22.承認不可
夕日がオレンジ色に染まりながら、ビル群の隙間へと沈んでいく。
都会の喧騒は次第に静まり、夜の帳がゆっくりと降り始めていた。
歩道では、足早に帰宅する人々が行き交っている。
生活安全課のオフィスでは、変わらぬ業務が続いていた。
ブラインドの下りた窓の隙間から漏れる光が、わずかに室内へ温もりを添えている。
課長の井灘哲は、いつものように書類整理に追われていた。
疲れた目で書類の文字を追い、承認欄に印を押す。老眼の彼には辛い仕事だ。
そんな彼の手元に、乱暴に書類が投げ込まれる。
視線をあげると仏頂面の古西勝之が立っていた。
彼とのやり取りで時間を無駄にしたくない井灘は、処理中の書類は一旦保留し、古西の書類に目を通す。
「住居の調査、電子デバイスや通信記録の確認、防犯カメラや公共機関の記録確認、金融取引記録の調査。なるほど、それで、この加治勇輝とは誰だね?」
「重要参考人だ」
井灘は、深くて長いため息をゆっくりと吐く。
「報連相が――」
「課長! 私から説明します」
古西の後ろに隠れるようにして息を潜めていた宇枝怜菜が顔を覗かせる。
「行方不明者の磐田と神戸は映画の撮影中に姿を消しました。アイドルの喜岡はライブ中にライトが落下し負傷。事故原因は遠隔操作によるものと判明しています。そして俳優の千羽はバイクにひき逃げされました。二人とも映画の撮影に参加しています。四人には何らかの繋がりがあると見ています」
「それで?」
「ひき逃げ犯は被害者と衝突したさい、左腕を負傷しました。映画関係者の中に負傷した者がいないか確認したところ、ひとりだけ行方がわからない者がいました。それが加治です」
「だから何だ?」
「ですから、加治が行方不明者と傷害事件に関与している疑いが――」
彼女の話を最後まで聞かず、井灘は激しく机を叩いた。
「おまえたち、捜査一課にでもなったつもりかっ!」
その一喝が、オフィスの空気を凍りつかせた。
キーボードを叩く音がピタリと止まり、数名の警察官が手を止めて顔を上げる。
誰もが息を潜め、目を合わせることすら避ける。
宇枝は驚き、一歩後退する。
しかし、古西は毅然不動の態度で、井灘を正面から見据えた。
「負傷した被疑者を探すだと? それは交通課の仕事だ。おまえたちのやっていることは越権行為に他ならないっ!」
井灘の声が怒りで震える。「交通課で働く同僚を、わしは信頼しているし、誇りに思っている。――だが、おまえたちはどうだ。同僚の力量を疑い、プライドを傷つけ、捜査の邪魔をしているのだよ」
一息つくと、静かにだが力強く話しを続ける。「アイドルの事案もそうだろう。所轄が捜査を続けているはずだ。――なぜよその仕事に横槍を入れる? どうして任せておけない? 彼らを信じられない理由はなんだ?」
ゆらりと首を振る。「わしにはおまえの考えが理解できない。何の証拠もなく、単なるカンだけで暴走する。――おまえが突き進む先に、何が待ってると思ってるんだ? もし誰かが巻き込まれたり、無駄に時間を使ったりしたら、その責任はどう取るつもりだ?」
井灘の手が、机上でわずかに握りしめられる。
キャリアを積み重ねてきた自負はある。
だが、それと同じくらい強く、失敗に対する恐れもこびりついている。
一つの判断ミスが、これまで築き上げてきた地位を簡単に崩す。それが組織というものだ。
規律から外れる者を許せば、上からの評価は急落する。
その冷酷さを、誰よりも知っていた。
この職を守ることは、ただの自己保身じゃない。
背負っているものの重さを、他人に理解される必要はない。
井灘は少し息を整えると、冷たく付け加える。
「おまえは他人が見えていない。いや、視界に入れてすらいない。――おまえが失敗すれば責任を取るのはわしだ。他の署に迷惑をかければ責任を取るのはそちらの担当者だろう。おまえが見ているのは犯人だけなんだよ。それが、どれだけ周囲を混乱させているのか知ろうとさえしない」
「ですが、これほど立て続けに映画関係者が事件にあうのは、関連性があると見るべきでは」
宇枝は声の震えを堪えながら、なおも意見を述べる。
ほんの少し前なら、こんな状況で口を開くことすらできなかった。
だが、古西の背中を見続けてきた弊害だ。
課長は彼女を見ずに首を振るだけだ。
「おまえのせいで宇枝くんまで暴走を始めている。私の心証も悪くなっている。もうキャリアは望めないだろう。おまえは彼女の人生にどう責任を取るつもりだね?」
「こいつはそんなに軟じゃない。もし責任を取れと言うのなら嫁に向かえますよ。そんなことより、今は、捜査の許可をお願いしますよ」
古西は机の上の資料を指で叩く。
「まだ言うのかね。――おまえは神戸の自宅を捜査すれば、殺人事件を立証するだけの根拠を証明できると豪語したな。その結果を報告する前に、さらに、無関係な者の家宅捜査を許可しろだぁ? そんな身勝手が通用するわけないだろう」
「関係者は全て洗う。捜査の基本だ」
「それが捜査一課のやり口かね? だが、ここは、生活安全課なんだよ。おまえは行方不明係だ、いつまで一課気分でいるつもりだね?」
「縦割り組織は専門分野では確かに優れている。もちろん同僚の捜査能力を疑っているわけではない。しかし、誰かが横の繋がりを意識しなければ見落としが生まれる。違うか?」
「御託を並べているが、要は好き勝手に捜査がしたいだけではないか。――組織の歯車が枠から外れると機能不全が生じる。そんな歯車をもとの位置へ戻すのがわしの役目だ」
「いつも同じ位置で回り続ける歯車では、世の中の変化に対応できない。事件解決のため、歯車の位置を柔軟に調節する。それがあんたの役目だ」
井灘は古西の持ってきた書類を、彼の胸元に叩き付けると、
「出ていけ!!」と、部屋に響き渡る声で吠えた。
古西は肩で風を切りながら無言で部屋から出ていった。
息を殺していた警察官たちは、冷ややかな視線を課長へ向ける。
廊下を速足で歩く古西に、宇枝が追い付く。
「私、古西さんとは結婚してあげませんよ」
その優しさに、彼は小さく笑った。
「小娘が生意気だ」