20.バイク
深夜の街は静寂に包まれ、歩道には人影ひとつない。
空気はひんやりと澄み、微かに秋の匂いが漂う。
街灯の明かりは頼りなく、舞い落ちる枯葉を淡く照らすばかり。
高級マンションのガラス窓に遠くの灯りがちらりと映り込むが、その光さえも夜の静けさに溶け込んでしまいそうだった。
黒いタクシーが高級マンションの前で静かに止まる。
千羽翔哉は疲れた身体を引きずるように降りた。
テレビドラマの撮影が終わり、ようやく帰宅だ。
ドアが開いた瞬間、冷えた空気がまとわりつく。
「お疲れ様でした」
白い息を吐きながら、穏やかに笑う。
「はい、お疲れ様ー。あしたもよろしくね」
マネージャーの幹真一朗がタクシーの中から笑顔で手を振った。
運転手がタイミングを見計らい、ドアを閉めた。
タクシーはゆっくりと動き出し、闇の中へと消えていく。
マンションの入り口は明るく照らされ、ガラス越しに高級感のあるエントランスが見える。
千羽の耳には、撮影の余韻が残り、いくつかのセリフが浮かんでいた。
「う~、寒みぃ~」
凍てつく空気に思わず独り言がこぼれる。
マンションへと歩き出したその時、かすかな気配が背後から忍び寄る。
バイクの存在に気づいた瞬間、衝撃が体を襲っていた。
視界が跳ねる。
激しく弾き飛ばされ、無防備なまま地面に倒れ込む。
痛みと混乱の中、うつ伏せになったまま周囲を見渡す。
視界の端に、倒れたバイクが放置されていた。
だが、ドライバーの姿はない。
すでに逃走していた。
冷たい地面の感触が肌に染みる。
なんとか体を起こそうとするが、痛みで思うように動けない。
無意識にポケットへ手を伸ばし、スマートフォンを探る。
痛みに耐えながら、慣れた手つきで幹マネージャーへ通話をかける。
「幹さん、ごめん――、明日の収録、キャンセルして――、バイクにひかれたみたい」
そこまで言ったところで、意識が遠のいた。
電話の向こうから響くマネージャーの叫び声だけが、夜の静寂を引き裂いていた。
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薄曇りの早朝、冷たい空気がアパートの窓ガラスにうっすらと曇りをつくっている。
宇枝怜菜は洗面台の前に立ち、無意識のうちに小さく鼻歌を漏らす。
ブラシを通すたび、髪がサラリと音を立てる。
アイロンの効いた白いシャツが背筋に沿い、黒のスラックスがその印象を引き締める。
キッチンの片隅ではケトルが低く唸り、細い湯気が口から立ちのぼっている。
静かな朝のルーチンを破ったのは、テレビから流れるニュースキャスターの声だった。
『――次のニュースです。俳優の千羽翔哉さんがバイクとの接触事故に遭い、現在病院で治療中です。命に別状はないとのことですが、詳しい状況は――』
心臓が一拍、強く脈打つ。
ブラシを掴んだまま洗面台から離れ、リビングのテレビを確認する。
「……嘘でしょ」
見たことのある顔が画面に映っていた。
「ありえない、喜岡さんに続いて千羽さんまで……」
彼女はブラシをテーブルの上に置き、テレビを消して、バッグとスーツの上着を無造作に掴む。
次の瞬間、焦りを隠しきれない動きでアパートから飛び出す。
彼女の足音が小さくなるころ、トースターが『チン』と乾いた音を立てる。
焼けたパンの香ばしい匂いが部屋を満たすけれど、食べるはずの家主はもういない。
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大崎警察署の生活安全課は、朝の光に照らされていた。
窓から差し込む柔らかな日差しがデスクや書類を金色に染め、埃が舞う光の筋が空間に浮かび上がっていた。
宇枝怜菜は既に出勤し、デスクに向かってパソコンの画面を見つめていた。
だが、集中はしていない。
視線は何度も入口へと向かう。そのたびに――違う――と胸の奥で小さく失望し、浅く息を吐いた。
落ち着かない。時間の流れがやけに遅く感じる。
ドアが開く音がした。
宇枝は顔を上げる。目に飛び込んできたのは、寝ぐせのついたボサボサ頭。
途端に、胸の奥に溜まっていた張りつめたものが緩むのを感じた。
意識するより早く、足がデスクを離れ、気づけば駆け足になっていた。
「おはようございます! あのニュース見ましたか?」
呼吸がわずかに乱れているのを意識しながら、身を乗り出した。
古西勝之は短くうなずく。
「千羽がひき逃げされたやつだな」
まだ眠気の抜け切れていない低い声だが、頭は冴えているようだ。
「関係、あると思いますか?」
「前に話たよな、一連の事案は<見立て殺人>だと。――バイクにひかれる話はあるのか?」
その問いは想定済みだった。出勤後すぐに調べてある。
「異世界転生の主人公たちは、そのほとんどがトラックにひかれて死にますよ」
「なぜトラックにひかれる? 理由は?」
「ありません。あえて言うなら鉄板なのですが……」
彼は理解に苦しむように、眉間に深いシワを刻む。
「意味もなくトラックにひかれて死ぬだと? バカげた話だ」
その返答も想定済み。
「異世界転生は若者向けコンテンツです。少々バカげていた方が楽しめるのかもしれません」
自分でもバカらしいと思っているのだ。
古西は耳たぶをつまんで深く考え込む。
「若者向け……。犯人は若いやつなのかもしれないな」
「麻結ちゃんを襲った夜城は二十代ですね」
「あいつはまだ勾留されている。昨夜のひき逃げは無理だ」
宇枝はふと閃く。
それは、ありふれた思い付きで、きっと古西も考えついているだろう。
けれど、念のため口にする。
「共犯者がいる可能性はないですか?」
「その線が無いとは言い切れないが。誰が夜城に手を貸す? 動機が定かでないのに利害関係から追うのは難しいぞ」
「バイクでの接触事故です、きっと犯人も怪我をしているはず。もし、映画関係者の中に怪我をしている人がいたら?」
古西は軽く溜息を吐く。宇枝の熱量を受け止めつつも、一歩引く距離感。
「願望が先走りすぎだ。ひき逃げ犯は交通課が捕まえる。俺たちの仕事は行方不明者の捜索だ」
「あれ~っ? 無許可の独自捜査が古西さんの専売特許じゃないですか。今さら手をひくとか言いませんよね?」
挑むような視線を向けると、古西は困ったように頭をかいた。
「新人に悪影響を与えるなってタヌキオヤジに釘を刺されてるんだ」
宇枝の視線が課長の井灘哲へと向かう。
彼は怪訝そうな表情で古西を睨んでいた。
「もう手遅れですよ。責任、とってくださいね」
その声は、首輪を絞められた獰猛な狼を解き放つ、小悪魔的な魅力を潜ませていた。
古西は深い溜息を吐くと、
「交通課で詳しい事故の状況を確認するぞ」
「りょ~かいっ」
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深川警察署の交通課は、生活安全課とは漂う空気が違う。
制服に反射ベストを着け、交通違反の取り締まりへ向かう者。
白バイのヘルメットを小脇に抱え、パトロールへ出る者。
オフィス内では、交通事故処理に追われる者。
電話がひっきりなしに鳴り、オペレーターたちは通報を受けながら迅速に対応している。
古西は入口の女性警察官に声をかける。
「大崎署の古西だ。昨夜起きた千羽翔哉の事故について詳しい情報が欲しい」
「管轄が違いますけど」
女性警察官のじっとりとした視線が古西に注がれるのを見て、微かな緊張が胸をよぎる。
――ですよね~。
宇枝は心の中で呟いた。
「俺は生活安全課だ。千羽は追っている行方不明者の関係者でね、事故との関係性を調べている」
古西の口調は揺るがず、相手の警戒を正面から押し返している。
宇枝は思わず息を飲んだ。
――すご。あの押しの強さ、見習うべき? でも、あの仏頂面は真似したくない。
女性警察官の眉が、ほんのわずかにゆるんだ。
「少しお待ちください、確認してきます」
そう言って、部屋の奥にいる課長へと向かう。
時折こちらをチラチラと見ているのが気になった。
悪い噂が立たなければいいけど、と宇枝は思う。
しばらくして女性警察官が戻ってきた。
「どうぞこちらへ」
案内されたのは、モニターが並ぶ部屋。
街中の監視カメラ映像が映し出され、交差点の混雑状況や事故の発生場所がリアルタイムでわかる。
初めて入る部屋に、宇枝はわずかに心を躍らせた。
捜査の最前線に踏み込んだ気がして、背筋が伸びる。
「担当者は、被害者が入院されている病院へ出向いているので不在です。なので現状把握している範囲の情報を私が代わりに説明します」
「頼む」
彼女がキーボードを叩くとモニターに監視カメラの録画が映し出された。
「深夜一時半。被害者がタクシーから降車、マンションに向かう途中でバイクと接触しました」
映像では、タクシーの後部と、千羽の左姿が確認できる。
「無灯火のバイクが歩道を走行し、被害者を回避せずに衝突。接触後も振り返ることなく逃走。故意による傷害事件と見て捜査を開始しています」
宇枝の胸に、かすかな違和感が生まれた。
何かがおかしい。
だが、その正体がつかめない。
小さな棘のように、意識の片隅に引っかかる。
古西は眉間にしわを寄せ、目を細めながら映像を睨んでいる。
「ナンバー見えるな」
「はい。犯行に使用されたバイクは盗難届が出されていました。現在、持ち主に確認を取っています」
「被疑者は?」
「今のところ有力な情報は掴めていません。深夜ということもあり目撃情報も乏しくて」
被疑者は全身黒ずくめだった。ヘルメット、ジャケット、パンツ、すべて黒。
「こいつ、左腕を怪我してるな」
映像では、逃走する容疑者が左腕をかばうように走っていた。
「はい。被疑者のものと思われる血痕を採取し、科捜研にDNA鑑定を依頼しています」
古西の口元が、不敵に歪む。
「DNAの検査キットをよこせ」
その口調は、まるでカツアゲするヤクザ。
「は?」
女性警察官は目を丸くしている。
「心当たりがあるから採取してきてやるよ」
古西の隣で宇枝がニヤリと笑う。
正攻法だけが正しいとは限らない。時には押し通す力も必要なのかもしれない。
彼女の瞳に、古西の姿が輝いて映る。
生活安全課の課長が懸念していた悪影響は、もうすでに宇枝を浸食し始めていた。