12.楽屋
映画館の楽屋は、まるで異世界のような雰囲気に包まれていた。
外の光がまったく差し込まない、ひどく閉塞的な空間。
壁は無機質な白に塗られ、どこか無味乾燥で冷たい印象を与える。
その白い壁には、無数の鏡が並び、まるで果てしなく続く世界のように感じられた。
空気はひんやりとしており、部屋全体に静けさが漂う中で、俳優たちは椅子を円形に並べて静かに座っていた。
千羽翔哉と石河優唯、そして内山幸喜が集まっていた。
内山は石河に視線を向けたが、すぐにそれを外して、気づかれないようにした。
久しぶりの再会に胸を焦がすが、その気持ちを悟られぬよう、必死に平静を装おうとした。
石河が笑った瞬間、内山の胸は切なくなり、思わず息を呑んだ。
わずかに開く扉の隙間から幹マネージャーの姿が見える。
彼は楽屋の外に立ち、電話しているフリをしながら、誰かが来ないか見張っている。
岩見マネージャーは石河のすぐ後ろに立ち、彼女を心配そうに見守っている。
冷静さを保ちつつも、どこか緊張した様子が隠しきれない。
「内山さん、マネージャーは?」と、千羽が声をかける。
内山は少しだけ肩の力を抜いて答える。
「今日はもうスケジュール入ってないから先に帰ってもらった」
「なら時間は大丈夫だね。僕は一時間くらいなら平気」
「優唯も一時間くらいなら問題ありません」と岩見マネージャーが加える。
内山は、俳優たちの忙しさを改めて実感した。
時間に縛られ、どこにいてもそのスケジュールに追われている。
彼らと自分とでは、明らかに立っているステージが違う。
そんなことはわかっていたはずなのに、こうして並ぶと、改めてその差を突きつけられる気がした。
「それと、喜岡さんは次の収録があるので帰られました」
岩見マネージャーの言葉に、千羽は軽く頷いた。
「それは仕方ないね。後から情報は流しておくよ」
内山は少し驚き、思わず視線を向けた。
――情報を流す? ということは、千羽は喜岡の連絡先を知っているのか?
だがすぐにその思考を押し込める。
自分は千羽の連絡先を知っているが、他の俳優のものは一切知らない。
こういう些細なところで、人間関係の広がりの違いを見せつけられる。
「あと、丘元さんは帰ってもらった。彼は関係ないからね。それに、結構落ち込んでいたから」
その瞬間、石河が言葉を発する。
「神戸さんが戻るかもしれないって理由で、スケジュールぎりぎりまで代役を隠すなんて、ひどすぎる。それに、神戸さんや幹さんの演技にアフレコさせられるなんて、俳優としてのプライドを踏みにじられたも同然よ」
彼女の言葉を聞いた瞬間、内山の胸の奥が僅かに痛んだ。
アフレコの提案をしたのは、内山自身だ。
しかし、石河がこんなに怒っているのを見て、心の中で申し訳なさがこみ上げてくる。
「優唯、その辺にしましょ。丘元さんも事情を承知して代役を引き受けたんですから」
と、岩見マネージャーが冷静に制止する。
「わかってる。ちょっとイラッとしただけよ」
石河はそう言ったが、その表情にはまだ怒りの余韻が残っていた。
岩見が優しく彼女の頭を撫でる。
その仕草を見ながら、内山は、羨ましいとさえ感じていた。
「ところで、あれから警察に何か聞かれたか?」
内山は、千羽と石河を交互に見ながら聞いた。
けれど、二人は首を横に振るばかりだった。
「いったいどうなっている……」
内山は鈍重な警察の動きを目の当たりにし、苛立ちと共に無力感が込み上げてきた。
思わず、現状の進展のなさに舌打ちをしたくなる自分がいる。
「岩田さんと神戸さんのニュースは一日だけ流れた。それも別の日にだ。誰も関連づけていない」
心の奥で不安が膨らんでいくのを感じる。
だが、石河が口を開いた瞬間、内山は不意にその思考を引き戻された。
「スタジオに来た刑事、とても頼りなく感じたわ。あの人じゃ真相に辿りつけないと思うのよね」
彼女の声が耳に入った瞬間、内山の胸に温かさが広がるのを感じた。
どこか冷徹に思えるその言葉すら、彼にとっては心地よい響きだ。
内山は表情が緩まないよう、口元を引き締め、続けた。
「だからと言って、俺たちが情報を流すのは危険だ」
「どうしてよ?」
「今だに逮捕されていないということは、それだけ巧妙に証拠を消している可能性が高い。島での出来事を説明しても警察が動いてくれる保証がどこにもない」
その予測が、部屋の空気を一層重くする。
そのとき、千羽の声が不意に軽く響いた。
「あのさあ、犯人が逮捕されていないんじゃなくて、実は、犯人なんていないんじゃないかな?」
その瞬間、内山の胸に冷たい風を吹き込んだような感覚を覚えた。
千羽がそう言った時の顔が、あまりにも軽薄で、それが逆に不安を誘う。
石河が首をかしげながら反応する。
「どういうこと?」
「つまりね、二人とも本当に異世界転生したんじゃないかな」
「え?」
「あの島で、内山さんは推理を披露したよね。けれど、誰も無実を主張しなかった。疑われたのは砂を掘りおこしたスタッフたちなんだけど、その誰もが黙ったまま怒りもしない。そんなことあると思う?」
石河は少し黙り込み、しばらく考え込んだ後、直感的に答えた。
「そうね……。確かにそうかもしれない」
内山は彼女の同意に眉をひそめる。
あの島で、推理をする前に、『疑われても弁解しなくていい』と釘を刺した自分の言葉が、今になって意味を持っているのだろうか。
千羽の指摘に対して、内山の心の中で何かが揺れ動く。
まさか、この可能性もゼロではないのかもしれないと思い始める。
だが、内山の頭の中で、矛盾した思考が交錯する。
改めて『異世界転生説』が本当だとすれば、神戸は一体どこへ消えたのか。
あの島で起きた出来事の数々が、どうしても辻褄が合わない。
「君は異世界転生を信じていなかっただろ」
内山は冷静に石河を見つめながら口を開いた。
石河の顔が一瞬硬直し、次の瞬間、不愉快そうな表情が浮かんだ。
「納得したのはソコじゃないわ。あなたの推理が間違えていたことに納得したの」
内山の中で、その表情を見た瞬間から、何かが引っかかる。
もしかして、彼女はまだあの島での出来事に関して、内山に対して恨みを抱いているのだろうか。
あの時、彼女を言いくるめて意見を押し込んだ。
その悔しさがまだ残っているのか、それが今の彼女の反応に繋がっているのか。
だが、理由ははっきりしない。ただ、彼女の反応には、嫌悪感とライバル心が感じられた。
「神戸さんが消えたトリックは正直に言って私にはわからない。けれど、大勢のスタッフが関与しているとは思えないわ」
彼女の言う通り、神戸の消失にスタッフが関与していないのなら、何か別の理由があるはずだ。
だが、その理由を解き明かす手がかりが、どこにも見当たらない。
「そもそも私は喜岡さんが怪しいと初めから疑っていたの」
喜岡が怪しい? その視点が、どうしても納得できない。
あの島で、彼女と喜岡は口論していた。それが理由なのだろうか。
「彼女のどこが怪しいんだ?」
「異世界転生なんて突拍子もない話をして皆を混乱させたでしょ」
自分が納得できなければ相手を完全否定する。
そんな彼女の頑固な一面が、論理を飛び越えて極端な結論を導き出した。
内山は床に視線を落とし、頭をかかえた。
きっと、どれだけ説明しても、石河に話が通じることはないだろう。
このままでは、事態が収束することはない。
だが、ひとつだけ確信していることがあった。
それは、石河が喜岡を犯人だと疑っている限り、スタッフたちを刺激することはないだろうということだ。
むしろ、そのほうが安全かもしれない。
「うん、わかった。俺の推理は間違えていた。石河さんの言う通り、彼女が犯人だ。それならきっと警察も簡単に逮捕できるだろう」
内山は自分の本当の願望を心の奥底にしまい込むことに決めた。
彼が本当に望んでいるのは、事件の真相を解明することではなく、石河の身の安全を守ることだった。
だから、真実が明らかにならなくても、彼女が無事であればそれで良かった。
「でしょ!」
石河はまるで自分の意見が全て正しいかのように、得意げな笑顔を浮かべた。
その勝ち誇った表情を見た内山は、胸の中で自然と優しさが広がっていった。
「だから、俺たちはもう何もしなくていいはずだ。違う?」
と、これ以上、事件に首をつっこまないよう釘をさす。
「そうね、頼りないけど、あの刑事さんでも逮捕できるはずだわ」
「よし! 解散! 島での思い出は全て忘れよう」
内山の声には、少しだけ力が込められていた。
「あ~スッキリした。もう怯える必要はないのね!」
彼女の表情は、長く苦しんだ便秘が解消されたような清々しさだ。
その時、千羽が軽く内山の肩を叩いた。
励ましと同情の気持ちが込められているのがわかる。
だが、その感触が内山にとって、一層の孤独感を呼び起こしてしまうような、そんな複雑な思いが胸をよぎった。