19.高級クラブ
華やかな夜の街に佇む高級クラブ。
外観はシックで、ふらりと入れるほど気軽な雰囲気ではない。
中に足を踏み入れた宇枝怜菜は、息を呑むような広々としたホールの美しさに一瞬心を奪われた。
シャンデリアの光が柔らかく天井から降り注ぎ、上品な内装が一層その輝きを強調している。
目の前に広がる空間には、青白い光を受けてクリスタルのグラスがまばゆく反射し、棚には高級なボトルがぎっしりと並んでいる。
品揃えの豊富さに、思わず目を見張った。
香水と酒の混ざり合った甘い香りが鼻をつき、宇枝はその香りに軽く眩暈を覚えた。
普段なら気に留めることもない匂いだが、この場所ではどこか異様に強調されているように感じる。
そのせいで、ほんのわずかだが足元がふらつきそうになった。
だが、すぐに意識を引き締め、前に進む。
古西がスマホを取り出し、表示された写真をちらりと確認する。
ホールの中を見渡すと、ホールの一角で二人のホステスに挟まれ談笑している男を発見した。
人の顔を覚えるのが得意な宇枝は、すぐにその男が探していた人物であることを確信した。
指をさし、古西に男の位置を教える。
「諏訪辺潤一さんですか」
「そうだが。君たちは?」
古西は警察手帳を見せる。
「大崎署の古西、こいつは宇枝。磐田さんについてお話を伺いたいのですが」
諏訪辺は酔いの回った顔でにやりと笑い、手招きする。
「ほう、刑事さんか。一緒に飲もう、さあさあ座って座ってー」
宇枝は、男の動きに目を奪われた。
ホステスの太ももに手を這わせながら、舌先で唇を湿らせる。その表情に、宇枝の背筋がぞわりとした。
まるで肌を刺すような不快感が身体を駆け巡り、鳥肌が立ちそうになった。
心の中で――冷静になれ――と何度も自分に言い聞かせるが、それでも嫌悪感が拭いきれない。
二人が席の両サイドに座ると、ホステスがお酒を作り始めた。
「飲まないので」と、古西がその手を止めた。「磐田満夫さん、ご存じですよね?」
「もちろん、長い付き合いだ。行方不明のあいつを探してるんだろ。他のプロデューサーにも聞いて回っているそうじゃないか。悪いけど私は何も知らないよー」
諏訪辺はそう言って一口お酒を飲み、ホステスの手を握りながら笑顔を見せた。
宇枝は、諏訪辺の足元をちらりと見た。
昔、誰かが『金持ちを見分けるには靴を見ろ』と言っていたことを思い出す。
改めてその言葉が、目の前の男にぴったり当てはまるように感じた。
古西は冷静に質問を続ける。
「最近、磐田さんとお会いになりましたか?」
「覚えてないなぁー。たぶん、半年は会ってないよ」
「連絡を取ることはありましたか? 電話やメールでも」
諏訪辺はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、ロックを外しSNSの画面を表示させる。
「ほら」と、それを古西に投げて渡す。「そのやり取りが最後だよ」
古西は軽く頷いた。
どうやら、先に押収した磐田の通信履歴と一致したらしい。
それを確認すると、古西はスマートフォンを隣のホステスを通して諏訪辺に返した。
「では、何かお悩みの様子はありませんでしたか?」
「アレはさぁ、他人に悩みを打ち明けるような男じゃないよー」
宇枝は目を細めた。男の言葉が、どこか空虚に響く。
無意識のうちに、会話が無意味に思えてきて、顔に疲れが滲んだ。
「ビジネス関係で、最近変わったことは?」
「金に困ってた様子はまるでないねー。あいつは接待が趣味だからさ、うまい酒と、うまい肴をスポンサーにたらふく喰わす、それが唯一の楽しみみたいな奴だよ。変わってるだろ?」
男は愉快そうにケタケタと笑う。「あいつが独身なの知ってる?」
「ええ、まあ。奥様はお亡くなりになっていますね」
「そう……。子供もいなくて、親戚付き合いもない。天涯孤独さ。――だから他人の暖かさが恋しいんだろうねえ。いつも誰かと食事してるよ。そんなやつだからさ、あんたら苦労するだろうね。聞き取り調査で数年はかかるんじゃない?」
男はカクテルをぐいっと飲む。
諏訪辺の言葉が、宇枝の内側でじわじわと広がり、重しのように沈んでいく。
磐田の交友関係が多すぎて、自分たちだけでは追いきれない事実。疲れが一層募る。
「磐田さんは誰かに恨まれていませんでしたか?」
「しいて言うなら私かなー。親友であり、ライバルでもあったからね。まあ、プロデューサーなら誰しもあいつを恨んでいたさ」
「では、誰かを恨んでいたりしませんでしたか?」
諏訪辺はとても愉快そうに笑う。
「それも私だが。刑事さんが知りたいのはそれじゃないよな。――ん~、そうだなあ~、最近なら大束監督だろうなあ」
古西の眉がピクリと動く。
――きた!
宇枝は心の中でガッツポーズをした。
言葉にならない喜びが胸にこみ上げ、思わず力を込めて目を見開いた。
男の言葉が、急に意味を持ち始める。
諏訪辺はカクテルグラスをゆっくりと回す。
「――あいつが最近プロデュースした映画の、あれ、何て言ったっかなあ」
「<レジェンドファンタズム>ですか?」
「そう、それ。刑事さんならわかるだろ。あいつの噂を聞くと凄い嫌な奴だって。プロデューサーの地位を利用して好き放題。まるで暴君だ。――でもな、あいつはいい奴なんだよ。若手の俳優、若手の脚本家、若手の原作者。それらに光をあててやろうって、それがプロデューサーの仕事だって、いつもあいつは言うんだよ」
宇枝はその言葉に疑いを抱く。
話している内容が磐田の印象とあまりにも違いすぎる。
嘘を言い始めたのではないかと感じると同時に、今の話がどう大束監督に繋がるのか、全く予想がつかない。
諏訪辺はお酒をひとくち飲むと、息をふぅと吐く。
「でもな、スポンサーの手前、冒険はできない。成功を保証しつつ若手の育成なんて無理難題、普通ならやらない。それでもあいつは挑戦する。ネームバリューの高い大束監督なら未熟な若手でも良い作品が作れるはずだってね。仮に失敗したとしても大束監督ならスポンサーを損させない。そんな青写真を描いたのさ」
「確か、映画の評価は散々だったと」
「それな~。私にも理由はわからない。どこで歯車が食い違ったのか」
男がグラスを置くと、ホステスが新たに水割りを作り始める。
古西は眉をひそめ、疑問を口にする。
「先ほど話した、磐田さんが監督を恨む理由は、評価の低い映画を撮影したから、ということですか?」
「おっと、ちょっと誤解させる言い方だったかもな。恨みは映画の撮影が始まる前の話だよ」
「というと?」
「大束監督の名言しってるかね?」
「確か<売れない映画は撮らない>ですよね」と、宇枝が答えた。
「お嬢さん正解!」
諏訪辺が宇枝を見て言ったその瞬間、酒の臭いが鼻をつく。宇枝は無意識に顔をしかめる。
「あの監督はズルいんだよ。売れている俳優、売れている脚本家、売れている原作。――全てのピースが最高級で埋まらない限りメガホンを握らない。自分の名声に傷が付くのを極端に嫌うんだよ。わかるだろ? 監督と磐田は正反対のポリシーで作品を作っているのさ」
古西は腑に落ちない表情をしている。
「だとすると、今回の映画も、監督は売れると判断したから仕事を受けたはずですよね」
諏訪辺は古西を見て、少し馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
それは、おそらく、くたびれたスーツを着る古西からは、文学の香りが感じられなかったに違いない。
「刑事さん、は、原作読みそうにないなあ。お嬢さんはどう? 原作読んでみた?」
酔った男の目線が宇枝に向けられ、彼女は少し顔をしかめる。
「はい。行方不明に関係あるかもしれないので」
「映画、成功すると思った?」
宇枝は返答に困った。褒めれば、男が喜びそうだ。
しかし、男がそれを望んでいるようにも思えなかったので、素直に本心を答えることに決めた。
「ん~、正直に言うとイマイチですね。ありきたりな設定で目新しさはなく、話も浅くて登場人物の深堀がされていませんでした」
その答えに、諏訪辺は笑顔を見せた。
宇枝は心の中で正解を引いたと確信した。
「辛辣な感想だ。でも私も同意見なんだよ。――監督が仕事を受けたと聞いた時、この原作は若者向けの作品で、オッサンの私には理解できないのだと思い込んだ。――けれど映画が公開されてSNSをチェックすると若者の感想も散々だ。監督の審美眼も衰えたもんだと思ったねー」
諏訪辺は高らかに笑う。その声は、まるで『ザマアミロ』と叫んでいるかのように響く。
「うっぷぅ。ちょっと飲み過ぎたかな。余計なこと喋ってないといいけど。――ヨウコちゃん会計して」
ホステスが手をあげるとボーイがビルホルダーを持ってやってくる。
諏訪辺はスーツの内ポケットから光沢のある財布を取り出すと、明細の金額を見ずにブラックカードをボーイに渡した。
目を合わせない男からは、これ以上話す気はない、という強い意志が感じられる。
「ご協力ありがとうございました。何か気づいたことがありましたらご連絡お願いします」
古西は名刺入れから一枚取り出すと、諏訪辺に渡した。
「もう生きてないと思うけど、探してやってよ……」
諏訪辺はぽつりと呟いた。その声は、誰にも届かない独白のように乾いていた。