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16.マンション

 夜風が高級マンションの外壁をかすめ、冷たい空気に金木犀の香りが絡みついた。

 星々は澄みきった夜空に冷ややかな光を放ち、静寂の中で瞬きを繰り返していた。

 マンションの一室に繋がる廊下には、間接照明が灯り、ほのかな光が足元を優しく照らしていた。


 賢者役を演じた内山幸喜(うちやまこうき)は、千羽翔哉(ちばしょうや)に呼ばれて彼の自宅を訪れていた。


 重厚な玄関のドアには精巧な彫刻が施されていた。

 インターホンを押すと、スピーカー越しに千羽の声が聞こえた。

「どうぞ」

 その直後、玄関の電動キーがひときわ静かに音を立てて解除された。


 玄関を開けると、大理石の床がほのかに光を映していた。

 左手にはシンプルな靴箱があり、その上には小さな花瓶が置かれ、秋の花が生けられていた。

 花々の色彩が玄関に豊かな生命を吹き込み、その場を穏やかに包み込んでいる。


「いらっしゃい」

 廊下の奥から千羽が姿を見せた。軽く笑みを浮かべながら、ゆったりと歩み寄る。


「すごい家だな、さすがは超売れっ子」

 内山が感想を漏らすと、千羽はわずかに肩をすくめた。

「僕はね、ここ、あまり好きじゃないんだ。実家は貧乏だったからさ、狭くても温かみのある家が好きなんだよ」

「贅沢な悩みだ」

 内山は軽く唇を引き結び、鋭い笑みを浮かべた。

「さあ、どうぞ」


 千羽に先導され玄関を抜ける。

 光沢を放つフローリングの廊下を進むと、広々としたリビングが視界に広がった。

 高い天井と大きな窓が開放感を生み、大型のソファが置かれた空間には温かみのあるラグが敷かれている。

 壁にはフラットスクリーンのテレビが設置され、テーブルの上にはリモコンが置かれていた。

 窓の外には、夜の街が広がっている。


「わざわざ来てもらって悪いねー」

「外で話す内容じゃないから仕方ない」

「お酒飲む?」

「いや、酔いたい気分じゃない」

「そっか。じゃあコーヒーでも入れようか。座ってて」

 内山はソファに腰を落ち着ける。


 千羽はリビングの一角にあるスタイリッシュなキッチンへと向かう。

 ステンレスの調理器具が規則正しく収まり、カウンターには一切の汚れが見当たらなかった。

 千羽はコーヒーメーカーを取り出し、丁寧にセットを始めた。


 数分後、カップに注がれる濃い琥珀色の液体。

 コーヒーの湯気が立ち上り、ほのかに甘い苦みが空気に混じった。

 千羽はカップを手に取り、テーブルへと運んだ。


「ありがとう」

 内山は湯気の立つコーヒーを口に含む。

「――美味しい」

 深い味わいが、彼の緊張をわずかにほぐした。

 千羽は、それを見て静かに微笑んだ。


 内山の表情が引き締まる。

「詳しい話、聞けたんだろ」


 千羽の表情が一変し、代わりに真剣な眼差しが浮かぶ。

「うん。喜岡さんの事故は、意図的に仕組まれていたらしい。<空色クローバー>の古我(こが)さんから直接聞いた」

「そうか」

「驚かないんだね」

「千羽さんから声をかけられた時から、そんな気はしてた。たぶん映画のスタッフが犯人だ」

 二人は琥珀色のコーヒーをじっと見つめ、言葉を交わさない。



 しばらく沈黙が流れた後、千羽が口を開いた。

「理由はなんだと思う?」

「俺の推理が正しければ、犯人は映画の撮影に反対していた。けれど俺が無理を通して映画を完成させたから逆恨みしたんだ」


 千羽はゆっくりと首を振る。

「僕は違うと思う。その理由が正しければ。あの島で僕たちは殺されたはずだよね」

「執行猶予だ」

「執行猶予?」

 千羽が驚き、手に持ったカップがわずかに揺れた。


「映画の評判が良ければ報復する気はなかっただろう。けれど結果は酷いものだ」

「僕たちは精一杯努力したじゃないか」

「努力と評価が一致しないなんて、この業界で生きていれば嫌でも知るだろ」

「理不尽だよ」

 千羽は視線を落とす。


「過程はどうであれ、犯人は刑を執行する気だ。千羽さんや石河さんも標的のはずだ。――岩見さんには俺から連絡入れとく」

「内山さんは怖くないの?」

「あの島で犯人と取引したときに覚悟はできていた」

 内山の瞳に怯えの色は見当たらない。


 千羽は大きな溜息をつき、苦笑を浮かべた。

「強いなあー。それも愛する人のためなのかい?」

「恥ずかしい台詞はカメラの前で吐けよ」

 内山は照れ隠しにおどけた表情を作る。


「でも、彼女は内山さんのこと嫌っているよね。それでも守るのかい?」

「叶わぬ恋。――もともと分不相応なのは承知している。だけど、彼女のためなら俺は何だってする」

 内山はふっと息を漏らし、窓の外へ視線をやった。

 ビルの明かりが瞳に映る。


「切ないなあ。僕なら内山さんを推すよ」

「イケメンが目を潤ませるな。変な気分になるだろ」




 二人はぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。

「――好きな人を悪く言うのは失礼だと思うけどさ、彼女のどこが好きなの?」

「全て」

 内山は一瞬もためらうことなく、答えを口にした。


「え、それってガチ? も少し詳しく!」

 千羽は興味津々といった表情を浮かべた。


「スクリーンの中の彼女が光って見えた。あの時、ああこの人は正真正銘の女優なんだって、もう目が離せなくなってた」

 照れくさそうに語る内山を、千羽はどこか羨ましげに見つめた。

「それで?」

「映画の撮影が始まって、生の彼女を見たとき、小学生かと思った」

「は?」

 予想外の展開に、千羽は目を大きく見開き、思わず言葉を失った。


「彼女はね、メンタルがとても弱くて感情の浮き沈みが激しいんだ」

「ありえない、彼女は鋼の女王様だよ」

「いや、ガラス細工の女王様さ。そんな彼女を支えているのがマネージャーの岩見さんだ。あれはたぶんマインドコントロールだな」


 内山の言葉に、千羽は首をかしげる。


「彼女は天性の女優だ。常に強い女王様を演じている。でも、仮面を外せば気の弱い女の子の顔が見え隠れする」

「気がつかなかった。――それで、内山さんは小学生が好きだって結論になるんだね」

「曲解がすぎるだろ」


 内山は残りのコーヒーを一気に飲み干し、カップをテーブルに置く。

 その時、彼は一つの決意を胸に抱いて、静かに言葉を紡ぎ始めた。

「ただ、俺は、気の弱い彼女を支えたい、そう思ったんだ。――岩見さんのマネはできない。けれど、遠くから守るくらいなら俺でもできる……」


 内山は両手の指をぎゅっと組み合わせ、痛みさえ感じるほどに力を込めながら、かすれた声で言葉を絞り出す。

「本当は犯人と取引なんてしたくなかった。――あの時、深く考えずに、ただ……、ただ、彼女を守りたかっただけだった。神戸さんの捜索も、あの場から一秒でも早く彼女を遠ざけたかった。彼女に冷静になって欲しかった。岩見さんがフォローしてくれると信じてた」

 内山は過去を否定するように首を振った。

「けど、無駄だった……。犯人探しを始めそうになる彼女を見て、どうしても放っておけなかった。――俺が犠牲になれば、少なくとも……、少なくとも彼女に危害は及ばないだろうと……。なんて、浅はかな考えだったんだろう」

 少し黙った後、内山は苦々しく口を開いた。

「結果的に、俺が選んだ道は誰かを犠牲にすることだった。喜岡さんが引退した理由を考えると、胸が苦しくなる。彼女がどんな思いでその決断をしたのか、想像すらできない。でも、それも俺のせいだ。俺が取引を持ちかけたから……。映画を完成させることで犯人の気が変わればいいなんて思ったから……。そのせいで、喜岡さんはすべてを失ったんだ」

 辛そうな表情を浮かべながら、内山は少し言葉を詰まらせた。

「それがわかっていたはずだ。最初から。――けれど、あの時の俺は、ただ目の前のことに必死で、それが最善だと信じて疑わなかった……。だが今になって、あんな決断をした自分が許せない。喜岡さんを引退まで追い込んだ俺自身が許せない」

 深く息を吐き、内山は目を閉じた。

「それでも……。間違えているとわかっていても……。俺は、まだ、彼女を守りたいと思っている。――守りたいんだ……」



 二人は視線を逸らし、しばらく沈黙が続いた。



 千羽も内山のように、残りのコーヒーを一気に飲み干し、カップをテーブルに置く。

「あの場にいた俳優全員が撮影の継続に賛成したんです。内山さんひとりのせいじゃないよ」

 千羽は軽く肩をすくめ、ふいに息を漏らす。

「僕はね、ガチでどーでも良かったんです。神戸さんと磐田さんが行方不明になったのも、映画が撮影中止になりそうだったのも。好きにすればって、そう思ってた」

 千羽は口角を上げ、どこか軽薄な笑みを浮かべた。

「僕はね、あまり他人に興味ないんだ。人を殺すほどの恨みも、憎しみも、そんなのフィクションの中だけでいい。現実世界に持ち出さないで欲しい。僕の知らない所で勝手にしてって感じ」

 千羽は苦笑いしながら頬をかく。

「僕が他人と距離を置くようになったのには理由があるんです。子供の頃から、容姿に恵まれていたせいで、周りから注目されることが多かった。でも、それがあまりにも重荷だったんです。――男子からの好意もあったけど、それと同時に恨みや嫉妬も生まれて……。異性同士の争いにも巻き込まれたし、気づけば人間関係がどんどん面倒くさくなっていった」

 肺の空気を絞り出すように、息を吐き続けた。

「他人の悪感情に巻き込まれるのが嫌いなんだ。あんなもの、もう近づきたくない。それがどんな感情でも……。だから、犯人が人を殺すほどの憎しみを抱くなんて、理解できないんです。――僕には、その感情がどんなものか全然わからない。だって、そんな感情に触れたくもないし、気づきたくもない」

 千羽の表情は一転し、ふっと柔らかい笑顔になる。

「でもさ! 内山さんのことを考えると、少し羨ましいって思うんだよね。純粋に彼女を思う気持ちがある。それが、すごく素直で素敵で……。僕にはそんな気持ちを持てる余裕が、もうないのかもしれない」

 千羽はふっきれたように爽やかに語る。

「だから! 僕はあんな事件に関わりたくないし、犯人に対して興味も持ちたくないんです。何も知りたくない。――ただ……、ただ、遠くから見ているだけでいい。それが一番、楽だから」



 内山は星空をじっと見つめ、しばらく黙っていた。

「――感情か、確かに犯人の動機について、あまり考えていなかったな……」



 内山は静かに思考をまとめると、ようやく口を開いた。

「これ、あくまで仮説だけど。<大束スタジオ>内で、映画撮影の継続を巡って賛成派と反対派の間で激しい対立があったんじゃないかと思う」

「対立?」

 千羽が首をかしげた。

「あの島で撮影続行の決断が下された時、助監督の並川さんが異常に反応したこと、今でも覚えてる。あれから察するに、助監督と撮影スタッフは反対派、監督と、神戸さん磐田さんは賛成派だった。それが理由で、二人が消されたんだろう」

「えっ?! 助監督も犯人?」

 驚きのあまり、目を大きく見開く。

「たぶんな。――証拠はないから逮捕は警察に任せるしかないけど……」

 内山は深い落胆の溜息を吐き出す。「いったい、いつになったら捕まえるんだか」


「ホント頼りないよね」

 千羽は肩をすくめると、少し表情を変えた。「それでさあ、犯人の話はどーでも良くて、彼女のこと、遠くから見てるだけなの? 告白は?」

 彼の目が輝き、体が前のめりになる。


「他人に興味ないんだろ?」

 内山は少し呆れた顔をする。


「内山さんは戦友だと思ってますよ。それで、彼女のことは父性愛的な感情しか持ってないんですか?」

「それは違うぞ。俺は彼女のことを大人の女性として見ている」

 男らしいと言えるかはわからないが、すこしだけ性的な笑みを滲ませる。

「ほうほう、そのあたりの話を詳しく聞こうじゃないかぁ~。夜は長いんです。男同士で恋バナに花を咲かせましょう」


 お酒が入り、舌がなめらかに滑ると、二人は夜遅くまで互いの心の中を語らい合ったのだった。


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