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10.解析結果

 車内には微かにコーヒーの香りが残っていた。

 数時間前、古西勝之(こにしかつゆき)がコンビニで買った缶コーヒーの名残だ。

 宇枝怜菜(うえだれいな)はハンドルを握りながら、昼の街を滑るように走っていた。


 助手席の古西が、着古したスーツの内ポケットに手を入れる。

 微かな布擦れの音。

 彼は取り出したスマートフォンの画面を眺めた。


 通知のタイトルが宇枝の視界に入った。

『解析が完了しました』

 科捜研からのメールだ。


 古西の口元がわずかに歪んだ。

 普段の気だるげな表情が、かすかな昂揚に染まる。

 ニヤリと笑うその横顔に、宇枝は目を奪われた。


「科捜研へ向かえ。解析結果を見に行くぞ」


 低く、それでいて確かな熱を帯びた声。

 いつもは気の抜けた態度ばかりの古西が、珍しく前のめりになっている。

 その変化を感じ取ると、宇枝の胸が弾んだ。

「りょ~かいっ!」

 弾む声で返すと、彼女はアクセルを踏み込んだ。




△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼




 宇枝は、廊下の白いタイルを踏みしめるたびに、自分の足音がやけに大きく響くのを感じた。

 科学捜査研究所(かそうけん)。何度も耳にしたことはあるが、実際に足を踏み入れるのは初めてだ。


 壁際には無機質な金属製の棚が並び、すれ違う職員たちは皆、白衣をまとっている。

 そのせいか、所轄とはまるで空気が違う。

 微かに漂う薬品の匂いすら、この場所特有のものに思えた。


 研究員たちが忙しなく動く中、一人の女性がポニーテールを揺らしながらこちらへ向かってきた。

「古西さん、お久しぶりです」

 明るく澄んだ声。研究員の女性は柔らかい笑みを浮かべている。


「おう、ヒーロー。元気にしてたか」

 古西が微笑んだ。

 その表情に、宇枝は思わず目を見張った。

 いつも仏頂面の先輩が、こんな風に表情を緩めるなんて、珍しい。


「ヒーロー?」

 思わず宇枝が問い返すと、研究員の女性は少し照れたように頬を指先でかいた。

「初めまして、居藤海空(いとうみく)です。特撮ヒーローが好きなので、そう呼ばれているんです」

 照れた笑顔が可愛らしい。宇枝より少し年上だろうか。

 落ち着いた雰囲気の中に、親しみやすさがある。


「先輩とはお知り合いなんですか?」

「はい。古西さんが捜査一課にいたときに、何度か無茶なお願いをされまして」

 居藤は苦笑いを浮かべるが、その表情はどこか楽しげだった。

 本当に嫌がっている様子ではない。むしろ、懐かしさのようなものが滲んでいるように見えた。


 ――無茶なお願い。

 宇枝はその言葉を反芻し、古西の横顔を盗み見る。

 あ~なるほど、昔からそうだったのね。なら左遷も無理ないか。

 そう思いながらも、妙に納得してしまう自分がいた。


「わかる~」

 思わず共感すると、即座に古西の鋭い視線が飛んできた。

 宇枝は肩をすくめる。


「解析結果ですが」

 居藤の声がわずかに低くなる。「プライバシーに深く関わるデータが含まれていました。そのため、ノートパソコンは本部預かりとなります。会議室を取りますので、データの閲覧はそちらでお願いします」


 ――プライバシー?

 宇枝の背筋に、嫌な感覚が走った。




△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼




 会議室に入ると、狭さに一瞬息苦しさを覚えた。

 薄暗い室内の空気は重く、窓もないせいか、時間が止まったように感じる。

 壁の色も淡い灰色で、どこか冷たい印象だ。

 狭い部屋には古びた会議机と、少し擦り切れた椅子が並んでいるだけ。


 古西が椅子に座る。いつものように仏頂面をしているが、今はどこか期待に満ちた雰囲気を漂わせている。

 宇枝はそんな古西の隣に座り、無言で待機する。





 少しして、居藤が白衣の裾を軽やかに揺らしながら会議室に入ってきた。

「お待たせしました」

 彼女は、持ってきた閲覧用のノートパソコンを机の上に置いた。

 電源アダプターやマウスを接続する。


「なあ、ヒーロー。最近、仕事はどうだ?」

 古西の言葉に居藤が少しだけ手を止めた。


「忙しいけど、相変わらずかなー」

 居藤の声は穏やかで、どこか遠くを見つめているような印象をうける。

 それから少し間をおいて、「だけど、古西さんが捜査一課を出てから歯車が抜けた感じがしますよ」と続けた。

 居藤の言葉に、宇枝は微かな興味を抱く。


 古西が驚いたように眉をひそめ、質問を返す。

「何か問題でもあったか?」


 居藤は少し息を吸い、軽く肩をすくめる。

「いや、そんな大したことじゃないけど……。息苦しくなったって噂は聞きますね」

「煙たがられていた俺がいなくなって、息苦しい? おかしな話だ」

 古西は軽く笑いながら言ったが、その笑顔の奥に、少しの哀愁を感じる。


「古西さんは壁に穴をあける人でしたからね」

 冗談めかして言う居藤の言葉には、古西への複雑な感情が混じっているように感じられた。


 居藤は白衣のポケットから二本のUSBメモリを取り出して、慎重にノートパソコンに差し込んだ。

「このUSBメモリには、スマートフォンの連絡先、電話番号、メールアドレス、通話記録、SNSアカウントのアドレスと通信記録が抜き出してあります。それと、こちらのUSBメモリにはノートパソコンに保存されていた動画が保存してあります」

 居藤の声は淡々としているが、その言葉には重みがあった。


 宇枝の胸に、ざわりとした感覚が広がる。


 居藤の言葉に、古西の顔がわずかに硬くなり、その表情に、張り詰めた緊張感が漂い始めた。

「動画?」と、古西が低い声で反応する。


「はい。プライバシーに深く関わるデータですので、こちらのUSBメモリは持ち出し厳禁です」


 居藤の言葉に、宇枝の胸がわずかに締めつけられる。


 居藤は、ノートパソコンの電源を入れ、素早く操作を始める。

 画面には二つのフォルダーが表示された。

 フォルダーの名前は、<スマートフォン>、<ノートパソコン>と、単純で明確だ。


「帰る際、私に声をかけてください。――では」

 居藤は最後にそう告げると、静かに会議室を後にした。





 古西の声が、静かな会議室に響く。

「<ノートパソコン>開いてくれ」

 その淡々とした指示に、宇枝は無意識に頷きながらマウスを手に取った。


 画面に表示されたのは、膨大な数の動画ファイル。

 それらはすべて名前が付けられており、どれも女性の名前だった。

 その瞬間、宇枝の脳裏に嫌な予感が走った。


「このファイル名、全部、女性の名前ですね」

 宇枝は思わず口に出してしまった。

 声にわずかな震えを感じながらも、宇枝は冷静を装う。


 彼女がファイルをダブルクリックすると、動画が再生され始める。

 胸の奥で、嫌な予感がますます確信に変わっていく。


 画面に映し出されたのは、大きく豪華なベッドが見える部屋。

 日付と時刻が画面下に表示され、それが三年前の夜であることを示していた。

 女性が部屋に入ってくると、窓から見える夜景を眺めて嬉しそうに微笑んでいる。


「ここ、神戸のマンションの寝室ですよ」

 宇枝がつい、そう言ってしまう。


「早送りだ」

 古西の声が響き、宇枝はそれに従ってマウスを動かす。

 映像が進むにつれて、女性は服を脱ぎ、下着を外し、裸体になる。

 神戸はその女性を抱きしめ、そのまま性行為に至る。


「これ……」

 言葉が出てこない。

 普段は冷静でいることができる自分に、何かが引っかかっていた。

 まるで、親とテレビを見ていて、不意にラブシーンが流れた時のように、あの気まずい雰囲気が胸に広がる。

 仕事だからこそ、視線を逸らすことができないという自制心が、さらに恥ずかしさを際立たせる。


「次のファイルだ」

 古西が冷静に指示を出す。


 その声は、まるで感情の揺れがないように聞こえた。

 宇枝は、そのことが不思議で、思わず目を向ける。

 古西は無表情だった。

 あまりにも感情が欠けているその態度に、宇枝は一瞬不安を覚えた。


「どうした?」

 古西の声が、冷たく響いた。


「あ、次のファイルですね」

 小さな返事をして、宇枝は次のファイルを開く。


 画面に映し出されたのは、先ほどと同じ部屋。

 しかし、そこにいるのは、さっきの女性とは別人だった。

 日付は前のファイルから二週間後。


 映像はまた同じように進んでいく。再生が続くにつれて、また女性との行為が映し出される。

 宇枝は目をそらさず、黙々と再生を進めた。

 心の中で何かが押し寄せるのを感じながらも、ただ職務を全うしなければならないことだけが頭を占めていた。





 しばらくして、全ての動画を見終えた。


 古西は、前かがみになっていた背中を伸ばすように、天井を見上げた。

「撮影の間隔は短くて一週間、長くて二ヶ月。全て別人で、行為は同意の上。強要しているケースは見当たらない……」

 部屋の静寂の中で、彼の思考が次々と整理されていくのが感じ取れた。


 耳たぶをつまみながら深く考え込んでいる古西の姿を見ながら、宇枝の胸の中でイライラとした感情がわき上がってきた。

 そんなに冷静でいられるものか、と思う反面、彼の冷徹さが逆に彼女を苛立たせているのを感じる。

「さすが芸能人、モテモテですね」

 無意識に、心底呆れたような言葉が漏れた。

 頭の中では、――こんな奴、絶対に許せない――という感情が、手をこねるように固まっていく。


「女性たちの顔に見覚えはあるか?」

「全員ではありませんが、アイドルや女優、グラビアモデルなんかもいましたね。――週刊誌が喜んで飛びつく映像ですよ」

「カメラ目線の女性がひとりもいない。これは隠し撮りだな」


 古西の冷徹な分析に、宇枝の表情が険しくなり、思わず声を荒げる。

「隠し撮り?! 犯罪じゃないですかっ! 卑劣なヤツ。――私、コイツの推しやめました」

 彼女の体から、怒りの熱がじわじわと広がっていく。

 普段は冷静な自分が、こんなにも感情を抑えきれないことが、余計に神経を煽る。

「間違いない、この映像を盾にして、女たちを脅してたんだわ……。金を要求して、だけど交渉が決裂して、殺されたのよ!」

 言葉が止まらない。

 興奮が冷めやらぬまま、彼女は映像に出ていた女性たちの顔を思い浮かべて、胸の奥から湧き上がる正義感に突き動かされていた。


 自分の中にある過去の記憶がふと蘇る。

 女性に不誠実だった元カレの姿が、すぐに神戸の姿に重なった。

 神戸の顔が、どんどん憎たらしく思えてくる。


「ストーリーを作るな。視野が狭くなるぞ」


 古西の冷静な指摘に、宇枝は言葉を詰まらせた。

 彼の顔には怒りの気配は微塵もない。

 ただ、彼女が情に流されていることを指摘され、目の前が一瞬白くなった。

「でもっ!」

 思わず反論しようとした宇枝だが、古西の言葉に自分の視野が狭くなっていることを感じ、口を閉じる。


「預金口座の入金記録は事務所だけだった。財布にも殆ど現金はなく支払いはカードか電子マネー。潤沢な預金があるやつが危険を冒してまで恐喝するとは考えられん」


 肩を叩かれ、ふと我に返る。

 古西の優しい動作に、宇枝は少しだけ驚き、深呼吸をして冷静さを取り戻した。

 今、自分がどれほど情に流されていたのかを、はっきりと感じた。

「それでは、痴情のもつれとか?」

「今のところ、その線が濃いな。動画と連絡先を照合、女性たちを特定、神戸との関係を調査するぞ」

 古西の目には、まるで獲物を追う獣のような鋭さが宿っていた。


「はいっ!」

 彼女は自分の中で一つの決意を固める。

 それは、神戸を見つけ出し、盗撮の容疑で豚箱にぶち込んでやるという、冷徹で確固たる決意だった。


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