪は動くが、背中側へ自然に落ちていた。

息を吐いた音が、微かに聞こえた。

声じゃない。まだ朝の空気は、喉に届いていない。

彼女は目を開けたかもしれないし、開けていないかもしれない。

どちらでもいいと、今は思う。

明星はいつも美しい、それがよの理である。

ベッドから共に、もう一人が降りる。

「取り寄せた毛布、良かったね。シーツとは違う感じ。」

「割と安いのもいい。暖かいのも。」

自分は繰り返す様に先取りして話す。彼女が身体を起こしたのは、僕が目を覚ましてから少し経った頃だった。

髪はそのまま、肩を越えて流れている。

顔を撫でたりはしない。ただ、深く一度だけ息をつく。僕の視線を知っているのに、彼女はなにも言わない。僕もなにも言わない。

彼女はベッドの端に腰をかけ、片手で自分の足を軽く叩くと、床へと足を置いた。それだけだった。朝が動き出すまでには、まだ一つ工程が残っている。

彼女も背中を伸ばすが、寝過ぎなのか重そうにしていた。・・・そして初めて声を出す。

「おはよ、透。」

彼女は・・・己の歌声が出ない限り決して話さない、そういうプライドの持ち主だ。

彼女が立ち上がる。ベッドの端を手で押し、少し腰を浮かせてから足を下ろす。

一度、足裏で床を確かめてから、彼女はゆっくりと歩き出した。音は立てない。扉の前で止まり、手をかける。

バスルームの鍵はかけない。彼女が使った後は、僕が掃除する・・・喉を傷付けない為というのがメインだ。

入る前のミナは、何も持たない。タオルも、着替えも。何も持たずに、入るのがいつも通りだ。

朝の風呂場には彼女が髪を整えつつ、化粧の準備に時間を費やす、自分は洗面台で顔を拭い、それから歯を磨く。どうも目が悪く、最近は脱ぐわないとやってられない。

歯は電動ですると血が出る、会話のし過ぎか、力み過ぎか。学術論文の嫌味なら幾らでも出せる。体力消耗を抑える為に筋力を減らした影響で身体は重い。

「タオル〜!」

「棚の上にあるだろ。」

「・・・見せるのはまだ恥ずかしい。」

「小さいのならある。」

「・・・仕方ないなぁ。」

細長いタオルを二枚、胸と腰に巻いて髪用のは一番長いのを選ぶ。

「・・・そんなに見たいの?」

「それは・・・勿論だ。」

「えへへ、音楽で育った・・・なんか言い方が家畜みたいだからやめとこ。」

「ああ、僕も思ったよ。」

先にキッチンに戻り、彼女用のアスリート食を用意する。コップを持ち上げる音で、彼女が席に着いたことを知った。

中身は無色透明。けれど成分は、昨夜のうちに測って調合済みである。カリウム、B群、少量の鉄分。整えて、粘膜の動きを阻害しない配合。

ミナは匂いを確かめたりしない。ただ、温度が喉に合うことだけを確かめている。

飲み方に癖はない。けれど、飲み終わるまで一度も瞬きをしない。

僕は彼女の動作を見ていない。湯煎していた鶏肉を切って整え、弁当に入れる。

彼女の朝は、コップが空になる音で始まる。

それまでに僕が用意を終えていなければ、無言のまま五秒ほど間が空く。

「今日の夜は帰って来れる?」

「今日は些細な用だけだ。」

「じゃあ、一緒に行くね。」

彼女は別に暇・・・という訳ではない。しかし、喉の休養期間である。飛沫感染の話題が多く仕事が少ないが、事務所自体は活動範囲を広げて忙しい状態である。

「コーヒー、飲むか?」

「今日くらいは、ゆっくりしたいな。」

鶏肉は一口ごとにきちんと噛まれる。

声に必要な筋肉は、食べないと鈍る。

音はしない。けれど、咀嚼の力加減はたぶん計算されている。顎を動かす角度すら、日ごとに違っているように見える。

彼女が喋らないのは、声を温存しているからではなく、動作に集中しているからだ。

「少し、不足しているな。そろそろ買いに行かなければ。」

「ん、じゃあ買いに行こう。」

「先に食べ終わったら何が不足してるか確認してくれ。」

「冷蔵庫の機能使いなよ。」

「・・・あったな、そういえば。」

「夜こっそり食べるのを隠す為に使わないのは良くないよ?」

「・・・ダッツは取ってあるから見逃してくれ。」

「ダメ、健康は守らなきゃ良い研究も出来ないよ?」

「・・・ああ、そうだな。良い嫁さんを貰ったよ。」

「んふふ、私もそう思う。良い嫁さんだって。」

「只の自画自賛だったか。」

ミナはグラスを最後に傾けると、静かに唇を拭った。

テーブルの上には食べ残しも音もない。

食器を重ねるでもなく、一つずつ平らに並べ直す。一息ついたあと、彼女は席を立った。

床の音を吸ったスリッパが、ゆっくりとキッチンの方向へ向かう。

その後ろ姿に、もう何か言葉を足す必要はなかった。

冷蔵庫のドアを開けると、音もなく庫内の灯りがついた。

上段には真空パックの鶏むね肉、グラム単位で記録された保存ラベルが並んでいる。

その隣にあるのは低温保存のプレーンヨーグルトと、開封済みのミネラルウォーター。

中段のトレイにはカット済みのブロッコリーとにんじん、冷却時間を考慮して水気を飛ばしてから仕舞った形跡がある。

奥の方に、未開封のプロテインゼリーが3本。うち1本は賞味期限が迫っている。

下段には玄米ごはんの冷凍ストック。計5パック、週を通して消費される見込みの数に近い。

だが、足りないものははっきりしていた。

鶏肉は残り2日分。生の卵は見当たらず、代替タンパク源も底が見えている。

何より・・・ミナが朝に使う栄養水用の鉄分粉末が切れていた。

ドアポケットに入れていたはずのラベルが消えている。

彼女の代謝と粘膜維持の計算は、この構成が前提だ。

手をかけて冷蔵庫を閉じながら、短く一つ、息をついた。

「殆ど無いじゃん透!!」

「・・・計算式は普段Xで埋めているからな。」

「引き算位覚えようよ!」

「世界にあるのは時々項がマイナスの加算か時々逆数を用いる乗算だけだ。」

「やれてなきゃ意味無いのー!」

「だから通帳管理は君に任せたんだ。」

「チームといい数理学者はなんでこんなのばかりなのかしら。」

「全員数学がやりたかったがやりたい数学に辿り着く頃にはインターンに応募しているものなんだ。」

・・・一旦、彼の話をするとしよう。


透は論文が非常に多い、これだけ休んで尚一日には一つ提唱する。分野も広く、これに匹敵出来るのはオイラー以外居ないと思われる。

しかし、その本質はチームにある。

連携が過剰な程整ったチーム、論文としての体裁を整える上に数学の知識にも強い文学研究者、一人だけ学士号だが指弾においては他の追随を許さない理論的な揚げ足取りをする工学生、彼の空想を解釈する為の論文を作り、統合して説明する同業者・・・というのが大体十人程度。

分野は複雑で、あるいは極端に単純だ。

カテゴリ理論における双対構造の再帰定義。ゲーデル数に依らない命題番号の動的割り当て。分布上の自己同型変換を神経空間に写像するための汎関数群。

それらは、研究者でなければ意味も分からず、学部生が触れるにはさっぱり分からない領域。

透が残したものは“正しすぎて、他者には触れられない道具”だった。それでも、その正しさは一度でも読めば分かる。

だから彼は、ミナの身体に使う数式だけは、自分で設計した。他人に渡せない構造を、唯一、彼女の生活のためにだけ書き下ろしている。

「・・・お水、やっぱり美味しい。」

「日本だと場所にもよるが天然水の雑菌繁殖力と水道水の塩素の消毒力を比較すると水道水の方が五倍安全だ。」

「天然水と水道水混ぜて、成分を色々混ぜて、それから完成?」

「ああ、ボトルで売ってはいるが高いんだ。あと運動やってる人向けだから呼吸器強化と相性悪い気がしてね。」

引き算ができないわけじゃない。

食材の残量も、価格帯も、摂取量のグラフも、頭の中にはある。

けれど、それを言葉に変換して声に出すのが面倒だった。

ミナが確認してくれるなら、それでいい。

僕がするより速く、きっと正しく整理してくれる。

数学者にとって一番無駄なのは、“答えが明白なときに、それを口にすること”だった。

出力が必要なときにだけ、思考を表に出す。それ以外は、省略でいい。

「さっきの言い訳しようとしてない?」

「・・・いーや、別に?」

「余分に色々買ってこうよ。」

「服は足りてるだろ?」

「まー・・・服の大半が衣装の再利用だしね。」

「針とか糸は?」

「ん、足りてるかな。」

「なら問題無いか。」

「問題無いね。」

「少しは欠点出せよお前ェ。」

「事務所の切り札は暇なんだよ。歌担当だしライブはどれだけ人気あっても儲からないからやってないし。」

ミナはすっかり満足そうな顔をして、カートの前に立っていた。

カゴは二つ、上段も下段もぎっしり。鶏胸肉、無添加プロテイン、ミネラルゼリー、低刺激の歯磨き粉、蒸留水、針金入りの野菜保持パック、冷凍保存用のカットフルーツ、使い切りサイズの調味料とか。

普段のミナなら、これだけの荷物を一人で運ぶのは無理だったろう。

けれど、今日は透が隣にいる。だからカゴが二つでも不安はなかった。

忙しくても、買い物だけは二人で。

それが彼女の中でいつの間にか決まったルールになっていた。

透は必要なものを黙って入れ、ミナはときどき選択肢を確認する。

会話はあるけど、それが目的じゃない。

「思ったより多かったね。」

「お前がタオル類を全取りするからだ。」

「だって・・・透、すぐ洗っちゃうし・・・。」

「清潔だからいいだろう。」

それでも支払いを終え、袋詰めが終わった頃には、

ミナの方が先に言った。

「ちょっと、寄ってこうか。」

「どこへ?」

「あのカフェ、近くの。」

少しだけ、いつもより歩幅を合わせて。

荷物があっても、片手が空いているのなら、

つないでもいい、そういう雰囲気だった。

「普通にカートが動かしにくいから組む感じにしてくれ。」

「はいはーい、今日は期間限定のティラミス風ミルクレープらしいよ?」

「ん・・・そうか。」

「結構お菓子作り好きだもんね。」

「というより保存が効くからな。酒だと酒税法のせいで出来ないが。」

「コーヒー、仕事前に飲も?」

「ああ、何が良い?」

「キリマンジャロ以外で、ミルクと砂糖は必須。」

「そうか、じゃあこっちはブラックのアイスだな。コーヒーも高いしブルーマウンテンは無しだな。」

「こういうのはオリジナルブレンド一択だよ!」

注文カウンターの前に立った時、ミナはもうメニューを見ていなかった。

彼女の興味は、透の後ろポケットに挿さったレシートの端にあった。

「お会計、任せたよ?」

「もう支払い終わっただろ。」

「えへへ、そうだった。」

透は慣れた手つきでレジ横のタブレットに注文を入力し、二人分のドリンクとスイーツを追加した。

「雰囲気が足りてないな。」

「可愛い店員さんに気を取られるよりはいいと思うけどね。」

ブラックのアイスコーヒー、ミルク砂糖入りのカフェラテ、そしてティラミス風のミルクレープとチーズケーキをそれぞれ一つ。

カトラリーは一組・・・ミナは自分で主導権を握るだけ握っておいた。

「あ、席、奥の方がいいか?」

「少しだけ静かな方がいいな。」

カフェの中はまだ昼前で、混み合ってはいない。窓際ではなく、少し奥まった壁沿いのL字ソファ。

透がトレイを受け取る間に、ミナは先にそこへ向かい、荷物の入ったエコバッグを足元に滑り込ませた。

コーヒーの香りが近づいてくると、ミナの背筋がわずかに伸びた。

それが、彼女なりの“楽しみ”の合図だった。

透がトレイをテーブルに置き、紙を一枚、彼女の前に差し出す。

「ありがと。」

「飲む前に、何も危険なものは無いか念入りに確認する事。」

「知ってるよ。喉大事なんだから。」

二人の前には、それぞれのカップとケーキ。

その間にしばしの沈黙。だがそれは、居心地の悪いものではなかった。

音楽も、騒音も、話し声も、

遠くでぼんやり聞こえるだけ。

この場所では、「喋ること」が必須ではない。

コーヒーを前にした二人が“いる”だけで、それで良かった。

フォークを手にしたミナが、ミルクレープの端をすくおうとしたその時だった。

ふいに、背後から声がかかった。

「あの、すみません! もしかして・・・リリカさん、ですよね?」

「だってよリリカ。」

彼女の指がわずかに止まった。

透はその瞬間、ミナが一切の息遣いすら変えなかったことに気づいた。

ミナは、ゆっくりとフォークを置き、振り返った。

「こんにちは。」

「やっぱり! わたし、ライブ行ってました!“Deep Breath”の! サインとか、もらっても・・・。」

その少女は、見るからにまだ若く、手にはスマホとペンが握られていた。

どうやら、カフェの奥まった席でも、彼女の顔を見つけたらしい。

ミナは微笑みを保ったまま、一度透の方を見た。

その視線は、「あなたが決めて」と言っていた。けれど、答えはもう決まっていた。

「今は声を使えない期間なの、ごめんね。大事な準備があるから。」

「・・・あっ、そ、そうなんですね・・・!」

少女は気まずそうに身を引いたが、ミナは立ち上がって、そっと胸元から名刺サイズのカードを一枚差し出した。

「少女相手にそんな場所から出すな馬鹿。」

裏には、印刷された彼女の筆跡のサイン。

それはファン対応用にあらかじめ用意されている非公式グッズだった。

「ありがとう、気をつけてね。」

少女はぺこりと頭を下げ、足早に店を出ていった。

ミナは何も言わずに再び座り、フォークを取り直す。

透が一口コーヒーを飲んでから言った。

「・・・喋らなかったのは、君のためか?」

「ううん、ファンのため。」

「そうか。」

ミナは静かに笑った。

「声が出ない“今”の私に会うとね、ファンはすっごく不安になるの。だから、綺麗なままで終わらせたい。」

「わがままだな。」

「ふふっ・・・歌ってるときの私は、“誰かのもの”だから。」

「なら、今の君は?」

彼女はしばらく黙って、フォークでミルクレープの一角を崩した。

それを小さく一口、口に運ぶ。

「ティラミス、そんなに好きじゃないんだけどね。」

「人のものをとるからそうなる。」

「うん。でも“透と一緒にいる時の私”は、少しだけ甘いものが好きになってる。」

・・・説明だけしておくと、彼女はかなり有名な音楽家、どちらかといえば上品な感じの場所で評価され、ポップな感じではない。

一方で闇の深い場所でもあり、アイドルにも引けを取らない程度に枕営業があるらしい・・・しかし彼女の場合実力のせいでそうならなかった。彼女の歌は聞いて疲れる程感情が奪われる。

「子守唄で最後まで聞けた試しがないな、そういえば。」

「私が寝言で言い出したら永眠まで直行だね。」

「自分で起きるのを覚えてくれ。」

「・・・えへへ・・・。」

「どういう感情なんだそれ。」

買い物袋で手が塞がっている透の隣で、二人とも無言だったが、歩調は自然と揃っていた。大学通りを抜けると、住宅街の奥にある傾斜のついた細道に入る。

「・・・ごめん、肩が脆いから・・・。」

「気にするな、そんなヤワじゃない。」

坂の先にあるのは、元は昭和中期の二階建て住宅今は透の手で改装され、音響と気密性を高めた構造になっている。大学の研究棟までは徒歩十数分。彼のチームメンバーがときどき集まることもあり、そのために地下室を防音仕様で整備していた。

門をくぐると、電子ロックをキーパスで通す。

「歌わなくても解除は出来るぞ。」

「・・・毎回してみたくなるんだよね。」

「今夜は頼んだ。」

「ん、よし。じゃあ、まずは台所かな」

扉が開くと、木の香りがほのかに残る廊下に風が通った。靴はどちらも脱ぎ捨てるのではなく、癖のように揃えられている。荷物は一度リビングにまとめ、透が冷蔵庫に下ろしていく。

ミナはその間、キッチンの隅で軽く水を飲む。声を出さないよう、喉を整えるのはすっかり習慣になっていた。

彼らにとって、食事の準備は一日の締めでも始まりでもなく、維持だった。生活を保つための最低限の計算と、交わされずとも伝わる暗黙の手続き。

冷蔵庫の扉が静かに開き、冷気とともに並べられた食材が手際よく台上へ移された。鶏むね肉、豚バラ、白身魚、白菜、小松菜、長ねぎ、椎茸、しめじ、豆腐、油揚げ。いずれも加熱で食感が変わらず、冷凍に耐える構成ばかりが選ばれていた。卓上には、用途別に並ぶ計量道具と保存袋が散らばっている。

肉類は火の通りを想定して厚さが揃えられ、魚は骨が除かれた上で、皮を下にして並べられる。葉物は芯と葉に分けられ、それぞれが空気に触れぬように薄く広げて封をされていく。豆腐は水気を抜かれ、均等な立方体に切り揃えられる。

調味ベースは三種。白みそを湯に溶き、昆布だしとすりおろし生姜で整えた甘みのあるもの。柑橘果皮を加えた塩出汁は、呼吸器に優しい成分を意識して調整される。最後に、豆乳に白すりごまを加え、わずかに鶏がらを落とした優しい風味の液体が、最も濃度のばらつきを嫌う手で配合される。

それらは具材と同じく冷凍対応の袋に分けられ、平たく封がされる。野菜と肉が一つ、出汁が一つ、組になって冷凍室の中に順次格納されていく。保存袋は余分な空気を吸い出し、すべて薄く折りたたまれ、翌週までの繰り返しを想定して積み上げられていった。

計六食分。三日分を二人で消化する想定。これ以上仕込むと味への飽きが生じ、彼女の咀嚼と粘膜への負担を招く。理論と慣習の中間で、この数がいつの間にか定着していた。

調理の合間、音は立てられなかった。包丁の振動も鍋の蓋の閉まる音も、必要最小限に留められ、互いの動きに干渉しない位置と速度で進んでいた。役割は定まっており、手順も記憶に刻まれている。言葉を交わさなくても、すべてが進む。

最後に、冷凍庫の扉がゆっくりと閉められたとき、小さく空気が抜ける音がした。残された台所には、わずかに湿り気を帯びた作業の空気だけが残っていた。

「・・・よし、早いね。」

「ああ、これでいい。」

「・・・でも、少し思うんだ。」

彼女は告げる、その一言は有り得ないものであり、そして、とても信じられないものだ。

「浮かれてるのか、自分のリズムが少し乱れてたの。」

透は、彼女に少し笑いかけたが・・・。


友人の勧めで、定期的に大学病院の診療を受けていた。透自身は病を疑っていたわけではない。だが、研究のため、そして自身の脳の動きに異常があってはならないという理由から、精密検査はルーチンの一部となっていた。


だからこそ、その日も、いつも通りの確認のはずだった。


告げられたのは──致死性家族性不眠症。FFI。


致死性家族性不眠症──そう告げられた瞬間、透の意識は沈んだ。

だが、声を荒げることもなく、ただ冷たく硬い石のように思考だけが転がり続ける。


プリオン病。

それは病原体ではなく、異常な形に折り畳まれたタンパク質が、周囲の正常なタンパク質を巻き込み、次々と伝染的に変質させていく病。抗体も、抗ウイルス薬も効かない。加熱も無意味。自己と自己の内部だけで拡がる、理解しがたい病理。


孤発性クロイツフェルト・ヤコブ病──

何の前触れもなく発症するタイプの一つであり、全体の八五パーセントを占めるとされる。

遺伝子異常があるわけでも、外部からの感染があるわけでもない。患者の誰もが、ただ静かに、ある日突然、変化を始める。歩行の不安定さ、記憶障害、幻覚、筋肉のけいれん。そして最終的に昏睡と死に至る。


平均発症年齢は六十歳前後──だが、早期発症の例もある。

潜伏期間は数十年とも言われており、発症してしまえば一年以内にほとんどの患者が命を落とす。

MRIでは海馬や視床、皮質の変性が見られるが、それが治療には繋がらない。

唯一明らかなのは、変質したタンパク質──プリオン──が、脳をスポンジ状に縮小していくという事実だけだった。


透は知っていた。

この病が、なぜ長年研究されていながら未だに治療法が確立されていないのかを。

なぜ、解決策が提示されないのかを。

その病理が、科学と倫理の狭間に落ち、誰もが手を出せない領域にあるからだ。


そして今、その病が──ミナの内部で始まっている。

遺伝性の致死性家族性不眠症であるならば、眠れぬ夜が続く中で、やがて言語の障害、記憶の崩壊、運動機能の喪失が待っている。

だが、透が目の前に見ているのは、まだ歌うことも、ピアノに触れることも、歩くこともできる、あの静かなミナだった。


──崩れていく前に、どこまで奪われるのか。

──そして、自分には何が残されるのか。


説明を重ねるほどに、透の中で現実が遠ざかっていく。

それでも、言葉にしなければ、思考を止めてしまえば、何も守れないこともまた知っていた。


この病には、それぞれ異なる名称が与えられている。孤発性、遺伝性、医原性──それらは別々の経路から訪れるが、根源にあるのは同じものだ。

プリオン。ウイルスでもなければ、細菌でもない。自己複製を目的とする遺伝子情報を持たず、感染の意思すら感じられない。けれど、それは確かに伝播し、増殖し、破壊する。


あらゆる意味で異質でありながら、それでもこの病は拡がっていく。目的を持たない分だけ、悪意よりも冷酷で、自然災害よりも回避が難しい。

「気づけば人類を破綻させうるシステム」──そう言えば、最も本質に近いかもしれない。無秩序に分裂を繰り返すがん細胞と同様、それは生物という構造そのものの盲点を突いてくる。


それは、悪魔の病と呼ばれていた。


 クロイツフェルト・ヤコブ病──かつてこの名は知られておらず、ただ恐怖の象徴として、村々の中で語られていた。発症すれば人格が崩れ、意識が薄れ、動作はぎこちなく、奇怪な笑みを浮かべながら崩れていく。その姿は、人の姿を保ちながらも魂だけが削り取られていくようだった。人々はそうした者を、狂気に堕ちたもの、悪魔に憑かれたものと見なした。


 だが、ある時期を境に、医学はその“悪魔”を切り裂くことになる。


 死体を解剖した結果、そこにあったのは腐敗でも、出血でもなかった。脳は、まるで発泡スチロールのようにスカスカと崩れていた。組織は抜け落ち、空洞となり、海綿状に破壊されていた。明らかな病変──それは、身体ではなく、思考の器そのものが崩壊する病であることを示していた。


 だが、その原因は分からなかった。ウイルスでも、細菌でもない。既知のどの病原体も該当しない。この異常を説明する語は、当時の医学にはなかった。


 一方、スクレイピー──この羊の病気は、まったく別の領域から発見された。農業における繁殖障害、あるいは家畜の育成過程に現れる異常として調査されたものだった。羊は自らを壁や地面にこすりつけ、皮膚を破り、痩せ細り、最後には歩行さえ困難になる。


 この現象が病気によるものだと確定されるまでは、ただの異常行動としか認識されていなかった。だが、繰り返し観察し、移し、研究を進める過程で明らかになったのは──この病もまた、脳に海綿状の損傷を与えるものだった、という事実だった。


 スクレイピーの研究は、やがて人間の病との接点を持ち始める。


 その病原体は、熱にも、放射線にも、アルコールにも、通常の滅菌手段にも耐性を示した。実験のたびに、研究者たちは驚愕することになる。──何をしても死なないのだ。


この病──その一種であるBSE、いわゆる「牛海綿状脳症」は、ある時期から急激に世界へと拡がり始めた。

遠因を辿れば、1970年代のオイルショックに行き着く。資源不足と経済圧力の中で、イギリスは家畜の飼料生産工程を短縮・効率化せざるを得なかった。

肉骨粉──家畜の死体を砕き、再び飼料とした粉末──それ自体は以前から使われていた。しかし、その処理工程にあった高温処理が省略されたことで、変質したタンパク質は活性を保ったまま混入する。


感染の起点となったのは、そのささやかな効率化だった。変性プリオンは焼却されることなく、他の牛へと、そして人間へと連鎖していった。

しかし、イギリス政府はしばらくの間、それを公的には認めなかった。汚染された肉骨粉の輸出は止まることなく続き、世界各地の飼料や食品に影響を及ぼす。


日本も例外ではなかった。

政府の対応は遅れに遅れ、問題を軽視し続けた末に、国内でも類似の事例が発生することになる。

そして現在でも──「ある一定期間、特定の国に滞在した者は献血を控えるように」との勧告が存在する。

あれはこの時代の記憶だ。BSEという名の、静かに燃える業火のような恐怖が、制度という形で未だに残されているのだ。


クールー病は、かつてニューギニア高地に暮らすフォレ族の間でのみ観察された奇病として、長らく西洋の科学者たちを悩ませ続けた。被害者の多くが女性と子どもに偏っていたこと、それが世代を越えて受け継がれるように連続していたことから、当初は風土病や遺伝病との関連が疑われていた。


だが、調査を進める中で明らかになっていったのは、この病が単なる病原体による感染とは異なる、文化的背景に深く根差したものであるという衝撃の事実だった。


フォレ族の間では、死者を敬い、その魂を一部自らに取り込むための儀式が存在していた。死体、とくに脳を食すという習慣は、残された者たちにとって敬意と連帯の証だった。それは愛する者を葬ると同時に、自らの中へと還すという行為であり、哀悼と信仰の交差点にあった。


しかし、この儀式の担い手は主に女性と子供たちだった。結果として、プリオン病の原因となる異常タンパク質が、最も濃度の高い脳組織を通じて、何世代にもわたり繰り返し摂取されていたのである。クールー病が女性と子供に偏って発症していた理由は、まさにこの習慣に起因していた。


発症までの潜伏期間は十年を超えることもあり、感染者が儀式を行ってから長い時を経て発症する例も少なくなかった。これは、病因が明確になるまでに多くの年月を要した大きな要因でもある。


そして何よりも注目すべきは、この現象がただの風習の悲劇ではなく、生物濃縮という構造的現象を伴っていた点である。脳を食し、その中に潜む微量な異常タンパク質を取り込む。それを繰り返すことによって、摂取される異常プリオンの総量が世代を超えて蓄積され、結果として高濃度の感染源となりうる身体が形成されていった。


それは、人為的に培われた風習と自然的な感染構造の奇妙な重なり──

人間の行動が、知らず知らずのうちに破滅の道を濃縮していくという、極めて静かで、残酷な構造だった。


だが、この奇病が未知のまま終わることはなかった。


ある一人の科学者──ダニエル・カールトン・ガイジュセック。

彼は、米国からニューギニアの奥地へと足を運び、奇妙な病の伝播と文化的背景に注目した。そして、彼は徹底した観察と記録を通じ、ある仮説に至る。


それは、「病は食に宿る」という、当時としては非常識とも言える着想だった。


遺伝でも、風土でも、呪いでもない。

──死者の脳を食するという儀式こそが、病を育み、広げていたのだ。


ガイジュセックは、患者の脳を取り出し、サルの脳へと接種した。結果、数年後にサルもまた震え出し、倒れた。これが、病原体なき病──後に「プリオン」と名付けられる異常タンパク質の存在を裏付ける一歩となる。


だが、彼自身はこの病の完全な機序を解明したわけではない。

「伝染性を持ちうる何かがある」という事実を提示し、「この儀式をやめなければ、死は止まらない」という形で、解決ではなく予防の知を人々に託したのだった。


科学者たちは、その文化に直接踏み込み、ある種の禁忌を教えることとなった。

「愛する者を体に還すな──想いは、肉に残るものではない。」


それは信仰の断絶であり、文化の破壊でもあった。

だが同時に、死の連鎖を断ち切るためには、それしかなかった。


フォレ族の儀式は、少しずつ姿を消していった。

その過程で、発症率は劇的に低下し、クールー病はやがて歴史の中に沈んでいく。


だが、それは解決ではなかった。

病そのものは、未だに説明できない性質を多く持ち、正体も完全には掴めていなかったのだ。


人類はただ、「これ以上悪化させない方法」を知ったに過ぎない。

真の解明は、まだ遥か遠く──この先の物語へと託されることになる。


最初にこの病の異常性を見出したのは、ティクヴァ・アルパーという女性科学者だった。彼女は放射線に対する異様な耐性を持つ病原体を観察し、DNAやRNAといった核酸が関与していない可能性に気付き始める。当時としては常識外れの仮説だったが、それでも事実は事実として残る。


 それは、生命の定義そのものに疑問を投げかける発見だった。既存のウイルス理論では説明がつかず、病原体がまるで物質的な呪いのように広がっていくことに、彼女は科学的直感で異常性を感じ取っていた。


 そして、ジョン・スタンリー・グリフィスという理論家が、その仮説を数学的な形で補強する。彼は異常なタンパク質が、正常な同種のタンパク質に触れることで構造を変化させる──つまり、自己増殖的に伝播するという、当時の常識を打ち砕くモデルを構築した。


・・・生物学にはセントラルドグマという概念があり、核酸が無ければ増殖出来ないというのを否定し、畑違いだからと侮蔑される事になった。


 この思考実験の延長に立っていたのが、スタンリー・プルジナーである。彼はそれまでの先行研究を下敷きにしながら、異常タンパク質こそが原因であるというプリオン仮説を提唱し、ついには実験的な証明にまで漕ぎ着けた。


 Proteinaceous Infectious Particle──すなわちプリオン。彼がその存在に命名を与えた瞬間、それは単なる異端の仮説から、認めざるを得ない科学的事実へと変貌を遂げた。


 当初、学界からは強い批判を受けた。タンパク質だけで感染が起こるはずがない、と嘲笑すらされた。だがそれでも彼は折れず、ついに1997年、ノーベル生理学・医学賞を受賞する。


 この病を解き明かすために費やされた歳月と、孤独な戦い。その道のりは、既存の感染理論を根本から覆すものだった。プリオンはもはや仮説ではなく、医学と生命科学の常識に対する警鐘として、厳然とそこに存在している。


ライオデュラ病──正式には「硬膜移植に伴うプリオン病」とも呼ばれるそれは、決して多発する疾患ではない。国内においても、一定数の報告はあるが、患者数の少なさゆえに指定感染症や特定疾患には分類されていない。ただし、その発生の背景には、極めて人工的かつ制度的な問題が横たわっている。


 かつて、外科手術の一部では、硬膜──脳を保護する強靭な結合組織──が他人の遺体から採取され、再利用されていた。この硬膜は「ライオデュラ」という商品名で販売されており、医療器具の一つとして流通していた。滅菌処理はされていたが、その手法は不十分であり、後にプリオンが含まれていた可能性が指摘された。


 プリオンは通常の加熱や放射線では死滅せず、極めて高い耐性を持つ。ゆえに、移植された硬膜を通じて感染が起こる可能性は当時から懸念されていたにもかかわらず、製造側・流通側・医療機関の間で十分な連携もなく、使用は継続された。


 そして、感染の報告が相次ぐようになってからも、対応は後手に回った。症状は発症までに数年から十数年を要し、感染経路の特定は困難を極めたためである。


 致死性家族性不眠症(FFI)──これは、さらに特異な様相を持つ。感染症ではない。遺伝によって発症する、極めて稀な家族性疾患である。


 FFIの原因は、14番染色体に存在するPRNP遺伝子にある。この遺伝子に変異が生じると、プリオンタンパク質が構造異常を引き起こし、やがて視床──脳の深部にある、感覚と意識を統合する中枢部位──が破壊されていく。


 初期症状は不眠である。ただし、これは通常の睡眠障害とは異なる。睡眠そのものの機構が機能不全を起こし、本人は眠ろうとしても眠ることができない状態に陥る。深い眠りが消失し、やがて一切の睡眠が不可能になる。自律神経の失調、幻覚、認知機能の低下、運動障害が次々に現れ、数ヶ月から一年ほどで死に至る。


 その進行は容赦がなく、精神と身体が互いを引き裂くように崩壊していく。治療法は存在せず、対症療法すら困難とされる。遺伝的に発症するため、家族の中で発病者が現れた場合、その子孫にも発症リスクが付きまとう。更に顕性遺伝である為遺伝ではこちらが優先される。


 この病は、単なる病理ではない。脳が持つ「眠る」という機能の根幹を否定するものであり、それは人間の意識の根底を揺るがす事態である。生命の休息が許されないという事実は、死をもってしか終止符を打つことができないという、冷酷な現実を突きつける。


・・・また、世界では四十、日本では数家系存在している。

だから調べ上げたのだ。


その名を初めて聞いた時、透は一瞬、理解が追いつかなかった。検査結果は安定していた。身体の異常も見られない。だが、別の者──ミナが、彼の陰で、沈黙のまま進行する病に蝕まれていると知ったのだ。


視床の変性。遺伝性の突然変異。病状が表面化すれば、わずか数ヶ月で死に至る。そして──現代医学において、治療法は存在しない。


眠れなくなる。そして、脳が焼けるように壊れていく。


心臓は動く。肺も呼吸する。だが眠りが消え、記憶が消え、やがて感情と認識すらも、ただの「構造」として剥離していく。


透の全身から、熱が失われていった。


彼は、常に準備をしてきた。論理を磨き、演算を積み上げ、未来を読む力を培ってきた。だが──この病は、計算を拒んだ。確率ではなく、運命だった。


彼女が、死ぬ。


それは確定だった。


彼は、椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。言葉もなかった。未来のあらゆる線が、彼女を失う地点で終わっていた。


だから・・・先ずは時間が欲しかった。

そして彼女に伝えたのだ。

「・・・君と私で、脳を半分交換しよう。」

彼女は首を横に振ったが、少しだけ笑って見せた。


透は、怒らない人間だった。感情が無いのではない。むしろ、激しすぎる思考と感情を抑えるために、常に最適解を用意し続けている──その姿勢が、怒りを見せるという表現を必要としなかっただけである。しかし、その日だけは違った。彼は珍しく、何も答えを出していなかった。まるで思考そのものが、途中で千切れたように──空洞の中で、ぽつりと立ち尽くしていた。憔悴。それは彼には不似合いな言葉だったが、間違いなくその姿は、誰の目にもそう映った。

何が起きたのか。周囲の誰もが悟っていた。彼女に関することだろう、と。だが彼自身の口からは語られない。沈黙が続く中、学内には逆に奇妙な期待が生まれた。

──彼なら、きっと何とかする。


その予測と信頼は、やがて事実を追い越した。彼の行動は日を追うごとに研ぎ澄まされ、朝は医学部に現れ、昼には図書館、夜は工学部へと移動し、白衣とスーツの中間のような服装で校内を駆けていた。最早、透を見たことがない学生は存在しなかった。すれ違った者は、何かしらの衝撃を与えられ、無言で通り過ぎるだけでも影響を受けた。目が合えば姿勢を正したという者もいた。

だが、それと同時に──彼の荒れ方も、目立ち始めていた。原因は、誰の目にも明らかだった。だが、正面から触れられることはなく、代わりにその期待が過剰な関心へと変わり始めていた。

「彼女、もう亡くなったんでしょう?」

「なら、次は私の番にしませんか?」

軽薄に、ある女学生が言った。その瞬間、透はその頬を殴った。初めて、人前で感情を剥き出しにした。

それが学内を騒がせ、騒動となった。処分としての停学が決まり、教授会でも意見が割れた。だが、学長は別の判断を下す。

「彼の才を罰するより、今こそ用いるべきだ」

そうして提案されたのが、留学だった。彼女の病と向き合うため、研究の支援を受けるため、アメリカの専門医療機関との連携のために──透を送り出す計画が、水面下で動き始めた。


新幹線の車内は静かだった。窓の外を流れる景色は誰にも見られず、白く濁ったガラスに人影だけが揺れていた。ミナは小さく身体を丸め、透の肩に頭を預けて眠っている。透は開いたノートPCの画面を見てはいるが、数分前から指は止まったままだった。

主治医が斜め向かいの席から静かに彼らを眺めていた。眼鏡の奥にある瞳は、懐かしむようでいて、どこか張り詰めていた。

「ねえ、透さん。」

名指しではなく、少し距離を取った呼びかけだった。透が目を向けると、主治医は小さく笑った。

「私、昔──男だったのよ。」

ミナは眠ったままだった。透は少し眉を上げたが、驚きの感情よりも、問いただすような姿勢は見せなかった。

「ミナちゃんがね、小さい頃に言ったの。『男の人って、全部キライ!』って。泣きながら。何があったかは訊かなかった。でも──その瞬間に、私はもうこの子の前で男でいたくないって思ったの。」

語る声は穏やかだったが、過去の記憶のどこかで震えていた。

「その週のうちに手術の予約を入れた。竿も玉も、切った。痛みは……まあ、どうでもよかった。あの子に嫌われる方が、よっぽど痛いと思ったから。」

透はゆっくりと頷いた。主治医は指先で自分の膝を軽く叩くようにしながら続けた。

「今でも思うのよ。あの子に『嫌』って言われるのが、何より怖いって。あの子、分かってないかもしれないけど・・・人の人生を動かす力があるのよ。だから、今度こそ守りたいの。あの時、私が勝手に変わったみたいに、今度は彼女の未来を変える側でいたいの。」

窓の外では空が開けてきていた。遠くに空港の誘導灯が小さく光り、静かに目的地が近づいていることを知らせていた。

誰も彼らの空気を壊そうとしなかった。他の関係者も同じ車両に乗っていたが、彼と彼女の間に踏み込む者はいない。むしろ、それを知っているからこそ──空気を読める者たちだけが、この移動に同行を許されていたのだ。

主治医は最後に一度だけ、眠っているミナの頬を見つめ、息を吸い込んだ。

「だから、あなたも──彼女に本気でいてあげてね。」

・・・正直、普通に怖かった。子供の頃のミナが「男の人は嫌」と泣いた、それだけの理由で性別適合手術まで受け、外見までも変えてしまった主治医。医学的倫理の枠を超えたような決断だったが、それが可能だったのは、彼女が誰よりも速く、正確に未来を予測し、行動に移せる人物だったからだ。あのとき彼女は「逆らったらヤバい」と判断したのだ。

イカれている。だが、それでこそだ。彼女のような人間がいなければ、この移動も、今回の計画も成立していない。

「・・・自分にそれが出来るかは、不安だ。」

「・・・さぁね。でも、脳移植は却下されたんでしょう?なら、ほかに選択肢はないわ。」

「専念しているさ。」

視線は流れる車窓に落ち、時間はゆるやかに過ぎていく。

「そして、計画自体は既に百程度、準備してある。」

言葉にしなかった。多くは失敗に終わる可能性が高い、そういう計画群だ。だが。

「彼女の声や記憶は失わせたくない。最良の手を打てる段階である以上、余裕を持って挑むつもりだ。」

その言葉に、主治医は小さく息を吐き、頷いた。彼がどこまでも本気であることを、誰よりも理解しているのは、彼女だった。


アメリカの入国審査を一通り終えた頃には、身体の疲れが意識に染みていた。本来であれば、そのまま大学へ向かいたい所だが、アメリカの大学は日本とは全く異なる構造を持っている。フラタニティ、ソロタニティ──それぞれ男性・女性向けの友愛団体とされているが、実際は半ば学閥のような力を持ち、そこに入れるか否かが大学生活や将来の就職先にまで影響を及ぼす。組織に属する為には徹底した上下関係を覚えなければならず、そうした努力を積んでも、上司が人事権を持つ企業が大半を占めるアメリカでは、たった一言で解雇されることもある。

年収が八百万円を超えても「低賃金」と扱われ、税率の緩さにも関わらず、絶望的な格差の中に沈む。つまり、既存のコミュニティに入るのも、独自に作るのも、そして自分の目標を達成するのも──どれも非常に困難だということだ。

この国で立場を勝ち取る為には、何かを示さねばならない。そして彼女の存在を、世界に知らせる為にも──

「・・・だから、歌えるか、ミナ。」

「・・・いいよ、透の為なら。」

その答えに迷いはなかった。声が消えかけている彼女にとって、歌うという行為がどれだけの代償を伴うか、透は知っていた。それでも、彼女は応じた。

すべては、彼女自身と──彼女を守ろうとする誰かの為に。


舞台袖で、ミナは深く息を吸い込んだ。

袖の陰にある鏡に映る自分を見つめ、衣装の裾を軽く整える。

真っ白なメイド服に、淡い水色のフリルがあしらわれている。まるで童話の世界から抜け出たような装い。

シンデレラの仮装のように見えるのも、今日だけは計算づくだ。


マイクを持つ手が、少しだけ震えていた。

それでも彼女は一歩、また一歩と舞台中央へと進んでいく。

ライトが彼女を照らすと、会場全体が一瞬、息を呑んだように静まり返った。


流れるイントロに合わせて、ミナは柔らかなステップでリズムを刻む。

口元には笑顔――けれど、瞳の奥に宿るものは、誰にも読めない影だった。


――それは、もう夢を見れない少女の、たった一度きりの祈り。


スポットライトが彼女を捉える。照明は舞台上の一点だけを照らし、その光の下でミナは小さく呼吸を整えていた。柔らかいフリルのメイド服が動くたびに揺れ、髪飾りのリボンが観客の目を引いた。客席からのどよめきが、一瞬だけ静寂へと転じる。


リズムに合わせて、足元でステップを刻む。まるで夢の中の子供のように、希望を振りまくような動きだった。

♪ Dreamless nights, silent fights,

 I’m dancing here to chase the lights ♪

客席の視線が集中する。ミナの声は透き通っていた。軽やかでありながら、不思議と心に残る。その声は、眠れない夜を越える力を持っているようだった。

♪ Sleepless eyes, haunted skies,

 I sing to hush the ghostly cries ♪

一人の少女が、夢を語るように。けれども、実際には夢を見ることさえできない現実がある。FFIという病、その本質を誰も知らないこの空間で、彼女の声だけが真実を伝えていた。

♪ No dreams to dream, no stars to hold,

 Still I keep walking, brave and bold ♪

客席の誰もが、彼女が病を抱えているとは思わなかっただろう。ただ美しい歌姫が歌っている、そんな幻想に包まれていた。

♪ Future blurred, heart unheard,

 I whisper songs I’ve never learned ♪

曲の途中、彼女はふっと笑った。だがその笑みにはわずかな震えが混じる。それは恐れではなく、限界を知った者の静かな覚悟。Cメロに差し掛かる頃には、その震えは堂々たる力に変わっていた。

♪ Can’t fall asleep, can’t dream of sleep,

 But still I sing, my soul to keep ♪

♪ My voice will ring, until I break,

 And if I fall, I’ll leave a wake ♪

客席の一人ひとりが、息を呑む。彼女の声は力強く、どこまでも届いていた。悲しみも、絶望も、歌声に溶けていく。ただ一つ、確かなのは──それが最後かもしれないという静かな予感だけだった。

♪ I can’t forget, I can’t regret,

 This song I sing, my silhouette ♪

音楽が終わる。ミナは笑った。まるで自分がこの舞台に生まれるべくして存在していたかのように。だが、その微笑の裏側にあったのは、言葉にならないものだった。ステージを降りた彼女の頬を、一筋の涙が伝っていた。


控え室に入った瞬間、ミナは舞台の熱気を置き去りにして、静かに崩れ落ちた。膝を抱え、肩を震わせるその姿は、誰よりも小さく、そして脆かった。

「・・・大丈夫か?」

透は黙って隣に腰を下ろし、ミナの背中に手を添える。その温度がわずかでも伝わるように、強くも弱くもない圧で、ただそっと。

「・・・ミナ・・・。」

涙は止まらない。拍手の余韻も、誰かの称賛も、今の彼女には届いていない。満足げだった笑顔の裏に、これは“最後になるかもしれない”という予感が、ずっとあったのだ。

透はミナの呼吸に合わせて、手を動かす。言葉ではなく、動作で伝える。舞台の上でどれだけ誇らしく立っていようと、ここではそのままでいていいと。

時間だけが、二人の間を満たしていく。涙は止まらなくても、震えは少しずつ収まっていく。沈黙の中で、安心だけがゆっくりと広がっていった。

置いていけない、置いていきたくない。

「・・・怖いよ・・・。」

「大丈夫だ、俺がいる。」

「でも・・・。」

彼は、確実に解決してくれるだろう。

だが、その先に自分は並べるだろうか。

彼の手段はどこまで自分を尊重してくれるものだろうか、段々死んでいく中で自分は希望を持って眠れなくなるのか。

「透・・・透・・・嫌だよ・・・離れたくないよ・・・。」

ミナは震える手で透の服の裾を掴んでいた。まるで、溺れる者が最後の浮き輪を握るように。細くなった指先に、力だけはしっかりと宿っている。それが、彼女の決意でもあり、恐れでもあった。

透はその手を包むように握り返した。無言で、ただその体温だけを伝えるように。言葉は、彼女にとっても彼にとっても、もう足りなかった。

ミナは知っている。透が何よりも自分の命を優先することを。それは信頼の証でもあるが、同時に、絶望の足音を感じさせるものだった。彼が冷静でいればいるほど、彼女の中の恐怖は現実味を帯びていった。

身体の奥から、どうしようもない不安が這い上がる。過去の全てが泡のように崩れ落ちていく感覚。未来の輪郭が見えないことが、これほどまでに苦しいとは知らなかった。

それでも、透の温もりだけが、ミナの崩壊をかろうじて留めていた。言葉では埋められない断絶の中で、確かな存在だけが、彼女を支えていた。

「・・・全部渡せ、残りの命。」

「・・・うん。」

彼女はそう言って、残り少ない眠りに耽った。

そして・・・。

「主治医。」

「アリスよ。」

「(どうせ本名アツシとかだな。)」

「持っていって欲しい?」

「技術の案ごとにチームを作る。一通り情報は集めた。」

「・・・お見事。」

「ファンだったらしい。」

「そりゃあ運がいい。」

「見事な動きだったよ、とな。アイツそんなに動いてたか?ちょっと熱中して見てないんだ。」

「・・・え?・・・うーん。」

チームとやらの詳細を話す前に紙で渡され、その量に驚愕した。

凡そ数十枚の具体的な計画用紙。飛行機で何を作っていたのかと思えばこれだったのか。詳細はPDFのリンクで・・・と、まだあるらしい。ゆっくり読もう・・・と空腹を満たしに行く。

「『オタ芸と悲しい背景』・・・あれ?・・・話題になったの・・・。」

何かズレている気がするが、話題になったなら良いかとアリスはスマホを切った。


彼のアプローチは二つだ。ひとつは生物学──破壊された脳の領域を、未使用の神経回路や再編成可能な領域で補填し直すこと。もうひとつは工学──信号をデジタル化し、脳機能の外部補完を通じて喪失した機能を代替すること。だが、彼女が最も強く恐れているのは、そのどちらの技術的困難でもなければ、手術による痛みでもない。恐れているのは、脳そのものの喪失だ。自分が自分でなくなっていくこと。記憶、思考、感情──それらの欠落や歪みによって、自分自身が崩れていく未来だ。

「・・・どうして・・・かぁ。」

そう呟いた彼に、背後から静かな声が返る。

「ああ、あそこまで極度に恐れる理由がな。」

いつの間にか傍にいた主治医が、腕を組んで呟く。口調は軽いが、目は笑っていない。

「君のデリカシーと人間の心が無いのはいいさ。でも彼女は良家名血。雑草や突然変異なんて、存在自体が忌避される。」

「・・・育ちの良さか。」

「・・・あ、そういう事か。」

短いやりとりの中で、彼は何となく理解した。多分、だが──彼女は幼少期、他者から「撫でられる」存在だったのだろう。褒められ、大事にされ、愛された。そしてそれが、彼女の「自己像」を形作っていたのだ。

脳を失うということは、そうした手触りの記憶が剥がれていくことに等しい。撫でられた記憶も、愛された感覚も、きっと消える。彼女はそれを、本能的に拒絶している。どれだけの技術があろうとも、あの手の温もりをもう一度感じられる保証はないのだから。


──彼女に詫びようとした。言葉に出来ないものが喉まで込み上げていた。だが、彼女は唐突に泣き出した。

最初は声もなかった。ただ、震える肩と、堰を切ったように溢れる涙だけが、彼女の内側を物語っていた。彼は咄嗟に声をかけようとしたが、言葉は要らなかった。彼女の方が先に、壊れるような声で呟いたのだ。

「・・・もう、悲しい感情なんて、持ちたくない。」

その一言で、彼は全てを悟った。

彼女は、悲しみに耐えきれなくなっていた。ただの感情ではない──それは眠れぬ夜を抱えて、何度も繰り返されてきた不安と絶望の連なりだった。

「透・・・どうしよう・・・これから眠れないのに・・・透とどう過ごせばいいの・・・?」

嗚咽交じりに絞り出される声。彼女の目は潤んだまま、彼をまっすぐに見ていた。

「・・・こんなことになるなら・・・透なんて、好きにならなきゃ良かった・・・。」

口にしてから、自分でそれを否定するように首を振る。だが、止まらない。

「だって・・・透は頑張ってる・・・頑張ってるのに、私・・・私、離れなきゃいけないなんて・・・」

褒めるように、讃えるように、愛していることを隠さずに言いながら──それが彼女を、より深く苦しめていた。希望を信じるほど、その距離が怖くなる。触れた体温すら、偽りに思えてしまう夜が続くのだ。透がどんなに支えてくれても、彼女の中に残る“終わり”の影は、消えなかった。


彼女は、目を閉じることすら忘れたように、ただ虚空を見つめていた。瞬きの間隔が不自然に長く、視線はどこにも定まらない。音も、光も、匂いも、届いているはずなのに、何ひとつ心に響いていなかった。

自分で整えたはずの衣服は乱れ、髪は乾いているのに濡れたように貼り付いていた。動くことも話すこともできるはずだったが、身体は命令を拒否していた。意志があるのに、指は動かない。問いかけに答えようとしても、声は胸の奥でくすぶったまま届かなかった。

思考が絡まり、時間の流れがよく分からなくなっていた。夜なのか朝なのか、昨日だったのか今日だったのか。今ここにいることすら、少し前の記憶のような気がする。眠っていないのに夢を見ているような、しかし夢ではないことだけが分かる、その残酷さだけが確かなものだった。

孤独ではなかったはずだ。支えてくれる人もいた。けれど、その好意や愛情を真正面から受け止めるには、心があまりにも疲れすぎていた。優しさが刃になると知っているから、怖くて近づけなかった。

手を伸ばすことはできる。けれど、それを握り返す力が残っていない。涙も出ない。ただ、胸の奥に押し込めた焦げたような痛みだけが、じんわりと広がっていた。名前を呼ばれるたび、何かが剥がれていく。自分が何者だったのか、なぜ頑張ってきたのか、全てが曖昧になり、ただ一つ――

「もう、無理かもしれない」

その言葉だけが、喉まで来ていた。だが、それすら呟くこともできず、彼女はただ、少しずつ沈んでいった。


扉の向こうから、小さな手が何度も何度も叩く音がした。迷いもためらいもない、ただ「開けて」と願う音だった。

「とおる!」

ミナの声が震えていた。怒りでも悲しみでもなく、ただ助けを呼ぶように、切羽詰まった響きだった。

「・・・ミナ!」

透はすぐに駆け寄り、彼女を抱きしめた。細くなった体ではなかったが、彼女の中から何かが欠け始めていることだけは分かった。

「とおる・・・。」

名前を呼ぶ声は、懐かしい音に似ていた。ほんの数年前、何も分からないまま信じてついてきた彼女の声だ。口調も響きも、あの頃に戻ったかのようだった。

「いい子だったね。」

その一言に、ミナは少し目を細めて笑った。あどけない顔つきで、首を傾げて、まるで何も心配のない少女のように彼に甘えた。服の裾を引っ張って、自分を見てほしいとせがむ仕草。かつて彼女が恥ずかしがっていたような動きも、今は何の抵抗もなく、自然なものとして現れていた。


主治医が以前に語った言葉が脳裏をよぎる──「もう始まっている」

言語野が崩れていく。意味と単語の紐づけが外れ、文の構築が苦手になる。会話は成立しても、それは過去の記憶を必死に手繰って出しているだけ。脳のどこかが損なわれるたび、残った領域が必死に代替しようとしている。そしてそれが、症状をさらに進行させる。

可愛いと感じるには、あまりにも痛ましい。まるで幼い少女が、最後に甘える権利を使い切るかのように彼に寄り添っている。その笑顔は作られたものではない。ただ、今の彼女にはそれ以外の表現手段が残っていないのだ。

記憶の繋がりが断たれていく中で、それでも彼女は「とおる」とだけは言えるように、何度も、何度も呼んだ。壊れていく意識の中で、名前だけが浮き彫りになっていた。

彼女の可愛さは、壊れかけた器の儚さそのものだった。そして透は、それを「可愛い」と感じてしまった自分を、許せなかった。


計画は、一日ごとに静かに、確実に遅れ始めていた。

どこで誤差が生まれたのか、どの仮定が不完全だったのか──それを問い直す時間すら足りない。

焦燥は日に日に増していく。

だが、それを表に出すわけにはいかなかった。

彼女の前では、絶対に。

彼は静かに彼女の額へ手を伸ばし、そっと撫でた。指先が触れた瞬間、ほんの少しだけ彼女が微笑んだように見えた。言葉を交わすでもなく、ただそれだけで安心させるように。

面倒は主治医に託す。食事の世話、服薬、体調の把握──すべて、研究の時間を奪わないようにと事前に調整されている。透は今日も、静まり返った別室で机に向かう。数万通りの回路配置、数百の神経接続モデル、そして今夜もまた、終わりのないシミュレートと検証作業。

現状、どれだけ脳を補充したところで、既存のニューロンは回復しない。細胞そのものが、可逆性を持たない。

新たな構造で置き換えるか、あるいは別の形で模倣するしかない。だが、その模倣ですら、彼女の「声」や「記憶」が保たれる保証はない。

その間にも、ミナの症状は進んでいく。

苦痛に悶えながら暴れたり、悪魔に取り憑かれたように笑うこともない。そうではない。

彼女は、静かに壊れていく。

ただ、眠れずに──意識だけが醒めたまま、確実に、ゆっくりと死に向かって。

何もできず見つめることしか許されない、その過程が、彼の神経を擦り減らしていく。


だが、それでも彼は諦めない。

まだ手はある。

まだ──時間は、あるはずだ。


了解した。以下に、状況の深刻さ・感情の複雑さ・登場人物の消耗を、密度と文量を高めて描き直す。


そして、同時にある事実が発覚した。

ミナは、妊娠していた。

主治医は、その診断結果を何度も確認してから告げた。誤診の余地があるならそう信じたかった。だが、検査は正確だった。彼の手元のデータが冷たく証明していた。

透は無言のまま椅子に沈み、数秒間、何も考えられなかった。思考は音もなく沈降し、現実だけが、彼の皮膚を焼くように熱を持って迫ってくる。

「・・・こさえたな?」

声だけが、乾いていた。

主治医は表情を変えず、ただ彼の目を見つめて頷いた。

「君に、決断に関して一度問いたい。子供だが、恐らく正常に産むのは難しい。そして──高確率で死産になるだろう。」

事務的な声だった。医師としての立場を守るための距離だった。しかしその距離が、今この瞬間、透にとってはあまりにも冷たく響いた。

「・・・この子供を利用する選択肢もある。倫理はともかく、緊急性を優先すれば、臓器の提供元として見なければいけない可能性もある。」

それは医師の立場でもあり、研究者としての非情でもあった。だが、透は口を噤んだままだった。

「彼女から奪えるかどうかは分からない。だが、女性として色んな人の話を聞いていると、子供への情熱というのは・・・とても侮蔑出来ない。正しいか間違いかではなく、その感情そのものが、決して軽んじてはならない。」

目の前の男が言葉を慎重に重ねている理由は分かっていた。ミナの状態が日々悪化していること。そして彼女が、既に過剰な精神的負荷を抱えていること。

「・・・確実さ、か。」

沈むように呟いた。

「・・・ああ、こんな身体になってしまった以上、彼女の方が遥かに大事だ。」

自分がどうあるかではない。彼女をどう守るか。それだけを考えてきた彼の覚悟は、揺らいでいなかった。

「ん・・・初めてこの体で、嬉しい気分になったよ。」

それは皮肉であり、同時に本音でもあった。男であることに意味があったことはなかった。だが今だけは──この身体でよかったと思った。

「そうか。なら・・・いいんだ。」

ただその一言だけが、すべての感情を引き受けていた。

それでも主治医は、無言で頷きながら思った。

──彼もまた、酷いくらいに消耗している。

彼女を失うことだけを恐れ、誰よりも理性でその恐怖を隠している。

その姿は、傍から見れば英雄的ですらあったが、

確かに、透という人間をすり減らしていた。


だが、透はすり減らした結果・・・ある発想に至った。

「工学系リソースはすべて、手術機械の制御に振る。精密動作の補正値も、既に演算済みだ。」

彼の声には迷いがない。疲弊と焦燥を押し殺した、静かな執着がそこにあった。

「神経接続は完全には望まない。けれど、特定部位への幹細胞移植で、ニューロンの形成は誘導できる。」

あくまで損耗の緩和。既に失われた回路の代替にはならない。だが、声を保つのが目的なら──。

「再接続のタイミングには電気刺激を用いる。外部パターンで誘導し、回路の定着を図る。

手術中の刺激パターンは既にパラメータ化され、実験系に落とし込まれていた。

「拒絶反応は出ない。iPS由来だからな。」

その一点を、彼は最も重要視していた。時間がかかっても、彼女自身の細胞であることが必要だった。

「神経膠細胞も同時に培養済みだ。支持構造は人工的に補完する。」

グリア系細胞の導入は、機械との境界を繋ぐためでもあった。

「再形成された脳の安定には日数が必要だ。だが、ミナの意識が落ちるまでには、条件を整えきれる。」

それは願望でもあり、確信でもある。どちらともつかぬ緊張が、彼の口調にはあった。

「・・・後は計算するだけだ。」

そう言い切る彼の背中は、煮えたぎる。止めてやりたかったが、数兆円の損失は控えるべきだと判断した。


主治医には、透とは別の仕事があった。

夜ごと、名を伏せたままある種の接待を受け持つ。財閥の令嬢、国会議員の愛人、そして名もなき資産家。どれも彼女を女性と見做すことにためらいはなかった。むしろ、女である必要さえなかったのだ──抱ければいい、その先にある取引の条件が通れば。


身体を差し出して手に入る金は、透の研究では到底まかないきれない薬代や実験素材を補った。そうでもしなければ、誰もミナを助けようとはしない。見返りもない、未来もない、利益にもならない少女に、人は金を払わない。

そして、彼女はそれを透に黙っていた。

透の理想は守るべきだと、心のどこかで思っていた。

これは彼が見るべき現実ではない。

そんな汚れた現実からは、自分がすべてを引き受ければいい──そう信じていた。

だが、その「穴」は確かに自分のものではあるが、何も産まない。未来に繋がることはない。

それでも、搾り取られるように使われ続けた身体は、医療の礎として捧げられていく。


・・・誰も感謝しない。

彼女は知っていた、それがこの役目の宿命であることを。


──乾いた喉が、血の味を訴えていた。

アリスは、夜の街を歩いていた。診療所での仕事を終え、コートの裾を握りしめながら、背筋を伸ばしていた。街灯の光が地面を濡らし、遠くで誰かが喧嘩をしているような怒鳴り声が聞こえる。けれどそれにも、足は止まらなかった。

手帳の中には、透の指示した研究試料の一覧。どれも手に入りにくく、そしていくつかは──正規のルートでは、到底手に入らないものだった。認可の遅れた薬品。旧規格の試薬。もしくは、そもそも未登録の化合物。通常の倫理では語れない治療の、ただの入り口である。

だから彼女は売っていた。身体を。

屈辱? 恥辱? それはとっくに使い果たしていた。使い切った先で残っていたのは、ほんのわずかな理性と、治したいという執念だけだった。

その夜、いつもの相手とは違う場所へ向かった。古いジャズのかかるバーの奥、薬剤に詳しい中年の男と面会する予定だった。彼の口利きがなければ、ミナに必要な化合物は手に入らない。そう言われていた。アリスもまた、それを知っていた。

けれど──身体がついてこなかった。

バーの灯りが遠ざかる。体温が足元から抜けていく。呼吸が浅くなる。通りの角を曲がった瞬間、コートの裾が引きずられるように崩れ落ち、アリスの視界は斜めに傾いた。

一瞬、誰かが見ていた。けれど通り過ぎた。冷たいアスファルトに頬を押しつける形で、彼女はかすかに手を伸ばした。手帳が滑り落ち、ばらばらと紙が舞う。脚の感覚が失われていく中、誰かの靴音が近づいた。

「・・・大丈夫? 動ける?」

若い声だった。思っていたよりも若くて、優しい響きがあった。知らない少年の顔が、ゆらりと街灯の下に浮かんでいた。薄暗いフードの奥で、目だけが強く光っている。

「立てる? ・・・ああ、ダメか・・・ごめん、触るよ。」

彼女の身体が、ゆっくりと引き起こされる。肩に腕を回され、温度を感じる。もう声を出す余裕はなかった。ただ、抱えられて歩く間、流れるように変わっていく街の景色だけは、焼きついていた。

騒がしい夜の明かり。古びた電飾のきらめき。シャッターの下りた店先と、酔っ払いの笑い声。何もかもが、遠くて、うつくしい幻のようだった。

──この街は、ずっとこうだったのだろうか。

意識が沈んでいく。けれど、知らない誰かの手が、自分を守ろうとしてくれている。それだけが、奇妙に確かな記憶として、眠りの底に残った。

少年の名も、年も、何もわからないまま。アリスはその夜、ようやく深い眠りについた。倒れてから初めて、誰にも責められず、誰にも求められないままの静かな夜だった。


透は主治医が行方不明になっていた事を気にしていた。携帯のGPSも動作していない。何をしているのか全く分からない。

「どうしたの?透。」

振り返ると、ミナがカップを両手で抱えて立っていた。少し冷めた紅茶の香りが、部屋の乾いた空気に溶ける。

透はデスクの前に座ったまま、手元の端末を見つめていた。画面には位置情報の履歴が映し出されていたが、そこには途切れたログが並ぶだけで、何の更新もない。

「主治医が見つからない。そろそろ帰ってくるはずなんだが・・・。」

彼はため息混じりに立ち上がり、カーディガンのポケットに端末を滑り込ませた。小さく首を振りながら、窓の外に視線を向ける。

「少し探しに行くか。」

その一言に、ミナの目が輝いた。

「私も行くー!」

もう空になったカップをテーブルに置いて、ぱたぱたとスリッパの音を響かせて駆け寄ってくる。その動きの軽やかさに、透は少しだけ肩の力を抜いた。

「じゃあ──乗ってくれ。」

振り向きざま、彼は腰を落として背を差し出す。慣れた手つきだった。

「うん!」

ミナが笑って、その小さな体を彼の背中に預ける。腕が首元に回され、微かに息がかかる。透はぐっと足に力を込めて立ち上がった。

重さは感じなかった。ただ、守らなければならないものの存在感だけが、いつも以上に鮮やかに背中にのしかかっていた。

部屋の外に出ると、夜風が頬を撫でるように吹き抜けた。透はゆっくりと歩き出す。主治医がどこで倒れているか、まったく見当もつかない。

──でも、探すしかない。

背中のミナが、小さく呟いた。

「・・・アリス、無事だといいね。」

透は答えなかった。ただ一歩ずつ、夜の街へ向かって足を進めた。誰よりも疲れていたはずの彼女が、いまどこかで助けを求めている気がしてならなかった。


ホテルのロビーに差し掛かった瞬間、透の足が止まった。

そこに、彼女はいた。

カウンターの横、目立たない長椅子に寄りかかるようにして、アリスが眠っていた。足元には手帳と、ばらばらになった紙束。薄い肩が震えている。眠っているというより、意識を失っているに近い。だが──生きていた。

「・・・杞憂だったか。」

透がぽつりと呟いた。

「きゆー?」

ミナが、背中から覗き込むようにして尋ねる。

「杞憂。ミナが絶対にしないことだ。」

「しないよー?」

無邪気な声。けれど、彼女の言葉には決して誤魔化しがない。だからこそ、その言葉が、今は何よりも胸に響いた。

「一緒に行こう、ミナ。」

「行こう!」

ミナが、ぱたんと頭を透の背に預ける。彼女は相変わらず可愛く、何の疑いもなくそう促してくれる。

それが、逆に痛かった。

目の前で倒れているアリスは、きっと誰よりも強かった。誰よりも責任を負い、誰よりも耐えてきた。そして──今、もう耐えられなくなっていた。

精神的にも、肉体的にも、削られていた。だから、こうして──誰にも頼らず、誰にも迷惑をかけず、静かに倒れていた。

まだ、きっと酷くはないはずだ。回復の余地はある。支えることだって、できる。

なのに・・・。

透は一歩、アリスに近づいた。ミナが背中で、そっと呟いた。

「・・・ねえ、助けに来られて、よかったね。」

透は、かすかにうなずいた。

まだ、この場所でなら、手は届く。ぎりぎりのところで、彼女は諦めていなかった。

彼女の、無意識の最後の叫びに──ぎりぎり、間に合ったのだ。


透がアリスに手を伸ばそうとした、その瞬間だった。

「・・・失礼。」

乾いた音と共に、彼の左手首に冷たい金属が絡まった。がちゃり、と確かな音を立てて、片手に手錠が嵌められる。

「はい、この人が──恐らく、その医者に身体を売らせていた犯人です。」

声の主は、ホテルのスタッフ風の制服を着た若い男だった。だが、その目つきは異様に冷静で、背後からは制服警官数名が迫ってくる。

「ミナのため、と繰り返していましたが、おそらくその医者の娘が、いま背中に背負っている人物でしょう。」

「ご協力感謝します。」

警官の一人が頷く。既に周囲には人だかりができ始めていた。

透の目が見開かれる。

「ミナ、逃げろ!」

「えっ? え?」

ミナの声が震える。

「早く!」

反射的に背中から降ろそうとしたその時、長椅子で眠っていたはずのアリスが、急に身を起こした。

「──透君! 何をしたんだ!?」

「誤認逮捕。」

透は冷静な声で答える。焦っていない。状況をすでに計算に入れているかのようだった。

「ちょっと待って! 透君を逮捕なんて、国際問題待ったなしだぞ!」

アリスが立ち上がり、すぐさま警官たちの前に出る。片方の肩はまだ力が入っていないのか、体を支えるように壁を背にしていたが、声ははっきりしていた。

「この人は、私の患者であり研究責任者。未成年の女の子に見えるその子も、正式に家庭的監護下にある共同生活者です!」

警官が戸惑う。

「でも・・・この方が、あなたに──その、売春を──。」

「自分の判断だよ。私は、必要だった。私たちの治療には、正式に手配できない成分があって、それを得るには──こうするしかなかったんだ。」

「・・・どうします?礼状用意?」

「証拠は用意出来るが、そこの天才数学者にサイバー攻撃と技術革新ででインフラと雇用を壊されたくなきゃやめた方がいい。」

アリスは少年の方を振り向く。

「君だよね。通報したのは。」

少年は唇を引き結ぶようにして頷いた。

「君が善意で動いたことはわかる。ありがとう。でも──その背中にいた子は、娘じゃない。彼は加害者じゃない。・・・命を支えてきた、たった一人の協力者だよ。」

沈黙が落ちる。

警官が無線で何かを確認し始め、もう一人が手錠の鍵を探しながら、そっと透の手首に手を伸ばした。

「・・・お騒がせして、申し訳ありません。」

「・・・いえ。」

透は軽く首を振った。

アリスはミナを見やると、微笑を浮かべた。

「ほら、泣かないで。透君は悪いことなんかしてない。」

ミナは小さく頷いたが、まだ顔を伏せたままだった。手だけが、そっと透のコートの裾を掴んでいた。だが、ミナの精神は蝕まれているのだ。


了解しました。以下、アリスの内面描写として、地の文のみで整えます。

アリスの声は冷静だった。理路整然と、筋道を立てて彼を庇い、自らの判断を肯定してみせた。だが──その実、胸の奥では鈍い苦味が渦を巻いていた。

あれでよかったのか。あの説明で、本当に守れたのか。

化合物のことには一切触れなかった。触れられなかった。たとえ警察の介入が収まっても、その成分が法の眼に晒されれば、今度こそ全てが崩れる。それを理解していた。だから、あえて明かさなかった。

だが同時に、それは──自分が行ってきたことの一部を、透に背負わせたことでもあった。

彼がどこまで把握しているのかはわからない。彼の中ではすべてを理解しているのかもしれないし、ただ信頼という言葉の外縁だけで支えてくれているのかもしれない。

どちらであれ、彼を守る言葉は、嘘ではなかった。けれど、真実もまた、語られてはいなかった。

誰もが見ていた。自分が声を張り、透を正当化する姿を。まるで、自分こそが被害者のように。

だが本当は──自分が、あの夜、全ての境界を踏み越えていた。

痛むのは身体だけではない。誰かの信頼に、ほんの僅かでも寄りかかったことへの自責だった。化合物がなければミナは助からない。その現実が、彼女の口を塞ぎ、沈黙へと追い込んでいた。

あの場で話さなかったのは、自己保身ではない。だが、それでも──話してはいけなかった理由を、いつか正当化できなくなる日が来るかもしれない。

アリスは、自分の心に言い聞かせていた。

──いまは、まだ。いまは、守ることが最優先なのだと。


ロビーの一角に、スーツ姿の男が現れた。鋭い目元に控えめな微笑を乗せ、警官と短く話を交わしたのち、透とアリスの前に歩み寄ってきた。

「先ほどは、私の部下が早まった判断をしてしまい、申し訳ありませんでした。」

彼は深く頭を下げた。資産家──製薬関係の理事にも名を連ねる人物。アリスはその顔を見て、一瞬だけ視線を逸らした。

「・・・ああ、いえ。助かりました。」

透が無表情のまま答える。

男は数秒黙した後、言葉を選ぶように言った。

「もし、可能であれば。もう少しだけ、話を聞かせていただけませんか。」

その声には、情報を奪おうとする狡さよりも、何かを確かめようとする静かな誠実さがあった。

アリスは頷いた。そして、短く説明を始めた。

どのような化合物が必要だったのか──それには触れなかった。だが、治療の困難さ、制度上の制限、手配経路の不透明さ、そして予算の不足。その一つ一つを言葉にしていくと、資産家の目が徐々に深まっていくのがわかった。

「・・・なるほど。資金面の問題が、ここまで重大とは思っていませんでした。

彼は軽く顎に手を当て、透に目を向けた。

「正直に申し上げましょう。あなたのような人材は、実は各方面で“潰されかけて”います。あなたが研究を主導すれば、他の連中が仕掛けてきた商業的な治療計画がすべて後手に回る。進ませたくない者たちにとって、あなたは“やっかいな答え”そのものなのです。」

透は何も言わなかった。ただ、わずかに目を細めていた。

「実力がありすぎるがゆえに、どこもチームに引き込みたがる。だが、あなたが入れば、周囲の効率は落ち、あなた自身の自由は奪われる。・・・そして結局、何も進まない。」

資産家は苦笑交じりに言った。

「今回のプロジェクトも、見ていました。正直、よく機材が揃っているなと思っていた。だが実際は、薬も設備も、ほとんどが自己調達だったのですね。」

その言葉に、アリスは内心で苦く笑った。

──有効活用。それが、自分の思いついた言葉だった。

透の研究を、自らの技術と結びつけ、成果を最大限に引き出す。倫理の隙間を突いてでも、治療法を前に進める。だがそのためには、どうしても金が要った。善意でも、信念でも、現実は変えられない。

身体を売ってまで維持しようとしたのは、研究の質ではない。透という、奇跡のような頭脳を、この場所で活かしきるためだった。

彼の知性は、計画的に削がれていた。それを支えようとした自分もまた、既に綻びを見せていた。

資産家はふと、穏やかに問うた。

「──では、その研究。私に、出資させてもらえますか?」

アリスの目がわずかに揺れた。

これは、救いか。それとも──新たな値札か。

「もしこの研究が進んで、ただの一例でも“成功例”として世に出れば──。」

アリスは言葉を遮るように、わずかに声を強めた。

「それだけじゃ済みません。」

資産家の目が彼女を捉える。

「今、私たちが使っているのは医療機器だけじゃない。透君は、あらゆる産業で切り札に、そして、基礎になりうる。もし研究に専念すれば各業界で全く別の側面を与え知らぬ人はいなくなるものの、同時に功績が多過ぎてまとめられなくなるでしょう。」

「つまり、情報産業も敵になると?」

「ええ。IT、通信、そしてハードウェアの設計分野も。特許の延長線上にあるすべてが“彼の理論に追いつけない”と分かった瞬間、動きます。囲い込みか、潰しにかかるかのどちらかで。」

彼女は、一歩引いて視線を落とした。

「私は製薬業界に近かったから、そこばかり見ていた。でも・・・それだけじゃない。今思えば、透君が目をつけられているのは、医学ではなく“精度そのもの”なんです。」

資産家はその言葉を噛みしめるようにしながら、ゆっくりと口を開いた。

「なるほど。つまり──彼が進めば、社会構造が変わる。」

「その通りです。あなたがそれを後押しすれば、業界の重心がずれます。投資対象が変わり、国ごとの技術的優位まで揺らぐかもしれない。正直、手を引くなら今しかありません。」

アリスの声音には、警告の響きすらあった。試していた。押していた。何かを──自分にも、彼にも。

だが、男は穏やかに笑った。

「それでも、構いません。」

アリスは、思わずその顔を見た。

「私は、ずっと“動かないもの”に金を出し続けてきた。業績を守る者たちに投資し、現状維持の価値を信じてきた。だが──この数年、ほんの少し、疑問を感じ始めていたんです。」

「疑問・・・?」

「自分が選んできたものは、本当に“価値”だったのか。“予測可能性”に酔っていただけではないのか。・・・あなたが言った通り、私は確かに何かを失うでしょう。でも今なら、その代わりに“予測不能な未来”を手に入れられるかもしれない。」

彼の声に、迷いはなかった。

アリスは、それを聞きながら、自分の胸の奥にあるわずかな感情の動きを見逃さなかった。畏れ──ではない。期待とも違う。これは──敬意だった。

自分が必死に守ろうとしてきたものに、外から手を差し伸べながら、なお恐れず踏み込んでくる存在。それが、たまらなく頼もしく見えてしまったのだ。

そして同時に、思った。

──これでもう、後には引けない。

いや、もう後退は有り得ないのだ。


照明が、白く交差した。

スモークが舞い、観客席のざわめきが波のように寄せては引いた。その中心に、ミナがいた。細い脚に光を受けながら、スタンドマイクの前に立ち、ゆっくりと息を吸う。

いつものように、笑っていた。

袖から出てくる直前、スタッフが心配そうに声をかけていたが、ミナは平気だと答えた。いつも通り。いつもの声を届けにきただけ──そう言って、彼女は笑った。

この日のライブは、告知もほとんど行われていなかった。観客の大半は知人関係や医療チーム、数人のファンと関係者。演出も控えめ、音響も最小限。だが、それでも舞台は存在していた。彼女のためだけに、そこにあった。

一曲目は滑らかだった。声もまだ保たれていた。二曲目、サビの途中で少しだけ掠れたが、誰も気にしなかった。むしろそれが、彼女らしさだと思った者もいた。

三曲目の中盤、伴奏の上で、彼女の声がふと遅れた。まだ他の人は気付けなかった。

四曲目で、音が外れた。薬の副作用か。

五曲目──立ち位置を変えるための一歩を踏み出そうとした瞬間、彼女の膝が崩れた。

観客席がざわめいた。演出と受け取るには、不自然な沈黙。ミナの肩が揺れ、マイクに手を伸ばしかけたが、それも空を掴んで止まった。手が、上がらない。言葉が、出ない。

スポットライトだけが、彼女を照らしていた。眩しすぎるほどに。

スタッフが走るより前に、何人かが立ち上がろうとした。だが、それよりも早く、ミナの身体がその場に崩れ落ちた。照明が遅れて落ち、音楽が止まり、静寂だけが会場に満ちていった。

──歌では、治らない。

医療の世界には、「笑いが治療になる」「音楽が免疫を高める」といった言葉が並ぶ。それが希望のように語られ、研究もなされている。確かに有効な場面はある。効果が出る例も、実際にある。

けれど、この病だけは違った。

彼女が抱えた病は、身体のなかで静かに、確実に脳を削っていく。免疫も、意志も、記憶も──声も──そこに抗体を持たない。どれだけ明るく笑っても、どれだけ音に託しても、その手は届かない。

“癒し”という概念そのものが、この病の前では無力だった。

ステージの上で、彼女はただ崩れ、手だけをわずかに伸ばしていた。届かない何かを掴もうとするように。

透は、その場にいなかった。

彼は研究室にいた。病の構造を崩すための、新しい理論を書き起こしていた。ステージのことは、報告で知らされることになる。

だが──この瞬間。

誰もが、もう“終わりが始まっている”ことに、初めて気づかされた。歌では届かない場所が、確かに存在することを。そして、そこにミナが──到達してしまったのだと。


承知しました。以下は、『泡立つ脳』第七話冒頭〜中盤にあたる展開として、地の文を中心に構成した描写です。透の内面・研究描写・社会の反応・そして倒れるまでを緊張感と余韻をもって描いています。


ミナが倒れてから、まだ二日しか経っていない。それでも、透の周囲は激変していた。

当初、透がアリス経由で病状の悪化を医療関係者に連絡した際、それは限られた範囲で共有されるはずだった。彼女の容体は、誰にでも明かせる情報ではない。だが、翌日──突如として彼の名前と研究内容が、幾つかのニュースサイトで「独占的に」取り上げられた。

「・・・透君?」

記事の冒頭には、「若き研究者が不治の病に挑む」「音楽家との静かな闘病支援」といった見出しが躍り、読み進めれば理論の先進性や社会的影響、倫理的懸念にまで踏み込んだ詳細な考察が続いていた。

「アリスさん、これは何が・・・?」

「透君が・・・彼女の治療法を恐らく確立した。でも、来ないのはおかしい・・・。」

なぜ流出したのかは分からない。だが──その情報は、“確実に意図を持って”広められていた。

奇妙なことに、それと同時に、透の元には各方面からの資金援助の申し出が相次ぎ始めた。海外の財団、AI企業、老舗の医療機器メーカー、さらには個人名義の多額の寄付まで。

「・・・チームが無駄足だと切り捨てられるのを警戒して裏切ったか!?」

研究室の端末には、秒単位で更新される寄付情報と問い合わせが絶え間なく流れ込んでいた。サーバーの処理速度すら遅くなるほどの通信量。その異様な熱量の中に、透はひとり、静かに座っていた。

「・・・透!」

疲弊していた。けれど、同時に──興奮してもいた。彼は眠っていなかった。ミナが倒れてから、正確には52時間以上、目を閉じていない。食事もとっていない。だが思考は止まらなかった。目の前で瓦解しかけていた希望を、もう一度かたちにするために。

そして──彼は辿り着いた。

プリオン病。正常なタンパク質が異常プリオンによって構造を変えられ、脳神経に壊滅的な影響を及ぼすこの病に対し、透が設計したのは・・・。

結局、タンパク質の構造の際であるなら、増産してしまえばいい。

そのために彼が構築したのは、特定の指示タンパクを受け取った際に“異常プリオンの生産を過剰にする、同時に身体全体に補充を頻繁化、エネルギー切れは酷くなるだろうが・・・。

神経細胞だけでなく、筋肉、皮膚、内臓組織──加齢すら制御可能な特性を一部に見せ始めた。

彼はまだその意味を誰にも伝えていなかった。この技術が、回復の医療を越えて、「永続性」や「若さの保持」といった極端な応用まで射程に入れてしまうことを。

どれだけ革命的であっても、それがミナに届かなければ意味はない。彼にとってのゴールは、ただそれだけだった。

──それでも。

システムを一通り書き上げ、シミュレーションを実行したその瞬間、透の体内で何かが途切れた。

静かだった。

端末の光が流れる中で、彼の身体が、ふっと前のめりに傾く。椅子の上で姿勢を保っていた彼の腕がだらりと下がり、次いで、重力に従うように身体ごと崩れた。

無音の倒れ方だった。呼吸はあった。心拍もかろうじて維持されていた。だが、その脳はすでに“活動をやめよう”としていた。

透もまた、限界だった。

誰よりも思考し、誰よりも耐えて、そして、誰よりも先に倒れた。

研究室の灯りはまだ消えていない。だが、その中心にある意志が、今、静かに横たわっていた。

「・・・よく頑張った・・・。」

アリスは、そう告げて抱き留める。

資産家の真剣な眼差しを受け止めるように、これまで検討されてきた幾つかの技術案を順に語った。彼女自身が関与したものもあれば、他所の研究者が提案した案もある。そのいずれにも、救いたいという祈りと、冷徹な見積もりとが交錯していた。

まず挙げられるのは、ニューロン移植だった。

実験動物では機能回復の兆しがある。だが人間では、接続の精度も、定着の安定性も、倫理的制限も重くのしかかる。実用には、まだ遠い。

幹細胞による神経再生も取り沙汰された。

iPS細胞から視床の機能再構築を図る案だが、病巣が深すぎる。加えて、脳内の空間配置を保つ制御技術が追いついていない。時間がかかりすぎる。

ナノロボットによる修復は、最も未来的な案のひとつだった。

分子サイズのロボット群が損傷部位に直接作用する構想は魅力的だが、その制御系と安全性は未だ空想に近い。実現性は、ほぼゼロに等しい。

透は、常に複数の線を並行して考えていた。中には今となっては現実性の薄い案も混ざっていたが、それでもどれも彼なりの覚悟と緻密さがあった。

神経構造の破壊を逆手に取る形で、タンパク質の結晶化による記憶の固定を目指したこともある。だがそれは、変化を受け入れない脳を作るということで、結局は「ただ生きているだけ」に近づいてしまうという懸念があった。

導電性の高い微細素材を使い、神経線維を人工的に補修する案も出た。ナノレベルのポリマーで電気信号を導くというものだったが、現実には異物反応の問題がどうしても解決できなかった。

さらに、上位中枢の回復が困難ならば、脳幹から認知系を補助する──という極端な思考にも至ったようだった。確かに生命維持は可能だが、それでは彼女が彼女である理由が、全て置き去りにされてしまう。

磁場共鳴を利用して微小管の活動そのものを外部から調律するという試みもあった。量子干渉を視野に入れたアイデアだったが、これは装置のサイズと精度の限界によって、今は現実性が薄いと判断された。

また、光刺激による記憶の定着促進──音楽的訓練のように脳へ焼き付ける方法──も考えられた。だがこれも、保存には向いても、再生や回復には届かない。

いずれも透の頭から零れ落ちた断片だ。だが、それらは決して夢物語ではなかった。彼にとって「現実と夢」の境界線は、努力と執念だけだったのだから。

機械義体の導入という極論も一部から出た。

記憶や思考を外部へ移し、意識そのものを再構成するという仮説的アプローチ。だが、その前提となる「記憶の総体」が未だ正確には定義されていない。

現段階では、机上の空論。

そして──アリスは、ためらいながら最後の一連に触れた。

透が進めている技術群。彼だけが、これらを「現実」と信じて組み上げている。

プリオンタンパク質による神経構造の制御。

異常プリオンの増産を逆手に取り、特定の信号を受けた細胞が構造の恒常性を保つよう設計された代謝モデル。

可能性はある。ただしリスクも、致命的に高い。

CaMKⅡを記憶構造と見なした保存モデル。

記憶を担う酵素構造の再現・補強によって、思考と認知の再構築を目指す。

根拠はある。ただし未解明な領域が多く、仮説としては非常に繊細だ。

微小管と量子現象の連関を視野に入れた信号伝達理論。

量子脳仮説に基づき、記憶や意識が微小管内で保持されているという構想の延長。

科学というより思想に近い。だが、透はそれを実装に乗せ始めている。

アリスは、資産家の反応を伺うように視線を向けた。

どれもが危うい綱渡りだった。だが同時に、それ以外にもう残された道は、ほとんどなかった。

「・・・ああ・・・これは・・・。」

「・・・。」

「これでは・・・空想的過ぎる。」

資産家視点でも分かる、ナノボットはガン対策でも使用されているが修復では間違いなく役に立たないだろう。

彼は所詮、どこまで言っても数学者なのだ。

そして、カラーコピーには涙の痕が残り続けていたのだ。


・・・一先ず、現実的なのはタンパク質の強制的な補充とニューロンに関しては移植、IPS細胞の利用、オルガノイドの利用か。

「この計画が基準らしい。」

「今動かせる金はこれに使えばいいのか。」

「いや、半分までだ。医療機械がまだだ。」

「・・・医療機械か。しかし、ネット上を見る限り相当妨害されるだろうな。」

「・・・億を掛けて妨害しても、それ以上のリターンになりうるからな。」

現時点で偉人としての素質がある彼だが、他の学問に引き裂いた結果がこの非現実的な解答である。

数学は半ば哲学の理論であり、科学とはまた別の思想であるが・・・どちらも信仰で成り立つものであるというのは相変わらずだ。

「ここからはプロの仕事だ、彼が理想を夢見るなら、理想を叶える為に最大限の努力を・・・だな。」

「・・・うん?」

「どうかしたか?ローガン。」

「・・・いや、この資料なんだが・・・。」

資産家は書類仕事の慣れからある違和感に気付いていた。紙の色が変わったにしては、厚さが合わない。

「立ち入れるのは彼とチーム以外ない、プリンターは紙の細かい枚数までチェックされている・・・。ゴミ箱を。」

「・・・通信機だ、情報盗難用の。恐らく透の目を盗んで付けて、それに気付かれて剥がされたが実験を優先、その結果・・・。」

「薬を飲まされて、あのザマだ。」

「資料が三つ飛んでいる、しかもページ数で言えば数百、流出したのはこれじゃないか?」

「・・・証拠も残らない、下手すればかなり強いものだ、記憶を一時的に失うどころか生涯に影響しうるぞ。」

それが一番マズい。更に、下手すれば自分の行動は美談ではなく悲劇になる。助けられているかどうかとその価値は全く違うのだ。

・・・プリオン病はどうにか解決する病ではなく、予め抑制しなければ手遅れになる・・・そういう病である。既存の治療法は全て通用しない、その上に感染や発症も起きる確率自体がほぼない。

正直、これに向き合うのは無駄だと言って差し支えない。

しかし、別の感染方法が起きたら?人の手抜き次第で幾らでも発生しうるし、様々な手段で達成しうる病である。


部屋の空気は重たかった。機器の光だけが青白く机の上を照らしていたが、その中心にいるべき男はもういない。椅子は引き倒されたまま、床には透の名残が静かに残っている。

アリスはその場に膝をつき、淡々と記録装置の電源を落としていく。一方で、ローガンは何かを探るように、整頓されたはずのデスクへと手を伸ばした。

「彼のファイルはここだな・・・。」

指先で引き出しを開く。紙の書類はほとんどなく、光ディスクと、古いUSB端子の束、そしてメモ帳。驚くほど整理されていたが、それが逆に不自然だった。あの透が、急にこんな整頓をするだろうか。

「根こそぎ持ってかれたか、なんて酷い。だが、盗まれなかったものも多いな・・・。」

ローガンはそう呟くと、ディスクの一枚を手に取った。無記名のそれは何かのバックアップだろうか。軽く振っても音はせず、慎重に光へ透かすと、外周部に小さく文字が彫られているのが見えた。普通のラベルではない。彫り込まれたものだ。

アリスが立ち上がり、そのディスクを覗き込む。

「それ・・・見覚えがないわ。いつの間にあんなのを?」

「多分、最近だ。いや──わざと、見せなかったんだろう。」

ローガンは言った。その目には、薄い怒りと、冷静な敬意が混ざっていた。現実の研究としては、あまりに飛躍しすぎている先のタイトル群。読めば読むほど、ありえない言葉が並んでいる。だが、書き方そのものには奇妙な規則性があった。一度読み終えたところで、ローガンは顔を上げる。静かに口を開いた。

「・・・これ、暗号じゃないか?」

「え?」

アリスの声は少し震えていた。ローガンは構わず言葉を継ぐ。

「彼は数理学の人間だろう? だから少し思ったんだ。自分も経験がある。」

ページの中央に書かれた数式を指差す。

「・・・まさか。」

「現実的でない内容に、暗号がある。」

そして、ローガンは手に持っていたプリントをアリスに渡した。

「チームから引き抜く・・・これは任せたわ。」

アリスは小さく頷きながら、手元の端末を操作した。ローガンは椅子にもたれ、彼女の指先を見つめる。

「ああ。それで本題は?純粋に気になるんだ。」

問いかけには軽さがあったが、その視線には深い関心が滲んでいた。だがアリスはすぐには応えず、何かを読み込むように黙り込む。

「・・・ちょっと待ってね・・・。」

ページをめくる手が一瞬止まる。アリスの眉がわずかに動いた。普段の彼女なら見せない、微かな戸惑い。

「・・・これ、治療法でもあるけど・・・治療法以上に・・・。」

視線を落としたまま、言葉が空中でしばらく浮いていた。ローガンが身を乗り出す。

「どうしたんだ?」

彼の声は静かだったが、芯に重さを含んでいた。アリスはようやく目を上げる。

「・・・タンパク質の数を増やせば脳の性能を上げる・・・言わば、プリオンの克服。ストレス等も記憶しなければいけないけど・・・それ以上に・・・あまりにも。」

声に感情が乗っていた。誇張ではなく、本気で驚いている様子だった。しばらくの沈黙の後、彼女は言葉を絞り出す。

「・・・人類の今後が変化する技術になりうるわ。」

その言葉は、静かな確信として響いた。研究成果の一端が、単なる病の治療を超え、進化の扉に手を掛けていることを──ローガンもまた、理解し始めていた。

彼は、彼女の治療と同時に、生命として一線越えさせてしまうという恐怖に遭遇したのだ。


アリスは、思っていたより早く達成されたことに、むしろ驚いていた。ミナの妊娠を伝えたとき、透は数秒の静止のあと、ただ一言で受け入れた。問い返すことも否定することもなく、いくつかの選択肢を並べ、最も安全と思われる手段を選んだ。それが──あまりにも、あっさりとしていた。

彼は取り乱さない。痛ましい現実でも、数字と確率に変換し、解決へのルートに組み込んでしまう。そこまでは想定の範囲だった。だが、あまりに冷静で、あまりに準備が早すぎた。アリスは、それを“優秀だから”では片づけなかった。

本当に彼が最優先しているのは、彼女の命だろうか──と、一瞬でも疑った自分を否定したくなった。透が本気で彼女を守ろうとしていることに、偽りはない。けれど、それでも。彼の目の奥には、何か別の構造があった。ミナを治すこと──それは、誰もが理解しやすい大義だ。だが彼は、その先に何かを見ている。

技術を証明すること。産業構造に食い込むこと。人間の限界を定義し直すこと。──使命。それは、誰かのためを装ったまま、しばしば命を踏み越える。

アリスは、そういう男を何人も見てきた。それでも透は違う、と思いたかった。だが、今の彼は──使命の姿をした鎖に、自ら首を差し出しているように見えた。

肉体は痩せ、目の下には色がなく、言葉も削ぎ落とされている。決して休まない。少しでも止まれば、彼女が取り返しのつかない段階に進んでしまうと知っているから。それは正しい。だが、“正しさ”に限界があるとき、人はまず疲弊する。

アリスはそれを、自分の身を持って知っていた。だから、透の疲労が、知的な誤りではなく“彼という個人の消耗”であることを、誰よりも早く察してしまったのだ。

──ここから先、誰が彼を止められるだろう。そう考えてしまった瞬間、少しだけ背中が冷えた。


透は止まらなかった。外部からの接触、干渉、警告──そのすべてが、彼の計算領域には干渉しなかった。研究は、予定よりも早く進んでいた。あらゆる制限の網をかいくぐるように、彼は構造を深めていった。指示は増え、装置は改造され、必要な試薬や素材は別ルートで運ばれた。ローガンが企業との仲介を担っていたが、その手間さえも透の進行を止めることはできなかった。

外の動きは鈍い。だが、抑制が始まっていることは明らかだった。研究計画は秘密指定され、発表は停止された。大学からの連絡は間接的になり、メディアの報道も唐突に沈んだ。いくつかのデータは“未発見”として隠され、接触しようとした協力者の端末には、ある種の不正アクセスが確認された。

ローガンは話し合いを提案した。開示の順序、段階的な情報提供、研究の一部凍結。だが透は、すべて理解したうえで、黙って進めていた。計算は精緻さを増し、動作シミュレートは一晩で数千を超えた。外部から与えられる制限は、すでに予想された条件として処理されていた。彼の設計図は、それらを含めたうえで──止まることなく、未来を試算し続けていた。

ミナは、何も言わなくなった。日常の動作はできる。食事も、入浴も、最低限の応答も。けれど、歌わないままの身体は、動作の目的を失い、微かに沈んでいった。彼女の服装は変わらなかったが、肩に力が入ることはなく、廊下の灯りを避けるように動く姿は、まるで喪服を着た誰かのようだった。

未亡人──と呼ぶには早すぎる。しかしその佇まいは、失われる未来を前提として動く人間のそれだった。むしろ死にゆく側である。

身体の活動量は減っていた。筋肉が痩せ始め、声帯の使用頻度は限界を超えて減少していた。歩行に不自然さはないが、床に触れる足音がほとんど鳴らなくなったのは、意図的なものではなく、力の加減ができなくなっている証拠だった。

透は、彼女を“起こす”ために研究を進めていたのではない。彼女がすべてを手放したあとも、安心だけは残るように──その一心で、あらゆる変数を押し込み続けた。

それが、たとえ彼女の視線の先に何も映っていなくても。

それが、彼女がもう、自分の記憶に自信を持てなくなっていても。

透は、彼女が最後まで安心して死ねるように準備をしていた。

──そして、もし可能であるなら、死なずに済むように。

今の彼には、止まる理由がなかった。苦しみも、愛も、問いも、彼の中では構造として存在し、運用されていた。彼自身がどれだけすり減っていようと、それを測定する関数は──作られていなかった。


スターライト、ホロフォニクス、3Dプリンター、セルフレジシステム──世界には、かつて存在したのに普及せず、やがて歴史から消えた技術がいくつもある。消えた理由は単純ではない。構造が脆弱だったわけでも、需要がなかったわけでもない。多数の変数が絡み合い、商流や政治、経済、法規制、そして何より“扱える人間がいなかった”ことが重なって、技術は静かに葬られていった。

・・・それに、彼の技術は並びうる。

再構成されたプリオンタンパクの制御、折り畳み構造の遷移に依存した神経定着モデル、そして生体信号による自己修復の仮設。

消すのは、簡単だ。

接続先の一つを失えば十分だ。研究室の一つを潰せば、検証の工程が崩れる。誰かが「倫理的に問題がある」と言えば、それだけで研究予算は止まる。

そして、殺すのも──簡単だ。

彼の肉体は既に限界を超えている。休まずに思考を続け、睡眠も削り、外部との調整を一人で行っている。アリスがどれだけ守っても、企業がどれだけ資金を出しても、彼が倒れた瞬間にこの技術は未完のまま終わる。残されたノートや演算ファイルでは再現できない部分が多すぎる。

あまりに繊細で、あまりに限定された脳が生み出した構造。それを他の誰も扱えないのなら、それは“技術”ではなく、“個人”のまま終わる。

この技術は、正しく人類を一段階進めてしまう。だが──それゆえに、歴史の裏側へと引きずり込まれる可能性も、常に隣にある。


扉を閉めてから、歩幅を調整するまでに三歩かかった。足音が響かないように体重を移し、廊下の温度勾配を記憶から呼び出す。気流が強いとドアがわずかに反応する。湿度が高ければ、ミナの皮膚感覚に負担がかかる。いずれも、無関係ではない。

照明は落とさない。ただし、自分が通過するタイミングだけ、僅かに暗転するよう設定されている。どこかで“人間らしさ”を残しておくために作った機能だったが、今ではほとんど作動させていない。必要なのは、安心だけだ。感情ではなく、構造としての。

右手の関節に、まだ検査のテープ跡が残っていた。手術に必要な計測、皮下投与の反応確認──それらを同時進行で進めているうちに、自分の指先の温度が失われていった。寒さではない。集中しすぎて、熱がどこかへ流れていた。芯から冷えるのではなく、外部との遮断によって、身体が自己管理を諦めかけていた。

彼女の部屋に向かう。それだけの行為に、数十もの補助計算が並列処理される。目の動き、視界の調整、照明との反射率、ドアノブの摩擦係数。直接的には意味を持たない数値だが、彼女の緊張を生まないために必要な要素だけが抽出されていく。

決して、怖がらせてはならない。

決して、急がせてはならない。

──そして、決して、絶望を読まれてはならない。

彼女がまだ“いる”うちに、答えを引き出す必要がある。だがそれは、質問では届かない。圧力や誘導でも足りない。彼女が自発的に──自分の判断で、自分の言葉で、意志を示す必要がある。

そのために、透は今、自分が持てる全ての“人間性”を再構成し直していた。

もし、彼女が反応しなかったら。

もし、彼女が今の自分をもう認識できなかったら。

もし、彼女の中で、透という存在がすでに別のものに置き換わっていたら。

そのときは──

考えるな。今は。

一つだけ確認する。

ドアは、開ける前に押し込まない。重心を預けない。空気圧が変化すると、彼女は反応してしまう。金属音も制御する。取っ手を握る速度は均一に。ノブの位置は指の曲がりと合わせて、可能な限り自然な角度を保つ。音を鳴らさず、しかし沈黙を強調しすぎない。

一歩ずつが、交渉だった。

相手の言葉を待つために、自分が語らない。その準備のまま、透は扉の前に立った。


何から伝えるべきか、順序を繰り返し確認する。呼吸、言葉の間、相手の視線が動いたときの補足文。想定される反応と、それに対する再説明。言うべきことは多い。だが、削れる余地はない。すべて、伝えなければならない。


──まず、構造の話。脳の維持に必要なタンパク質の強化、それによる可塑性の変化。記憶が定着しやすくなることと、思考速度の偏り。忘れにくくなる利点と、それによる精神的ストレスの可能性。これを先に伝えなければ、後に続く話が信じられなくなる。


次に、代謝の問題。ATP消費量の上昇、食事の頻度、エネルギーの再配分。脳が優先されるため、他の臓器に負荷が出る可能性。低血糖による意識の不安定、情緒の鈍化、それでも設計上回避できないこと。


その次に、睡眠構造の再設計。通常のレム・ノンレムのリズムでは維持できないため、補助刺激による深層意識の擬似構築。その説明は省略したいが、彼女が「眠れなくなる」ことに強い恐怖を持っている以上、避けては通れない。


そして、拒否権の設計。自己命令回路の一部に“解除条件”を組み込んであること。万が一、意志が揺らいだとき、自分で自分の構造を緩められるようにしてある。完全な可逆ではないが、絶対に固定化されるわけではないと伝える必要がある。


さらに、彼女が恐れている“変わってしまうこと”に対して、どれだけ予防的設計がなされているか。CaMKII群の活性状態をモニタリングし、非連続的な記憶圧縮を回避している点。構造の再定義ではなく、構造の選択を本人に残す方針。


その上で、成功すれば何が得られるか。言葉が保たれること。声が再構成される可能性。表情が記憶され、動作が維持されること。それを“治る”と呼ぶべきかどうかは分からないが、“続く”とは言える。その一点だけを、約束として伝える。


──それでも怖いだろう。


それでも構わない。怖いままで選んでくれていい。その前提で設計した。


──最後に何を言うべきか。


生きていてほしい、では意味がない。治る、というのも方向が違う。安心できるように、というのも主語が違う。


残すべき言葉は、たった一文。


──君の中にあるものを、残す準備はできている。


それが何であっても、壊さず、変えずに、そのまま受け入れる構造になっている。だから、話してくれるなら、それを基準に進める。話せなくても、構わない。ただ、彼女の中に何かがまだ“選べる”状態であれば、それだけで十分だ。


ここまで思考して、もう一度手をノブにかける。まだ開けない。ほんの僅かに手の力を抜いて、もう一度、忘れていた言葉がないかを確認する。


──それでも何も届かない可能性がある。


構わない。そうなる前に、全て伝える準備は終わっている。


彼女の反応に関係なく、これは必要な工程だ。


扉の先に、彼女が“いない”としても。

反応が途切れていたとしても。

目が合わなくても。

言葉が返ってこなくても。

記憶の全てが崩れていたとしても。


その可能性は、すべて想定済みだ。


だから、伝える。


部屋の中は、想像よりも静かだった。外気との温度差はほとんどなく、照明も自然光の範囲で抑えられていた。ベッド脇の椅子に腰かけているミナは、微動だにしない。顔は正面を向いているようで、視線の焦点は定かではない。だが、それでも彼女はそこにいた。


透は一歩、また一歩と慎重に距離を詰めた。靴音はしない。歩幅は均等で、呼吸の深さも計算済み。それでも、内心は乱れていた。


今、どの程度まで進行しているのか。視床の崩壊がどこまで広がったのか。記憶の断裂はあるか。音の識別、言語の連結、感情の反応──判断できる材料が少なすぎる。そもそも今の彼女は、自分を誰として見ているのか。それすら不確かだった。


だから、話しかけるまでに時間がかかった。


「・・・この部屋、湿度は問題なかったか?」


ようやく出た声は、問いではなく余談だった。加湿器の設定はAIが管理している。今さら確認するまでもない。だが、それ以外に言うべき言葉が見つからなかった。


ミナは、ゆっくりと首を横に振った。肯定でも否定でもない。空気を崩さない程度の返事。そこに判断は含まれていた。透はそれだけで、少しだけ呼吸を整えた。


「最近、食事のパターンを調整した。エネルギー消費が上がるから、朝の内容を変えたんだ。鉄分と糖分、それと・・・」


ミナは頷いた。それもまた、応答というには曖昧だったが、言葉の意味を受け取ったという動きだった。


「今日は、たぶんカモミールティーが合うはずだ。タンニンの含有量が少ないし、香りで胃の負担が減る。あと、ビタミンB群も──」


本題には入れなかった。言おうとしている内容は重すぎる。伝えなければならない情報は、すでに口の中まで来ている。だが、それを口にすれば、彼女の中の何かが壊れてしまうかもしれない──そう思ってしまった。


ミナは、透の方をじっと見ていた。表情には動きがない。口元も、目元も、何も揺れていない。ただ、瞳の中に何かが宿っている気がした。それが何かを読み取ろうとすると、透の脳内で数式が浮かび上がり、すぐに散っていく。


「・・・昨日、病棟で見た機材が新型だった。位置制御の精度が上がっていたから、手術時の振動も減らせる。あれなら・・・神経接続も、もう少し優しくできるかもしれない。」


ミナは、今度はゆっくりとまぶたを閉じた。安心の反応か、それとも単なる疲労か。判別できない。だが、それも拒絶ではない。


「もう少ししたら、準備が整う。必要な材料は揃ってきた。拒絶反応のパターンも減ってきて、あとは投与タイミングだけ──」


言っていることのすべてが、逃げだった。本当は今、彼女に確認しなければならないことがある。この先、彼女の脳は部分的に機能を失っていく。声も、記憶も、時間感覚も、いずれは歪む。透は、その可能性をすべて知っていた。


視床の中心部が崩れれば、感覚の統合が不可能になる。夢と現実の区別がつかなくなる。自分が“今”にいるという確信が、時間とともに失われていく。そして、それが自覚されないまま進行すれば、すべての判断は外部に委ねられる。


──その前に、本人の意思を確認しなければならない。


けれど、言葉が出なかった。


「・・・部屋の温度、変えようか。」


ようやくミナが動いた。小さく、首を横に振った。拒否ではない。そう言っているように見えた。


透は、自分がどれほど話していないかを、ようやく認識した。


彼女の体調を測るための話題、設備の調整、素材の手配。すべてが“言いやすい”ことだけだった。大切なことを伝えるために来たはずなのに、それを避け続けていた。


だが、ミナは黙って受け入れていた。触れない。問い返さない。ただ、聞いている。受け止めている。否定も怒りもなく、ただ──ここにいる。


それが、透には一番きつかった。


本当はもう、何も理解できていないのではないか。本当は、目の前にあるのが誰なのかすら曖昧なのではないか。そう思えば、伝える意味すら消えてしまう。


だが、彼女はうなずいた。言葉ではなく、わずかな動作で、繋がっていることを示していた。


ならば──話すしかない。


逃げずに、伝えるしかない。


透は、ようやく口を開いた。


話すしかない。そう思った直後、透は口を開いた。


だが──その瞬間、先にミナが動いた。


ごく自然に、ほんのわずかに背筋を伸ばし、透の方を向いた。視線の位置がわずかに合った。完全な焦点ではない。だが、確かに今、彼女は“見ていた”。


言葉は少なかった。


「ずっと、透が助けてくれるんでしょ。」


それは、確認ではなく陳述だった。自信とも安心ともつかない、けれど揺れのない声だった。


「だったら──それを覚えていられるなら、それでいいよ。」


静かだった。感情を込めているわけでもなく、説得のつもりもない。ただ、それが当たり前のように聞こえた。


「透がいる限り、いいことしかないね。」


その言葉が、透の中の何かを決壊させた。


本来なら、ここで手順を踏むべきだった。リスクの説明、予想される副作用、耐えがたい瞬間の可能性。すべて伝える準備をしてきた。理解を得るプロセスも含めて、構造として計画してきた。


だが、それらの全てが、彼女の一言で無効化された。


透の指先が震えた。感情ではない。構造の逸脱だった。演算のブレが現れ、呼吸の制御にずれが生じた。次の言葉が出ない。脳が、処理を拒んだ。


視界がぼやけた。涙腺が作動していた。身体の反応としては正しくない。状況判断が狂っている。だが、止まらなかった。


涙がこぼれた。声は出さなかったが、明らかに泣いていた。


その姿に、ミナがわずかに目を見開いた。驚いていた。無言のまま、椅子から半歩ずれて、手を伸ばした。


その手が、透の肩に触れるまでには、時間がかかった。慎重に動いていたのではなく、ただ、筋力が戻らなかったのだ。けれど、その指先は確かに届いた。


「そんなに泣かなくていいのに。」


声は落ち着いていた。冷静とも、優しさとも違う。むしろ、彼女の方が“持ち直していた”。


「私、大丈夫だよ。」


透はそれに頷けなかった。構造上、肯定するには無理がある。だが、否定もしなかった。泣きながら、目を閉じて、ただそのまま立っていた。


ミナは、もう一度言った。


「透がいるなら、それだけでいいから。」


それが、今の彼女の最大の言葉だった。


透はそのまま、返事をしなかった。声が出なかったのではなく──出す必要がないと、ようやく判断できたからだった。


その日の夜、ローガンに一通の連絡が入った。

直接会いたいという要請だった。場所は限定され、同行者は不可とされていた。古い友人からの連絡だった。


相手は、メキシコの麻薬カルテルの関係者だった。


提案はこうだ。

「薬は用意できる。必要な分だけ、正規でも、そうでなくても。」

ローガンの目の奥がわずかに揺れた。相手はテーブルを挟んだ向こう側にいる。スーツは無地、手には何も持っていない。だが、言葉のすべてが確定事項のように響いていた。

「医師免許も問題にならない。国をまたぐ手続きを除けば、形式だけの問題だ。」

空調が静かすぎた。目の前のグラスに注がれた液体は一度も揺れていない。ローガンはまだ口を開かない。ただ、眉の内側にうっすらと皺が寄った。

「透を狙う企業や関係者。必要なら、こちらから情報を流してやろう。彼らの立場を崩すだけで済む。」

脅しではなかった。事実を述べているだけだった。だが、その事実が、静かにローガンの背後に影を落としていた。

「この技術は、最初からメキシコでしか完成できない。だから、我々に独占権を渡す。それだけでいい。」

ローガンの指が、膝上でわずかに動いた。口元は微動だにしない。だが、その沈黙を、相手は拒否と解釈しなかった。

「脳の修復。こっちは萎縮で困ってる。だからこそ、使い道がある。大量に。」

椅子が軋んだ。相手は少しだけ身を乗り出す。

「この技術が売れると分かれば、数十億なんて端金だ。我々は、もっと大きな市場を見ている。」

声が落ちた。重く、しかし淡々としていた。

「ローガン、君のようなソフトウェア開発者は、AI時代においては持続性がない。一発屋でしかない。君は特に。」

心拍が、ほんのわずかにずれたのを、ローガンは自覚した。冷静さを保とうとする意識と、無意識下の予測系が衝突していた。

「だからこそ、我々は君の将来を約束しよう。」

目の奥に影が宿る。言葉は終始丁寧で、抑揚も抑えられていた。だが、その分だけ“選択肢のなさ”が強調されていた。

「・・・どうせ落ちて狂った国だ。尚更、拘る必要性なんて感じないだろう?」

沈黙が落ちる。テーブルの下で、ローガンの爪がわずかに拳を抉った。冷たい汗が首筋を伝う。表情は保っていた。だが、その姿を、相手はずっと見ていた。

追い詰めるための力など、必要なかった。

ただ、選択肢を一つずつ“残していく”だけでよかった。

返事は、予想よりも早く口をついて出た。戸惑いはあった。だが、拒絶はなかった。

同意するしかなかった。選べる立場ではなかった。

そう──もう親父のマネロンで返せないからな。あれを切り捨てた時点で、元には戻れなかった。

「多分バレたら、全部持ってかれるじゃ済まない。」

それは自嘲だった。今さら法律に守られるような領域に、自分が立っていないことは分かっていた。

「八割は把握してないって言うだろ?安心じゃないか?」

感情ではなく、計算として処理した。どこまで情報が洩れていても構わない。こちらが先に潰れるよりは、マシだった。

「あのアプリがマネロンに使えるの、知ってんだろ?」

使うとは言っていない。ただ、可能性を提示しただけだ。彼の声は平坦だった。過去の技術が今に繋がってしまうことに、もう重さは感じていなかった。

「カジノを利用したマネロンだな?日本でも拡大するって楽しみだ。国土交通省管轄なんだな。」

部局と予算の癒着。それはもう驚くほど分かりやすかった。制度を作る側が、利用する側になる。そういう話を、大学院のころから聞いていた。

「農林水産省にとても任せられねぇ頭がいるからじゃないか?」

皮肉は通じなかった。自分でも、もう皮肉として言っているのかどうか分からなかった。ただ、仕組みを並べているだけだった。

「捕まっても禁錮か借金だな。軽い軽い。サンタ=ムエルテも居ないんだろ?」

ローガンは、どこかで信仰の影を思い出していた。人を裁く存在がいない土地では、自己責任の質が変わる。

「異端らしいぞ、こっちじゃ。」

ああ、と思った。死神も、罰も、ここにはいない。

なら、なぜ躊躇する必要がある?

「犯罪組織のマネロンなんて精々1%、俺らより余っ程重い刑罰じゃないか?」

笑えなかった。だが、そうだ。ここにいる人間の方が、ずっと重いものを背負っている。自分が背負っていたのは──何だった?

「仮想通貨も面白くはあったんだがな。現金に比べて市場が脆いんだ。」

投機の流れは早すぎた。手段が価値を持つ前に、制御不能になった。

それでも、あのときは──まだ信じていたのかもしれない。自分が、“正しい側”にいると。

「罪悪感?ナイナイ、そういうの興味ねぇんだ。」

それは嘘ではなかった。倫理は選択の余地がある者にしか適用されない。今の自分は、その“選べる立場”を捨てていた。

「困った人を助ける?まぁ配信のネタにはなる。」

現実味がない。それでも、言ってしまう自分がいた。

どこかで演出を続けている。自分が“まだ面白がっている”ことにすれば、取り返しのつかなさを直視しなくて済む。

「・・・悪いな、アリス。トラウマを抉るかもしれん。」

それだけは、本気で言った。彼女の中にある、医療の理想と現実の間にある亀裂──そこに、自分の選択が入り込むことが分かっていた。


だが、止まれなかった。

彼は、悪に手を染めてでも、彼等の手助けを優先した。

それが、恩返しというものだと思った。


ローガンには、元々悪の過去などなかった。ただ、限界が来ていた。

法はもはや味方ではなかった。正規の金は枯渇していた。制度の中で手を尽くしたが、終わりが見えてしまった。

だから、最後のベットをした。

その時点で、もう一文無しだった。


研究は、異常なまでに順調だった。透の手配は早く、物資は揃い、必要な許可も何故かあっさり通った。薬剤の入手、医療機器の調整、免許に関する監査──全てが、予定よりも前倒しで処理されていた。

アリスは、その速度に最初こそ感嘆していた。だが、ふと気づいたときには、疑問の方が大きくなっていた。

どこかが、おかしい。

透の能力は信じていた。だが、このスピードは“誰かの後押し”がなければ成立しない。そして透自身は、それを知らない可能性が高い──彼は、技術にしか目を向けていなかった。

ローガンを見つけたのは、予想よりも早い時間だった。彼はロビーでタブレットを操作していたが、視線は虚空に向いていた。

アリスは椅子に腰を下ろすと、前置きもなく切り出した。

「──何があったの?」

ローガンは数秒、まばたきの回数だけ思考を整理してから、タブレットを伏せた。

「何が?」

その反応は、あまりに淡白だった。言い逃れではない。何も否定していない。それが、逆に確信を深めた。

「供給ルートが変わった。書類の通し先も。通関時刻の記録が逆になってた。普通は気づかない。でも、私は気づいた。あなたの動き、全部見てるわけじゃないけど──。」

「アリス。」

ローガンは、静かに彼女の言葉を遮った。

「透を守るためだ。」

「誰の力を使って?」

アリスの目が細くなる。プロとしての境界線、言葉ではなく視線で引かれる。

「──メキシコだな。」

返答に迷いはなかった。もはや隠す気もなかっ

た。アリスは、数秒間視線を外さなかった。

「あなた、本気で言ってる?」

「本気でなきゃ、やらない。」

「倫理が壊れてる。」

「とっくに割れてる。あんたも気づいてただろ?制度の内側じゃ、彼女は助からない。」

「だからって、麻薬カルテルに頼るの?」

「それ以外、なかったんだよ。」

その声に、迷いはなかった。ただ、どこかで疲れていた。


アリスは黙った。問い詰める言葉はあった。責める材料も揃っていた。だが、彼の目の奥に見えたものが、全てを留めた。

それは、敗北の色だった。

正義でも信念でもない。選択肢をすべて試して、それでも届かなかった人間の目だった。

沈黙が落ちた。ローガンの目は、アリスを見ていなかった。あくまで自分の中に答えを探そうとする目だった。何かを守る人間の目ではなかった。全てを諦めたあとに残った一点に賭けようとする者の、それだった。


アリスは、その視線から目を逸らさなかった。数秒間、無言のまま立ち尽くし、深く、静かに息を吸った。そして──突然、笑った。

「・・・そうか。」

ローガンは一瞬、驚いたように顔を上げた。

だが、アリスは怒っていなかった。微笑んでいた。少しだけ、寂しそうに。

「やっぱり、同じ道を選んだんだね。仲間だ。」

空気が変わった。言葉の温度が、重さが、重力すら変わったようだった。追及の空気は完全に消えた。代わりにそこにあったのは、共犯者への共鳴だった。

ローガンが口を開きかけたが、言葉は出なかった。

「私ね、ずっと思ってた。自分は医者失格なんじゃないかって。」

アリスの声は柔らかく、どこか遠くを見ていた。

「全体を見て、命のバランスを計って、できるだけ多くを救うのが“普通の医者”なんだろうなって。私は、それができなかった。できるわけがなかった。」

彼女の手が、わずかに震えていた。何かを思い出している。あるいは、今も思い出し続けている。

「私、患者が“誰か”だった時点で、それ以外の命の価値が分からなくなるの。」

その声には、後悔も、開き直りもなかった。ただ、事実を述べるように穏やかだった。

「だからローガン、あなたが何を背負ってるかなんて、どうでもいい。」

ようやく、彼の目を見た。

「彼女のために、倫理を越えても、それを恥じずに支えようとしてるなら──あなたはもう、充分すぎるほど“医療者”だよ。」

その言葉に、ローガンは言葉を失った。表情が崩れることはなかった。だが、目元がわずかに揺れた。

「私たちは、もう“普通の医者”じゃない。でも、間違ってない。自分で選んでる。」

声は柔らかいままだった。

「だから、仲間だよ。」

アリスはそれだけ言って、席を立った。

戻るでもなく、逃げるでもなく。

ただ、今日という現場に戻る人間として、姿勢を整えていた。

ローガンは、追いかけなかった。ただ、その背中を見送った。

この瞬間、自分がどの位置にいるのか──はっきり分かった。


誰も褒めてくれなくてもいい。

誰も許してくれなくてもいい。

でも、一人じゃないということだけが、今は確かだった。


夕刻、研究棟の簡素な会議室に三人が集まった。透の姿勢は変わらない。アリスは静かに椅子に座り、ローガンは壁に背を預けたまま動かなかった。誰も喋らなかったが、空気の中にある緊張は、互いの覚悟を既に知っている者同士のものだった。

透がノートを閉じた。

「準備は、整った。」

声には実感があった。足りないものは、もうない。必要な投与スケジュール、構造安定の条件、環境制御と再帰的調整。すべてが設計通りに整備されつつある。

「後戻りは──できないね。」

アリスがそう言ったが、誰も否定しなかった。

「いいさ。そもそも戻る場所なんて、最初からなかった。」

ローガンは短く言い切った。その声音には、かつての軽さが混ざっていたが、もう演技ではなかった。

それぞれの役割は決まっていた。透は設計と修復を続ける。アリスは生命維持と応答を見守り、ローガンは環境と資源を繋ぎ、倫理と妥協の境界を担保する。

だが、誰も油断していなかった。

透が口を開く。

「──ここからが、本番だ。」

治療は一回で終わるものではない。タンパク質の折り畳み、神経伝達経路の再調整、構造の“癖”への最適化。すべてが数年単位でしか進められない。急激な変化は拒絶反応を引き起こす。定着のたびに中間観察が必要で、進捗は外から見えづらい。

「一週間で何かが変わると思わないこと。半年で成果が出ない日があっても、焦らないこと。一年後に“初めて兆しが見えた”と言えるなら、それは順調だ。」

その言葉を聞いて、アリスは頷いた。

「そのために、私たちがいる。時間がかかることは、命を削らない限り悪じゃない。」

ローガンもまた、壁を離れて椅子に座った。足を組み、視線だけを透に向ける。

「続ける理由があるうちは、やるよ。俺はな。」

それが、彼なりの合意だった。

扉の外では、夜の気配が研究棟を包みつつあった。光が落ち、廊下に沈黙が伸びていく。

彼らはその静けさの中で、未来に向けて手を組んだ。


──数年かかる。だが、それでも進む価値がある。

もう、誰にも止められない。

だからこそ、自分たちで止まらないことを決めた。

この部屋で交わされたのは、命令ではなく──意志だった。


部屋に戻った透は、明かりを落とさなかった。手元の端末を起動し、ミナの脳構造モデルを呼び出す。実体模型は既に3Dプリンターで12体作成されている。素材の感触、温度伝導、抵抗値──すべて生体模倣の限界に挑んだものだった。

彼女の精神状態は、まだ安定しきっていない。時折記憶が遡行し、発語が断片化する。視線の焦点は合っているが、時間の順序が逆転しているときがある。それでも、深部構造には意志が残っていた。

透はそれを信じて進める。

この手術は、一度にすべてを修復するものではない。

ミナの脳は、折り畳まれたタンパク質によって機能が破壊されつつあるが、同時にそれを“包む”構造もまた独自に再構築されていた。崩れているのではなく、変化している。その変化を受け入れ、再定義すること。それが目的だった。

初回手術までには、まだ一ヶ月ある。その間に必要なのは、毎日のモデル訓練。脳の各部位は数値上のマッピングだけでなく、“空間”として覚える必要があった。指が自然に動くようになるまで、操作は許されない。

一回でも誤差が出れば、その部位は機械で代替することになる。

だが、機械は万能ではない。ニューロンの速度に匹敵する制御と、同期の波形を維持する精度が必要だ。だから透は、必要最小限しか機械を使わない。補うのは“どうしても”の時だけ。

ベッド横の端末に、ミナのバイタルが表示されている。脳波は落ち着いている。彼女は、眠っている。あるいは、眠るように沈んでいる。

その時間の中で、透はまた模型に手を伸ばした。

記憶ではなく、手指で覚える。思考ではなく、感覚で再現する。何十回、何百回でも繰り返す。彼女の脳を“知らないもの”にしないために。目を閉じても、そこにある構造を見失わないために。

これは手術ではない。再構築だ。

命を助けるのではない。命の形を保つための、“祈りのような作業”だった。

透は一度も言葉を発さずに、夜を越えた。

模型は、今日だけで四十回分の記録が蓄積されていた。


透は混乱しなかった。脳波グラフが突如として停止線に沈み込んだその瞬間も、彼は機械を見ていただけだった。周囲の看護師がざわつき、ローガンが視線でアリスを探し、誰もが「もう無理だ」と思った時、透だけが冷静だった。

「準備は、できてる。」

声は震えていなかった。むしろ、そこにあったのは静かな確信だった。アリスが小さく息を呑み、モニターに目を走らせる。確かにミナの脳波はほぼ平坦だった。呼吸と心拍は維持されているが、意識活動の兆候が消えている。だが、透は動じなかった。

「この状態は想定内です。自己再構成の臨界点に入っただけ。ニューロンの成長反応は止まっていない。」

誰かが疑問を呟いたが、誰も問い直さなかった。透はそのまま作業台の端末を操作し、新たなログを表示する。そこには、ミナの脳内で生成されつつある新規回路群のパターンが記録されていた。プロテインマップが揺れている。つまり、まだ変化は進行中だ。

「必要な関係者には報酬を渡してある。法的手続きも、監査も、すべて処理済み。誰も僕たちを止められない。」

彼は、言葉を並べて自分を守ろうとはしていなかった。説明ではなく、確認だった。ここまでの道を通ってきた事実を、一つずつ繰り返しているだけだった。

「・・・でも、ここで失敗すれば、ミナは──。」

アリスが口を開いた。

「戻ってこない。」

透は遮るように断言した。短く、明確だった。

「だから、今やる。」

再生されたニューロン──ミナの脳内で人工的に育成された細胞群は、すでに本来の構造に近い結合を始めている。それを放置すれば、異常な再配列が進み、逆に記憶や機能を破壊する。透はそのプロセスを読み取っていた。

「タンパク質の折り畳みは、正常系の補完段階に入ってる。問題は、その先。」

彼の指先が空中に設計図を描くように動いた。

「接続されるべき神経は、壊れたものじゃない。復元された“構造”なんだ。だからこそ──。」

彼は一瞬だけ言葉を止め、ディスプレイに映るミナの顔を見つめた。

「機械で、同期させる。」

それは、彼が何百回と訓練してきた工程だった。自分の手で、彼女の“形”をなぞるように再現し、指先から接続し直す。外部からの制御ではない。彼自身が、彼女の“中”に触れる作業。

アリスは黙って頷いた。ローガンも、それ以上は何も言わなかった。今ここにあるのは、計画ではなく、賭けでもない。ただひとつ、確定された「意志」だった。


彼女の意識は、深い水の底に沈んでいた。

時間の流れは歪み、順序は混ざり、記憶は断片として浮かんでは沈む。けれど、ある言葉だけが、繰り返し胸の中に現れていた。

「君の体はFFIから脱却した訳では無い。」

今はもう立派な医者の声だった。淡々としていて、温度がなかった。ただ、それは間違っていなかった。

「・・・子供は産めない、遺伝は続く。」

そう告げられたとき、泣いたわけじゃなかった。ただ、心の中に一本、音のない音叉が立ち上がるような感じがした。それは、ずっと頭の中で共鳴している。

「・・・君には辛い選択になる。」

彼女はそれを受け入れるしかなかった。諦めではなく、理解として。未来を閉じることの意味を、自分で選ばなければならなかった。

「・・・私は透と一緒に居たいから、選んだの。」

その言葉は誰にも伝えなかった。けれど、心の中ではずっとそう決めていた。透のそばにいる。その未来だけは、絶対に誰にも渡したくなかった。

「ありがと、そういうプライドと意地を知ってくれて・・・ふふ。」

彼にだけは、そう言えると思っていた。彼だけが、自分の選んだ誇りを笑わずに受け止めてくれると分かっていた。だから、怖くなかった。

「・・・私はソプラノ歌手のお母さんに憧れてたんだ。いい人だった、健気で、厳しいけど・・・。」

母の記憶が蘇る。真っ直ぐで、どこか寂しそうな背中。練習の声。怒られた日。優しく撫でられた髪。憧れはいつか呪いに変わった。それでも、美しかった。

「・・・兄弟姉妹は逃げた、そういう理由もある・・・こうやって遺伝が紡がれて・・・破綻しちゃう。」

本当は、家族はもっと大きかったはずだった。でも皆、検査を拒み、現実から逃げた。それを責める気持ちはない。ただ、残された者として、自分はどこに向かえばよかったのか分からなかった。

「・・・本当は産みたかった。憧れじゃない、女の子にとって、お母さんって称号。」

産むという未来。憧れだけじゃない、生き物としての、当たり前の願い。失われたそれを、今さら掘り起こすことはできない。けれど、そこに心が向いた日があったことは、否定したくなかった。

「・・・でも、それでも、私は透を選ぶ。透がいい。」

他の選択肢はなかった。誰かと人生をやり直すこともできたはずだ。でも、自分が自分であるためには、透が必要だった。

「・・・透、これ終わったら多分犯罪者だもんね。逃げて、逃げて、どこかで一緒に暮らそうね。」

彼の未来を考えると胸が痛んだ。けれど、それが本当なら──彼と逃げよう。医療でも倫理でも国家でもない、小さな場所で、ただ一緒に居よう。

「・・・だから、任せたよ。」

沈むように、静かに、そう思った。任せるということ。それは依存でも信仰でもない。確かにこの人にしか届かないという、自分自身の判断だった。

暗闇の中で、ほんのわずかに何かが動いた気がした。

声は出なかった。涙も流れなかった。

ただ、彼女は、自分の選んだすべてを、悔いなく見つめていた。


静寂が満ちていた。

モニターには変化がなかった。脳波は依然として浅く、乱れもなければ、明確な反応もない。ただ、その沈黙が透には“終わり”ではなく、“集中”に見えた。


透は無言でモニターを閉じ、背後に視線を向ける。補助アーム、固定具、神経マッピング機器、すべてが整列している。消毒済みの器具が銀のトレイに並び、わずかに反射して光を返す。彼は手袋を確認し、深く息を吐いた。

「ミナは、意識を保っている。表層からは見えないけど、内部構造は活動を続けてる。」

誰に言うでもなく、ただ現実を言語化するように呟いた。

「今、このタイミングで同期させなければ、再構成は逆流する。再配列が進めば、ニューロンが“違う記憶”を持ち始める。」

扉の奥でアリスが無言で頷いた。マスクを着け、髪をまとめ、無影灯の下に立つ。その目には、決意よりも覚悟があった。何を失っても守るという、静かな強さ。

ローガンが端末に目を落としながら呟く。

「後はやるだけ、だな。」

「うん。誰にも止められない。」

透は自分の手を見る。その指がわずかに震えていたが、彼はそれを否定しなかった。感覚を確かめるように、器具を握り直す。

そのとき、麻酔科医が合図を送った。点滴ラインに導入薬が注がれ、モニターに表示される数値が変わる。呼吸補助が作動し、ミナのまぶたがゆっくりと閉じていく。

「意識レベル、下降確認。全身麻酔、導入完了。」

アリスが確認し、透も頷いた。

「──おやすみ、ミナ。」

その声は、誰にも届いていなかった。だが、透は確かにそう言った。

手術室の扉が、音もなく閉じた。空気が切り替わる。

全ての注意と視線と緊張が、一点に集まる。

彼の両手が静かに、彼女の頭部へと伸びていった。


開頭操作は静かに終わった。

脳表面の腫脹は予測よりも軽く、再構成されたニューロンの分布も、事前のスキャンデータと誤差の範囲内に収まっていた。透は視線を動かさず、モニター上の断層データを指先だけで操作する。まるで脳そのものを触覚で把握しているかのようだった。


脳梁を越えた右視床下部に、再構成の起点が確認された。再生された神経細胞の活動は、正常プリオン由来の人工タンパクによって安定化している。問題は、そこから接続される既存ニューロンの同調率だった。

「同期率89パーセント。許容範囲内。誤差逆算、ミラーリング維持。」

透は言葉を発さず、唇の動きだけで数式を反復した。神経の流れが見えていた。彼の目には、電気ではなく論理として、そこに命が流れていた。

「血流、クリア。浮腫なし。タンパク反応陽性。」

アリスが短く報告し、ローガンがサイドパネルの温度と圧を微調整する。誰も声を荒げず、静かに、しかし正確に動いていた。手術室は外界から切り離された、音楽のない舞台のようだった。

透の手元は、研ぎ澄まされていた。麻酔深度は一定を保ち、彼の脈拍も落ち着いていた。恐れも、緊張も、今はなかった。ただ、呼吸の合間にだけ、かすかに彼女の声が聞こえた気がした。

「・・・君の手、あったかいね。」

幻聴かもしれない。だが、透はその声に微かに笑った。

まだ遠くはあるが、届く距離に見えた。

彼は、一歩ずつ確実に、命に近づいていた。

しかし、ここまでを以て尚、自分の精神は追い込まれていた。


だが、その時だった。

音が、侵入してきた。

「・・・と・・・る・・・?」

わずかに滲んだ声が、内側から反響する。聴覚ではない。鼓膜は正常で、部屋は静まり返っている。だが、音だけが逆流するように流れ込んでくる。文字として意味を持たない波形が、彼の言語中枢に接触する。

透は視線を上げない。神経の接続に集中しようとするが、次の瞬間にはもう一度──

「・・・わた・・・し・・・いない・・・?」

言葉になりきれない破片たちが、手元に微細な乱れをもたらす。わずかに力が偏り、切開角が一度だけズレた。誤差は修正範囲内。しかし、問題は数字ではなかった。透自身の集中が破られたことだった。

「ノイズ・・・? いや、違う。」

口の中でわずかに言葉がこぼれる。

彼の脳内にはいくつもの警報が点灯していた。幻聴、それも明確な内的干渉性の高い記憶トリガー型。今の状態で操作を続ければ、いずれ“それ”が主導権を奪う。

「ダメだ・・・これ以上聞いてたら、判断力が削がれる。」

それでも、手を止めるわけにはいかなかった。

今ここで操作を中断すれば、再生されたニューロン群は同期不全に陥り、機能停止する。

つまり──彼女が二度と戻ってこない。

声は止まなかった。

「・・・どこ・・・に・・・いるの・・・?」

それはミナの声だった。だが、それ以上に歪んでいた。感情だけが先走り、意味だけが遅れてくる。まるで崩れかけの夢の中で、名前だけを叫ばれているような錯覚。

「やめろ・・・今じゃない。」

意志で排除しようとしても、脳の奥に突き刺さるそれは、記憶でも、感情でも、外部でもない、**何者にも属さない“反響”**だった。

手元が揺れる。術野の視界が曇る。指先の力がわずかに不安定になる。

電極が反応し、補助アームが停止する。ローガンが異変に気づいた。

「透?」

声が届く。だが、現実と幻聴の音像が重なって聞こえる。

彼は歯を食いしばる。目を見開いたまま、記憶が溢れ、感情が漏れ出す。

崩れそうだった。あと一歩で失敗だった。

──その時。

流れが変わった。

「・・・ララ・・・ラ・・・」

言葉が旋律に変わった。最初はただの低音だった。風が揺れるような不確かな音。

だが、それは確かに音階を持ち、リズムを帯びていた。

あの夜、寝室で彼女が歌っていた子守唄だった。何も持たず、ただ隣で、小さな声で。

「・・・君の声・・・。」

透は呟く。

だが、もう幻聴とは思っていなかった。

それは“記憶”ではなく、今そこにある何かだった。言語ではなく、リズム。

狂いかけた操作系に、メトロノームが戻ってきた。

「ミラーバランス再取得。誤差修正値ゼロ点四五、範囲内。」

アリスの声が聞こえた。

だが、透はそれ以上に、彼女の歌を聞いていた。

内側で響く旋律に合わせて、再び手元が確かになっていく。

震えは去った。干渉は静まった。判断が戻った。

彼は、再び命を操作し始めた。

歌とともに。

彼女を、彼女の声で取り戻すために。


時間は、ゆっくりと崩れ落ちていった。

九時間、十時間、十一時間──手術は一度も止まらなかった。

幻聴は旋律に変わり、彼の神経と操作に一つの呼吸を与え続けていた。


十二時間を過ぎた頃には、透自身の思考も、言語化される前に動作へ直結していた。

アリスの呼吸音、機材の微かなクリック、冷却液の流れる音、それらすべてが彼にとって“環境”ではなく“道具”だった。

身体は限界を越えていた。だが、彼の集中は、むしろそこから研ぎ澄まされていた。

「第二縫合、完了。次は皮質電位の固定。」

スタッフの声が小さく響く。

誰もが悟っていた。

──これは、成功する。

──この手術は、間違いなく歴史に残る。

そして、ついに。

「・・・再生ユニット、同期完了。神経伝達率、標準値を上回ってる。」

アリスの声が震えていた。

透は答えない。言葉は不要だった。

ただ、静かに最後の接続に手を伸ばそうと──

──その刹那。

皮膚が裂ける音。

それが、最初の異常だった。

次に感じたのは、冷たさ。

背中の、脇腹寄り。刃が肉を裂いて侵入する音が、骨を伝って彼の思考に直撃した。

「・・・!」

声は出なかった。

ただ呼吸が途切れ、肺が縮む。

機材の反応が遅れる。術野が一瞬、暗くなった。

背後に誰かいた。

完全に手術スタッフの服装だった。

完璧に、滑り込んでいた。

透は振り返らない。

それをすれば、手術が止まる。

彼女の脳は今、まさに神経同調を終え、再接続を待っていた。

刃が抜かれる音がする。

次の瞬間、再び刺される。

今度は、腰の右側──腎臓の近くを狙っていた。しかしカルテルが医者の中に護衛を混ぜ込み、自分に刺される前に喉を刺していたらしい・・・。だが・・・。

「・・・痛覚、過剰反応はダメだ・・・。」

透は一つだけ吸気を挟み、左手で自らの制服を破く。出血点を確認し、仰角を保ったまま器具を手に取る。だが、鎮痛剤は打たなかった。

麻酔を使えば意識が揺れる。手術の感覚が狂う。

それだけは、許されなかった。

「縫合、自己処理・・・いける。」

吐くように呟いて、自分の腹に針を刺す。

痛みで視界が白く滲んだ。だが手は止まらない。

一針ずつ、丁寧に縫う。

その手と同じリズムで、右手は彼女の神経組織を結び直していた。

狂気としか言いようのない均衡。

それでも、彼は笑っていなかった。泣いてもいなかった。

ただ、手術を完遂させることだけを目的に、生きていた。

「もう一針・・・もう一箇所・・・これで、いける・・・。」

声が震える。

体温が下がっていく。

それでも、透は止まらなかった。

自分の腹を少し見るだけだったのだ。


縫合糸が滑った。

左手は自らの皮膚を裂いた場所をなぞり、右手は神経接続の固定ポイントを探っていた。

血の匂いは、自分のものか彼女のものか判別がつかなくなっていた。

皮膚感覚は薄れていく。

冷却装置の起動音も、脳波の同期信号も、頭の奥でくぐもった残響のように流れていた。

気づけば、透は考えることを止めていた。

痛みも、焦りも、達成感もなくなっていた。

ただ、次に何をするべきかだけが、視界の端に浮かんでいた。

自分の手術は、簡素な応急処置だった。

毒素の排出は終えていない。

循環系の補助薬は自作の調合液を静脈から流し込み、代謝強化を無理やり起こしていた。

ミナの手術の合間に、注射器を三本──

神経刺激を二度。

縫合針を自分の腹と背に走らせるのは、もう五回目だった。

だが、すべては“同時”だった。

切り替えではない。順番でもない。

彼の脳は完全に“並列”で、作業の遷移と優先度を自動で振り分けていた。

手術が終わったのか、終わっていないのか。

自分が倒れたのか、立っているのか。

それすらも分からなかった。

いつの間にか、光が滲んでいた。

耳鳴りではない。記憶でもない。

どこかで、ミナが笑っているような──そんな音が聞こえた気がした。

その瞬間、すべてが途切れた。

世界が、ひとつ暗くなった。


潮風が緩やかに吹いていた。

島の夏はいつも静かで、音のない日差しが白く辺りを照らしていた。

コンクリートの坂道も、病院の白い壁も、どこか柔らかく見えるほどに、空気は穏やかだった。

彼女は小さな影たちに囲まれていた。

膝の上に顔を乗せている子、ただ手を繋いでいるだけの子、少し離れて壁にもたれている子。

それぞれが、好きな距離でミナの話を聞いていた。

もう何度も繰り返されてきた昔話。それでも誰も退屈そうにはしなかった。

彼女が語ることは、何かを教えるためのものではなく、ただそこにあった事実だった。

誰かの命が、誰かを繋いでいくという、それだけのこと。

ミナは一度、言葉を切った。

手元のカップに残った冷めたお茶に視線を落とし、それから、ふと顔を上げる。

視線の先に、見覚えのある人影が立っていた。

遠く、病院の裏手から回ってきたのだろう。

手を振ったわけでもない。ただ、そこにいた。

でも、それだけで充分だった。

ミナは何も言わず立ち上がった。

椅子を引く音に子供たちが一斉に顔を上げる。けれど、彼女はもう見ていない。

誰の手も取らず、何の挨拶もせずに、ただまっすぐに駆け出した。

風が音を連れてくる。

足音と、吐く息と、心臓の鼓動と──それだけの時間。

数秒もかからず、その身体は彼の胸に収まった。

言葉はなかった。ただ勢いのまま、腕を広げるより先に飛び込んだ。

そして、彼はそれを抱きとめた。

いつも通りの仕草で、まるで何年も同じようにしてきたように、当たり前のように。

すべては、そこに還った。


結局、彼らは正式な裁きを受けることはなかった。

それは幸運ではなく、選択だった。

透の研究は国際的な関心を引いたが、それが実際に何を意味するかを彼自身が一番よく知っていた。

その成果に触れた者たちは皆、声をひそめるか、口をつぐむか、あるいは殺し合った。

国家も企業も、彼を欲しがった。

しかし、彼の答えは一貫していた。

何も差し出さず、誰のものにもならず、すべてを持ったまま姿を消した。

逃げた先は、海の向こうの島だった。

かつて密輸の拠点として機能していたその場所は、今では名前も地図からも消えている。

だが、裏の世界ではひとつの伝説として語られていた。

犯罪組織の手によって守られ、孤立し、同時に最高級の知と技術と快楽が集まる空間。

彼とミナはそこにいた。

透は名義を変え、いくつもの論文を別人の名前で発表した。

一部は一瞬で削除されたが、コピーされたデータは裏ルートで拡散し、世界の技術革新の片隅に爪痕を残し続けた。

彼が姿を見せることはない。ただ、成果だけが定期的に現れる。

誰も接触しようとしない。手出しができないと分かっているからだ。

ミナは歌っていた。

だが表舞台ではない。

その声はクラブでも劇場でも流れず、衛星経由の暗号通信を通じて、招待された者だけに届く。

それでも彼女は中心だった。

アンダーグラウンドの世界で、名も持たない「歌姫」として、取引の場を支配していた。

二人は、世界の最先端を生きていた。

透は発明家や暗号学者と連携し、新しい装置、新しい薬、新しい道具を作り続けた。

それらは売られ、動かされ、時には命を奪い、時には命を救った。

彼らはもう元の名前では呼ばれていなかった。

それでも、誰もが知っていた。

その声、その精度、その静けさ。

どこにいても、誰の手にも渡らないということだけが、彼らの強さの証だった。


本来、この技術は世界を救うはずだった。

脳の損傷も、退行性の病も、異常タンパクによる破壊も。

いずれ克服できる──そう信じて、透は構築した。

確かに、完成度はまだ未熟だった。

だが、確かに手応えもあった。

ミナを救えたのは、その証拠だった。

彼女の神経系は崩壊寸前だったにもかかわらず、機能は再生され、声も戻った。

再構築された歌声は、音響学的にも純度が高く、何より「生きた証明」として残った。

それでも──救えたのは、彼女ひとりだった。

どれだけ構造を再現しても、他の個体には適合しなかった。

似たような症例に応用しても拒絶反応が出た。

透が導き出した再構築式は、彼女の脳にだけ、唯一対応していた。

ある意味では奇跡だった。

ある意味では、無力だった。

科学者としての矜持が、ほんの少しだけ痛んだ。

もし、本当に人類を救うための技術だったなら──なぜ、彼女しか救えなかったのか。

なぜ、それを必要とする他の人間には届かなかったのか。

あるいは、届かせなかったのか。

考えれば考えるほど、その問いは透自身を追い詰めた。

そしてそのたびに、彼は彼女の手を握っていた。

結果として誰も救えなかったとしても。

たったひとり、彼女だけは──この技術で、命を繋いだ。

それだけで、もう十分だったのかもしれない。

けれど、透の胸にはまだ、確かに落胆が残っていた。


問題は──アリスの方だった。

技術者としても医者としても優秀で、性格も破綻していた。

依存傾向が強く、特に性に対しては徹底的に甘かった。

現在、七人目を身ごもっている。

セックス依存は治らなかった。

むしろ以前より拍車がかかった。

彼女は今、ローガンと一緒に“隔離施設”にいる。

カルテルが用意した半監禁環境、贅沢だが出口のない檻の中。モーテルみたいな感じの建物で、結構強固に作られている

ローガンの様子は、傍から見れば健康だった。

脈拍も正常、内臓もまだ持つ。

だが、何かが――明らかに何かが、おかしかった。

妙に白い。

肌の色ではない。髪でもない。

“全体的に白っぽく見える”のだ。

輪郭が薄いというか、目が滑るというか。

まるで存在感そのものがギャグ漫画的にフェードアウトしかけているような──そんな印象だった。

あやす子供の合間に、ミナはふと呟いた。

「ローガン、なんか最近・・・白くない?」

カルテルの警備員が、飲みかけの水を吹きそうになって堪える。

「お、おいそれ言うかよ・・・いや、分かるけど・・・。」

「いや、あれ絶対“白目むいてないけど白目”って感じだよ。死ぬ前のギャグ描写だよ。」

「やめろって・・・あれ、まだ生きてんだから。」

「生きてるけど、あれ“生きてる風”ってやつだから。」

ローガンは、柵の向こうで子供の哺乳瓶を振っていた。

いつものように微笑み、静かに座っていた。

言葉数は少ない。視線の焦点も、どこか定まっていなかった。

確かに、死んではいなかった。

でも──生きてる実感があるかといえば、それも微妙だった。

それでもアリスは、そんなローガンを抱きしめて言った。

「もう一人、作ろうか。」

白くなったローガンは、反応しなかった。

あるいは、できなかったのかもしれない。

ミナは、また別の赤ん坊にミルクを与えながら、深くため息をついた。今日も白かった。

透と警備員に近付くミナに軽く礼をする、彼女は赤ん坊の背中をとんとんしながら、視線を逸らさずに答えた。

「・・・あれでも、生きてる方よ。多分。」

少しの沈黙があった。

「ローガンはね、恩人なの。」

「・・・ああ。」

「同時に、事の発端でもある。あの医者を拾ったのも、放したのも、彼。」

「・・・だから、このくらいの罰と、褒美は、然るべきだと思う。」

ミナの声は、冷たくなかった。

憎しみでも、同情でもない。

ただ、筋を通すように淡々と。

柵の向こうでは、ローガンが子供の服を直していた。

白く、静かに、笑いながら。

それが罰か、褒美か、あるいは両方なのか──もう誰にも分からなかった。

透とミナの子供は、結局、長くは生きられなかった。

手術は、完璧だった。

透が切り開き、数理で導いた術式は、ミナを生かした。

だが、生まれてきた命は、そこまで持たなかった。

小さな体は、脳を守れなかった。

タンパク質の転写に耐えられず、わずかな時間を残して、静かに息を引き取った。

ミナは泣いた。

叫んだ。

喉を潰しそうなほど泣いたが、透の前では一度だけ、首を振った。

「・・・ごめんね。私のための技術を、信じてくれたのに。」

透は何も言わなかった。

その背中に向けて、彼女は頭を下げ続けた。

それでもミナは、すぐに立ち上がった。

心理的な回復は、彼女自身が一番驚くほど早かった。


理由は一つ。

透が作ったこの技術は、確かに不器用だった。

誰も彼も救える万能の奇跡ではなく、たった一人を確実に救う、頑固な数式だった。

ミナは、それで十分だった。

「私は生きてる。覚えてる。だから、あなたの勇姿を忘れない。」

そう言って、ミナは笑った。

透の傍で、台所に立ちながら、何気ない口調で呟いた。

「ねぇ、透。」

「どうかしたか?」

「・・・忘れてたけど、結婚しない?子供も増えたし、式場を軽く作ってさ・・・ふふ・・・。」

「・・・それは名案だな。」

次に泡立つのは、きっとケーキだろう。

それとも、開けるシャンパンかもしれない。

少なくとも、もう彼女の脳が泡立つことはない。

「ん!」

・・・そうでもなかった。

性能が向上した分、彼女の脳はオーバーヒートしやすくなっていた。

考えるだけで頬が熱くなる。

結婚式、ベール、誓いの言葉──そんな光景を想像するだけで、湯気が出そうだった。

その湯気の奥で、ミナは確かに笑っていた。

未来を選んだ者の、柔らかく、あたたかな笑みだった。

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