百二話 異世界転生
ここはなにもない闇だった。時間の流れは止まり空間が存在しない。だがそこに、突然眩い閃光が闇を切り裂いた。開かれた無に外から有が流れ込んで、時が動き出し空間が生まれる。そこに僕、日景優羽の意識が現れた。
自分を認知すると体の存在を思い出す。頭、お腹、腕、足と感覚が蘇ってくる。そして少しずつ力の入れ方を思い出す。
「……きて……ウ……」
頭上から微かな音が聴覚を刺激した。それを頼りに意識が上昇していく。けど、心地よい眠りの中から出る恐怖の感情も次第に復活する。
ふと柑橘系の爽やか香りを感じた。それが追い風と鳴って覚醒に突き動かされる。
「起きて、ユウ」
日差しのような明るさと温かさのある、慣れ親しんだ声が聞こえた。そして口になにか柔らかいものが当たるのを感じて、僕は目を開けた。
「ぅぅ……」
霞む視界の中には青空と木々、覗き込む人の顔があった。それは女の子で。初めはぼんやりとしていたけど、五回ほど瞬きすると次第にはっきりしてくる。僕は仰向けになっていて、頭の後ろには布越しに柔らかい感触があった。
「おはよう、ユウ」
同い年の少女は黒色の瞳を細めて微笑みかけてくる。周囲からは、水が流れる音と葉が風に揺れる音が聞こえた。
今の状況を思い出す。そう僕はあの巨木のある森の泉の側で彼女に膝枕されていたんだ。
頭上にある顔を見れば、やっぱり成長したんだなと改めて感じる。まん丸な瞳も、ポツンとある小さな鼻も、幼さの残る可愛らしい顔も。髪型はショートボブで髪色は黒で雰囲気はそのままだ。
「ええとあなたは?」
「なーに寝ぼけた事を言ってるの!」
眉毛を逆ハの字にする。その女の子の声は当然ながら覚えはあって、スラスラと鼓膜を通った。
「ごめんごめんアオ」
「まったくもう」
少しふざけすぎてしまった。この世界で初めて再会した時と状況が同じだから、ついやってしまったのだ。
「僕、どのくらい寝ちゃってた?」
「二十分くらいだよ」
「ごめん、そんなに膝枕させちゃって」
「だいじょーぶ、そのくらいならへっちゃらだよ。それに、可愛い寝顔も堪能できたから」
アオはイタズラっぽく微笑む。こっちの頬が熱くなってくると、さらにしてやったりみたいな顔をしてくる。
「……」
「もういいの? ざんねーん」
僕は彼女の射程圏内から逃れるべくコロコロと転がり地面に倒れ込んでから、座り直す。
「ありがとうアオ。よく寝れたよ」
「どういたしまして。ふふっ、また眠くなったら言ってね、いつでもウェルカムだから」
「う、うん」
林原さんが去ってから一週間が経った。それからというものさっきみたいに、アオはグイグイとくるようになっていて。明るい彼女が戻ってきて嬉しいのだけど、僕の精神が大きく揺さぶれて耐えるのに必死になっている。
戻ったのはそれだけじゃなく、見た目にも変化があって、髪色も瞳の色も黒にしていた。その上、戦闘のための服もファンタジーの冒険者っぽい装いから、中学に使っていたブレザーの制服とチェック柄のスカートになっている。彼女がこの世界に来た時に着ていたもので、ミズアとなってからはクローゼットの奥にしまってあり、それをアヤメさんに頼んで僕の制服みたいに改造してもらっていた。
それらはミズアを卒業した証。過去と向き合って受け入れて得た姿。今の彼女こそ僕の幼なじみの速水葵だ。
「どうしたの、じっと見つめて。もしかして見惚れちゃった?」
「……やっぱり似合ってるなって思ってさ」
「え、えと……ありがと」
つい本音が溢れてしまった。でも、おかげでアオの照れ顔が見れてしてやったりって感じで、気分が良くなる。
「そ、それよりも、ここ静かですごーく落ち着くよね」
「だね。日差しも暖かいし自然に包まれてるって感じがして、心地良いよ」
「ふふっ良かったー」
今朝、僕はアオにデートしよっと誘われた。どうやら二人きりでいる時間が少なくて、そのためにここに連れてきたかったらしい。ここは人もいないし、僕とアオが初めてこの世界で出会った思い出の場所でもある。
僕としてもその気持ちは嬉しくて、それにある物を渡すちょうど良い機会でもあるから誘いに乗ってやってきた。
昼寝をしたせいで目的を忘れかけていたが、今思い出す。
「そうだ。これを渡そうと思ったんだ」
「なになにー?」
「どうぞ」
「こ、これって……」
僕はアオの方に寄ってそれを手渡した。タイミングがなく渡しそびれていた、青白い花柄のヘアピンを。
「私のために買ってくれたの?」
「うん、エルフの村でね。正確にはその時はお金がなくてコノ達に買ってもらったんだけど、似合うと思って選んだんだ」
あの時想像したのはまさしく今の黒髪黒目の速水葵の姿だった。
「ありがとう……本当に嬉しい!」
弾けるような笑顔を見せてくれる。それを見れただけで心が満たされていく。
「どうかな、似合う?」
「うん。とっても!」
「えっへへ、毎日着けちゃおうかな」
「そ、そこまでしなくても」
「いいの、私がそうしたいからなんだから。ありがとね、ユウ。大切に使うよ」
とりあえず喜んで貰えて良かった。ほっと胸を撫で下ろす。
「はぁ……何かすっごく幸せ! もうこうしちゃう!」
恍惚のため息をつくと、その高ぶった感情の勢いまま僕の膝に顔を乗せてくる。
今度は僕が彼女に膝枕をする事に。
「ちょ……ア、アオ」
「ごめんね、嬉しすぎてつい」
「それで何故膝枕?」
「わかんないけど、こうしたくなっちゃったの。ちょっとこうさせて?」
「……わかった」
アオは仰向けで僕を見上げたままでいる。こちらとしてはどこに視線を置いていいのか分からず、結局彼女を見つめる事になって、そのままゆったりと時間が流れた。
近くで見ると改めて顔が整っていて可愛いなと思ってしまう。それにこの状況は恥ずかしいけれど、信頼を感じてもいて。無言でも心地よかった。
「私、幸せだなー」
ふと、アオが心から滲み出たようにそう呟いて微笑む。そんな顔をされるとこちらまで幸せになる。
「僕もだよ」
「ふふっ、こんな時間がずっと続けば良いのにね」
「そう……だね」
「ユウ?」
何のストレスもなく、苦しみも痛みもない満たされた今。そんな自分をどこか客観的に見ている自分がいる。そして、客観的な自分が幸福である事を認知すると、その感情を否定しようとしてくるのだ。過去を忘れるなと。
「常々思うんだ。僕って本当に幸せになって良いのかなって」
「どうして?」
「だって、僕は自ら命を絶って知り合いや家族を置いてきた。皆きっと、今も悲しんで苦しんでる。それは僕がその道を選んだからで、そのせいで彼らを傷つけた。取り返しのつかないほどに。だから良いのかなって」
この世界に来てからその事を忘れた事はなかった。特に、幸せを感じた時にその事が頭をよぎる。
アオやコノ、モモ先輩の気持ちにちゃんと向き合えないのもそれが理由でもあって。恋や友情の甘くて少し苦い日常に浸って良いのかわからない。
「……ユウは強いね」
「え」
思ってもない返答で少しびっくりする。その真意はどこにあるのか、アオは目元を緩めて優しく笑みを浮かべていた。
「だって私は考えないようにしてきたからさ。考えれば考えるほど、後悔と罪悪感が押し寄せてくる。それに耐えられなくて私はミズアになった」
「……アオ?」
突如、彼女は顔を近づけるようジェスチャーしてくる。言う通りに少し接近させると、今度は右手を伸ばして僕の頭をぎこちない手つきで撫でてきた。
「ユウは偉いし凄い。その重荷を投げ捨てずにいれるんだから。私には出来なかった事だよ」
「……」
「そんな駄目な私なんだけどさ、だからこそ思うんだ。幸せになってもいいんじゃないかって。それもユウみたいな人はなおさら」
「でも」
僕の頭上に乗せて優しく左右に滑らせる手は止まることなくて、脳裏によぎる自己を否定する言葉がその柔らかさに遮られる。
「確かに私達はきっと取り返しのつかない事をしたしその事実は変えられない。だからそれから目を逸らさずに背負い続けなきゃいけない」
「うん」
「でもね、それはあまりに重くて背負うにはエネルギーがすっごく必要で。だから、背負うために幸せになるのはいいんじゃないかって思うんだ。それに潰れちゃったら元も子もないでしょ?」
「それは……そうだね」
「それとさ、一人で背負う必要もきっとない。ねぇ、ユウ。私と君の分、一緒に背負わない? 二人で支え合っていけばきっとだいじょーぶになるから」
アオは真剣な表情でそう提案をする。二人で支え合う、その言葉には色々な意味が読み取れて。
「支え合うって、どういう意味で?」
「そのままだよ。お互いに持ってるものがあるからそれを一緒にって」
「そ、そっか」
「私としてはその先でもいいんだけど?」
軽くウィンクして、冗談なのか本気なのか曖昧にしてくる。
「正直、まだ幸せになっていいんだって本気では思えないんだ。けど、アオの言ってる事は正しいんだともわかってるから……少し待ってて」
「りょーかい。私はいつでも待ってるよ」
すぐにとはどうしてもいかない。こびりついた思考は簡単にははがれ落ちない。ただ、それが無くなるのは確信していて、多分時間が解決してくれるはずだ。
「アオ……ありがと――」
「アオちゃーん! ユーぽん!」
「依頼が来ましたよー!」
遠くから二人の声が聞こえてくる。段々とこちらに近づいてきて姿もぼんやりと見えて。
「ヤバっ」
「ちょ、アオ――うわぁ!」
「いだっ!?」
顔を近づけていたせいで、焦ったように起き上がったアオの額とぶつかった。視界がチカチカと白熱して、脳が揺さぶられる衝撃が走る。
「あ、アオ」
「痛った……ご、ごめん。流石にこの状況を見られたらヤバいと思ったんだよー」
「そうだけど……」
この痛みも再会の時を思い出させてくる。あの頃の僕と同じように痛みに悶えながらアオは地面に転げ落ちるも、すぐに起き上がってしまう。圧倒的な能力の差を感じさせてくる。涙目でおでこも赤くなってはいるけれど。
そうこうしている内に二人が息を切らしてこちらまでやってきた。
「どうしたの? 何かあった?」
「……依頼が来たの。話を聞くと時間がなさそうだったから」
「お二人を呼びに来たんです」
モモ先輩とコノはいつもの服装でいて、様子も変わっていないので、安心感すらある。林原さんがいなくなってからも、モモ先輩は明るく真っ直ぐ前を向いていて、コノも僕達の中に溶け込んで上手くやっていた。
「って、何かあったの? ユーぽんが痛そうにしてるし、アオちゃんのおでこちょっと赤い?」
「ま、まさか喧嘩……ですか?」
モモ先輩は心配そうに見つめてきて、コノはアワアワとして顔を青くさせている。
「だいじょーぶ。そういうのじゃなくて、ちょっと事故的なのだから。それに、逆に仲良すぎで起きちゃった感じだし?」
茶目っ気たっぷりにそんな意味深発言を繰り出す。当然、それを聞いた二人がスルーするわけもなく。
「こ、ここで一体何をしていたのかしら? 先輩として聞き逃せないのだけど?」
「あわわ……こんな所で、い、いけない事を……」
モモ先輩は顔を引き攣らせて、コノは真っ青な顔に頬を赤くさせる。まずい、このままだと変な勘違いをされてしまう。
「ち、違うからね!? そんな事してないから! アオもふざけすぎだよ!」
「あはは、ごめーん。でも大嘘でもないけどね」
「それは……」
否定しきれなかった。確かに、真っ赤な嘘じゃなくて。
「「……」」
二人から疑惑の視線が突き刺さる。何とか話を逸らさないと。
「そ、そんな事より! 早く行かなきゃだよ! 依頼の人が待ってる!」
「……そうね。色々聞きたいことがあるけれど、後回しね。まずは依頼の解決、さぁ行くわよ!」
「はい! ユウワさん、アオイさん、行きましょう!」
二人は並んで先に森の中へと進んでいく。少々強引ではあったけど、これ以上の追求を防げた。
「というか、見られたくない感じだったのに何であんな事を言うのさ」
「知られるのと見られるのじゃ違うもん。それに、困ってるユウって反応が面白くて可愛いから、つい見たくなっちゃったんだ。ごめんね」
アオはそう言いながら僕に手を差し伸ばす。
「じゃあ後で何かおごってね」
「りょーかい。じゃあヘアピンをくれたお返しにユウに合うぬいぐるみをプレゼントするよ」
「いいの? ありがとう!」
その手を取って、僕は立ち上がる。もう痛みはなくなっていた。
「ユウ、私達も行こう!」
「うん!」
僕達は手を繋いだまま歩いていく。互いを支えるように強く手を握り合って。
「……」
ふと、遠くなっていく巨木の方を振り返る。この世界の神様のおかげで僕達は出会って、また仲良しに戻れて皆とも出会えた。
心の中でお礼を言うと、風が吹いて葉が揺れる。それはまるでその言葉に応えて、頑張れよと手を振ってくれたようだった。
会釈をして僕は前へと向き直り、モモ先輩とコノ、そして隣のアオを視界に捉える。そして神様の応援を背に受けて先へと進んでいく。
過去の後悔と未練で亡霊となっていた僕達、それをようやく断ち切った。
そして僕達は本当に異世界転生したんだ。