8.許可
夜の警察署は静けさに覆われていた。
生活安全課のフロア全体が、深い闇に飲み込まれているかのようだった。
薄暗い蛍光灯の光が、年季の入ったデスクや書類の山をかすかに照らしている。
その中で唯一動く影は、部屋の片隅に座っている課長の姿だった。
井灘哲の顔には、長年の疲れが滲んでいた。
きっちりと着こなされた紺色の制服は、彼の几帳面な性格を物語っている。
机の上には<未処理>とラベルの貼られた受け皿が置かれている。
そこに積もる無数の書類は、ひとつひとつが未解決の問題を象徴していた。
古びた時計の針が静かに刻む音は、時効を告げているかのようだった。
そんな彼の手元に、荒々しく書類が投げ込まれる。
視線をあげると古西勝之が立っていた。
ボサボサの髪、剃り残しだらけの顎、くたびれたスーツ。
いつものことだが、改めて目にするとひどい。
片手をズボンのポケットに突っ込み、まるで上司と話す気などないという態度。
目つきも悪く、敬意のかけらも感じられない。
井灘は思わず眉をひそめた。
「君か」
言葉を発する前から、すでに会話が面倒に思えてくる。
古西が来たということは、何か厄介ごとがあるに違いない。
井灘は投げられた書類を<未処理>に入れる。
すると古西は、<未処理>から書類を取り出し、再び彼の手元に置いた。
「わしは忙しいんだ、後から見る」
井灘が<未処理>へ入れようとすると、古西は書類を手で押さえた。
「今見てくれませんかねぇ」と威圧する。
井灘は深いため息をついたあと、目頭を強く押さえ、椅子の背もたれに体重をかけた。
古西の態度はいつものことだが、今この状況でやられるとひどくこたえる。
「問題ばかり起こして、うちの課へ島流しにされたのに、まだそんな態度を続けるのかね」
左遷された者は、組織に従順になるか、組織を辞めるかの二択。
けれど、古西は前の部署と変わらず自由奔放に振舞っている。
異動が不服なのだろう。生活安全課に飛ばされたことをまだ根に持っている。
だが、それは自業自得だ。
井灘は短く息をつく。古西の不機嫌を自分のせいにするつもりはない。
「俺は問題だと思っちゃいませんがね」
「問題だと認識していないのが問題なんだよ。過剰な取り調べ、無許可の独自捜査、上げたらキリがない」
「犯人を捕まえるためには必要な措置だった」
「捕まえればいいってもんじゃない、許可を取り、許された範囲で捜査する。あたりまえのことなんだよ!」
血圧が上がり、呼吸も荒くなり、語尾が強くなる。
「だーかーらー許可を取りに来たんじゃないですかぁ」
古西は涼しい顔のまま、人差し指で書類をトントンと叩く。
こういうところだ、古西の厄介なところは。
空気を読まない。上司の疲れもお構いなし。自分の都合を押し通す。
喉の奥に苦いものが込み上げる。
拒めば、余計に面倒なやりとりが続くだけだ。
仕方ない。どうせ、どこかで折れるしかないのだ。
井灘は書類に目を通す。
「神戸樹……。ああ、芸能人の件か。住居の調査、電子デバイスや通信記録の確認、防犯カメラや公共機関の記録確認、金融取引記録の調査、フルセットかね」
井灘は睨むように古西を見た。「ここまでする動機は?」
「殺人事件だ」
「ほ・う・れ・ん・そ・う。新人の宇枝君でも知っている」
古西は面倒くさそうに、
「孤島で映画の撮影が行われた。だが、島から戻った形跡はない。船長の証言も取ってある。地取りでも帰宅した様子はなく、携帯や財布を含め、荷物は島に置き去りにされていた。おそらく島で殺され、どこかに埋められている。怨恨の線で捜査すべきだ」
「船長に口止め料を渡した可能性も考えられる。それに、身元を証明する携帯や財布を置いて失踪するのはよくある話だ。殺人事件と断定できる要素が何一つない。――いいかね、わしは行方不明者が芸能人だからといって特別扱いはしない」
二人の視線がぶつかり合うが、どちらも引かず睨みあいが続いた。
――元・捜査一課。
その肩書きに未練があるのは明白だった。
生活安全課に回され、行方不明者の捜索などという『地味な仕事』を押し付けられたと感じているのだろう。
納得していない。受け入れるつもりもない。
だから、何でも事件に仕立て上げようとする。
それが殺人なら、なおさら都合がいい。
まったく病気だな、と井灘は思う。
世の中すべてが事件に見える。殺人を追いかけることしか頭にない。
だから、こうして無理を通そうとする。
しばらくして、古西は、
「所轄に捜査協力を要請して頂けませんかねぇ」と、まるでチンピラが絡んでいるかのようだ。
井灘は渋い表情で首を振る。
「殺害現場が目撃されたのかね? 死体が出たのかね? 凶器が見つかったのかね? 事件性が確認されなければ捜査は行わない、君も知っているだろう」
「それじゃあ遅いんだ。偶然白骨死体が発見されるまで待てと言うのか?」
「それが行方不明者の捜索の基本だろう」
井灘は書類の山を叩く。「これを見ろ! 未解決の事案がこれだけある。おまえのカンは、この山を後回しにするだけの根拠があるとでも言うのか!」
彼の声には静かな怒りが滲んでいる。
「だから、その根拠を裏付けるために情報が必要なんだ」
古西は持参した書類をトントンと叩く。
「いくら手柄をたてても君を捜査一課にもどすことはない。素直になったらどうだ?」
「手柄など求めてない。犯人を捕まえる、それが俺の仕事だ」
井灘は冷めた目で古西を見た。
彼の言葉が本心だとは到底思えなかった。
捜査一課への未練がないなら、なぜこうも躍起になる? なぜそこまでして、事件に執着する?
犯人を捕まえるのが仕事だ? それはもっともらしい建前にすぎない。
本当にそれだけなら、もっと違うやり方があるはずだ。
上司に逆らい、組織に噛みつき、周囲を敵に回してまで貫くやり方ではない。
結局、こいつは諦めていないのだ。
息が詰まるほどの睨みあいのすえ、井灘は深いため息をついた。
黙って印鑑を手に取り、書類に押しつけた。
結局、こうなる。
どれだけ理屈を並べても、古西が引くことはない。
説得するのも無駄、押し返すのも疲れる。
最終的には、こうして折れてやるしかないのだ。
判を押した瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
まるで負けを認めたような気分だった。
書類を<処理済み>とラベルの貼られた受け皿へ放り込む。
「次に問題を起こしたら交通課に配置換えだ、いいな」
脅しのつもりだったが、効果があるとは思えなかった。
こいつはどこへ飛ばされようと、結局は同じことを繰り返す。
自分のやり方を変える気などさらさらないのだから。
古西はニヤリと笑うと、感謝の言葉も告げずその場から去っていった。
井灘は椅子の背にもたれ、ひとつ長い息を吐いた。
「まったく、厄介な部下を持ったものだ」