21.病院
病院の個室は、静寂に包まれていた。
窓の外は薄曇りで、柔らかな光が白い壁に淡い影を落としている。
ベッドの上で千羽翔哉は横たわっていた。
背中と足には打撲の痕があり、肋骨にはひびが入っている。
鈍い痛みが、呼吸のたびにじんわりと広がった。
ベッドのそばにはマネージャーの幹真一朗が立っている。
小さく息をつき、眉間を軽く指で押さえた後、千羽を見下ろした。
「少しは楽になったか?」
「麻酔、あまり効いてないみたい。けっこう痛いよ」
千羽はかすかに頷いたが、口元には苦痛の影が残った。
幹マネージャーが深く息をつき、そばの椅子に腰を下ろす。
「仕事のことは気にしなくていい。少し休んだところで千羽の人気が陰ることはないからね」
「はい」
千羽の視線が、無意識のうちに下を向いた。
自分が彼に余計な心配をかけていることが、申し訳なかった。
その時、ノックの音が響く。
幹マネージャーが立ち上がりドアを開けると、私服刑事が二人、無言のまま警察手帳を差し出した。
「深川署の松丘と譜久山です。昨夜の事故についてお話をお聞かせください」
「どうぞ」
二人を千羽の前まで案内する。
「お二人とも、どうぞお掛けください」
幹マネージャーが促すと、巨漢の松丘刑事はふぅと言いながら椅子に座り、譜久山刑事はその後ろに立っている。
「まず、事故が起こった時の状況からお聞かせいただけますか?」
千羽はくすりと笑う。
その仕草に刑事たちの視線が微かに動いた。
「どうかしましたか?」
「刑事ドラマに出演したことがあるんですよ。刑事さんたちの動きがそのままで。撮影かな、と思いまして」
「なるほど」
「失礼しました。――事故の状況ですよね」
千羽は一瞬、遠くを見るような表情をした。
「バイクの音が近づいてきたのは分かりました。でも、気づいた時には、もう遅かったんです。僕は歩道を歩いていたのに、なぜかバイクは僕の背中にあたったんです」
犯人に狙われるかもしれないと内山に警告されていた。
だから警戒していたつもりだった。
――ほんの一秒でも早く気づいていれば。
頭の奥で何度も同じ後悔が反響する。
危険を知りながら防げなかった自分が、ただ情けなかった。
「運転手について何か覚えていませんか?」
「いいえ。倒れた時には、もう誰もいませんでした」
松丘刑事が眉を寄せる。
「気になる音はどうでしょう。例えば、運転手の声など」
「声は聴いてません。気になる音も特には」
「事故が発生する前後に、不審な人物や車両を見かけましたか?」
「見てません」
「誰かに恨まれているとか、脅迫を受けていたことはありますか?」
千羽が答える前に、幹マネージャーが即座に口を開いた。
「いいえ、千羽は皆に愛されている存在です。そんなことは考えられません」
幹マネージャーの声に、微かな緊張が滲んでいた。
孤島での事件のことが、頭をよぎっているのだろう。
犯人との取引が表沙汰になれば、千羽の俳優生命は危うい。
彼としては、絶対に隠したいはずだった。
刑事は軽く唇を噛みしめた。
その仕草が、疑念を手放していないことを示しているようだった。
「人気があるほど嫉妬の念も濃くなります。例えばSNSにネガティブなコメントや、犯行予告のようなものはなかったですか?」
「事務所でも定期的にチェックしていますが、特に警戒すべきコメントは見当たりませんでした」
「幹さん、隠さなくていいよ」
幹マネージャーの目が驚きに揺れた。
「千羽……」
「刑事さん、僕がSNSにコメントをアップすると、数千件のリプコメントがつきます。その中には、ファンの暖かいコメントと同じ数だけ、アンチコメントも含まれているんです。僕のせいで幹さんや事務所の人たちに迷惑はかけられません。だから僕からお願いしているんです、アンチコメントは無視してください、って」
千羽は疲れ果てたような溜息を零す。
刑事たちは言葉に詰まってしまう。
一呼吸のあと、刑事たちは顔を見合わせると目配せした。
その仕草にどんな意味が含まれているのか千羽は知りたいとも思わない。
「昨夜の事故ですが、監視カメラの映像を確認しました」
刑事の声がわずかに低くなった。「犯人は無灯火で歩道を走り、千羽さんめがけてバイクを当てています。私たちは傷害事件として捜査を開始しました。――狙われるような心当たりはありませんか?」
想定の範囲内。驚きはしない。
「刑事さん、僕は心を濁したくないんです。誰かを恨んだり、憎んだり、疑ったり、そんなことを続けていたら他人が信じられなくなる」
千羽は愁いを帯びた表情で軽く息を吐いた。「僕に役を奪われたと感じている俳優がいるかもしれません。でも、人の心は見えませんから、誰が恨んでいるか僕にはわかりません。――真実を知りたいと思いませんし、暴きたいとも思いません。僕は僕の人生を大切にします」
その目には、確固たる意志が宿っている。「人を恨むために時間を使いたくありません。だから被害届を出す気はありません。ひき逃げ犯を捕まえたとしても教えてくれなくて結構です」
刑事たちの視線が、氷のように冷たく感じられた。
理解されないことは分かっている。けれど、それでもいい。
他人に心を乱されるほど無駄な時間なんてない。
――放っておいてくれ!!
刑事たちは、千羽の言葉の奥にある壁を感じ取ったのだろう。
「――ご協力ありがとうございました」
二人は一礼し、病室を後にした。
幹マネージャーが苦笑する。
「千羽にしては、ちょっと棘のある返しだったな」
「そうかな?」
「傷の痛みが神経を昂らせたのかもね。――じゃ、事務所に戻るよ、また明日くるから」
幹マネージャーは笑顔で手を振り、病室から出ていった。
病室が静寂に包まれた後、千羽は枕元のスマホを手に取り、内山へ電話する。
「――うん、体は大丈夫。今、刑事が帰ったところ。やっぱり、映画との関係について捜査は進んでないみたい。――うん。――はい。じゃ、また」
彼はスマホを切ると、深い溜息を洩らしたのだった。