17.被疑者
宇枝怜菜は控室の薄暗がりに立ち、マジックミラー越しに取調室を見つめた。
向こう側は窓のない密室。
無機質な蛍光灯の光が壁に冷たく反射し、そこには時間の感覚すら奪われるような静寂が満ちている。
中央の無骨な金属製テーブルには、無数の傷と擦れ跡が刻まれ、ここで繰り広げられた幾多の対峙の余韻がこびりついていた。
宇枝はふと息を詰める。
こうして傍観者として眺めていると、この部屋は舞台のようにも見える。
決められた配役があり、役者たちがそれぞれの台詞を演じ、どちらかが優位に立つまで言葉をぶつけ合う。
未熟な自分は、まだ、その舞台に立つ資格はない……。
宇枝の隣では、古西勝之が仏頂面のまま沈黙している。
彼は、厳しい演出家のように、舞台を厳しい眼差しで見つめていた。
取調室のドアが開き、三人の男たちが入ってきた。
中猪一也の歩調は緩やかだった。焦りも警戒も感じさせない。
くりっとした瞳が、一瞬だけこちらを見やる。まるで――楽勝だろ――とでも言うように。
その後を、冷静な面持ちの若い男が続いた。
最後に制服姿の警察官が控えめな足取りで入室する。
中猪と若い男が中央の椅子に腰を下ろし、警察官は別のテーブルに着いて調書を書く準備を始める。
宇枝はマジックミラー越しに目を細める。
今から始まるのは、言葉の攻防戦。
呼吸の間、視線の揺れ、わずかな沈黙の重み。
そのすべてが、この部屋では武器になりうる。
彼女はそのやりとりを、まるでリングサイドで観戦するように見つめた。
「まずは名前を教えてもらおうか」
友人に語り掛けるような優しさで中猪が話しかける。
「夜城沢です」
二十代後半と思われる男は、ジーンズにパーカーというラフな装い。
一見、どこにでもいる普通の若者にしか見えない。
犯罪に手を染めるような印象はない。
――違う、そう見えるだけかもしれない。
先入観にとらわれれば、真実は遠のく。
宇枝は心の中で自らを戒める。
「そんなに緊張しなくていい、ライブ会場での事故の話を聞きたいだけだから。――ステージの設営は慣れてる仕事だろ?」
「いいえ。アルバイトです」
緊張している素振りは微塵もない。それどころか、余裕すら感じられる。
何かを隠している? あるいは、本当に無関係だからこその落ち着き?
「ほう、アルバイト。――普段は何をしているんだ?」
「撮影の手伝いです」
「手伝いねぇ。――君、<大束スタジオ>の社員だろ? あの有名な大束監督の」
「はい」
「どうして隠す?」
「隠してません」
否定の言葉はすんなりと出てきた。
宇枝は彼の表情を見つめる。
視線の動き、まばたきの回数、喉仏のわずかな上下。どこにも迷いの影がない。
動揺の気配はなく、嘘をついているのかどうかさえ判然としない。
――見抜けない。
自分の未熟さが痛いほどに身に沁みる。
「映画の撮影スタッフなら照明にも詳しいだろ? プロの目から見て、あのライトが自然に落ちるなんてこと、あると思うか?」
「あるんじゃないですか。事故なんてのは、偶然が重なり起こるものですから」
中猪の眉毛がピクっと動く。
「ライブ当日、あんたが最後にライトのチェックをしたのはいつだ?」
「してません」
「君がライトに細工しているのを見たやつがいるんだよ」
「見間違いじゃないですか」
宇枝の混乱が深まる。
ドラマで見るようなわかりやすい動揺は、彼にはない。
この落ち着きようは一般人のそれなのか、それとも、巧妙に嘘を貫く技術なのか。
中猪はスーツの内ポケットから折り畳まれた履歴書のコピーを出して彼の前で広げた。
「これ、君だよね? どうして偽名を使った?」
「事務所はアルバイト禁止なんですよ」
中猪の表情が険しくなる。先ほどまでの柔和な態度が、じわじわと剥がれ落ちていく。
「後ろめたいことをするつもりが最初からあったんだろ?」
「誘導尋問ですか?」
彼は、悪びれた様子もなく、感情の揺れを微塵も見せない。
「ライトの落下事故、見てたよな」
「はい」
「おまえがやったんだろ?」
「いいえ」
中猪は彼を睨みつける。だが、相手は揺るがない。中猪の拳に力が入り、宇枝の目にもわかるほど血管が浮き出ている。
「事故のせいであの子は引退したんだぞ。何も感じないのか」
「お気のどくだと思います」
その声色に、ほんのわずかでも罪悪感を探す。
だが、そこにあるのはただの空白。
宇枝の胸に、名状しがたい焦燥が渦巻く。
それが怒りなのか、悔しさなのか。
自分でも、まだ分からない。
中猪の息がわずかに乱れた。短く鋭い吸気。
その微細な変化に、宇枝は彼の怒りが限界に近づいていることを悟った。
「あの子に個人的な感情でもあったか?」
「べつに」
「どうしてこんなことをしたんだ? 何か理由があったんだろう?」
「濡れ衣ですけど」
中猪は机を強く殴る。
「おまえがやったんだろう!!」
その声は取調室を震わせた。
宇枝は驚き、肩をすくめた。
心臓がドクドクと激しく鼓動し、ふと気づけば、無意識のうちに両手を固く握りしめていた。
胸の中で広がる不安が、彼女を包み込むように強くなり、反射的に高まった緊張感が身体の隅々まで浸透していく。
けれど、隣の取調室から響く中猪の怒声に対して、彼は驚いた様子もなく、まるで予測していたかのように淡々と返す。
「急に大声を出さないでくださいよ、びっくりするじゃないですか」
彼は口角を少し上げ。「あまり威圧的な態度をくりかえすと違法行為ですよ」
宇枝はその冷静さに、一瞬自分の鼓動が大きすぎることを恥じたような気がした。
それでも、心臓の音は依然として響いており、彼女の胸中にある不安は簡単には消えなかった。
「凄い迫力……。でも彼、ピクリともしませんね」
「映画のスタッフなら、取調室のシーンを間近で何度も見ているだろう。慣れていて当然だ。それに、弁護士を呼べと言わないだけ協力的かもな」
――協力的? 挑発しているようにしか見えませんけど。
心の中で呟くけれど、その疑問を口に出すことはできなかった。
古西の評価は一体、何を基準にしているのか、聞けば答えてくれるだろう。
しかし、今、彼の目は取調室に集中していて、邪魔をしてはいけないという気持ちが喉の奥で固まってしまった。
「映画の撮影では爆破シーンの仕掛けなどを担当していたようですね。もしかすると行方不明の神戸にも関与しているんでしょうか」
「今日、家宅捜査が行われているが、物的証拠が出なければ奴の犯行を立証できない。あの落ち着きかたは余裕の証でもある。――このままだと自供は難しいだろうな……」
古西は苛立ちながら頭をゴリゴリとかいた。
「犯行の動機はなんでしょう。関係者の話では映画の撮影まで喜岡との接点はないらしいですけど」
「SNSのせいで、接点のない他人から恨まれる事案が増えているからな、面識だけで判断できない嫌な世界になったもんだ」
古西は大きな溜息をつくと、控室から出ていった。
「え?」
突然の行動に、宇枝はまぶたをバチバチとしながら、呆然と動けずにいた。
古西が突然、取調室に足を踏み入れた瞬間、宇枝の目は驚きで見開かれた。
自分たちは部外者だ。
取調室に立ち入る権利は無いはずなのに、なぜ古西はそのルールを平然と無視しているのか。
宇枝の頭の中ではその問いが何度も反響し、答えが見つからない。
中猪が困った様子で、言葉を荒げた。
「おい、勝手に入ってくるな」
「すぐ済む」と、古西は中猪を押しのけて中へ進む。
古西は、机に片手をつく。
その姿は、威圧的で冷徹な印象を与える。
夜城に向けられた視線は、まるでヤクザのように上から下へと降り注いでいた。
「おまえ、映画のロケにいたよな」
その言葉に、宇枝は瞬時に反応した。
喜岡には悪いが、今の自分たちにとって最も重要なのは行方不明者の捜索だ。
夜城がその事件にどう関わっているのか、それが気がかりで仕方なかった。
「映画? どれのことっすか」
「神戸と磐田が消えたやつだ、とぼけるな」
「ああ、あれね。いましたけど」
「おまえは砂浜での爆破を担当していた。そうだな」
「はい」
「なぜ神戸を殺した?」
「意味が分かりません」
――そんなはずない!
宇枝は心の中で叫んだ。
確信はなにもない。事情聴取でも彼は怪しい態度を示さなかった。それでも、女のカンが強く鳴り響く。
古西は夜城の胸ぐらを掴み、そのまま力任せに引き上げた。
二人の顔が鼻先一つの距離まで近づく。その迫力に、宇枝は息を呑んだ。
「なら神戸はどこに消えた?」
「どこって、異世界に転生したんでしょ」
夜城の声は冷静で、まるで何事もなかったかのように響いた。
「そんな戯言が通用するとでも思っているのか!」
「俺が言ったんじゃない。喜岡って子が言ったんですよ。スタッフ全員が聞きました。俺もそうかなって納得しただけっすよ」
中猪が二人の間に割って入る。
「おい、もういいだろう。これ以上は別件逮捕と言われかねない」
古西はようやく手を放し、夜城は椅子にドサリと座り込んだ。
事情聴取は勝ち負けではない。それは宇枝にもわかっている。
けれど、夜城に負けた。そう感じずにはいられなかった。
その悔しさが腹の底からこみ上げてくる。
中猪に背中を押されながら、古西は取調室から追い出された。
宇枝は控室から飛び出し、古西に駆け寄った。
「どうしてもっと追い詰めないんですかっ!」
宇枝の怒号を古西はさらりと受け流す。
「俺は当て馬なんだよ。ダルマは俺が乱入するのを初めから計算してた。責任を俺に押し付けて、夜城を動揺させようとしたんだ。まあ、結局あいつは尻尾を見せなかったがな」
「ええええ」
――何なのこの人たちは……。
思考が追いつかない。頭が混乱して、何を考えればいいのかすら分からなかった。
「夜城はダルマに任せておけばいい、俺たちは消えた磐田を探すぞ」
「あ、はい」
宇枝は、言葉の意味が理解できぬまま、ただ気の抜けた返事をしたのだった。