28.別荘
黒い乗用車が、静かなカーブを描きながら細い山道を進むと、夕暮れの光に包まれた別荘が姿を現した。
軽井沢の冷えた空気に包まれたその建物は、長い年月を感じさせる古びた木造り。
しかし、手入れは行き届いており、ひとつひとつの窓枠や扉に至るまで、持ち主の几帳面さがにじみ出ている。
空は薄曇り、灰色に沈みかけた雲の切れ間から、わずかに夕陽が漏れ、金色の斜光が別荘の屋根をかすかに照らしていた。
車のエンジン音が止むと、あたりは一層静まり返った。
空気には湿った土と枯れ葉の香りが漂い、冬の気配がすぐそこまで迫っていることを告げている。
古西は助手席のドアを開け、重たい足取りで外へ出た。
コートの襟を立て、冷たい空気を深く吸い込む。
その視線は、別荘の重々しい玄関扉に向けられる。
「うわっ、寒っ!!」
運転席から降りた宇枝は、首をすぼめて厳しい寒さに耐えている。
二人は玄関に続く階段を上がる。
靴の下で木の板がわずかに軋む音が、妙に耳に残る。
ライオンの顔をした真鍮のドアノッカーが玄関ドアを守っている。
――ゴンゴン、ゴンゴン。
数回鳴らすと中から声が聞こえる。
「はい」
玄関ドアが開くと、そこには映画監督の大束昭雄が立っている。
「大崎署の古西、こいつは宇枝。お話を伺いにまいりました」
「覚えているよ、どうぞ」
ゆったりとした、落ち着きのある声で、監督は二人をリビングへ招き入れた。
古い洋館特有の重厚な空気が漂っていた。
分厚いカーペットが足音を吸い込み、天井の高い空間には薄暗い陰影が揺れている。
壁を覆うのは深い色合いの木製パネルで、そこに古びた油絵や写真が飾られている。
暖炉では火が赤々と燃え、薪がはぜる音が微かに響いている。
暖炉の前に置かれた重厚な革張りのアームチェアに、大束監督が静かに座る。
「悪いが歓迎はしない。用件を済ませて速やかに帰ってくれ」
「それはあんたの返答しだいだ」
監督は溜息を洩らすと不機嫌な表情になる。
「<大束スタジオ>のスタッフが逮捕されたのは知っていますね」
「ああ」
「今のところ十二人が犯行を自供しました。撮影時に神戸さんを助けようとしたスタッフたちです。――どう思いますか?」
「世間を騒がせて申し訳ないと思っている」
監督の態度に変化はなく、何を考えているか読めない。
「そうですか……。ところで、逮捕されたスタッフは、なぜ犯行に及んだのでしょう?」
「私にはわからないな」
「神戸の態度が気に入らない。磐田の暴言が許せない。他にも色々――動機が曖昧で統一性が無い。――どうしてでしょうね?」
古西は覗き込むように監督の顔を眺める。その視線は、どことなくバカにしているようだ。
「知らないと言っている」
「では、別の質問をしましょう。監督は<売れない映画は撮らない>らしいですね」
「マスコミが勝手に騒いでいるだけだ。わたしは言った覚えはない」
「では、<レジェンドファンタズム>は売れる目算があったのですか?」
「当然だ」
彼の言葉に、僅かだが苛立ちの色が見える。
「そこにいる宇枝は、原作を読んだらしく、ゴミだ、愚作だと、散々貶していましたよ」
「そこまで行ってませんけど?!」
彼女は自分の発言が改編されることが許せないらしく、頬を膨らませている。
監督は黙ったまま暖炉の火を眺めている。
「監督は<レジェンドファンタズム>の撮影に乗り気ではなかった。俺はそう考えているんですが――どうですか?」
「勝手な憶測は失礼だろう」
「そうでしょうか。石河さんが舞台挨拶で言ってましたよ。『本来の力を発揮すれば、もっと素晴らしい作品を作れる』とね」
「買い被りに過ぎん」
「しかし、『監督は悪くありません』とも言っている。矛盾してますよね」
「知らん」
「演技に妥協を許さない女優の心の叫びだと感じたのですが――どうですか?」
監督は喉に何か詰まらせているような表情をしている。
「お話して頂けませんか……。それじゃあ仕方ない。――咲良彩寧さん、ご存じですよね?」
監督はガバッと古西の顔を見る。
別荘に来て、初めて感情が伝わる表情を見せた。
くちびるをわなわなと震わせ、何か言おうとするが、声にならない。
「監督のお孫さんですよね」
「それが何だ」
「神戸さんに盗撮趣味があるの、ご存じですか?」
監督の目が突然見開かれ、顔色が一瞬で青ざめる。
椅子から腰が浮くほど体が反応し、古西から視線をそらした。
「ご存じなかったようですね。――やはり、監督を脅迫したのは磐田さんですか」
監督は、浮いた腰を椅子に沈め、力なく背もたれに体重をあずけた。
「お話、聞かせてください」
しばらくすると、監督は重い口を開いた。
「君の考えているとおりだ。<レジェンドファンタズム>の原作を読んだが、売れるとは到底思えなかった」
「はい」と、古西は聞き役に専念する。
「私は巨匠と呼ばれているが、それほど優れた監督ではないのだよ。――たまたま二本ほどヒット作を連発したせいで、マスコミが過度な報道を始めた。あれが発端だ」
監督は疲れたように息を吐く。「観客の期待は高まり、それと比例するかのように私の肩にプレッシャーが重くのしかかる。まるで拷問だ。――それでも逃げるわけにはいかない。優れた俳優、優れた原作、優れた脚本家。可能な限り優れたスタッフで固め、撮影に挑んできた」
彼は悲しそうな表情になる。「私など、優秀なスタッフのおかげで、なんとか監督を続けられたに過ぎないのだよ。――それなのに、あいつは私に説教をしたんだ。私を卑怯者だと罵り、自分の力で挑戦しろと煽ってきた」
「それで?」と、古西は優しく語り掛ける。
「正直、耳が痛かった。――あいつに反論する気さえ起きなかった。だから映画の件は断ったんだよ」
監督の表情に怒りの色が見え始める。「そしたらあいつは孫の写真を私に見せ、映画を撮れと脅してきた」
「人には見せられないような写真だったんですね」
「そうだ。――断るという選択肢を奪われてしまった。観客には悪いが腹をくくるしかなかった。それなのに……」
監督は眉間にしわをよせ苦しそうだ。
「どうしたんですか?」
「神戸君が消え、あいつも消えた。私にはわけがわからない。なぜ彼らは二人を消したのか……。どうして喜岡君や千羽君を襲ったのか……。刑事さん、理由を知っているのなら教えてください」
「監督が四人を襲わせたんじゃないの?!」
我慢していた宇枝が口を滑らせてしまう。
ハッと驚いた表情になり、慌てて口を押さえ、失言したと後悔する。
監督は苦々しく笑う。
「お嬢さんは、私が命令したのだろうと推理していたのかな? それは違う。私は酷評を受ける気でいたんだ。監督人生をリセットしたいと考えていたんだよ。あいつの提案は、ある意味チャンスだと喜んでさえいた」
「私にはわかりません……」
宇枝の目から疑いの色は消えていない。
「情けない話だが、言い訳を探していたんだ。――質の悪い原作だから失敗したのだと。巨匠と呼ばれている監督でも、失敗するのはあたりまえなんだと、観客に理解してほしかった」
そう語るのは、神々しいまでのオーラを放っていた巨匠ではなく、年老いたひとりの男性だった。
「私もSNSの書き込みは読みました。半分くらいは監督を応援してましたよ。――監督の思い、ファンに伝わったんじゃないかなあ」
宇枝の言葉は、弱り切っている老人を労わりたいという純粋な気持ちだった。
監督は辛そうに目を閉じて語る。
「でもね、残り半分の酷評に私の目は奪われたんだ。慰めの言葉、応援の言葉、感謝の言葉、それらよりも、人を傷つける言葉は、何十倍も力強く私の心を切り刻んだんだよ」
「そうか! だからスタッフたちは映画を中止させたかったんですね!」
「え?」
監督は目を開くと宇枝を見る。
「監督よりも若い人たちはSNSの怖さを知っているんです。汚い言葉で監督が傷つくのが見たくなかったんですよ」
しらばく沈黙が続く――。
監督は片手で顔を押さえる。その指はわずかに震えていた。
「そう、か……、そうかも、なぁ……。ずっと褒められ続けてきた私では、耐えられないと思われてしまったのか……。なるほど、それは私の罪だ。弱い私が招いてしまった悲劇だったんだな」
古西は、酸っぱい梅干しを食べたような表情で、宇枝を睨む。
――どうしてそこまで老人を追い詰めるんだ!
彼は心の中でそう叫んでいた。
宇枝は爽やかな声で言う。
「なに言ってるんですか! スタッフに愛されている証拠ですよっ! 大切な人だからこそ全力で守りたかったんですよっ!」
「お嬢さん……」
監督は感動で目に涙を浮かべている。
「でも、手段は最悪ですけどね。殺人ですから」
「おいっ、小娘!!」
マジで怒る古西。
「小娘言うなっ!」
なぜ怒られたのかわからない宇枝だった。