表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/31

22.承認不可

 夕日がオレンジ色に染まりながら、ビル群の隙間へと沈んでいく。

 都会の喧騒は次第に静まり、夜の帳がゆっくりと降り始めていた。

 歩道では、足早に帰宅する人々が行き交っている。


 生活安全課のオフィスでは、変わらぬ業務が続いていた。

 ブラインドの下りた窓の隙間から漏れる光が、わずかに室内へ温もりを添えている。


 課長の井灘哲(いなだてつ)は、いつものように書類整理に追われていた。

 疲れた目で書類の文字を追い、承認欄に印を押す。老眼の彼には辛い仕事だ。

 そんな彼の手元に、乱暴に書類が投げ込まれる。

 視線をあげると仏頂面の古西勝之(こにしかつゆき)が立っていた。


 彼とのやり取りで時間を無駄にしたくない井灘は、処理中の書類は一旦保留し、古西の書類に目を通す。

「住居の調査、電子デバイスや通信記録の確認、防犯カメラや公共機関の記録確認、金融取引記録の調査。なるほど、それで、この加治勇輝(かじゆうき)とは誰だね?」

「重要参考人だ」


 井灘は、深くて長いため息をゆっくりと吐く。

「報連相が――」

「課長! 私から説明します」

 古西の後ろに隠れるようにして息を潜めていた宇枝怜菜(うえだれいな)が顔を覗かせる。


「行方不明者の磐田と神戸は映画の撮影中に姿を消しました。アイドルの喜岡はライブ中にライトが落下し負傷。事故原因は遠隔操作によるものと判明しています。そして俳優の千羽はバイクにひき逃げされました。二人とも映画の撮影に参加しています。四人には何らかの繋がりがあると見ています」

「それで?」

「ひき逃げ犯は被害者と衝突したさい、左腕を負傷しました。映画関係者の中に負傷した者がいないか確認したところ、ひとりだけ行方がわからない者がいました。それが加治です」

「だから何だ?」

「ですから、加治が行方不明者と傷害事件に関与している疑いが――」


 彼女の話を最後まで聞かず、井灘は激しく机を叩いた。

「おまえたち、捜査一課にでもなったつもりかっ!」

 その一喝が、オフィスの空気を凍りつかせた。


 キーボードを叩く音がピタリと止まり、数名の警察官が手を止めて顔を上げる。

 誰もが息を潜め、目を合わせることすら避ける。


 宇枝は驚き、一歩後退する。

 しかし、古西は毅然不動の態度で、井灘を正面から見据えた。


「負傷した被疑者を探すだと? それは交通課の仕事だ。おまえたちのやっていることは越権行為に他ならないっ!」

 井灘の声が怒りで震える。「交通課で働く同僚を、わしは信頼しているし、誇りに思っている。――だが、おまえたちはどうだ。同僚の力量を疑い、プライドを傷つけ、捜査の邪魔をしているのだよ」

 一息つくと、静かにだが力強く話しを続ける。「アイドルの事案もそうだろう。所轄が捜査を続けているはずだ。――なぜよその仕事に横槍を入れる? どうして任せておけない? 彼らを信じられない理由はなんだ?」

 ゆらりと首を振る。「わしにはおまえの考えが理解できない。何の証拠もなく、単なるカンだけで暴走する。――おまえが突き進む先に、何が待ってると思ってるんだ? もし誰かが巻き込まれたり、無駄に時間を使ったりしたら、その責任はどう取るつもりだ?」


 井灘の手が、机上でわずかに握りしめられる。

 キャリアを積み重ねてきた自負はある。

 だが、それと同じくらい強く、失敗に対する恐れもこびりついている。

 一つの判断ミスが、これまで築き上げてきた地位を簡単に崩す。それが組織というものだ。

 規律から外れる者を許せば、上からの評価は急落する。

 その冷酷さを、誰よりも知っていた。

 この職を守ることは、ただの自己保身じゃない。

 背負っているものの重さを、他人に理解される必要はない。

 井灘は少し息を整えると、冷たく付け加える。

「おまえは他人が見えていない。いや、視界に入れてすらいない。――おまえが失敗すれば責任を取るのはわしだ。他の署に迷惑をかければ責任を取るのはそちらの担当者だろう。おまえが見ているのは犯人だけなんだよ。それが、どれだけ周囲を混乱させているのか知ろうとさえしない」

「ですが、これほど立て続けに映画関係者が事件にあうのは、関連性があると見るべきでは」

 宇枝は声の震えを堪えながら、なおも意見を述べる。


 ほんの少し前なら、こんな状況で口を開くことすらできなかった。

 だが、古西の背中を見続けてきた弊害だ。


 課長は彼女を見ずに首を振るだけだ。

「おまえのせいで宇枝くんまで暴走を始めている。私の心証も悪くなっている。もうキャリアは望めないだろう。おまえは彼女の人生にどう責任を取るつもりだね?」

「こいつはそんなに軟じゃない。もし責任を取れと言うのなら嫁に向かえますよ。そんなことより、今は、捜査の許可をお願いしますよ」

 古西は机の上の資料を指で叩く。


「まだ言うのかね。――おまえは神戸の自宅を捜査すれば、殺人事件を立証するだけの根拠を証明できると豪語したな。その結果を報告する前に、さらに、無関係な者の家宅捜査を許可しろだぁ? そんな身勝手が通用するわけないだろう」

「関係者は全て洗う。捜査の基本だ」

「それが捜査一課のやり口かね? だが、ここは、生活安全課なんだよ。おまえは行方不明係だ、いつまで一課気分でいるつもりだね?」

「縦割り組織は専門分野では確かに優れている。もちろん同僚の捜査能力を疑っているわけではない。しかし、誰かが横の繋がりを意識しなければ見落としが生まれる。違うか?」

「御託を並べているが、要は好き勝手に捜査がしたいだけではないか。――組織の歯車が枠から外れると機能不全が生じる。そんな歯車をもとの位置へ戻すのがわしの役目だ」

「いつも同じ位置で回り続ける歯車では、世の中の変化に対応できない。事件解決のため、歯車の位置を柔軟に調節する。それがあんたの役目だ」


 井灘は古西の持ってきた書類を、彼の胸元に叩き付けると、

「出ていけ!!」と、部屋に響き渡る声で吠えた。


 古西は肩で風を切りながら無言で部屋から出ていった。

 息を殺していた警察官たちは、冷ややかな視線を課長へ向ける。






 廊下を速足で歩く古西に、宇枝が追い付く。

「私、古西さんとは結婚してあげませんよ」

 その優しさに、彼は小さく笑った。

「小娘が生意気だ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ