第18話 グレイス
レザールの事務所で殺し屋を捕まえた日の深夜、レッドコンドル市のフォクシー宅で悶え苦しむ声が響いていた。家内は寝静まり辺りはシーンとしており、余計にその声は大きく聞こえる。出どころは長い廊下の一角の洗面所からだ。
「ハァ、ハァ……うぅ、ゲホッゴホッ」
嘔吐を繰り返し、その中に血も混ざっている。赤い瞳は虚ろで涙とも汗ともとれる雫が一筋、もう一筋と流れる。
「相変わらず無茶をするね、クリス。まぁ、キミが苦しめば苦しむほど僕は愉快で楽しいんだけど」
声のする方へ顔をゆっくり向ける。そこにはフワフワとした髪の少年が縁側に座っていた。背中からは白い羽が伸びており、一目で普通の人間ではないと察することが出来る。
「……黙れゼノ。ゴホッ、ゲホッ……使命とやらは果たしてるだろ」
血を吐いて咳き込み、苦しみながらもクリスは対話に応じる。
「もー『フィフス』って呼んでよ」
ゼノと呼ばれた少年は不服そうな顔でクリスを見上げる。足をバタつかせて見た目通りの幼い子どものような仕草をする。
「もちろんキミの活躍はしーっかりとこの目で見てるよ。僕たちともちゃんと共有してる。でもね、キミだけ明らかに炉心内魔力の使用量が少ないんだよ。それって妖術のせいでしょ? あんな身を滅ぼすだけの力に固執してるからだよ」
フィフスは明るく話す。神の落とし子の能力を使うように催促する姿はどこか怪しささえ感じさせる圧があった。クリスは反論する気力が無いのか、将又妖術に固執してることが図星だったのか。特に言及することなく洗面器に凭れかかっている。
「妖術なんてやめて能力だけでいいじゃん。そっちは精々吐血程度なんだから、安いもんでしょ」
クリスは虚ろながらもその提案に頷くことはなかった。妖術は直に毒を飲んで使用する術だ。負担が大きいのも当然の話。だがクリスの能力は毒だ。アズマの水やルイの氷と比べれば能力の使い勝手は最悪と言っても過言では無い。つまるところ、妖術の一つである「殺生石」があってようやく効率的に戦えるのだ。
何を言っても首を縦に振らないクリスに痺れを切らしたのか、フィフスは溜息交じりに言い放つ。
「これだから頑固ってヤだね。だったら妖術は好きにしなよ。その代わり、一つの戦闘で一回以上は能力を使ってよ」
フィフスの声色は明るいままだ。だが、その声色とは裏腹に目は笑っていなかった。
「……貴様に強制される謂れは無い」
「あるさ。僕たちは神の落とし子たちを殺す為にいるんだから」
フィフスのこの言葉にクリスは何も言い返せなかった。フィフスの言い分に同意しないという選択肢はハナから無かったのだ。
「……わかった、条件は飲んでやる。言わずもがな妹にはこれからも近づくな」
クリスの同意にフィフスはにぱっと笑う。この姿だけは普通の子どもにしか見えない。「わかればいい」とでも言うのか、フィフスは縁側から立ち上がり背中の白い羽を羽ばたかせて姿を消す。飛び去った訳では無い。人の目には姿が見えないように消えたのだ。フィフスはまだクリスの近くにいる。いや、四六時中近くにいる存在なのだ。クリスは嘔吐が治まると覚束ない足取りで自身の寝室へ歩いて行く。
これは後にクレマチスジェミニ県オレンジスワロー市での「大量発生した骸骨型悪魔》の掃討」依頼をレザールに持って行く前日の話。
ここはグロリオサレオ県シルバークロウ市にあるビル、ライラック魔狩り局の廊下。ジャックはチェーンソー片手にエントランスへ向かっていた。局のスタッフからは遠巻きに避けられているが、ジャック本人は気にした様子もなく平然としている。周りから恐れられるのには慣れているのだろう。
エントランスに着くとそこにはコブラの姿があった。いつもならすぐにコブラに駆け寄っていたが、今日は足が止まる。コブラが誰かと話しているのが見えたからだ。コブラの対面にはフードを深く被った人物が居る。背格好と体格から男であると推測出来る。
「……商談、って感じじゃねーっすよね」
眉間に皺が寄った仏頂面で誰に問うでもなくただそう呟いた。
コブラと男を観察してジャックはあることに気付く。コブラがスーツの右ポケットに手を入れているということだ。コブラはパンツのポケットに手を入れる事はあっても、ジャケットのポケットにはあまり入れない。入れるタイミングが殆どないからだ。
コブラのポケットには様々な物が入っている。重要度の高い物はスーツの内ポケットに。煙草とライターは内左下方のポケット、所謂タバコポケットと呼ばれるところだ。財布はパンツの後ろポケットに。パンツの右ポケットには駅前で安価で売られているマッチが入っている。その反対側の左ポケットには何も入っていないが、コブラの手癖でよく手を入れている。そして、今コブラが手を入れているポケットに入っているのはーー。
「おう、来たなジャック。現場に向かうぞ」
ジャックはコブラに声を掛けられ駆け寄る。すれ違いざまにチラリと男を見ると、何かをポケットに仕舞った素振りをしていた。怪訝な顔をしながらもコブラに流されるように局を後にする。
現場に向かいながらジャックはコブラに問いかける。初対面にしては不思議な距離感だったからだ。
「コブラさん、さっきの男はなんだったんすか? 何かを手渡してたような気がしやすけど」
コブラの足は止まる。それを見てジャックも三歩後ろで立ち止まる。
「いや、まったくもって知らんな。手渡してた? お前の見間違いじゃないか? 俺は客人対応してただけだぜ」
コブラの答えに疑問が残る。エントランスでの客人対応は通常は受付の仕事だからだ。営業部であるコブラがすることではない。それに客人をそのままエントランスに居させるのも可笑しな話だ。対応中は引き取るのを見届けるか、中へ通すまでするのが仕事というものだ。コブラが行った対応は中途半端だと言える。
ジャックはコブラの発言に首を傾げる。その様子にコブラは嘆息をしてサングラスを外し、目を合わせるようにジャックの肩を掴み視界に入る。
「ジャック、お前はただ俺の言うことを聞いていればいい。確かにお前は護衛だが、それはあくまで悪魔相手に限った話しだ。いいか、お前の疑問は全部勘違いだ」
コブラはいつになく真剣に説く。その目は少しだけ光ったようにも見える。瞬きを忘れたかのようにジャックはその目に釘付けになっていた。
「ーーそれもそうっすね。いつもと違うなんて人である以上、それなりにあることでさぁ。気にする方がおかしいって話」
ジャックは今の疑問を忘れたかのようにあっけらかんとしていた。
ジャックの様子にコブラはフッと笑みを零す。サングラスを掛け直してジャックの肩から手を離し「ほら、行くぞ」と切り替え踵を返す。ジャックはコブラの後ろに付いて歩く。いつも通りの二人だ。二人の関係性に疑念を抱く余地など無い。
ここはクレマチスジェミニ県オリーブクレーン市の駅前、レザールはレオンと共にグレイス家へ話をつけるべくやってきた。オリーブクレーン市はシルバークロウ市に比べて栄えている街ではない。駅周辺はそれなりに栄えているが、駅から離れると途端に店が少なくなる。田舎という程でもないが都会とはとても言い難い。
レオンは大きく深呼吸をする。実家へ行くのに緊張をしているようだ。レザールはレオンの二歩後ろに付いている。
「レザール、ここからは俺一人で行きます。その、家系が家系なので何が起きるか分からないですし」
「いいのか? まぁ、お前がいいならここら辺の店で適当に時間を潰してるが」
口籠るレオンを気にかけてか、付いて行かなくていいのか確認を取る。
「……大丈夫です。父上とは訓練が始まって以来あまり関わってきませんでしたが、なんとか話してみます」
レオンは見るからに空元気といった様子で、目も当てられない状態だった。大丈夫か大丈夫でないかと言われれば後者であることは明らかだ。だが、レオンの覚悟を踏み躙ることにもなりかねない為、レザールは溜息混じりに了承する。そうして二人は別れてそれぞれ歩き出した。
駅を出てから一時間半程経っただろうか。レオンは自身の実家、グレイス邸の門前で足を止めていた。周りは山で囲まれており他に家々は無い。殺しが家業の家だ、普通の住宅街に居を構える訳がないのも当然の話だ。
レオンが緊張した面持ちで家を前に立ち止まるのは心の準備が出来ていないからに他ならない。何度か深呼吸を繰り返し強張る顔で踏み出した時、屋敷の玄関が開かれる。扉から出てきたのは中年の男だった。
「……父上」
「待っていたぞレオン。早く入りなさい」
レオンは父親の言葉にビクリと肩を揺らし、慌てて門を開けて急ぎ足で中へ入る。
父親はレオンを一瞥すると背を向けて歩を進めて行く。付いて来いと言っているのを背中で語っている。レオンは父親の背中に会釈をしてその後を追う。長い廊下を歩いて行き、奥まったその先にあった部屋は父親の自室だった。何故応接室ではないのかという質問が出来ない程の圧を背中から感じ取ったのか、レオンは気まずさを顔に出しながら入室した。
父親はローテーブルを挟んだ奥のソファに腰掛け、レオンに向かいのソファに座るよう促す。ビクビクとしながら言われた通り着席すると早速言葉が投げかけられる。
「レオン、まずはお前が我がグレイス家から逃げ出した理由を言え。お前が家を出た旨はジャグアルから報告を受けている」
ジャグアルという名でレオンの表情は更に強張る。
「兄上が? 一体いつからご存知だったのですか」
「お前が家から姿を消した約一時間後に私の元に報告に来た。奴のことだ、一時間より前には既に知っていただろうな」
レオンの質問に淡々と答える父親の姿にレオンは益々萎縮していく。額に脂汗が滲み、まともに相手の顔を見られない状態だ。レオンのこの姿に話しにならないと判断したのか、父親はある人を呼び寄せた。
少し経って入室したのは、長身でスラッとした立ち姿で髪をストレートに伸ばした若い女だった。手に持たれた木製のトレイには茶の入ったピッチャーと二つのガラス製コップが乗っていた。女はレオンを一瞥したものの特に気にした様子は無く、ただ父親の指示通りに目の前で茶を淹れてそのまま去って行った。父親は女が去ってすぐにその茶に口を付ける。何事も無く一口飲んだ後、レオンに視線を向ける。父親の目は力強く「飲め」と言っているように映っただろう。そんな圧に晒されレオンは震える手でコップを持ち一口含んで喉に通す。そして胸に手を当て深呼吸をする。
「……相談も無しに家を出たのは申し訳ありませんでした。ですが、俺ーー僕はこの手で人を殺めるのが恐ろしくてたまらないのです」
「それで出て行ったと。父上、お前たちで言う祖父上の下で訓練を受けていた理由もそれか。レパードは生来より面倒臭がりのきらいがある故その選択にも納得だったが、お前は実践に入る時期を先送りするためか」
父親の推測にレオンは頷く。レオンは幼い頃から将来的に家を出ることを織り込み済みで人を殺さない方を選んで行動していたのだ。父親はそんなレオンに呆れるでもなく、寧ろ感心したというように僅かに口角が上がる。
レオンは手に持っていた大き目の茶封筒から一枚の紙を差し出す。例の念書だ。
「父上、僕は人を殺めたくはありません。これから先もこの気持ちが揺らぐことは無いでしょう。なので兄レパードを使い、僕を標的にするのは止めて頂きたいです」
父親は念書を読みながらレオンの言葉を静かに聞く。実際は一分と経っていないその沈黙は、十分間を体で感じさせるくらいに長い。
やがて父親は嘆息一つして念書を「くだらん」と破り捨てる。グレイス家を知らないレザールすら想定していたその行動だが、目の当たりにしたレオンは萎縮し震え上がる。あまりの恐ろしさに涙目になりながらも封筒からもう一枚書類を取り出そうとする。しかし、父親の合図で茶封筒ごと先程の女に取り上げられてしまう。その封筒はそのまま父親側のローテーブルの上に置かれる。女は退出することなく父親の左後ろで待機する。
「お前の手になど乗らん。全てジャグアルから報告を受けている。この書類はあの男の入れ知恵だろう? 確かレザールと言ったか」
父親の口から「レザール」という名が出て目が見開く。それは明らかな焦りの表情だった。
父親の左後方に立つ女が右手を挙げて発言権を主張する。父親からの許可が降りるなり女はレオンに言葉を投げかける。
「レオン、ここは交渉の為に設けた場ではない。父上はお前の決意を聞き届けるまでは解放する気はないと仰る。さあ、全て吐きなさい」
「……姉上」
女は鋭い目つきでレオンを見る。しかしその目には殺意どころか悪意すら無かった。小刻みに震えて顔が見れないレオンにはそれに気付く余地は無い。
父親は手を挙げて女を静止させる。
「ではレオン、お前に聞こう。お前は殺しが嫌だと言ったな。では悪魔とやらと人では何が違うと言うのか」
グレイス家の人殺しの仕事と、レザールの悪魔殺しの仕事の違い。レオンは殺すのに抵抗があると言っているが、出ていった先の仕事もまた殺しだ。その矛盾を問われているのだ。
「……あ、悪魔は人々を無差別に殺す敵です。この戦いは人の為に戦える名誉なんです」
「我々に入る依頼も依頼人からすれば悪であり敵だ。名誉? そんなものやり甲斐を搾取するための詭弁に過ぎん」
レオンは苦い顔で唇を噛みしめる。父親を納得させるだけの説得材料は持ち合わせていなかった。これは生きてきた年月の差なのだろう。
重い沈黙の中、父親は次の質問に移った。父親の深い溜息にレオンは大きく肩を揺らす。それはまるで肉食獣に狙われた小動物のようだった。
「ではレオン、お前は悪魔というものをどう理解している」
「……悪魔は、人を襲って殺す存在です。言わば人類の敵です。悪魔の世界では貴族階級制で、強い者が七つの内のいずれかの爵位を持っているそうです」
「先の戦いでお前も戦ったと耳に挟んだ。邪眼無しにお前は貢献したか」
父親の言う「先の戦い」とは両生類型の上級悪魔の戦いを指している。あの戦いではレオンは湧いて出てくる下級悪魔の対処しかしていない。それも胸を張れる活躍とは言い難いものだった。ルイやアズマとの比較ではない。満足に対応しきれていないという事実があるのだ。これを無視して活躍をしたというのは、相当図太い神経をしていなければ言えないだろう。この戦いに参加していたことを知っている以上、嘘は通用しない。
「……僕は上級悪魔を打倒するチームに入っていましたが、相手取ったのはその悪魔が呼び寄せた下級悪魔のみです。それもごく一部。父上が想像するような活躍をしたとは言えません」
父親は一言「そうか」と言い残し再び沈黙が流れる。怒られると感じてか自然と背中が丸まり前傾姿勢になる。父親も女もそんなレオンの様子を静かに見つめる。
レオンと別れた後、オリーブクレーン市駅前の喫茶店の前でレザールはメニュー看板を眺めながら佇んでいた。その看板にはパンケーキの写真が載っていた。
「ここはメレンゲを焼くタイプかよ。フワフワ過ぎて食感に飽きるんだよな。クリームも少ねぇし」
どうやらレザールの好みとは違うようで、入店するか考え倦ねている様子だ。こんな感じでかれこれ数十分程店の前でウロウロしている。端から見れば不審者だ。
レザールの思考がパンケーキに向いている時、不意に腰辺りをコート越しに何かを突きつけられる感覚を覚える。振り向こうとするとその力は強くなる。振り向くなということだろう。レザールの耳元で囁くようにその人物は声をかける。
「君にはとある場所へ行っていただきます。勿論拒否権はありませんので」
これまで全くしなかった気配に身体が強張る。腰に充てられているのはナイフだろう。レザールは成すすべ無く指示に従うしかなかった。
左手側からスッと伸びてきた手に持たれていたのは地図だった。その地図はオリーブクレーン市のみ書かれたものであり、一部分に赤ペンで丸が囲ってある。そこに行けと言っているのは一目瞭然だ。レザールは眉間に皺を寄せながらも仕方なしと溜息を吐いて歩き出す。面倒臭いという心情が身体全体から漏れ出ているようだ。
あれから一時間と四十分は経っただろうか。レザールは地図に赤丸が付けられた目的地の間近まで来ていた。地図が示しているであろう場所は見えてきている。赤丸が指しているのは屋敷だ。山に囲まれたこの場所で目ぼしいものは一軒の屋敷しかない。
レザールはげんなりした顔で「やっと着いたか」と息を吐く。目の前に見えた目的地と思わしき屋敷へ一歩また一歩と踏み締める。すると、数メートル後ろでジャリッとした、乾いた土の地を蹴る音が小さく耳に届く。そしてその小さな音から五秒も経たずにそれはレザールのすぐ背後まで迫った。
間一髪と言うべきか、視線を向けた先にサバイバルナイフを握った腕が背後から飛び出てきていた。レザールは左へ体を傾け姿勢を落とした為に被弾どころかかすり傷さえ無かった。ナイフを持ったその腕を掴んで引っ張り、よろめいたところを足払いする。が、すぐに腕を振り払いレザールの足払いを飛んで避け、回し蹴りを繰り出してくる。レザールは咄嗟に両手でガードし顔面への直撃を避ける。そして全体重を使って脇腹へ突進し突き飛ばす。だが、突き飛ばしても腕を地面に着いてバク転をしてすぐに体勢を立て直した。その身のこなしは一言で言えば優雅で、その一つの動作だけで品が滲み出ていた。
そうして互いの距離が空いたことによってようやく対面して目の前の人物を視認することが叶う。
「ふぅ、日々戦う職種なだけあって流石ですね」
フードを脱いで顔が曝される。穏やかで大人しそうな声色に加え、見目も至って普通の優男といった印象が残る男だ。その顔は見知った誰かに似た雰囲気を持っていた。
男はナイフを構えて再び間合いを詰めに来る。目の前に迫るまで一瞬だった。正に瞬く間だ。ナイフの矛先は的確にレザールの顔を目掛けて真っ直ぐ突いてくる。レザールは自分の顔とナイフを持った男の腕の間に腕を挟み、更に顔を仰け反って避ける。レザールの判断の早い動きに男は驚いたような顔を見せる。レザールは男と自分の間に挟んだ腕でナイフを持った腕を払い、その腕で男の顔に殴り掛かる。男は払われた拍子にバランスを崩すが、目前の拳を避けながらその腕を左腕で掴み引き寄せながら左足で腹部を蹴り上げる。
「ーーっ!」
衝撃に顔を歪める。男は続けて右足で回し蹴りをするが、レザールは体勢を落としてその蹴りを避けて男との間合いを空ける。しかし逃さんと言わんばかりに男はナイフを構えて距離を詰める。いずれも顔を狙って繰り出される素早い突きは避けるのに精一杯で反撃の余地がない。レザールの左手が腰の刀に伸びるが、抜こうとはしなかった。
「抜刀しないのですか? いいんですよ? 僕は本気の君とサシでやりたいんですから」
男は笑顔で問いてくる。その笑顔も声もレザールを試すように挑発するように囁いた。
「はっ! 俺がそんな安い挑発で刀を抜くとでも思ったか。だとしたらとんだリサーチ不足だぜ? 」
そう言い放ちナイフを持った手を蹴り飛ばしナイフ地面に落とした。男はナイフを手放した後、目を見開き一瞬だけ止まった。その一瞬をついてレザールは右手で男の腹を殴り、腕を掴んで足払いをして男を地面に組み伏せる。男は仰向けに寝かせられ、信じられないといった様子で笑顔から驚嘆の表情に変わる。そんな男の顔を心底疲れた様子でレザールは見下ろした。
この体勢が一分程続き、ようやく解放されると男はナイフを拾いに行く。その後ろ姿には戦闘を続行する意思は感じられない。男はナイフを仕舞い向き直ると極めて友好的な笑顔でレザールに歩み寄ってくる。
「僕はジャグアル。姓をグレイスと言います。君の助手兼弟子であるレオンの兄です。『グレイス家兄弟の一番上』と言えば理解出来るでしょうか? 」
ジャグアルと名乗った男は無遠慮にレザールへ近づき、何を考えているか分からない目で観察する。薄ら笑うその顔は不気味と言える。
「グレイスってことは殺し屋か。なんだ、レオンを始末出来なかったから先に俺を殺そうってか」
「まさかまさか。人が神の落とし子を殺してしまったら神下反逆罪ですよ。人殺しを生業にしていても流石にそんなリスクを負うつもりはありません」
ジャグアルは微笑みながら言う。神下反逆罪とは「神の下した意向に対して逆らう」罪のことだ。神の落とし子を用いて国の平和を守るという意向を蔑ろにする行為を指す。つまり守護対象である「人」が「故意」に神の落とし子を殺害する、手を下すことで発生する罪だ。神への不敬とみなされ即日殺処分となる。余談だが、神の落とし子は人間である為人間側が定めた法律の「殺人罪」も適応される。
「それでは、屋敷へ案内します。勿論レザールくん、君に拒否権はありませんので」
「そうかよ。そう言うと思ってた」
レザールの言葉にはにかみ、ジャグアルは屋敷の方へ歩き出していく。穏やかそうではあるものの有無を言わせない圧力があるため、レザールはついて行くしかなかった。レザールは深い溜息を吐いた。
屋敷の門を潜り通されたのは応接室だった。既に用意されている茶が入ったピッチャーと口が伏せられたコップはトレイに乗せられテーブルの上に置かれている。
「レザールくん、右か左か」
ジャグアルの唐突な意味の分からない問いに困惑しながらもレザールは手短に答える。
「左」
そう言うとジャグアルはペーパータオルで二つのコップの口を拭い、それらに茶を注ぐ。そしてレザールから見て左側のコップを差し出す。レザールがその茶を飲もうとしているのを一度手を挙げて静止し、先にジャグアルが口を付ける。一口含んで飲み込む。それはまるでレザールに見せるかのような動きだ。
「さあ、どうぞ。遠慮せず飲んでください」
促されるがままに茶を一口飲む。
「……それは毒が入っていないと証明する為のものなのか? 」
レザールが指摘したのは今しがたの茶を出す下りについてだ。客人にコップを選択させるのも注ぐ前にコップの口を拭うのも先に目の前で飲むのも全て毒が入っていないと理解させる為のものではないかという確認だ。ジャグアルは微笑んで問いに答える。
「よく分かりましたね。僕たちは哀しいかな殺し屋ですので、まずは小さな信用を得るところから始まるのです。それがこの家でのお茶出しというものです」
ジャグアルはまた一口飲んで続けて説明をする。まずは客人に出すのがピッチャーに入った茶である理由だ。コーヒーはコップ毎にドリップする必要があり、キッチンで用意しようがこの場で用意しようがどこかのタイミングで毒を入れることが可能になる。対してピッチャーの茶は普段家庭内で飲むものである為その心配は無くなるのだ。そしてそれを目の前で注ぐ行為は毒を入れる隙は無いと見せつける為だ。
そして最初に客人にコップを選ばせるのも、ジャグアルが選べば毒付きを渡されると警戒されるからであり、コップの口をペーパータオルで拭うのも毒を拭き取っているところを見せる為である。布ではなく紙を選んだのも布に毒が付着していると疑われる可能性があるからだ。
「家族であればここまで徹底する必要は無いのですが、客人となるとそうもいかないでしょう? 」
殺し屋ではあるが、依頼を受けない限り殺しはしないようだ。それはジャグアルが特別そうなのか、グレイス家の方針がそうなのかまでは確信に至らないが。
茶に関する話は終わり、本題に入ろうとする。本題と言っても説明無しに来させられた為、レザールは何も知らない。そんな心境を察してか、ジャグアルの方から話が振られる。
「レザールくん、君はデビルハンターであり神の落とし子です。そんな君に教えて欲しいことがあるんです。それは僕も知りたいことですし、父上も知りたいことです」
「俺も全てを知ってる訳じゃないぞ。だがま、知ってる範囲でいいなら答えるつもりだ」
「ありがとうございます。ここでの僕との会話は全て父上の耳にも入ります。ですがご安心を。父上は先客に対応していますのでここには来ません」
レザールは「報告ならご勝手に」といった様子で肩を竦める。レザールが今回対峙するのはレオンの兄、ジャグアルなのは本人が言うため間違いは無いのだろう。それはそれで父親とは別の緊張が走るだろうが。
ジャグアルは最初の質問を投げかける。「悪魔と人は何が違うのか」この質問にレザールの顔は少し強張った。何というべきなのかというよりは、何故そんなことを聞くのかという疑問の方が大きいのだろう。
「在り方であれば全然違う。まずアイツらは生物じゃない。どんな見てくれをしてようが、人を害する存在だ。害獣被害に遭ってるのに放置するやつはいないだろ。その獣は殺すか生息地帯に帰すかのどちらかになる。悪魔は殺す一択だけどな。まあ、纏めれば害獣みたいなものだな。人とは根本が違う」
「悪魔は害獣か。なるほど確かにその考えであれば人を殺すのに躊躇っていても悪魔は殺せます」
ジャグアルの発言は明らかに誰かの姿を想像して言っていた。レザールの自論は、デビルハンターもしくは神の落とし子ならではの考えだと言える。一般人ではそういう考えには至り難いだろう。
茶を飲み交わしながら次の質問に移った。「悪魔とはなんなのか」さっきの質問より本質的なところを突いた質問だ。レザールは静かに考えを巡らせながら答える。あまり深く考えた事が無いのだろう、思考する時間は先程と比べて少し長い。
「……負の感情から生まれた神聖生命体とでも言うべきか。レオンが知ったらショックを受けるだろうが、悪魔ってのは大きく分けて二種類いる。元から悪魔だった個体と元は人間だった個体だ」
レザールの発言にジャグアルの顔から一瞬だけ笑顔が消える。すぐに穏やかな顔に戻るが、その一瞬だけは心底驚いたといった表情だった。そんな様子を一瞥して話を続ける。
「容姿での見分け方なんてものは無い。ただ、やけに流暢に言葉を話す個体がいたりするんだよ。そういうヤツが大抵は元人間だった個体。爵位持ちだと多分その限りでは無いんだろうがな」
「一体どうして人間が悪魔になると言うんです? 」
ジャグアルはレザールに問いかける。殺し屋とはいえ一般人には理解できない真実なのだろう。普段冷静そうな兄がこれではますますレオンやエリスに教えることは出来ない話だ。
「負の感情を持って死んだヤツが悪魔になる。それが世界ルールの一端だとかなんとか」
レザールが口にした世界ルールは、国が定めたルールという意味ではない。自然の摂理に近いこの世のシステムだ。そして、このシステムがあるから悪魔は減らないとも言えるのだ。レザールの口ぶりは誰かから口頭で聞いたものだと推測出来るほどに曖昧だ。ジャグアルはこれ以上深くは聞き出さなかった。この話題の深堀は危険であると警鐘を鳴らしたのだろう。
また一口茶で喉を潤わす。深い意味は無くただ面接の感覚で訊ねたのだろう。返ってきた言葉の咀嚼に頭を使っているのは表情で読み取れるくらいには焦りが見える。
「……これはレオンには言わない方が良いですね。それが本当であれば殺し屋が火種を蒔いているようなものです。殺し殺されの間に憎悪が芽生えることなど珍しくはありませんから」
ジャグアルは目を背け耳に手を当てている。まるで誰かの声を聞いているかのようだ。
「あちらはもうすぐ終わるそうです。レザールくん、君に最後の質問をさせてください」
ジャグアルの頼み込むような言葉だが、拒否権は決して与えなかった男だ。今回もレザールに回答を拒むようなことをさせないだろう。
ジャグアルの最後の質問、それは「悪魔を狩ることを名誉だと感じているのか」だ。レザールは神の落とし子だ。それ以前にデビルハンターであるレザールにとって悪魔狩りは仕事、役割、使命感しかない。だが、そんな感覚がある上で名誉だと思うかどうかは別の話だ。ジャグアルは静かに問うた。
「さあな。そんなこと考えた事もねぇよ。ただ一つ言えるのは、神の落とし子なんざ碌でもないってことだけだ」
レザールは立ち上がり出口へ歩いて行く。その姿はまるで話はここまでだと言うように。
「駅前でパンケーキ食って帰る。アイツに会ったら言っといてくれ」
右手をヒラヒラと振りながら振り返ることもせず部屋から、グレイス邸から出る。その姿が見えなくなるまで座って見ていたジャグアルは呆気に取られていた。そして一人残されたこの部屋で語りかけるように話しかける。
「父上、聞いておりましたか。レオンの処遇については父上の心のままに」
フッと息を吐く。心なしか、貼り付けた笑顔ではなく本心からの安堵したような笑顔をしている。その顔はまるで心配事が一つ消えたと語っているようだった。
父親の部屋ではレオンの父親と姉、そしてレオンが重い空気感の中向かい合っていた。この光景は宛ら判決を待つ囚人のようだった。父親は口を開く。
「レオン、お前が殺しが嫌なことはしかと理解した。だが、それが表面上人から悪魔に変わっただけだということだけは忘れるな。これらの事実はいずれお前を苦しめるだろう」
レオンは俯いたまま自信無さげに返事をする。汗が滝のように流れ出るのを気にしていられない程父親の圧に萎縮している。そんなレオンを見て痺れを切らしたのか、父親は片手でレオンの頬を掴み顔を強引に上げて目を合わせる。
「ーーお前が外へ行きたいと言うのなら好きにするがいい。だが、条件として年に一度は戻れ。精々、己に課した役目を果たしてこい。半端は許さん」
そう言うと乱暴に手を払った。レオンは何を言われたのかすぐに理解が出来ずパチパチと目を瞬かせて数秒固まった。そして、父親の目が鋭くこちらを睨みつけていると分かると飛び上がって、腰を四十五度に曲げた会釈をして足早に立ち去る。まだ理解が追いついていない様子で走って行くが、確かに父親から「好きにしていい」とお墨付きを貰ったのだと笑みが零れる。
レオンが去った後、姉と父親は依然と部屋に残っていた。姉はテーブルの上を片付けている。
「もっと素直になってはどうですか父上。心配で仕方なくて今日この場を設けたのでしょう? 父上の言い方では真意は何も伝わりませんよ。ここに私を呼んだのも、兄上にあの男を連れて来させたのもレオンに対して悪感情を抱いてないって理由ですよね」
姉の言葉に父親は黙る。この沈黙は明らかに図星を突かれたといった気まずさからくるものだった。レオンが持ってきた書類を握りしめる手はどこか憂いを帯びているようにも見える。
「ピューマ、奴の始末とレパードの折檻を頼んだぞ。それらはジャグアルの指示で動け」
ピューマと呼ばれたレオンの姉は先程テーブルを拭くのに使っていた布巾を手に持ち、会釈と共に無感情に返事をする。父親の部屋を後にすると、ピューマの表情は少しだけ緩んでいた。キッチンへ向かう足は僅かに軽い。
レオンはグレイス邸を出て駅に向かって歩いていた。左右に木々の生い茂る、人工物が何も無い道をただ歩く。暫く歩けば舗装された道路に出て駅へ向かうバスに乗れるのだ。レオンはふと立ち止まる。目の前の約八メートル先に見覚えのある人物を見つけたからだ。
「……レザール? 」
ボソッと呟く。恐らくその小さな声は聞こえていなかっただろう。だが、目の前の男はこちらへ振り返った。煙草を咥えたその男は間違いなくレザールだ。
レオンはレザールに向かって走り出した。家を出て緊張も解けて年相応の自然な笑顔でレザールに駆け寄る。
「甘いもんでも食いに行くか」
レザールは咥えていた煙草を踏みつけて火を消した。まだ長いその煙草を名残惜しそうな顔をしながらも風を切って歩き出した。レオンは憑き物が落ちたような解放的で元気な声で返事をする。ようやくいつもの日常に戻った、そんな晴れやかさだった。
同日の深夜、グレイス邸の庭に若い男女三人が集まっており、その男女の中心には一人の老齢の男が地面に転がされていた。若い男女の中心には温厚そうな雰囲気の男、ジャグアルが佇んでいた。そのジャグアルに遅れて来た一人の女が話しかける。
「兄上、レパードを地下に監禁して来ました」
「ご苦労さまピューマ。さて、最後の仕上げといきましょうか、祖父上」
ピューマに対する労いの言葉とは裏腹に目の前の「祖父上」と称した男には冷めた目で見下ろした。
ナイフを片手にゆっくり接近する。不気味なくらいにねっとりとした動きで焦らすように近付く。目は鋭く男の顔を射抜き、口元だけは笑顔を浮かべていた。
「貴方は無許可でグレイス家の人間を操り、同じくグレイス家の人間を始末しようと画策しました。血縁とはいえ許される行いではありません」
男の目の前でしゃがみ込み視線を合わせる。手に持ったナイフを男の首に突きつける。
「それがどうした! あの小僧を逃せばいつ家の情報が漏洩するか分かったものでは無いだろう! 私は正しい。正しいのは私だ! 」
男の怒声が響き渡る。だが、その声に驚く者は誰一人いなかった。ジャグアルは溜息を吐いてナイフを握る手に力を入れる。首にナイフの切先が食い込み血が流れ出てくる。
「言い分は理解できます。ええ、それはきっと正しい。ですが、機密情報は当主か次期当主くらいしか知らないものです。レオンが知っているのは、精々ここが殺し屋の家だってことくらいでしょう。ですが、それが何だと言うのですか? 言いたければ言えばいいと思いますよ? 言った本人も世間から疎まれることになるでしょうがね」
ジャグアルは男が逃げられないように足の腱を切る。その行為は夜が続く限り延々と拷問を行うという意思表示だった。すぐには殺さず出来る限りの、思い至る手段を用いて男の人生最後を締める盛大な拷問だ。
男の声が響くが助けには誰も来ない。周囲が山に囲まれたこの土地ではまず人は通らない。男の血が飛び散る。簡単には殺さない。気絶なんてさせない。陽が昇るまで延々と痛みに苦しませる。
「だってその方が楽しいでしょう? 祖父上」
ジャグアルは満面の笑みで男を痛めつけ続けた。何度も何度も切り付け、何度も殴りつけた。何度も何度も他の兄弟たちと共に何度も何度も何度もこの夜が続く限りずっと。




