第2話 来訪者
翌朝午前九時、レザールの事務所の前に一人の青年が佇んでいた。ふわふわとした黒い髪に、掛けられた紺色の縁の眼鏡の下からは海の様に青い瞳が覗いている。一般的な十代と比べて背筋の伸びた品のある立ち姿であることから金持ちの上等な教育を受けた子であると推測出来る。
青年は中の様子を窺いながら何度も扉を叩き何度も呼び掛けていた。事務所の扉には『Closed』のプレートが下げられている為、人が出て来ないのも当然といえば当然だ。営業日及び時間の情報は一切無い。今日は偶々休業日だったのだろう。青年は軽くため息を吐いてこの場から去ろうと踵を返そうとした時、背後から声が掛けられた。
「坊主、此処に何か用事か? 」
煙草を咥えサングラスを掛けた如何にもガラの悪そうな男、コブラだ。昨日のドッグタグの件でレザールを訪ねに来たのだ。
「……はい。ですが休業日みたいですので僕はまた明日出直そうと思います」
気落ちした青年を見たコブラは呆れた様子で合鍵で扉を開き、青年を手招きして中へ入る様に誘導する。青年は困惑しながらもコブラに従って事務所の中へ足を踏み入れる。ローテーブルに置かれている灰皿に咥えていた煙草を押し付けて青年を見やる。
「呼んでくるからそこのソファに腰掛けて待ってな」
そう一言残し二階の居住スペースへ向かう。
コブラ自身も初めて立ち入る居住スペースだ。いつもの仕事前のだらけた姿を想像すると物とゴミが散乱していて足の踏み場も無いゴミ部屋だと思うだろう。だが、実際に見ると物は意外と整理されている。そう、物だけは。二階に上がってからというもの、やけに空気が埃っぽい。家具の上には埃が溜まっており、床をよく見ると至る所に髪の毛が落ちている。長らく掃除をしていないのが見て取れる。
適当な扉を開けて中を覗くとベッドに横向きで眠るレザールを発見した。この部屋は定期的に窓を開けているからなのか空気が軽い。コブラはレザールの横にズカズカと歩み寄り大きく息を吸った。
「レザールてめぇ、今何時だと思ってんだ!! 」
鼓膜を破る程の怒声と同時に勢いよく掛け布団を剥がし、容赦無くベッドから蹴り落とした。
「いっってぇ!? 」
ドゴッと身体を打ち付ける鈍い音と間抜けな声が事務所中に響き渡った。
「で、俺に話って何だ? 」
ムスッと拗ねた態度で例の青年に問いかける。コブラと青年は商談用のソファに向かい合わせで座り、レザールはデスク用の椅子に腕と足を組んで少し離れた位置に座っている。二人の顔色を交互に見て窺い、一呼吸置いて覚悟を決めたかの様に青年が口を開く。
「僕はクレマチスジェミニ県のオリーブクレーン市から来ました。性はグレイス、名はレオンと言います。」
アズエラ神聖国の人名様式は始めに名、次に姓という順番だ。その人名様式に当て嵌めると彼は「レオン・グレイス」という名前になる。回りくどく気休め程度でしかないが、これは悪魔から己を守る為の方法だ。悪魔は戸籍謄本に登録された情報に基づき対象を呪う事が出来る。その呪いは戸籍謄本に登録されている人名の正しいスペルで且つその対象人物の容姿を知っていないと成立しない。制約はあれど実生活の中では集まりやすい情報だ。その為名乗る際は出来る限り気を付けなければならない。どこかで悪魔が聞いていても大丈夫な様にと考えられた対策だが、勿論この自己紹介文が定着して何百年と経つので現代では発生が新しめの悪魔以外には殆ど意味が無い。
自己紹介の後、レオンと名乗った青年はレザールの方に向き真剣な面持ちで続ける。
「……単刀直入に言います。僕をあなたの弟子にしてください! 」
突然の告白に呆気にとられ固まっている一方、コブラは豪快に噴き出して笑う。目の前のローテーブルをバンバン叩きながら腹を抱えている。当然ながらそんなコブラの様子にレオンは困惑しているが、返答を待っている様子だ。
「コイツもいよいよそんな事言われる様になったのか!コイツァ愉快だ!今晩は盛大に酒盛りだな? 」
小馬鹿に煽り散らすコブラを無視してレザールは咳払い一つし吃驚を頭から取り除いてから、レオンに早急に返答する。
「俺は弟子を取るつもりは無い。お前の様なガキは尚更な」
無意味に返答を遅らせて余計な期待をさせるよりは、早々に切り捨てた方がレオンの為にもなる。
「では助手にさせてください! 」
レオンは食い下がって代替案を出し、何が何でもレザールの近くに居たいという意思を強く感じさせる。その頑固な一面に引きつつも意思を曲げずハッキリと拒否をする。レザールの職は悪魔殺し。この職の人間が成人前の青年の申し出を拒否したという事の真意に気づいていないのだろう。神秘と戦うというのはどういう事なのか。きっとレオンは分かっていない。
ふと視線をずらすと、散々笑って煽り散らしていたコブラはいつの間にか正気に戻りソファに座り直して真面目な顔になっていた。一本の煙草を取り出し火を着けて一息入れてから話しだす。
「弟子……いや、助手だったか?ま、どちらでも良いが俺は賛成だな。寧ろ居てくれた方が良いまである」
不服そうなレザールを横目にコブラは渋い顔で言葉を被せてきた。
「レザール、お前掃除してないだろ。居住スペースに初めて入ったがあまりにも空気が悪い。お前が掃除しないってなら他の人にやってもらうべきだ」
そう言ってコブラは勝手にレオンを助手としてこの事務所に引き入れる方向で話しを進める。この事務所の責任者はレザールの筈なのだが。しかし掃除云々の話しはレザールにとっては耳が痛い話で反論の余地がない。正直居住スペースについてはコブラに関係無い話しだが、どう言ってもレオンを助手に就けるつもりだ。
「現場仕事を教えるのかどうかはお前が決めればいい。気が乗らなければ事務所内の雑務を回せばいい」
どうだ、良い案だろ? と言いたげにドヤ顔で言い張ると、それじゃ、と強引に切り替えてコブラ自身の用件を話し始めた。
コブラは昨日手に入れたドッグタグの件で事務所に足を運んだ。「後日確認を」と言ったきり話しが終わっていた為、自主的に翌日に来たと言うのは有り難い事だ。アポイントメント無しの訪問である事は横に置いておいて。
レザールもコブラも悪魔関連はなんでも知っているという訳では無い。一介のハンターと仕事の仲介人というだけで知識量は一般人と比べたら少し多いという程度だ。このドッグタグが何なのか知りたければ専門家に聞く他ないだろう。
この国には全部で四箇所に教会がある。北部サイネリアカプリコーン県の豊穣神を崇める教会。東部離島アザレアタウロス県の来光神を崇める教会。南部サフランスコーピオ県の戦神を崇める教会。そして中央部クレマチスジェミニ県とモナルダキャンサー県を跨ぐ創世神を崇める教会。
教会の書庫には悪魔といった所謂「神秘的」な存在について書かれた書物が大量に保管されている為、教会に所属している聖職者はそういったものに関してかなり詳しく知っている。レザールが今居るシルバークロウ市から一番近い教会は中央部の教会だ。本件の情報収集で訪問するとなると此処になるだろう。
コブラは今しがた受け取ったドッグタグを小さい茶封筒に入れてジャケットの内ポケットに仕舞った。
「これは神父に渡しておく。そのうち連絡が入るだろう」
コブラが帰り支度をしている時、事務所の外がやけにざわついているのを三人は感じ取った。近所の人の世間話や噂話、陰口とは違う、騒々しく鳴り響く警鐘の様な胸のざわつき。
レザールとコブラは目を見合わせて互いにやるべきことをやるだけだと言った様子でテキパキと仕度を進める。レザールは刀をベルトの隙間に差して戦闘準備をしている。一方コブラは戦う事が出来ない為、窓から外の様子を伺っている。タイミングを見てここから出ていくつもりの様だ。騒動が治まるまで事務所で待てばいいものの、件のドッグタグといい別件の狩猟依頼といい仕事が残っているとかで長時間留まっている訳にもいかないのだという。
コブラはサングラスを下方にずらして窓の外を凝視しながら状況を説明する。紫の瞳が不可解に光る。能力を使っているのだ。
「レザール、俺が視えている範囲ではここから一本向こうの路地に出現している。数はそこそこ多いが、魔力反応は大した事ない。昨日の雑魚とは違う種類の雑魚がニ種だ。その内一種は浮遊している」
「わかった、すぐに向かう。レオン、お前はここに残れ」
慣れた様子で、それでいて緊迫した声色で言葉を交わしたレザールは早々に飛び出して行った。呆気に取られているレオンを他所に事務所から出ようとコブラも扉に手を掛けたが、立ち止まり尻目にレオンを捉えて助言めいたことを残す。
「お前の目に映るものをよく観察しな。物や生物だけじゃねぇ、全てだ」
先程までの緊張感は無く、声はいつもの調子に戻っているがちらりと見えた目は一切笑っていなかった。裏口から早急に立ち去り事務所にはレオンがぽつんと立ち尽くして一人残っているだけになった。レオンを強引にレザールの傍に就けた真意はコブラにしか分からない。今はまだ。
コブラの言った路地へ赴き近くの建物の陰から背を壁に様子を窺うと、一般的に都心では発生し得ない体長三十センチはありそうな巨大な蝙蝠の群れとガラクタの様なボロボロの剣や槍、鎌等を持った骸骨の群れがあった。コブラの目で視た魔力の主はこれらで間違いないだろう。一種は下級悪魔の蝙蝠型、もう一種は同じく下級悪魔の骸骨型と言われる悪魔だ。悪魔の格で言えば蝙蝠型より骸骨型の方が位は高い。体感的な強さの差は殆ど無いが。
今日は近場という事もあって銃は持って来ていない。以前この住宅街で発砲した際にライラック側に「五月蠅い」と苦情が入ったというのも理由の一つだ。これでも何年もデビルハンターとして戦って来た男。刀一本で戦う事など造作もない。
レザールは柄に手を添え鯉口を切る。そして柄に添えた手に集中して体内を巡る魔力を流す様に刀身へ纏わせる。魔力、それは国民全員が持ち合わせるものではない。神より無作為に選出された八人のみが持つ「特異能力を操る力の素」である。魔力を生成する器官を「魔力炉心」と言い、それを持つ者の正式名称を「神の落とし子」俗称を「御子」と言われている。レザールはその八人の神の落とし子の内の一人だ。
レザールは魔力で刀身を覆う事で戦闘中の刃毀れを防ぎ、更に殺傷能力を高めている。これをするにあたって必ず鯉口を切らなければならない訳では無いが、右手から刃へ向けて魔力を流すには流動経路が一本道である方が魔力に無駄が無いからだ。鯉口を切る事によって面していた鞘への流動経路が細くなり流れにくくなる為この方法を取っている。一番簡単なのは抜刀後に魔力を流す事だが、これでは初手居合抜きの斬撃威力に魔力の補正が掛からない。
「まずは手前の骸骨型からだな。二体……いや、三体同時はいけそうか」
群れの中を観察して斬りかかるタイミングを窺う。初手に飛んでいる蝙蝠型を狙うのはこちらに隙が出来る為悪手と言えるだろう。
骸骨型がこちら側に出てきたところでレザールは柄を強く握り建物の陰から飛び出していく。手前三体の骸骨型に向かって滑り込む様に刀を抜刀し斬り込んだ。ガラガラと崩れていく悪魔から視線を外し、正面の別の骸骨型に目をやる。こちらに気づいた悪魔が近づいてくる。背後から迫る一体の蝙蝠型を知覚すると振った刀を逆手に持ち、迫りくる背後のその頭に突き刺した。刺した刀を逆手のまま前方の群れに向かって振り、消えかけの蝙蝠型の死体を飛ばして怯んだ隙をつき刀を持ち直し薙ぎ払う。骸骨型三体は崩れ去った。
「これで骸骨型は片付いたな。後は蝙蝠型か」
消えていく様を見届けて一呼吸置くと残った蝙蝠型に目をやる。
噛みつくつもりなのか、左右から蝙蝠型が口を開けて襲い掛かってくる。右手で握っている刀を強く握り直し、右側から迫る悪魔を柄頭で殴り地面に叩きつけ両断する。左側から迫る悪魔には左足で強く蹴り飛ばし、奥側で飛んでいる悪魔に当てて地面に落とした。いつの間に頭上へ来たのか、真上からの気配を察知し噛みつかれるギリギリのところで後方へ下がって回避し、勢い余って地面に顔面を強打した悪魔の頭部を斬り飛ばす。 レザールは長年デビルハンターをやっていた為か周囲の気配には一般人よりも敏感になっており、危うく被弾しそうにはなっていたものの無傷で乗り切った。飛び回っている最後の一体は芸も無く正面から突進して来たが、両手で握った刀を振り被り右上から左側へ斜めに振り下ろし両断して殺す。そして地面で伸びている残り二体の蝙蝠型の止めを刺す。
周囲を見渡し悪魔が居ないことを確認し、納刀してから煙草を咥えて一息つく。
「はぁ、終わった。アイツら街中に出過ぎじゃねぇか? 」
ため息交じりにぼそっと愚痴を零す。煙を吐いて歩き出す。来た道から帰ろうと目をやると曲がり角に見覚えのある顔を見つけた。それに気付いたのか、笑顔で手を振りながら小走りで寄ってくる。
「レザールさん!お怪我はありませんか?早く帰りましょう」
「……事務所で待ってろって言っただろうが。火も着けたばっかだし。ああ、勿体ねぇ……」
呆れ半分名残惜しさ半分で仕方なく煙草の火を消した。だが、表情は存外まんざらでもない様で、バタバタしていたここ数日間の中では一番穏やかだった。レオンという青年がどういった人物かは初対面という事もあって分からないが、こうして誰かに迎えられるのはいつぶりだっただろうか。
「そういやレオン、お前どうやって事務所の位置を調べたんだ? 」
ふと疑問に思った事を口に出す。事務所の情報は広告等での提示を一切していない筈だ。知っているのはコブラ(ライラック魔狩り局)かブレインしか居らず、一般青年のレオンがどちらかを訪ねるとは思えないからだ。
「レザールさんの後ろにこっそり付いて行っただけですよ。ターゲットを尾行すればいつかは根城に辿り着けますので」
不意のレザールの問いにきょとんとした表情で常識の範疇かの様に答える。
「……マジかよお前」
真面目そうな風貌の一般青年とは思えない返答に、聞かなければ良かったとバツが悪そうに首に手を置く。気配を消して尾行出来るレオンがまるで暗殺者かの様に感じさせる。知らぬが仏とはこのことだろう。これ以上は何も聞かず無言で事務所へ帰った。