3.ロッジ
孤島に建つ貸ロッジは、長年の風雨を耐えた木造の建物だ。
ロッジの周囲には植物が茂り、鮮やかな花々が咲き誇っている。
遠くからは静かな波の音が絶え間なく響き、薄暗い林の中には、時折、野鳥の鳴き声がこだまする。
室内は木の質感を活かしたシンプルな造りだ。
壁には地元アーティストの絵画や、孤島の自然を映した写真が並ぶ。
柔らかな照明が空間を包み、静けさと温もりを際立たせていた。
夕食後、勇者役の千羽翔哉は木の床に手をつき、肩幅より少し広めに開いた腕で体をゆっくりと沈めた。
深く規則正しい呼吸。筋肉が軋む感覚を噛みしめながら、腕立て伏せを繰り返すたびに胸と上腕に熱が宿る。
「フッ、フッ――」
薪の炎がゆらめき、鍛えられた上半身の陰影を際立たせる。
賢者役の内山幸喜は、ソファーに深く腰を下ろし、脚を組み、手元の台本に視線を落としていた。
知的な印象を受ける瞳は、何かを考え込んでいるようだった。
口は動いているが声は出ていない、おそらく台詞を暗記しているのだろう。
千羽のマネージャーの幹真一朗は簡素なキッチンでコーヒーを淹れていた。
細く注がれる黒い液体が、マグカップの中でゆっくりと満たされる。
湯気がゆらりと立ち上り、ローストの香りが温かい空気に溶けていく。
二つのマグカップを手に取り、その深い色に一瞬目を落とした。
足音を忍ばせながら、彼はソファーに向かって歩くと、磨き上げられた木の床がわずかに軋む。
幹マネージャーは、ソファーの脇に立ち、マグカップをそっとテーブルに置いた。
コーヒーの表面がわずかに揺れ、灯りを受けてきらめく。
台本を読んでいた内山が、コーヒーの香りに気づき視線を上げた。
「ありがとうございます」
幹マネージャーは、彼の感謝の言葉に静かに微笑み返した。
内山はマグカップに手を伸ばし、湯気を立てる熱いコーヒーで喉を潤す。
ロッジは、カップル用の二人で使うタイプから、ファミリー用の四人タイプ、団体用の十人タイプまで、その種類は豊富だ。
彼らは四人タイプのロッジに宿泊している。
重戦士役の神戸樹も同じロッジに宿泊していたが、荷物を残して行方不明となった。
「千羽もコーヒーどう?」
「あ、頂きまーす」
幹マネージャーからマグカップを受け取ると、彼はそっと口へ運ぶ。
「あちっ」
幹マネージャーもソファーに座り、一緒にコーヒーを楽しむ。
ふと窓の外に目を向けた。夕暮れから夜へと変わる、わずかな時間の流れ。
――神戸はどこへ消えたのか。
胸の奥に、言葉にできない寂しさが広がっていく。
「しかし、困ったことになりましたねえ」
常日頃から俳優たちの無茶ぶりに神経をすり減らしている幹マネージャーは大きな溜息をつく。
俳優の中でも優等生である千羽の付き添いということもあり、楽な気持ちで同行していた。
それなのに、まさか事故に遭遇するなど思ってもみなかったのだ。
「幹さん大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
「千羽は優しいねえ。おじさん涙が出てくるよ」
売れっ子俳優を前に、泣く演技をする幹マネージャー。
彼も昔は舞台俳優を目指していたのだ。
「出るのはお腹だけにしてくださいよ」
幹マネージャーは彼の冗談に笑いながら、心の重圧が少しずつ和らいでいくのを感じた。
「――タケオ役、どうするかなぁ……」
「どうするって、神戸さんは別の事務所なんだし、幹さんが悩む事じゃないですよ」
「職業病みたいなものさ。どうしても……ね、考えてしまうんだ」
「プロデューサーがキャスティングディレクターを兼任してるんでしたよね。なら、あの人に任せればいいんですよ」
「磐田さん、か……」
幹マネージャーの目には、一種の怯えともとれる感情が見え隠れする。「千羽、出る杭は打たれると言うだろ。あの人に逆らえる人は銀幕の世界にいない、お願いだからたてつくのは避けてくれよ」
逆らってはいけない人間が業界にいる。それは長年芸能界で仕事をしてきた彼は痛感していた。
「敏腕プロデューサーって噂は聞いたことあるけど、なぜそこまで警戒してるんです?」
幹マネージャーは、しばらく言葉を飲み込むように黙っていた。
彼の顔には微かな戸惑いの色が浮かび、言おうかどうか迷っている様子があった。
――千羽のために話しておいたほうがいいよなあ……。
幹マネージャーは、内心で決心を固めると、深呼吸してからゆっくりと語り始めた。
「スポンサーに喜ばれるプロデューサーはどんな人だと思う?」
「もちろん、超大作や大ヒットを手がけたことのある人でしょ」
幹マネージャーはゆっくりと首を振る。
「万馬券を買う投資家はいない。アベレージでプラスにするなんて持論は、ばくち打ちの言い訳なのさ。その点、磐田さんは常に八十点を出す。投資の回収を保証できるから、スポンサーからの信頼が厚い。手堅い投資信託の商品を紹介できるからこそ、大物とのつながりが強いわけさ」
「なるほど、つまり安定感があるってことか」
千羽は腕を組みながら頷き納得している。
「そのとおり。俳優事務所は地面に頭をこすり付けてでも、彼に俳優を売り込みたい。音楽レーベルは主題歌を歌わせたがるし、出版社は自社コンテンツを映像化して欲しい。――彼の周りには常にカネと欲望が渦巻いているわけさ」
「監督や俳優、脚本家なんて、みんな交換可能なパーツってわけか、あ~嫌だ嫌だ」
千羽は呆れた様子を見せた。
幹マネージャーは、そんな子供っぽい彼を見て――若いなあ――と思いながら微笑んだ。
「そう思うかもしれないけど、彼はそのパーツをうまく組み合わせて、確実に成功させる手腕があるんだ。だからこそ、誰もが彼と仕事をしたがるんだよ」
「僕には嫌な奴にしか見えないけどね」
幹マネージャーは、ふと真剣な表情になる。
「――けどね、巨匠と呼ばれる大束監督を引っ張り出してきたのは予想外なんだよ。監督ほどの大物になると、プロデューサーに媚びたりしない。逆にお願いされる側の立場なんだ」
「<売れない映画は撮らない>。有名な台詞ですからね。大束監督がメガホンを握るから事務所としてもこの仕事を受けたんですよね?」
「そうだよ。成功が約束された道に俳優を乗せるのが我々マネージャーの仕事だからね。――こう言っては何だけど、社長なんて台本を読まずにこの仕事を受けると決めてしまったほどだよ」
「社長ひどい!」と言いながら千羽はケラケラと笑った。「けど、まあ、僕は、仕事を選ぶのは二流俳優のわがままだと思っていますからね。与えられた仕事に向き合い、1パーセントでも作品を良くする。それだけを考えて演技をしていますから」
千羽は優しい笑顔を浮かべたまま、コーヒーを一口飲んだ。
黙って話を聞いていた内山は眉をひそめた。
「さすが超売れっ子俳優、言うことが違うねえ。言葉の端々に余裕が伺える」
「あっ……」千羽は、喉の奥がひゅっと縮こまる。「内山さんのことを言ったつもりはないのだけど、気分を悪くしたのなら謝るよ」
内山の表情が硬くなるのを感じた千羽は、息苦しさを感じる。
「勘違いしないでくれ、別に怒ったわけじゃない。――置かれている状況に、いや、不甲斐ない自分自身に憤りを覚えただけだ。――与えられた仕事か……、そもそも売れない俳優は仕事がないんだよ。選ぶチャンスすら与えられない。おそらく千羽さんは経験したことがないからそんな言葉が言えるんだ」
彼の落ち着いた声には、悲しみに似た感情か隠れていた。「映画俳優は出演した映画が失敗しても懐が痛むことはない。けれど舞台は別だ。――チケットノルマが課せられ、動員数が報酬に直結する。アルバイトをしながら舞台俳優をこなしている人もざらにいる。一芝居一芝居が生活を左右するんだ」
内山は心の奥底で湧き上がる無力感を抑え込むように唇を噛んだ。
この映画が人生の分岐点となるかもしれない、そう予感していた。
映画とは企画から始まり、様々な段階を経て上映までに数年を費やす。
若い俳優にとって二十歳は正念場なのだ。
この映画がボツになると、次の現場では若手俳優として迎えてもらえない。
そんな恐れが彼を焦らせていた。
「内山さんだって売れてるじゃないか。よく名前を耳にするよ」
「よしてください幹さん、慰めはかえって相手を惨めにするんですよ。――映画俳優と舞台役者。どちらも演技をする者だけど天と地ほどの差があるなんて常識じゃないですか」
「確かに。知名度という点においては差があるのは否めない。けど、大束監督が君を推したと私は耳にしている。それは演技という点においては差がない、むしろ演技が評価されて抜擢されたと判断していいと思うけどね」
幹マネージャーの言葉に誇張はない。
内山の演技力は確かに評価されている。けれど所属事務所が弱いせいもあり、仕事に恵まれていないのだ。
内山は幹マネージャーの言葉を聞き、苦笑いをした。
「ハハッ、まさか他の事務所のマネージャーに慰められるなんて予想外だ。――でも、ありがとうございます。救われた気分になりました」
幹マネージャーはスーツの内ポケットから名刺入れを取り出すと、
「もし事務所を移籍するなら私に声をかけてくれ」と言いながら内山の前に名刺をそっと置いた。「有能な人をスカウトすると私の評価があがるんだよ」
他事務所の所属タレントを引き抜くのは、業界ではあまり褒められたやり方ではない。
けれど、移籍を迷っている人に手を差し伸べるのは良しとされる暗黙のルールがある。
「僕も、内山さんが来てくれるなら大歓迎だ! あ、でも、僕の仕事は取らないでくださいよ」
女性ファンを魅了する人気俳優の輝く笑顔は、同性に対しても効果があるようで、内山は照れくさそうに頭をかくのだった。
「――それにしても神戸さんはどこへ消えたんでしょうね」と言い終えると千羽はコーヒーを飲む。
「異世界に行ったんでしょ?」
「えっ、幹さん信じているんですか?」と、千羽は目を大きく見開いた。
「だって他に考えられないじゃないか。喜岡さんの説明も納得できたし。――異世界かぁ~、どんな所なんだろうね。言葉は通じるのかな? まあ、コミュ力の高い神戸さんならどこへ行ってもうまくやれるだろうけどね」
幼い頃に憧れた冒険物語を思い出したように、異世界への想像に胸を膨らませていた。
役者を志している人は、少なからずフィクションの世界に憧れを抱いている。
自分の人生とは別の世界だからこそ魅力的に感じるのだ。――千羽のように現実主義で、役者を仕事と割り切っている人もいるのだが。
内山は心配そうな表情になる。
「若い子に騙されないでください。喜岡さんはバラエティー番組で鍛えられている子ですよ。生き馬の目を抜くアイドル業界で、ひな壇の前に座るためなら奇抜な発想じゃないと生き残れない。咄嗟に思いついたアイデアで注目を集めることに関しては彼女はプロですよ。道化を演じるのは彼女たちの処世術なんです」
幹マネージャーは自信ありげな態度を見せた。
「もちろん知っているさ。あの子はアイドルとしてバカな子を演じているけれど、頭の回転は速く、常識もある。そんな彼女が、ファンや観客のいない場所で、本気で異世界の話をするだろうか。――私は人を見る目があると自負している。彼女はウケ狙いじゃなく、本心から異世界が存在していると信じているね」
千羽は大袈裟に首と手を振り否定する。
「いやいやいやいや、ないない、ありえない、異世界なんてあるわけない。彼女は原作を読んでいるぞって皆にアピールをするために事故を利用したんだ。不思議チャンキャラで売り出そうと画策してるに違いない」
幹マネージャーは口元を歪め、含みのある笑みを浮かべた。
「なんだかなあ。いつも優しい千羽にしては、彼女にだけは随分と手厳しいじゃないか。まさか……」
千羽は焦りを含んだ表情になる。
「幹さん、変に勘繰らないで下さいよ! ちょっと、内山さんも黙っていないで、何とか言ってください」
「喜岡さんカワイイし、お似合いだよ」
内山はニヒルな笑みを浮かべる。
「ちがぁ~う、異世界のことですよ」
「あ、そっちか」内山は肩をすくめ、低く笑う。「俺は、異世界について否定も肯定もしない。昔の人は宇宙を知らなかった。けど、化学が進歩して宇宙は現実となる。科学がさらに進歩すれば異世界が証明される未来だってあるかもしれない。――千羽さん、否定は何も生み出さないよ」
千羽は激しいショックを受けて固まる。
「異世界信じてないのは僕だけぇ? じゃ、じゃあ、内山さんも神戸さんは異世界に行ったと思っているんだ」
内山は少し考えると、
「それについては明日、皆さんの前で俺の考えを聞いてもらうつもりだ」
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一方その頃、隣のロッジでは花の香りが漂い、楽園のような光景が広がっていた。
美の女神に祝福されたかのような女優、狩人役の石河優唯は、エレガントなワンピースタイプの寝間着を身に纏っている。
淡いブルーの生地は、その落ち着いた表情と調和し、動くたびに柔らかく揺れた。緩やかにウエストをなぞるラインが、自然な美しさを際立たせていた。
彼女の長い黒髪は肩にふんわりと流れ、その穏やかな雰囲気はまるで絵画の一部のようであった。
彼女はベッドに仰向けに横たわり、顔にはリラックス効果のあるパックシートを貼りつけている。
その隣で、マネージャーの岩見愛花は、石河に優しくマッサージを施していた。
彼女は熟練した動きで、石河優唯のすらりと伸びた長い足を、オイルを付けた手で丹念にほぐしていく。
岩見マネージャーは、お風呂上がりの濡れた頭にタオルを巻き、とても無難で無個性な薄いグレーのトップスとパンツの寝間着を着ている。
暖かな灯りが二人のシルエットを柔らかく照らし、部屋には静かな安らぎが広がっていた。
「優唯~、お願いだから磐田プロデューサーに意見するのは避けてくださいね」
すこし愁いのある震えた声で岩見マネージャーが懇願する。
二人は年齢が近い。
今をときめく石河優唯に対し、彼女は常に引け目を感じていた。
石河が彼女をいじめているという噂が囁かれるのは、岩見マネージャーが極端に委縮しているのが原因であった。
けれど、二人の仲は他人には推し量れない強い絆で結ばれている。
パックを顔にのせ、目を閉じたまま、石河は口を尖らせる。
「磐田さんと対立しても私に益がないことぐらいわかっているわ。けど、自分の意見を相手に伝えなければコミュニケーションはとれないでしょ」
「でもっ、でもっ、正しい意見が全て受け入れられるとは限りませんから」
演技に妥協を許さない石河は、現場でスタッフと衝突することがある。
石河が強い態度で正論をぶつけ、相手を怒らせると、後から岩見マネージャーが泣いて謝る。それが二人のコンビネーションだった。
「正義は勝者にある」
パックの下は見えないが、誇らしげな表情を浮かべているのが伝わった。
「誰の言葉ですか?」
「私よ」
「もぉ~優唯~。せめて撮影ではおとなしくしてくださいね」
「撮影? できるわけないじゃない。残り七日間はゆっくりと羽を伸ばすわ」
そう言いながら、石河は腕を天に向けて伸ばす。「ショッピングモールがないのが難点ね、どうやって暇を潰そうかしら」
「待って、待って、明日も撮影でしょ?」
困惑する岩見マネージャー。けれどマッサージの手は止めない。
「タケオを削るなんてありえない。そんなの、物語の骨を折るようなものよ。――勇者の必殺技は使えなくなるし、勇者とヒロインの恋愛を後押しするのもタケオ。最終決戦でパーティーをかばって死ぬシーンとか、観客を感動させる一番の盛り上がりじゃない。――霜野さん、今頃ノイローゼで倒れてるんじゃないかしら」
「縁起でもないっ!」
岩見マネージャーは手に力をこめて足を掴む。
「イテテテ。――でも、実際問題、撮影を続けたとしても映画が公開されることはないでしょうね。原作の改編について世論は厳しい目を向けているわ。原作者が監修したならいざ知らず、脚本家が勝手に修正したシナリオを赦すはずがないでしょ」
岩見マネージャーは、より一層厳しい表情になる。
「その問題を納得させるだけの権力を持っているのが磐田さんなの。出版社に圧力をかけて連載を終了させたり、お金を積んで原作者を納得させたり、手はいくらでもあるわ」
「磐田さんは政治家なの? ヤクザなの?」
「両方よ。どちらにも太いパイプを持っている。だから誰も、あの人に逆らわないの。――ね、お願いよ、磐田さんと対立しないで」
「も~、わかったわ、なるべく静かにする」
「なるべくじゃなくて~、も~、お願いよ~」
岩見マネージャーは、マッサージをしていた手の動きを急に激しくした。
「くすぐったいっ」
石河は笑いながら身をよじった。
僧侶役の喜岡麻結は、部屋の隅でヨガマットの上に座り、ストレッチをしながら、体を引き締めるためのエクササイズを続けていた。
動物のキャラクターが描かれた寝間着は子供っぽいデザインだが、彼女の愛らしさも相まって、よく似合っている。
会話を黙って聞いていた喜岡は、ストレッチをやめ、顔からパックシートを剥がし、ベッドの上に座る。
「お二人は映画の撮影に賛成ですか? 反対ですか?」
岩見マネージャーは真剣な表情を見せると、
「マネージャーとしては、優唯に危険の及ぶような撮影には反対です」
いつものオドオドした感じではなく、きっぱりと言い切った。「もし優唯が、爆発に巻き込まれていたかもしれないと考えると、怖くて、怖くて……」
惨状を想像したのだろう。彼女は下を向き、辛い表情を浮かべながら、「本心では今すぐにでも島から出たいです」と呟いた。
その悲壮感は、周囲の空気を重くした。
石河優唯は上体をおこし、顔からパックシートを剥がした。
岩見マネージャーを抱き寄せると、優しく頭をなでる。
「私は女優。どれほど優れた敏腕プロデューサーだろうと、演技に口出しさせない。それよりも巨匠大束監督の映画に出られる栄誉のほうが大切。――もし監督が撮影すると決めたのならそれに従うわ」
彼女の態度には一片の迷いも感じられない。「けれど、どこか監督の様子がおかしい感じがするのよね。上の空みたいな……。それに、撮影スタッフも、モチベーションが低いというか……。噂に名高い<大束スタジオ>だとは思えないのよね。――業界一のプロフェッショナル集団だと聞いて楽しみにしてたのに」
<大束スタジオ>とは、大束監督を代表とする事務所で、並川助監督や技術スタッフや撮影スタッフなど、超一流が集結していた。
「優唯! それ、絶対に言っちゃダメですからねっ!」
「わかってるわよ、もぉ~」
二人の話を聞いた喜岡は、ふうと一息吐いた。
「私は、異世界モノの小説が大好きです。何冊も何冊も読んで、未知の世界に思いをはせて、活躍する主人公たちに共感しました。そして、愛してやまない原作の映画に出演が決まったんです。何があっても、どんな事故がおきても、絶対に映画は完成させてみせます」
彼女の瞳には、覚悟と信念の炎が燃え盛っている。「石河さん、岩見さん、映画を完成させるために、私に協力してください」
石河は怪訝そうな表情になると、
「協力?」と聞き返す。
「タケオの削除を阻止して、元のシナリオで映画を作るんですっ!」
気落ちしていた岩見マネージャーは、カッと目を見開き、酷く狼狽する。
「あなた、私たちの会話を聞いていたんでしょ? 磐田プロデューサーに逆らうとどうなるか。事務所をクビになりたいわけ?」
石河は、こんなに焦っている彼女を見たことがない。
喜岡は、不安など感じさせないほどの笑顔を浮かべる。
「クビ? 気にしません。私、この映画が完成したら、映画の世界へ転移するんですっ! ――愛する作品に出演し世界は流転する。聖女と称えられ民に癒しを与える存在、それが私。異世界転生のパターンはまだいっぱいあるんですよ。悪役令嬢のゲーム世界に入ったり、本の世界へ入ったり。どこにだって転生できるんですからっ」
岩見マネージャーは――何言ってるの、この人――と、本音が口からこぼれそうになる。
「あなた気は確か?」
石河は遠慮という言葉を知らないようだ。
「ちょっと、優唯! オブラートに包んで!」
岩見マネージャーが慌てて口を押さえようとするが、その手を石河はペシッと叩き落とす。
「あなたが事故をおこした張本人じゃないかって推理してたのよね。異世界なんて突拍子もないこと言い出すなんて、事故を隠蔽したい思惑があったからでしょ。神戸さんを捜索されると困るから、話を逸らすため、わざと話を大袈裟にしたんだわ」
「石河さん、頭、大丈夫です?」
挑発しているわけではなく、本気で相手のことを心配している表情でたずねている。
「人がひとり失踪しているのよ。これは事故じゃなく殺人。犯人は必ずいる」
喜岡は悲しげな表情になると、
「映画の完成を誰よりも待ち望んでいる私が、事故をおこして現場を混乱させるはずがないじゃないですか~」
「えっ?」
石河は足元が揺らいだ感覚に襲われた。
「映画俳優ってやっぱり作品に影響されるんですね。単なる事故を殺人とか犯人とか。それ、職業病ですよ。殺人事件なんて殆どが包丁での刺殺なんですから。複雑なトリックを使うのは推理小説を盛り上げるための舞台装置でしかないなんて、俳優じゃない私でも知っています。現実と非現実を混同するなんて重症ですね。いちど心療内科を受診することをお勧めします」
石河は、自分こそが常識という舞台の上に立っているはずだった。
しかし、彼女の意見を聞くうちに、実は自分の方が間違えているのではないかという不安が胸をよぎる。
石河の首から力が抜け、目の焦点が定まらない。
岩見マネージャーは、そんな彼女の変化を見逃さない。
ポーチに駆け寄り、中から小型のスプレーとコットンを取り出した。
そして、コットンにスプレーの液を染み込ませ、石河の顔をペシペシと軽く叩き始めた。
「優唯~、大丈夫ですよぉ~っ。あなたは間違えていませんよぉ~っ。あなたは完璧な女優です。はぁ~い復唱してください、私は女優」
「私は女優」と、弱々しく答えた。
「私は無敵」
「私は無敵」
「私は正しい」
「私は正しい」
「はいっ、女優は肌が命。夜更かしは天敵です。さあ眠りましょう」
岩見マネージャーは石河の後頭部を支えながら、ゆっくりと上体を倒すと、自然と彼女のまぶたは閉じられる。
見てはいけないものを見てしまった恐怖に震える喜岡。
「岩見さん、あなた、いったい……」
「私は優唯のマネージャー。心身ともにケアするのが仕事です。もし、今の出来事を誰かに話したら、私はあなたを殺します。いいですね? これは脅迫であり殺害予告です。あなたの望み通り、私が、あなたを殺して、異世界に転生させてあげますよ」
彼女の声からは感情が読み取れなかった。それはまるで機械の合成音声のように、体温を感じさせない冷たさがあった。
「本気、なんですね?」
岩見マネージャーはにやりと微笑んだ。
「優唯は私の命そのもの。決して誰にも傷つけさせない」
喜岡は緊張で溜まった生唾を、ごくりと飲み込む。
「わ、わかりました。言いません、誰にも話しません、もう忘れました、神に誓います、赦してください」
そう言いながら、ベッドの上で土下座をした。
「さあ、私たちも寝ましょう」
喜岡は恐怖のあまり、八時間しか眠れなかったのだった。