2.消失
主の抜け落ちた甲冑がブルーシートの上に並べられた。
鋼鉄の板が日の光に照らされ、微かな反射が空間に寂しさを漂わせている。
その姿は、誰かがそこに寝ているかのように整っており、欠損は一切なかった。
かつて勇敢な重戦士が身に着けていたものであり、今はその命の終焉を静かに物語っている。
甲冑の近くに集まっている関係者たちは、言葉を失う。
彼らの表情には、深い困惑が刻まれている。
誰ひとりとして動くことなく、その場に立ち尽くしていた。
勇者役の千羽翔哉は緊張した表情で、
「神戸さんはどこ?」
と、言葉を発しようとしても、喉が張りついたようでうまく声が出なかった。
彼は新進気鋭の若手俳優。ドラマや映画で圧倒的な存在感を放つスターだ。
千羽翔哉の演技は多くの観客を魅了し、数々の賞を受賞して業界内外から高く評価されていた。
彼の問いに答えるように、僧侶役の喜岡麻結は、
「異世界転生よ!」と、瞳に光を宿し、子供みたいに声を弾ませながら答えた。
彼女はアイドルグループ<空色クローバー>のメンバーなので俳優経験はない。
監督たちは、彼女の初々しい演技には目をつぶっている。
言葉が発せられた瞬間、全員の視線が彼女に向けられる。
その視線は疑念と驚きが入り混じったもので、まるで現実の枠を越えてしまったかのような不安を湛えていた。
無邪気に笑う喜岡の姿が、どこか空虚にさえ見えた。
「いせ、なんだって?」
千羽翔哉は眉をひそませながら聞き直す。
「異・世・界・転・生! これ、常識ですよ! 知らないなんて、逆にビックリです!」
目を見開き、驚いた様子の喜岡麻結。
「もちろん知っている。台本に目は通したし、原作小説も読んだ。主人公たちが異世界に転生して活躍する物語だろ」
「厳密に言えばー、異世界転生じゃなくて異世界転移ですけどー、些細な違いだし、コアなファンじゃなければ知らなくても仕方ないですねっ」
得意満面の笑みを浮かばせながら解説する彼女からは、人が消えたことに対する悲壮感は微塵も感じられなかった。
周囲の者たちは、理解しがたい表情を浮かべ、彼女に冷ややかな視線を向けている。
「僕が聞いているのはそこじゃない。なぜ、今、この状況で、異世界転生なんて言葉が君の口から出てきたかってことだ」
彼女はむじゃきな笑顔で、
「だって~、甲冑だけ残して体が消えたんですよ? そんな非現実的なこと異世界転生以外に考えられないじゃないですかぁ~」
彼は目を丸くし、呆然としながら、
「いやいやありえないって、異世界転生こそ非現実的だろ」
と、言いながら、心の中ではますます混乱している自分を感じていた。
「あららっ、千羽さんは知らないんです? 日本だけで毎年約八万人が行方不明になっているんですよ」
彼女は、指を折り、数えながら話を続ける。「例えばぁ~、電車のホームから落ちると異世界では幼女になれるし~、通り魔に刺されると異世界ではスライムになれるわ。他にも、サービスが終了するまでゲームにログインしていれば異世界で骸骨になれるし~、クラス全員が転生すると異世界で蜘蛛になれるの。もちろん人間の姿のままで転移することだってあるわ。――ね! どれも~日常的に起きていることですよぉ~」
まるで絵本を子供に読み聞かせるように、丁寧に語り続けた。
「ごめん喜岡さん、君の話、まったく理解できないや」
彼は笑顔を作ったが、その目はわずかに冷め、口元も引きつり、どこか面倒くさそうだった。
「――千羽さん、こんな話を知ってますぅ? クラーケンていう船よりも大きなイカの伝説があるんです。当時の人々は『そんな巨大なイカが存在するわけないっ!』て、信じなかったの。ところが、巨大なイカの死骸が発見されたのね。――それなのに、実物を見てもなお、人々はそれが信じられなかったんですよ」
彼女は真面目な表情になると話を続ける。「今では、ダイオウイカなんて常識ですよね。――そう、人間はいったん植え付けられた常識という楔から抜け出せない、かわいそぉ~な生き物なんです」
「それは、僕が古いタイプの人間だって言いたいの?」
千羽翔哉は侮辱されたと感じ、少し不機嫌そうに眉をひそめた。
「違いますよぉ~、千羽さんは普通の人です」
彼女は安心させるかのように優しく頷く。「目の前で人が消えた理由を千羽さんは答えられませんよね。――たとえ、それが異世界転生だとしても、常識として世間に認知されない限り、あなたは納得しないでしょうし、信じることはありません」
「そうだね、もし世間が異世界転生を認めたのなら、僕も信じることができるよ」
童顔でくりっとした瞳が、彼の顔を挑発するように覗き込む。
「そうかなぁ~、今でも地動説を信じている人はいるし、地球は平面だって信じている人がいるんですよ? 真面目な顔して『地球が丸いなんて政府の陰謀だ』って本気で騒いでいるわ。――あなたがそちら側の人間にならないと言い切れませんよぉ~」
口を尖らせてムッとする彼を眺めながら、自分の意見が正解だと言わんばかりに彼女はクスクスと笑い始める。
そんな彼女に、周囲の者たちは近寄りがたい何かを感じ取る。
しかし、あまりにも自信満々に説明するので『もしかして』と思い始める者も出始めた。
「――確かに……。甲冑だけ残して人間が消えるなんて、科学的に証明できない。――となると、異世界転生っていうのもまんざら見当違いとは言えないんじゃないかな」
と、技術ディレクターが大きく頷いた。
そんな彼に同意するかのように、録音技師も、
「怪談話をしていると、幽霊とか呼び寄せるって言うだろ。まさか、異世界転生の映画を撮っていたから神戸さんが……」と、不安な表情を浮かべる。
千羽翔哉は、そんなスタッフを見て不安を覚える。――もしかすると、彼女のいう通り古いタイプの人間なのかもしれない――と、自分の常識を疑うのだった。
「――仮にだ。神戸さんが異世界転生したとして、姿が消えるのはおかしくないか?」
そう話し始めたのは、賢者役の内山幸喜。「原作だと、主人公たちは現実世界に体を残したまま異世界に転生した。その後、魔王を倒して現実世界に帰り、普通に暮らすストーリーだ」
彼は一般人と比べれば整った容姿をしているが、超売れっ子の千羽翔哉と比べると見劣りするのは仕方ない。
舞台俳優なので演技力に定評はあるけれど、映画への出演経験はない。
今回の仕事を足掛かりに芸能界での地位を確立しようと息巻いている若手だ。
生徒の質問を受けた教師のように、喜岡麻結はウンウンと頷く。
「いい所に気づきましたね内山さん。――異世界転生には色々なケースがあるんですよ」
彼女はまたしても、指を折りながら話を続ける。「例えば、もとの時間に戻るケースもあれば、戻らないケースもあるし、戻ったとしても十年後ってケースもあるの。それに、もとの体が消えたり、体が残っても廃人だったり、歴史が改ざんされて存在そのものが消滅するケースだってあるんです」
彼女はお手上げと言わんばかりのジェスチャーをしておどけて見せる。「神戸さんがどのケースなのか、私にもわかりませんね~」
「――いつ戻るかわからないなんて困るんだよ! この島での撮影は後七日しか残されていないんだ!」
プロデューサーの磐田満夫は、怒りを隠すことなく声を荒げる。
その顔は熱を持ち、言葉が鋭く突き刺さるように響いた。
砂浜には似つかわしくないスーツ姿。メガネの奥では細い目が興奮気味に瞬きを繰り返している。
上の者にはへコヘコし、下の者には威張り散らす、そんな小物管理職を感じさせる男だった。
喜岡は、その大声にびくっと体が反応する。
プロデューサーの視線が届かない場所にいる撮影スタッフは、眉をひそめ、口元を歪めて露骨に嫌な顔をした。
「磐田さん、仰ることはわかりますがこれは事故です、撮影を続けることはできませんよ」
物腰の柔らかい助監督の並川大助が腰を低くしながらプロデューサーをなだめる。
その姿は、お寺の住職のように相手に安心感を与える雰囲気をまとっていた。
「何を無責任なこと言っているんだね! これは並川さんの責任なんだよ! もし映画が中止にでもなったら、どれだけの損失になるのか理解しているのかね?」
助監督は肩をすくめ、目を伏せた。
「分かってます。でも――」
「分かってないんだよ! まず、撮影にかかったコストだ。スタッフの給料、セットの建設費、機材のレンタル料。全部で億単位の費用がかかってるんだ。それが全部無駄になるんだぞ」
助監督はぐっと唇を噛んだ。
プロデューサーは拳を震わせながら話を続ける。
「さらに、宣伝費だ。ポスター、予告編、広告キャンペーン、イベント。それに支払った広告代理店への費用。全部合わせると、また億単位だ」
プロデューサーは一呼吸置いて、深くため息をついた。「――そして、何よりも投資家の信頼だ。彼らはこの映画に期待して大金を投じたんだ。それがパーになるなんて、想像してみろ。次のプロジェクトに誰も投資してくれなくなる」
プロデューサーの言葉が重く胸に突き刺さり、助監督は口を開いたものの、言葉がうまく出ない。
「もちろん、重々承知しております。損失補填につきましては戻ってから具体的に話を進め――」
彼の話を遮るようにプロデューサーが話を始める。
「金の問題じゃないんだよ! この私がプロデュースした映画が公開されない。そんな不名誉な経歴を残すなんてありえないんだよ、わかるかね?」
「損失の話したのオマエじゃん」と、誰ともわからない小さな声が聞こえた。
「今の誰だ!!」
激昂するプロデューサー。しかし声の主は名乗り出ない。
プロデューサーはゆっくりとした足取りで助監督に近づくと、
「並川くぅーん、スタッフの教育が行き届いていないみたいだねー」
人差し指で助監督の胸をつつきながら青筋の浮き上がった顔を近づける。
「申し訳ございません。後ほどきつく言っておきます」
タバコの火を消すかのように、人差し指を助監督の胸にグリグリと押し付けながら、
「撮影は続行だ、異論は認めん。――いいかね、君は映画を完成させることだけを考え、行動するんだ。私に恥をかかせたらどうなるか、わかっているだろうね?」
ヤクザ顔負けの迫力で助監督を威圧している。
撮影スタッフたちは反論したい気持ちを押さえている。
ここで口論となっても、プロデューサーは意見を変えないだろうし、助監督の立場はさらに悪くなる。
彼らは焦燥感を募らせながら拳を強く握りしめる。
「もちろんです」と、助監督は声を絞り出す。
ダメ押しと言わんばかりに人差し指を強く押し出すと、助監督がグラリとよろけた。
そんな彼をスタッフたちが素早く支える。
脚本家の霜野寛は、戸惑いながら手をあげると、
「――磐田さん、撮影を続けるにしてもタケオ役はどうするんですか?」
彼は、大学生に間違われるほど若く見えるけれど三十後半だ。
見た目のせいで頼りなく見えるし、実際に気が弱いので頼りない。
「配役を交代するにしても今から抑えられる俳優は限られていますし、それに、ここは孤島で携帯すら繋がりません。連絡が取れない以上、俳優の交代は無理だと思います」
脚本家の話を聞いたプロデューサーは腕組みをしながら考え込む。
そんな彼を脚本家は心細そうに見つめていた。その姿は、判決を言い渡されるのを待つ被告人のようだ。
しばらくして、ピンと閃いたかのように、
「タケオなくそう」と、あっさりとした声で決断を下した。
一瞬、彼が何を言っているのか、脚本家は理解できなかった。
しかし、首を振りながら思考を整理し、冷静さを取り戻す。
「え、ちょ、ちょっと待ってください! いくらなんでもタケオなしじゃ物語が崩壊しますよ!」
脚本家は声を震わせながら叫んだ。心臓が激しく鼓動しているのを感じる。「彼の役目は勇者パーティーの守護神的存在なんですよ。話の辻褄があいませんし、ストーリーが大きく改変されてしまいます!」
彼は言葉に詰まりながらも必死で反論した。
気が弱く頼りない彼でも、プロデューサーの提案は受け入れられなかった。
プロデューサーは冷たく脚本家を見据える。
「現場で脚本を書き換える。それが君の仕事だろ? だから撮影に同行している。違うのかね?」
「そうですけれど、それは細かなニュアンスの改編くらいで、ストーリーの根幹を覆す権利は与えられていません。――私は原作者の八ツ花千代先生と綿密な打ち合わせを繰り返してきました。タケオはこの物語において――」
プロデューサーは手を広げ、会話を遮るように脚本家の前に腕を突き出す。
「あーあー、いい、いい。そんな細かい話は私の領分ではないのだよ。――原作者の思惑を理解しているのであれば、それを汲み、原作者が納得する形っで改編するのが君の役目じゃないのかね? ――原作者の意向を右から左へ流すだけならば君じゃなくてもできるんだ、違うかね? ――ストーリーを考えるだけの脚本家なんて化石だよ。監督と原作者の間に立ち、緩衝材となり、中和し、潤滑剤の役目を担う、それが現代の脚本家に求められるスキルだと私は常日頃から考えているのだがね。――もし違うと言うのであれば君は私の求める人材ではない。スキル不足のスタッフなど現場には必要ないんだよ」
死刑宣告にも似た冷徹な言葉を浴びた脚本家は顔面蒼白となり、頭が真っ白になった。
喉が渇き、反論する勇気すら削られ、眩暈をおこしグラリと体を揺らす。
そんな彼をスタッフたちが素早く支える。
僧侶役の喜岡麻結が一歩前に出ると、
「私はこの原作が大好きでハルカを引き受けたんです。――ヒロシ、タケオ、ダイスケ、ハルカ、サリー。絶妙な人間関係が織りなすファンタジーの世界を愛しているんです。ムードメーカーのタケオを削るなんて酷すぎます。神戸さんはきっと戻ってきますから少し待っていただけませんか?」
神に祈るかのように、彼女は胸の前で手を組みながら、その眼差しには切実な願いが込められていた。
そんな彼女の姿を見たプロデューサーは、深い溜息をつくと、
「君の事務所の社長とは長いつきあいでね、どうしてもと言うから君を採用したんだ」
事務所としてはグループのセンターで踊る最も人気のあるメンバーを推す予定だったのだが、その子が難色を示したので喜岡が選ばれた。
理由は単純で、僧侶の衣装が過激なのだ。
白のスクール水着に、白い手袋とブーツにウエディングベール。極端に肌の露出が多い衣装は、端的に言えば痴女だ。
グラビア撮影で水着姿には慣れているアイドルとはいえ、終始その姿で演技しろと言われれば尻込みするのも無理はない。
「撮影の現場に原作愛なんてものは必要ない。むしろ邪魔でしかない。――俳優というのは原作愛で演じるんじゃない、配役になりきるのが使命なんだよ。――ハルカが原作を知っているとでも言うのかね? 違うだろ? ――先の展開を知りながら生きている登場人物など存在しないんだ。脚本家がストーリーを改編すれば、そこから新しい物語が始まる。登場人物はストーリーの改編が行われた事実など知らないはずだ、違うかね?」
プロデューサーの私見は間違えていない。ストーリーの先を教えずに収録する現場もあるくらいなのだ。
彼女は反論できず、悔しさを滲ませながら小さな口をキュッと固く閉じたのだった。
「磐田さん、プロデューサーとして映画を完成させたいというあなたの志は理解できます。でも、事故を放置して撮影を進めるのは賛同できません」
と、狩人役の石河優唯が毅然とした態度で自分の意見を投げかけた。
彼女の演じる狩人はエルフなので登場人物の中で唯一特殊メイクをしている。
金髪のウイッグに長い耳、さらにカラーコンタクトを付けていた。
若くして才能を認められ、スクリーンの向こう側で誰もが物語の世界に引き込まれる、そんな実力派女優。
スクリーンを通じて彼女の目から溢れる感情に、観客は涙を流し、笑い、共感した。
演技に関しては一切の妥協を許さない姿勢は、スタッフの間で堅物と呼ばれることもある。
美人の真剣な表情は、相手を圧倒し、強迫観念すら与えるだけの力を秘めている。
さらに舞台経験もある彼女の声はよく通り、相手の脳に思いが直接響くのだ。
二回りも年下の女優から放たれる存在感に、圧倒されるプロデューサー。
「石河君の意見はもっともだ。私とて事故をもみ消そうなどと考えているわけじゃない。――残された人的リソースとスケジュールを鑑みて最良の選択をしているにすぎないと理解して欲しいものだね」
「なら神戸さんの捜索をするというのはどうでしょう? 霜野さんが脚本を修正するまで私たちは暇ですし」
「――ふむ、そうだな……。で、異世界にどうやって探しに行くのだね?」
その場にいた人たちの視線が、足元に寝ている甲冑に向けられる。
誰もプロデューサーの問いに答えることはできなかった。