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イフの箱舟  作者: camel
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――ねぇ、イフ

――僕を一人にしないでくれ


 イフは永久の眠りについたウォルターを冷凍棺に保管した。イフはウォルターと同じ熱情を持ちえない。表情は曇らず、ウォルターのように頬が紅潮することもなかった。しかし、平等に与えていたはずの住人への思いにほんの少しの差ができたことは否めない。一度揺らいだ天秤は傾いたままになる。穏やかな流れを乱したナニカに、イフは抗うことができなかった。

 墓標にウォルター・レイノルズ・ジュニアと登録した。住人が亡くなると、イフは目を閉じ、故人とのすべての記録を頭の中で再生する。たった15秒に圧縮された記録のなかでも、ウォルターの言葉には重い響きがあった。約束を守るためにイフは船内墓地を出た。


 当初、エスペランサは男女百人ずつを収容していた。そのなかでエラーを起こした住人が徐々に減っていく。エラーの種類はほとんどが病死だ。仮死状態でのコールドスリープなら、死にようがなかっただろう。生きたまま運ぶ船には必ず「死」がつきまとう。

 現在、船には6人の目を覚まさない住人が存在する。ホリデー前に長期休眠薬の投与を減らしていっても、目を覚まさない。そのうち3人が女性だった。ベッドに生かされてはいるが、ずっと夢の中にいる。眠らないイフには想像もできない世界の話だ。

 初めに、目覚めることのないその3人の長期休眠状態を解除した。やはり彼女らは覚醒しなかった。次に、一番若い女性のミザリーの身体の状態を検査した。ミザリーの身体はクロエより若く、健康に思われた。そこで、10日間の排卵誘発剤の投与を開始した。薬液は卵巣を刺激し、卵胞を育て始める。(本来、排卵誘発剤は住人の希望で卵子を凍結させるために使用されるものだった。)発育した卵胞に極細の針を刺して吸引すると、10個の卵子が採取できた。その後、卵子の中にウォルターの精子を注入し受精させる。5日で胚は育ち、ミザリーの子宮に胚を戻した。イフの手で受精できるという確証を得た後、残りの2人、サンドラとカーラにも同じ処置を行った。成功率は高くはないと思われたが、3人はほぼ同時期に眠りながら母体へと変化した。たとえ眠りのなかにいても、人は生き物であるかぎり子孫を残そうとするのだ。腹が大きくなった3人を、イフは新しい装置のようだと思った。

 ミザリーは3人、サンドラは4人の子を出産した。一番高齢のカーラも3人の子を宿していたが、死産に終わった。ミザリーとサンドラは母乳も出たので、6人に分け与え育てた。

 6人のウォルターは、「ウォルター・レイノルズ・ジュニア」の後に番号を付けて、正式な名前とした。6番目は女の子なのだが、イフは同じ名前を使った。しかし、3番目のウォルターは病気を持って生まれ、2日後に死亡した。


 イフは平等に、秒数まで均等に分けて、ジュニアたちの世話をしようとした。それでも、3歳になったジュニアたちはイフを取り合い、よくケンカをした。今日、イフは僕と一緒に遊ぶんだとジュニア・ワンは宣言する。すると、「私はイフと昨日おやつを作るって、約束したのよ」とジュニア・シックスが胸を張る。二人は体を押しあったり、おもちゃを投げたりする。それを見たジュニア・フォーが泣き出す。ジュニア・ファイブはそれをイフに伝えに走り、イフが到着した頃には3人が泣いている。ジュニア・ツーはいつも気にすることなく、本を読んでいた。

「ワンが悪いのよ」

「シックスは抜け駆けばっかりするんだ」

「ケンカしちゃダメだって、ぼくはちゃんと言ったもん」

 泣いているジュニアたちと視線を合わせ、イフは穏やかに問いかけた。

「ジュニア・ワンはシックスのことがお嫌いなのですか?」

「きらいってわけじゃないよ。一緒に手を繋いで眠るもの」

「それは素敵なことです。では、シックスはワンがお嫌いなのですか?」

「私もきらいじゃないわ。ワンは一番のお兄ちゃんだから、末っ子の私が怖い夢を見ないようにずっと手を握ってくれているの」

 イフはケンカの発端の二人をまとめて抱きしめた。

「機械の私にはわかりませんが、夢には恐ろしい種類のものもあるのですね。夢の中のあなた達を私は守ることができません。二人がいて、本当によかったです」

「ワンとシックスは、ナイトとプリンセスみたいだね」

 ジュニア・ツーはぽそりと呟いて、本を閉じた。

「ジュニア・ツーは博士のようです」

「イフが電子化されていない書物のお話が知りたいって、96時間前に言ってたから、読んでいただけだよ」

「正確には96時間12分前です」

「346320秒と言ってるうちに346323秒になっちゃうね」

 ジュニア・ツーとイフはよく呪文のように数字を唱える。

「いつもツーが一番抜けがけをしているわ!」

「そうだ!フォーもそう思うだろ!」

「急にふらないでよう」

 ジュニア・フォーはまだ大粒の涙を流している。

「ファイブは?」

「たくさん走ったので、疲れて寝ているようです」

 イフがファイブを運ぶために抱き上げると、残りの4人が騒ぎ出したのは言うまでもない。



 そうして5人のジュニアは兄弟の良好な関係を育んだ。すぐに怒るもの、すぐに泣くもの、その間を取り持つもの、あまり気にしないものなど、性格の違いも見られた。2本の足で立てるようになる早さも、好き嫌いも全て異なる。イフは兄弟の成長を見て、また大きな刺激を受けた。

 ねえ、イフ。ねぇ、イフ。ねぇ、イフ。イフ。イフ……イフは毎日ジュニアたちから名前を呼ばれる。新しい社会が船のなかで形成されていくのを感じた。

「1人にしないでくれ」

 あの約束は守られた。ウォルターは1人になっていない。その種は守られたとイフは考える。ただし、懸念はある。その他の住人の目覚めが近いことだった。彼らはどう感じるのか。人は人を殺せてしまう。幼い子どもも憎ければ殺してしまうかもしれない。そこで仕方なく、ホリデーの予定を10年延期した。ジュニアを生育させるためだった。

 イフ以外の大人との接触を絶つと、ジュニアはイフを母のように、友人のように、そして神のように思い始めた。


 さらに、イフは子供たちに役割を持たせた。体力のあるものには食糧のための農園の管理を、繊細なものには船の清掃や調理を、頭のよいものには暮らしやすくするための研究をさせた。時間をかけて、イフはジュニアとの関係を築いていった。住人からの不満の声もなく、ジュニアたちもイフを愛し尊んだ。イフにはとても穏やかな時間の経過となった。



***

 ブッチの肩をつつくと、映像は一旦停止した。

「愛がイフちゃんを変えてしまったね」

「どうだか。でも、この船の終わりはもうすぐだろう?」

 ブッチはシアタールームを感慨深く眺めている。この映像以外の、ヒトの残り香のようなものをブッチは拾い集めているようだった。イフより、ブッチは感情を理解できる。開発がかなり先の未来であるとしても、ブッチ自身が積み重ねた経験によって、感情の機微を学んだのだ。ブッチは愛を口にする。しかし、イフには新たな情報の供給もなく、閉鎖空間での特異な経験しかない。だから、とんでもない方向に舵を取ってしまったということだろう。

「ヒトとロボットの貴重な記録だな」

「残っている映像はあと少し。続けて見てみる?」

「乗りかかった船、だな」

 古い言葉だねと言い、ブッチは映像を再開した。誰がイフを壊したのか。興味の発端の記録はもう目の前にある。

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