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「ねぇ、イフ」
「クロエ、どうかされましたか?」
クリスマスの翌朝、イフはクロエに呼び止められた。クロエは白く輝くような金色の髪を持つ若い女性の一人だ。イフにヒトの美しさはわからないが、クロエの均整のとれた目鼻立ちは他の住人と比べても群を抜いていると感じていた。イフも技術者の手によって美しい女性の顔に作られていると言えるが、持って生まれた造形美として完成しているクロエには敵わない。年を取らない研究がより進んでいたら、技術者は真っ先にクロエに薬を飲ませるだろう。
「できたら、どうしようかなって」
「お料理でしょうか? それでは、皆さんに振る舞いましょう」
「子どものことよ」
クロエはイフの耳元で囁いた。そこは耳の形にした飾りでしかないのだが、イフは訂正しない。
「赤ちゃんができるかもしれないの」
クロエの小さな声をイフは聞き逃さない。イフはすぐに返事をした。
「残念ながら、長期休眠状態では子供は生まれません」
住民が起きていられるのは限られた時間のみであり、またベッドで眠ると身体の機能はスリープ装置に管理される。胎児を育むことは不可能だ。
「私は子どもを生むのが夢なの」
「どんな夢を見ても構いませんが、あなたはじき眠ります。また、休眠状態での出産は不可能です。あなたが死んでしまうかもしれません」
イフは住人を殺してはいけない。住人の自然死はエラーとして起こったとしても、死亡する可能性を選択してはならない。
「わかっているわ。でも、もしも妊娠したら、この子はこの船の住人になる。住人は殺してはいけないのでしょう?」
「はい、人間を傷付けてはいけません」
「じゃあ、私は眠らないわ。寝たふりをするの」
「ルール違反です」
イフはルールを侵せない。人を増やすと、船のシステムが成り立たなくなる。
「ねぇ、イフ。これは命令よ。子どもを生ませて」
しかし、イフは人間の命令に逆らえないようにプログラムされている。
「この子を育てたいの。決して死なせないで」
「あなたを守ることは可能です」
「いいえ、私じゃない。お腹の子を守って。名前はウォルター・レイノルズ・ジュニアというの」
ウォルター・レイノルズという名前は知っている。エスペランサの住人の一人だ。優しい男でクロエとたしかに親しい間柄のようだった。
「彼が父親なの。生ませないなら、彼を殺して、私も死ぬわ」
クロエはイフを睨みつけた。愛するものを殺して、自分も死ぬ。イフには愛も、クロエの理論も突飛で理解しがたい。ただし、そう言われたら、返事せざるをえない。
「ミスター・レイノルズを殺してはいけません。クロエ、あなたも死んではいけません」
「私は死なないわ。ウォルター・ジュニアを育てなければいけないでしょう」
クロエがレイノルズを殺して、自殺するのは回避したい。答えを出すのに1秒もかからなかった。
「私は命令に従うようプログラムされ、決してあなた方を傷付けることはできません。そのため、クロエ・デイビス、特例としてあなたが起きることを許可します」
「わかってもらえて嬉しいわ」
この日、イフは人間の欲深さを知った。イフは学習し、計算し続ける知能を持っている。だが、エスペランサには新しい情報のアップデートはない。元いた星から遠く離れ通信が途絶えても、イフ自らで未来を予測し、船を安全に保持しなければならない。そう設計された。住人が眠り続けるだけなら、イフに良い影響も悪い影響も起きるはずはなかった。しかし、実際の人間は予想を超えた行動を取る。クロエを容認した。この出来事がイフの知能に悪い意味で刺激を与えていく。
「もしも、ウォルターが女の子ならどうするのですか?」
「それは、今から考えなくちゃね」
クロエの目が細められ、口角がくいと上がった。人間の笑顔を理解したのは起動されて1時間14分後。同じようにイフが笑顔を真似たのはその10秒後だ。そして、イフがクロエの顔を好ましいと認識したのは9125 日後、今このときだった。
クロエは安堵したのか心拍がいつものペースに戻っていた。心臓の動きが人の感情と連動して変わることを理解したのは船に乗り込んだ0.8秒後のことだ。緊張した面持ちで船に乗り込んだ住人をイフは忘れることがない。ホリデーを終えて、皆が眠る日。一時的にチューブに入れたのは睡眠薬で、6時間後にクロエは目覚めた。
14日後にはクロエの妊娠が確定した。クロエが母から教わったデタラメな子守唄をイフに教えると、イフはすぐに記録し同じメロディを二人で歌った。また産着や揺りかごも制作した。精神状態は安定していたが、クロエは帝王切開の最中に出血が止まらなくなった。
また予期せぬエラーだ。クロエの身体は若いと思っていた。けれど、加齢低速薬の投与を繰り返した肉体は想像以上に摩耗しており、出産に耐えきれなかったとイフは結論付けた。
ウォルターは母であるクロエを知らずに育ち、4歳のときにレイノルズと出会った。幸せそうにはにかんで笑うレイノルズだったが、クロエの死に深く悲しみ、ホリデーの最終日に自ら命を絶った。時期を待てば死は必ず訪れるのに、どうして人間は耐えられないのだろう。その数秒の疑問が、イフをまた刺激していく。
イフはレイノルズの情報を新しく墓標に登録し、15秒目を閉じた。船の遺体は冷凍保存する決まりになっている。ヒトのサンプルとして、有用となる。ヒトのあらゆるものを保管することもイフの役割だ。終りゆく人々を記録するのがイフの秘められた任務だった。
***
「ブッチ、再生を停止しろ」
ブッチが頷き、イフの映像が止まった。先程訪れた船内墓地を見るイフの後ろ姿が映っている。この船の電力供給はすでに停止しているので、イフの任務は失敗に終わっている。
「さすがのブッチもヒトが嫌いになっちゃうな。会ったことはないけど、勝手がすぎるよ」
ブッチの嫌いなものは有線接続と最新型ロボットと退屈と動画に挟まるカットできない広告とネコと呼ばれるイヌと対をなす太古の幻想生物くらいだが、今日からヒトも追加したようだ。
「知性ある生物ほど難解なものだよ。賢いのに得にならない行動を起こすことがある。イフのように私にも理解できない生き物は多いよ。蛸足で移動するリンゴという宇宙植物は高い知性を持って、自分から食べられたがっている。食べられたら、滅んでしまうというのに」
変なのと言いながら、ブッチは投影機からコードを引っこ抜いた。
シアタールームから出て、船内墓地に向かった。ブッチは墓標の側面部にある小さなカバーを開けて、中の装置をするりと撫でた。すると、難なく電子墓標の表面に文字が表れた。翻訳機に読み取らせようと端末機を出す前に、ブッチは文字を読み始めた。この船に限って言えば、ブッチが一番役に立つ存在になってしまった。
「クロエママとレイノルズパパの名前がある」
「ウォルター少年は?」
「あった! いっぱい! ウォルターって名前は古代の流行の先端!」
「はあ?」
そうは言ったものの、すぐにブッチは首を傾げた。住人の名前の一致にしては6名と数が多く、また家族構成のデータの元が全てクロエに繋がっているらしい。確かに、画面には同じ文字配列がいくつも見える。ウォルター・レイノルズ・ジュニアが何人もいるということになる。
「ヒトって、同じ名前でも困らないもの?」
エスペランサは少しずつおかしくなっている。ため息をつき、またシアタールームで上映会に戻った。