第5話 共有
真っ白な室内の真ん中には円卓が置かれている。一番奥と一番手前の席は空いており、その左右の席は既にそれぞれ着席している模様。
「あら、また私が最後?相変わらずこんな集まりに熱心なのね」
女の声がこれまで静かだった室内に響く。その声に反応して右側の席から静かだが何処か不機嫌な男の声が聞こえてくる。
「無意味な刻の浪費もここまで来れば芸術だな。真っ当になるのに千年は必要か? 」
「まあ、随分とお怒りだこと。口下手過ぎて不機嫌という事しか分からないわ。もう少し伝わる言葉選びをなさってはいかが? 」
「……そこまでにしておけ。遅刻魔の貴様が喧嘩を売れる立場だと思うな」
厳しい叱責が二つの影を仲裁する。後から入室した影が手前の席に着くと円卓の中央に大量のモニターが現れた。そこに映るのはアズエラ神聖国内の様子だった。モニターそれぞれが違う場所を映している。天候や人の動き、太陽の位置から推測される時刻等からリアルタイムの映像であると分かる。そのモニターを見て談論が交わされる。
「民の様子は変わらずといった感じだな。新生生命体に対抗し得る勢力は極僅か。その僅かな対抗手段に胡座をかいて何も考えずに日常を送っている層は僅かながらに変動はあれど変わらずか」
「それがこの国のデザインだもの今更よ。これまで通り八人の生贄がどうにかするわよ」
「ほら言ってる傍から」と一つのモニターに指をさしている。そこには黒髪で学ラン姿の少年が一体の神聖生命体を倒した場面が映っていた。後ろから駆け寄る少女の姿も映っている。二人とも手に得物を持っているところから協力して狩ったのだと伺える。その光景を見て一つの影は呆れた様に溜息交じりに言葉を出す。
「……嘆かわしい。先代もそうだったが近年の落とし子らは軟弱が過ぎる」
「人間が強かった時なんて只の一度も無かったじゃない。力が無ければ戦えないのにその力に身体が耐えきれない。滑稽とはこの事ね」
ケタケタと笑いながらもモニターから目を離さない。肩肘をついて退屈そうではあるものの、会話自体は楽しんでいるといった様子だ。
昔の神の落とし子は強かった。それは能力だけの話ではなく、武術を含めた戦闘スキルが高かったという意味合いの話しだ。現在は未成年者が多いというのもあって一人でまともに戦える者は少ない。神の落とし子の選出ルールが足を引っ張っている要因の一つではあるが、第二世代からそういうルールであったため厳密にそれが原因とは言えない。同じルール下で比較したうえで弱体化しているという話しだ。生活環境によって武術を磨けないという状況が最たるものだろう。
モニターから現在の国を見て頭を悩ませるかの様な重い声色に変わる者がいた。
「今は役目を果たしているなら何人で打倒しようと構わんが、それが延々と続くとなると看過することはできん。それに最近あらぬ話しを耳にした」
何を言おうとしているのか分かったのか、女の声が割り込む。
「ああ、戦争を起こそうってやつね。確かあれは準男爵、男爵、子爵の間で交わされている話の筈よ」
「今はな。だがその後の状況次第では公爵が動き兼ねん」
声が「公爵」と言った時、この場は沈黙に包まれた。事態が深刻なのは三つの影の様子から明らかだろう。しかしそんな沈黙を破り口を開いた影がいた。
「公爵が動くのなら 今世代は楽しめそうね。国の崩壊?それもまた一興というやつよ」
一つの影は呆れと憂鬱に溜息を漏らし、もう一つの影はなるがままを受け入れる諦観の姿勢をとった。真っ白な部屋の中で女の笑い声だけが響いていた。
鳥獣型の悪魔を倒した二時間後、レザールは病院の廊下の角でとある人物と連絡を取っていた。レザールは気掛かりな事があり、その確認をしたい為に電話をしている。通話先はクランベラ教会の司教、ルイだ。ルイに先程起きた事を簡潔に伝え速やかに本題に入る。
「シルバークロウ市に悪魔の出現頻度が増していると。ええ、その様ですね。僕の知る限りではここ一ヶ月間が特に多いかと」
「出現頻度が増した事について何か思い当たる事は無いか? 」
その問いに長考しているのか黙り込んで答えが中々返って来ない。電話の先でパラパラと紙を捲る音が微かに聞こえてくる。そして暫くして何か分かったのか口を開く。
「推測の域を出ませんが、悪魔子爵は何方かを探しているのではないでしょうか?シルバークロウ市は現在最も特異能力者が集まっている都市ですから。虱潰しに最初に選んだ場所がそこだったのではないかと考えています」
特異能力者という言葉の中には神の落し子だけを指している訳ではないというニュアンスを感じたレザールはそれについて尋ねる。
「神の落し子は勿論の事、邪眼を持った人物も指しています。邪眼が何かは貴方もご存知の筈です」
邪眼とは特異な力を持つ瞳の事だ。入手手段は悪魔から貰うしか無い為、「邪悪な者の手に握られた眼」から取って「邪眼」と呼ばれるようになった。邪眼の能力は神の落とし子の能力とは違い力に自由が無く、瞳が出来る事はその瞳によってそれぞれ決まっている。入手手段の困難さから神の落とし子よりも邪眼持ちは少ない。そんな希少な存在だが、邪眼を持っている者はレザールの近くに存在している。
「……確かにそう言われると多いな。神の落し子は俺含め二人。その言い方的に、邪眼持ちはコブラ以外にも居るって事だな」
「如何にも。ですが、探しておられるのであればそれが何方であるかは予測出来るのではありませんか? 」
ルイは悪魔子爵と因縁がある特異能力者は誰なのかという事を言いたいのだろう。それならば三択に絞られる。他が全く無関係とも言えないが、現時点でレザール自身が考えられるのは二人。レザールとコブラだ。その内のどちらか、あるいは両方だろう。確定では無いもののそう結論付けたのを聞いてルイはそれに同調する。考えていた事は同じだった様だ。勿論探しているのが人物であるとは限らないのだが。
ここまで話していてレザールはふとした疑問を口にする。
「それはそうと、アンタが探しているだろうと考えた理由は?殺しの可能性だってあるだろ」
「差し向けてきた悪魔からして、少なくとも殺害目的では無いと考えています。それが目的でしたら中級の悪魔を一体ずつ小出しにしないでしょう。それに、そもそもその目的でしたらわざわざ今のシルバークロウ市を狙うメリットはありません。戦力の少ない地域に差し向けてしまえば自軍の兵力を極力削らずに済みます。仮に神の落とし子を討つ事が目的だとしても戦力が密集している場所より一人でいるところを狙った方が確実です」
悪魔側の真意は分からないが、ルイの言う事に納得をしてしまう。ただ、ルイの仮説は魔力を感知することが出来る前提の話だ。悪魔にはそういった能力があるのか、悪魔なら出来そうだという話しなのか。いずれにせよそれは今聞く話ではない。
電話の先で聞き覚えのある女の声が聞こえてくる。何を言っているかまでは聞き取れないが電話中に話しかけて来るくらいだ、緊急の用事なのだろう。
「申し訳ありません。急用が出来ましたので、僕はこれにて失礼いたします」
そう一言残し通話は切れる。悪魔の出現頻度が増したのは気のせいではなく事実で、悪魔子爵が動き出したとのことだったがレザールがやる事はこれ迄と変わらない。悪魔を殺すのみ。大物がこちらを狙っているのであればそれを討たない限り終わらない。しかし、悪魔子爵本体が出て来なければ討とうにも討てない。これは作戦を練らなければならないだろう。
レザールが病室に顔を出すとレオンとエリスが談笑をしていた。いや、談笑というより尋問の様だ。
「さっきのアンタの力は何だったわけ?まさかアンタも神の落とし子なの? 」
さっきとは鳥獣型の悪魔と対峙していた時の事だ。エリスは患者であるレオンにぐいぐいと延々と同じ質問を繰り返す。それにほとほと困り果てているレオンはこの話題を避けたい様子だ。二時間前のフラフラしていた状態から多少回復はしたものの未だ顔色は悪い。
「……十八時、子供は帰宅する時間だ。それとレオンは中等症患者だぞ。そんな頭が痛くなる様な質問してないでさっさと帰れ」
ムッと頬を膨らませて睨みつけるエリスの背中を押して強制的に病室から出す。十八時の空は真っ暗だ。子供を一人で歩かせる訳にはいかず、レザールは駅まで送る事にした。病室を出ようとしたレザールを見てレオンは慌てて引き留める。
「待ってください。話したい事があるんです、二人で」
静かに目で訴える。その目がただの雑談ではなく真剣な話しなのだと物語る。それを察したレザールは廊下でエリスを待たせてベッドの脇に置いてある椅子にそっと腰掛ける。
「話しって? 」
「俺の秘密について、です。喫茶店の時からずっと考えていましたが、やっぱりレザールには言っておくべきかと思いまして」
そう言ってレオンは眼鏡を外す。そして真っ直ぐレザールの目を見て話し出す。
「俺の瞳は邪眼みたいなんです」
そう言ったレオンの瞳は確かに普通のそれとは違っている。特に瞳孔の形が顕著だ。コブラの瞳も邪眼だが、それとも少し違っている。コブラの瞳は模様の様なものが入っているがレオンには入っていない。禍々しさのあるコブラとは真逆で透き通る虹の輝きを持った瞳だった。本人の言い回しからして、そう言われてその名称を知ったといった感じなのだろう。
「この邪眼は魔力の相殺と視覚共有が出来るのですが、使った時の反動が大きいのであまり良いものではないんです」
「主にどういう反動なんだ?コブラは確か酔うって言ってたが、レオンもそんな感じか? 」
顔を左右に振り否定の意を示す。眼鏡をかけ直して少し俯きながら答える。
「最初は鼻血が出る程度ですが、使っていく内に過呼吸になったり吐血をしたり。それでも構わず使い続けて気絶した、なんて事もありました。過去に使い続けて気絶したのは視覚共有の力でした。魔力相殺は今まで使う機会が無かったので気絶までは分かりませんが、今日の感じでは反動は同じなんだと思います」
レザールは身近なコブラの邪眼が酔う程度の反動だった為、邪眼とはそういう軽い反動で済むものなのだろうという認識でしかなかった。レオンの話しを聞く限りでは物によっては命の危険があるのを知る事となった。
レオンの邪眼の反動が大きい理由はおおよそ予測出来るだろう。そう、出力される力が強大だからだ。強い力には降りかかる反動も大きくなる。それは日常で当たり前に起こる物理に似ている。例えば壁を拳で殴る時、振り被る事無くゆっくり当てると手に伝わってくる痛みは殆ど無い。しかし大きく振り被り勢いを付けて殴った場合はどうだろう。叩きつけた手の力が大きい程、手に伝わる痛みも大きくなる。
コブラは魔力を「視る」力。表現を変えれば「視る事しか出来ない」力。つまり攻撃性は一切無い為、通常見えていないものが見えるという突発的な視覚の情報過多による脳の疲弊で一時的に酔う程度で済んでいる。一方レオンは「魔力相殺」と「視覚共有」の力だ。この二つの力とコブラの力の違う所は、「個人で完結しない」という点だ。相殺は対象を打ち消す力。共有は他者へ情報を送る力。そして視覚を奪う力でもある。これらは対象となる者や現象に一方的に干渉するという事だ。
一本の林檎の木があるとしよう。その木に実っている林檎を採る際、自身の手で掴み取る時と棒を使って林檎を突き落とす時、どちらがより体力を使うだろうか。個人によって差異はあれど疲労をより感じるのは後者の方だ。棒の先を操るコントロール能力が必要な分、自身の手のみを使う場合より多く労力を使う事になる。それと同じでレオンの力は対象あるいは現象をコントロールする分の労力が掛かる為、力が大きくなりその分反動も大きくなるのだ。瞳は個々で其々の能力を持つ為レオンの瞳で魔力を視る事は出来ず、コブラも魔力を相殺したり視覚を共有する事は出来ない。
レザールは今聞いた話しの中で感じた疑問をレオンに投げかける。レオンは一体どんな質問が飛んでくるのかと不安な様子だ。
「魔力相殺の方は使う機会が無いと言ったな。なら何でその力があると知っていたんだ? 」
「なんとなく、これが出来ると頭で分かっていました。声を出すのって特に意識していないですよね。自然に、当たり前に出来る……そんな感覚です」
生物の本能的に出来るという事だろう。しかし、それはそれで別の問題が出てくる。本能という事は生まれてから既に持っている力だという事になる。通常邪眼は後天的に持つものであり、先天的に持つものでは無いからだ。
「……これは泥沼になりそうだな」
左手で口元を覆いポツリと呟く。レオンには聞こえていない様だ。レザールは時間を確認して立ち上がる。
「お前の目の事は大体分かった。俺はそろそろ行くわ」
レオンは名残惜しそうにしているものの、当人は休まなければならない身。快調の為にもここで別れるべきだろう。レザールの背中にゆっくり手を振った。そして扉が閉まるのと同時に力が抜けたかの様に蹲る。
「……入院が実家に知られてなければいいけど」
不安を隠し切れない様子でぼそぼそと一人呟くと点滴パックからチューブ、そして腕に刺さっている針を見て溜息を吐く。この弱点が剥き出しの状態では落ち着かないのだ。それでも今は眠らなければならない。
レオンの病室から出たレザールはエリスと一緒に病院の外へ向かっていた。随分と待たせたせいかエリスはずっと拗ねている。レザールの三歩先を歩いていたエリスは立ち止まり勢いよく後ろを振り返る。
「それでレオンの用は何だった訳?」
「……他人のプライベートに踏み込むな。アイツは俺の助手だ。俺に聞く権利はあってもお前には無いだろ」
冷たく突き放すとエリスの横を抜けて今度はレザールが前を歩く。
「待ってよ!レオンの事は確かにそうだけど、あたしだってずっとあんたに用があったの!色々あってこんな時間になっちゃったけど」
両手でレザールの右袖を掴む。急に掴み掛かられて驚きはしたもののすぐに冷静さを取り戻した。
「俺に?用ってなんーー……いや、嫌な予感がするからやっぱ無しで」
「なんでよ!?いいから聞いてよ!お願いがあるんだから! 」
「人に物を頼む態度じゃないだろ……」
レザールは話題を回避しようとしたが、エリスがそれを許さなかった。キンキンと頭に響く甲高い声に圧倒され仕方なく聞く事にした。
「あたしに戦い方を教え……」
「駄目だ。他を当たれ」
言い切る前にスパッと断る。どうやらレザールが感じた嫌な予感は想像通りの内容だった様だ。それでもエリスは諦めない。地団駄を踏みながらも何度も頼み込む。
「あーあー、うるせぇうるせぇ!病院内で騒ぐんじゃねぇよ! 」
「お願い!頼れるのはもうあんたしかいないの! 」
小型犬のようにキャンキャンと喚く。無駄に良く通る声質と地声の音の高さ故の騒がしさに耳を塞ぐ。延々に喚き続けて断る隙を作らない為話が平行線になっており、今の状況では対話も碌に出来そうに無い。レザールは呆れ果てて大きく溜息を吐く。
「分かった、分かったからいい加減静まれ。取り敢えず考えておいてやるから来週十三時にシルバークロウ駅で待ってろ。今日のところは保留だ保留」
考えておいてやると言う言葉を聞いて納得したのか、ようやく静かになった。良いとは言ってないのにも関わらず、露骨に上機嫌になる。そんな様子を見て再び溜息が出る。
病院を出ると辺りはすっかり静寂に包まれていた。都会なだけあって街灯が多い分夜道でもそれなりに明るいが、それでも薄暗く視界が悪いのには変わりない。
「送るのは駅までだぞ。電車賃くらいは出してやるから大人しく帰りな」
「もうっ!純真無垢なあたしが不良少女に見える? 」
「見えるから言ってんだろうが。あと自分で純真無垢とか言うな」
然程親しくはないがエリスの雰囲気がそうさせるのだろうか、軽口を叩きながら二人でシルバークロウ駅に向かう。エリスの機嫌は鼻歌を口ずさむレベルで良い。その鼻歌は最近の流行歌なのだろうが、音痴過ぎて原曲がピンとこない。音が外れているだけならまだ良いのだがリズム感もまるで無い。聞くに堪えないとはこの事だろう。
正面からカコンという音が響いてきた。音の鳴り方から人の足音だと分かる。その音はレザールが履いているブーツの音とは違い、木を地面に打ち付ける様な音だ。辺りが暗くはっきりとは見えないが、それが普通では無い事は分かる。狐の面。いや、よく見るとガスマスクの形状をしている。そして身体の後ろでなにかを隠し持っている。足元には街灯の光で反射した鋭い金属が見えており、左に向けて細くなっている。全体像は分からないが、この月の様な形状の金属の塊、この刃物はレザールも知るものだった。
レザールは咄嗟にエリスの前に出て警戒をする。正面にいる人間から感じるのは明確な殺意。カコンカコンと歩いて近づいてくるのをゆっくり後ずさって距離をとる。
「……?どうしたの? 」
エリスは状況が分かっておらずレザールの後ろからヒョコッと顔を出す。
「っ!出てくるな! 」
そう言葉を発した瞬間目の前の人物は刃物をキラリと光らせ急速に距離を詰めてきた。振り被って露わにした刃物の正体は大鎌だ。今その刃を避ければエリスに当たる。そう判断したレザールは振られた鎌の柄を両手で掴み振り切られない様に力づくで何とか地面と垂直の状態に持って行く。硬直状態に持って行ったところで右足で相手の足を引っ掛けバランスを崩させる。それでも鎌を手放さない。それどころか垂直に立たされた鎌を足代わりに軸に使って回し蹴りを繰り出す。レザールは両腕を顔の前で交差して受け身を取った。相手の履いている下駄はブーツとは違い木製な為、腕に伝わるダメージも比ではない。
「っ!病院に戻れ!警備員が巡回している筈だから事情を説明して連れて来るんだ! 」
必死なレザールに気圧されながらもエリスは目の前の狐面を見やる。
「……殺してやる……殺す殺す殺す!! 」
突然激昂した狐面の声は男にしては高く、女にしては低い中性的な声だった。その様子に危機を感じてか、エリスはレザールの前に出て狐面に呼び掛ける。
「やめて!何してんの!? 」
「馬鹿か!お前殺されたいのか! 」
レザールの静止空しくエリスは狐面に向かって滅茶苦茶に叫ぶ。
「武器を仕舞って止まりなさいよ!じゃないと嫌いになるわよ、お兄!!」
エリスのその一言が起因したのか、狐面の動きは止まった。仮面で顔は見えないものの俯いて悲しそうにしているのだけは分かる。エリスは狐面に駆け寄り抱きしめる。
「何でいきなり斬りかかるの?あたしはそれが怖かったんだから」
「……ごめん。エリーが知らない男と歩いているのが見えたから我慢が出来なくて……」
安っぽい演劇の様な一場面に呆気を取られてその場で立ち尽くすレザールは状況を呑み込むのに時間が掛かった。エリスのおかげで大事にはならなかったが、依然と殺意が治まることは無かった。エリスはレザールの方に向き直ると笑顔で告げる。
「レザール!あたしはお兄と一緒に帰るわ!次に会う時は『エリス』って呼んでよね! 」
そう言って手を振ると、エリスは狐面と並んで駅へ向かって行く。エリスが狐面を「お兄」と呼んでいたことから兄妹である事が分かるが、エリスと付き合っていくとなるとこれからが恐ろしくなる。主に兄のせいで。
頭をかきむしり踵を返す。事務所に戻るのだ。今日はいろいろあったなと耽りながら一人ノロノロと歩く。あの狐面はレザールにずっと殺意を向けていた為、これからも奇襲があるかもしれない。今回はエリスが止めに入ったが恐らく次は無い。
「まったく、面倒な輩に目を付けられたもんだ」
ふとぼやき溜息を吐く。エリスに関わると溜息を吐く事が多いのに気づきハッと嘲笑する。エリスを見下している訳ではない。子供に振り回されてる自分を笑っているのだ。エリスの申し出をどうするかはまだ決め兼ねている。レザールとしては断りたいが、それをエリスが受け入れるとも考え辛い。答えを出すのにまだ一週間はある。面倒な事は後で考えればいい。
電話を切ったルイの背後にはアメリアが立っていた。アメリアは申し訳無さそうに数秒目を伏せるが、至って冷静に状況を話す。
「クランベラ司教、エルダーベラ司教様がお見えです。至急応接室へお願いいたします」
エルダーベラとは南部教会の名前だ。その最高責任者が訪れたということだ。
「分かりました。アメリア、応接室付近に誰も近寄らせないように」
ルイの指示に一切の疑問も持たずに了承したアメリアは司教室から出ていく。司教同士の話し合いだ。どういう内容かは置いておいて、修道士や修道女たちには秘匿しておく事に越したことは無い。問題無ければルイの口から話せばいいのだから。
アメリアの言う通りに急ぎ足で応接室へ行くと一人の男がお茶を飲みながら待っていた。紫色のストラを掛けた物腰の柔らかそうな四十代くらいの男だ。そう、この男がエルダーベラの司教だ。
「……ご無沙汰しております。エルダーベラ教会司教、カスミさん」
「ああ、こちらこそご無沙汰だね。とはいえ先月の司教会議以来だったかな。ともあれ息災で何よりだよ」
僅かに息が上がっているルイの様子を見て少し困った顔で弁明を交え肩を竦める。
「おや、申し訳ないね。君を急かすつもりは無かったのだよ。わたしはただ君とお話しがしたかっただけなんだ」
「いえ、僕の事はお気になさらず。して、お話しというのは如何なものでしょう? 」
エルダーベラ司教は軽く微笑んで紅茶を一口飲んでルイの目を見つめる。
「……ルイくん、このところ悪魔の動きが活発になっているのは知っているね?シルバークロウのことは微かに感じていた程度だったのだけれど、あるお方が教えてくれてね」
「あるお方?失礼ながらその情報は信用に足るものでしょうか? 」
エルダーベラ司教はルイの問いかけに一呼吸置いて答える。
「ルイくんは経験が無いと思うけれど、司教は神の声を聞く役割があることを知っているね?……ここまで言えば察しの良い君ならもう分かると思うが、つまりはそういうことだよ」
この流れで各教会の司教の役割を話す理由、それは明白だった。エルダーベラ司教に情報を渡した者とは。
「戦神テスカンテ……!」
御明察と言いたげに僅かに微笑む。かの神の言葉なら疑う事は出来ない。手を少し震わせながらもルイはその情報の中身を聞く。エルダーベラ司教もその為にわざわざクランベラ教会に足を運んだのだから。
「悪魔が活発になった理由、それは悪魔側が戦争を起こそうとしているからだそうだ。戦争に舵を切った勢力は現時点で準男爵、男爵、子爵の三つ。状況次第では公爵が動くとも言っていたかな」
「……そうですか」
戦争と聞きルイは絶望する。ドッグタグの情報では子爵しか無かった。当然子爵のみが動いていると思うだろう。しかしその実、準男爵と男爵も動いている。戦争なんて起これば一般国民も神の落とし子も悉くが死に絶えるだろう。正に人類の終わりだ。先が真っ暗な未来に気落ちしたルイの様子を見てエルダーベラ司教は続けて話す。
「君はまだ若いが、次期司教の座も考えておく必要があるんじゃないかな。勿論わたしたちも必ず生き残るとは限らないがね、君の場合は御子でもあるんだ。わたしたちよりもその可能性が高いということを忘れてはいけないよ」
話しはこれで終わりなのだろう。エルダーベラ司教は立ち上がり出口に向かう。応接室の扉の前で振り返りルイに語る。
「……この話しは戦神様が君に伝えるようわたしに告げたものだ。君は戦神様に愛されているよ。御子としての役目を頑張り給え」
そう言い残しこの場を離れた。別館の入口前で待機していたアメリアに見送りは結構と合図を出し教会の外へ向かう。神が人という有象無象の中から一人を愛することは無い。人が蟻の大群の中から一匹だけを愛することは無いのと同じように。しかしエルダーベラ司教の言った事も嘘ではない。それを理解出来るのはルイだけなのだろう。