第17話 殺意
グロリオサレオ県オフスカイラーク市のとある賃貸アパートの一室に青年は慣れた様子で足を踏み入れた。その部屋に慣れているのは当然で、そこは青年が住んでいるところだからだ。一見すると几帳面であることが伺えるほどに埃一つ無く綺麗に片付いていた。
家とは本来、心も身体も落ち着かせて休ませる安心と安全の場所だ。それでも青年は部屋をぐるっと見渡して落ち着かない様子だ。
「……変わっていない。まだ着ていないのか……? 」
不安気な表情でポツリと呟くと、直線距離ですぐなところを机を挟んで遠回りをして寝室へ向かう。そこで青年はベッドに横になる訳でも無くただ立ち尽くしていた。深い青緑のジャケットは脱がず、肩掛けの刀も下ろさずそのまま立っていた。
一瞬、青年は黒い影が視界の端を揺らめいたのに気付き顔をそちらに向けた。すると青年の首に刃物が当てられる。刃渡りは短く、刃の反対側面には鋸刃が付いている。更に柄が円柱型になっていることから、この青年の持っているナイフと同種のものだと分かる。
「よお、クソ愚弟。お前とは病院以来だったな? まったく、手間取らせやがってよぉ! 」
「ーーっ! 」
レオンは右足を右斜め前に踏み出し、そのまま足を持ち上げる。すると、右下方から一本の小ぶりのナイフが飛んでくる。レオンが持ち上げた足の親指と人差し指には細くて見え辛い一本の糸、ピアノ線が引っ掛かっていた。ナイフを向けていた男は、飛んで来たナイフを避ける為にレオンを突き飛ばし、持っているナイフで弾いた。地面に伏したレオンは床上五センチ程の高さに張り巡らされたピアノ線に手を伸ばし、三本同時に引いた。引いた線の先から三本のナイフが男に向かって飛んでいく。
「小賢しいんだよ、クソが! 」
男がナイフの対処をしている内にレオンは寝室を飛び出し、リビングに張られているピアノ線一本を自身のサバイバルナイフの鋸刃で切断する。足止めの意図で切断した糸からは顔を目掛けて剃刀の刃が飛ぶようになっていた。それすらもナイフで弾いた男は、レオンが仕掛けた罠がどんなものなのか分かっていたようだ。
自分が仕掛けた罠が効かないことは織り込み済みだったのだろう、家の至る所に張り巡らせてあるピアノ線を切って罠を発動させながら玄関へ走る。玄関に差し掛かったところで隠し持っていたであろう投げナイフが投擲される。そのナイフは力強く空を切り、真っ直ぐレオンの背中に突き刺さった。苦痛に顔を歪めるも、そのまま玄関の扉を開けて外へ駆け出して行った。
レオンが住むアパートから二つ目の曲がり角の路地にエリスはいた。眉は八の字に下がり、いつもの元気で鬱陶しい姿は鳴りを潜めていた。そんなエリスの傍らには狐面の男、兄のクリスの姿があった。携帯電話で呼ばれた為、迎えのつもりで来たのだろう。だが、エリスはその場で座り込んでおり一向に動こうとしない。こんな様子のエリスを心配そうに顔を覗き込んでいる。顔が見えなくても仕草がそう物語っていた。
それから五分も経たないくらいにアパートの方で大きな物音が聞こえてきた。その音にビクッと身体を揺らし慌てて立ち上がる。角から覗き込むとレオンが走って来るのが見える。
「お兄! レオンを助けなくちゃ! 」
エリスの一言に嫌そうな態度を見せるものの、エリスの頼みだったからなのか渋々といった様子で頷く。クリスの反応を見て再びレオンの方を伺う。
レオンは真っ直ぐに走ってくる。そして目の前を通ったところで強く腕を引く。角から慎重に追手の様子を伺う。どうやら見失ったようだ。
「……エリス? なんでここに? 」
「しっ。もう少し奥へ行くわよ。ここじゃ見つかるわ」
見つかりにくい場所へ歩かせようと腕を引くと、レオンは苦痛に顔を歪めた。その様子を見てエリスはレオンの背後に回り込むと一本のナイフが突き刺さっているのを見る。エリスはナイフに手を伸ばすが、その手をクリスに掴まれる。
「待て。ナイフは刺したままにするんだ。手当てが出来ない今、そいつを抜いたら失血死する可能性が出てくる。ナイフで傷口に封をして流血を可能な限り抑えるべきだ」
「でもあたしは怪我を治すチャーム持ってるわよ」
エリスが反論するが、クリスは頑なに首を縦に振らない。何故チャームを使ってはいけないのか分からず腑に落ちないといった表情をする。
クリスが懸念するのは、怪我を治癒した後の話だ。レオンを確実に生かすならエリスが持つ治癒のチャームを使うのが一番早い。だが、治したことによって生じる不都合も起こり得る可能性が出てくるのだ。クリスにとっての不都合とは当然エリスに関してのことだ。追手と鉢合わせた時にレオンの怪我が治っていたら不審に思うだろう。数分の間に綺麗に治すというのは特異能力以外ではあり得ない話しだ。神の落とし子は国に八人しかいないため、神の落とし子に会うという事自体追手は考えないだろう。そもそも神の落とし子の能力は「戦う力」だ。「治す」に特化した能力を授かることはまず無い。そこでチャームに思い至るのだ。
レオン、クリス、エリスの三人が居てレオンの刺し傷が治っているとなると、真っ先に疑うのがチャームの所持だ。エリスたちに合流して怪我が治っているというところから、二人のうちの一人が治癒のチャームを所持しているというのは追手目線から見て明らかだろう。チャームには使用回数があるとはいえ、怪我を負わせるたびに治されては労力の無駄だ。ではどうすればターゲットを効果的に追い詰められるか。それは治癒のチャーム持ちを先に始末することだ。追手がどう判断するかはさておき、クリス自身はそういった判断に至る為チャームの使用を渋るのだ。言わば、関わった自分たちが狙われないための対策だ。
クリスの言い分に戸惑いながらもエリスは頷き、このまま場所を離れることにする。クリスは自身のジャケットをレオンに掛けた。レオンの血をジャケットに吸わせて血が地面に落ちるのを抑えているのだ。ただ、ジャケットの裏地がナイロン製でツルツルとした質感な為、掛けるだけではずり落ちてしまう。クリスはジャケットの袖をレオンの首元に巻き、腰紐を解いてレオンの傷口のすぐ下をジャケットの上から縛る。レオンを背負いエリスと方針を固める。
「状況を察するに追手はただの一般人ではないのは確かだ。なら、コイツを運ぶのは病院じゃない方が良い。当面の身の安全が保証出来る場所……レザールとかいう男の事務所だな。そこに行く」
「どうして病院じゃ駄目なの? 」
「病院で治療を受けるということは、無防備な状態になるということだ。治療の専門だからな、医者が管理しやすい環境ってことだ。そんな状態で襲われれば抵抗なんてほぼ出来ないだろう。それどころか、点滴に細工される可能性だってあるからな」
「早く行くぞ」とエリスに呼びかけレザールの事務所の方へ向かう。懸念があるとすれば、レオンの体力ぐらいだ。ここはシルバークロウ市の隣のオフスカイラーク市だ。隣とは言えそれなりに距離がある。流血を抑えてはいるものの、レオン自身がそこまで意識を保っていられるかが問題だ。今は呼吸も安定しているが、移動中に何があるかは分からない。
「エリー、あの男に連絡してくれ。一刻を争う。ドアの前で立ち往生だけは御免だからな」
「任せて! 」
クリスの指示通りにレザールへ連絡を入れる。まだ歩き回っているのを知って怒られるのは目に見えているが、そんなことを気にしている場合ではない。
どれだけの時間が経っただろうか。辺りはすっかり真っ暗になった中、クリスとエリスはレザールの事務所の前に辿り着いた。扉を叩くと事務所からレザールが出てくる。レザールは早速レオンの様子を確認する。辛そうではあるものの意識はまだ残っていた。間に合ったのだ。レザールの肩にレオンの腕を回し、そのまま一階の来客用のソファまで運び、うつ伏せに寝かせられる。レザールは慣れた手つきでナイフを抜き、ジャケットとシャツを剥ぐ。そして布で傷口から溢れ出る血を押さえて拭き取り、水で薄めた消毒液を染み込ませたガーゼで傷口を軽く拭く。
「……代われ、縫合は俺がやる」
そう言ってクリスは狐面を取ったかと思うと尻尾型ポーチから一本の試験管を取り出し、中身の液体をグイッと呷る。そして右手親指を噛み切り、親指から流れ出る血を使って傷口を丸で囲って六芒星と枠外に文字のようなものを書く。血で書いた文様が光ると赤い糸の様なものが傷口を塞いでいく。
「抜糸する必要は無い。皮膚がくっつけばこの糸は勝手に消えるからな」
「……お前、妹以外のヤツを助けようっていう気概があったんだな」
「黙れ。エリーがこの眼鏡を助けたいって言ったから手を貸しただけだ。精々エリーに泣いて謝辞を述べるんだな」
「俺の感心を返せシスコン野郎が」
包帯を巻いたところでレザールがレオンの腕を肩に回して二階へ連れて行く。レオンの申し訳無さそうな表情を一瞥して、特に声を掛けることは無く部屋へ向かう。
階段を上がって向かったのは最奥リビングの一つ手前右側の扉、そこは普段は使っていない空き部屋だった。その向かいはレザールの寝室になっている。中は空き部屋だっただけに質素で、家具は折り畳み式のベッドのみ置いてある。そこにレオンを寝かせて安静にさせる。
「あの、ここは何も無い部屋だった筈ですよね? このベッドは一体……」
「コブラが酒盛りして酔い潰れた時に使ってた物だ。最近はそんなことも無くなってきたから片付けてただけ。ほら、お前は早く寝ろ」
部屋を出て行こうと扉に向かう時、レオンがいつもより七割減の元気な声で尋ねる。
「……何も聞かないんですか? 」
レオンの言葉に一瞬立ち止まる。ここまで大事になっている以上、何も知らないままで良い訳がない。だが、本人が言いたくない事を無理に吐かせるのはレザールのポリシーにも反するのだ。沈黙の末に口を開く。
「……お前を襲ったヤツの見当はついてるのか? ナイフを投げるなんざ悪魔らしくは無いし、そんなものを投げて当てられるヤツとか相当腕が立つ」
レオンは考えを巡らせるように左右上下に瞳を泳がせる。何処まで言うべきかを考えているようだ。
「……殺し屋です」
レオンの細い声から出る答えに「そうか」と頷くとレザールは部屋から出ていってしまう。
いつの間に二階に上がってきたのか、クリスとエリスはリビングの椅子に座っていた。エリスは心配そうな顔でレザールに聞く。
「レオンは大丈夫そう? 」
「ああ、ナイフに毒が塗られていなかったのが幸いだな」
「それで、あの眼鏡を追っていたのが何者なのか聞いたのか? 」
クリスは苛立ちを隠せない様子で問う。こんな状況なんだから聞いて当然だろうとでも言いたげな様子だ。レザールは一瞬躊躇ったが、敵の正体が正体のためクリスに話し出す。
レオンの口から聞いた話しはごく僅か。だが、狙ってきた相手が分かれば対策は立てられる。レザールはレオンを狙った敵について話す。
「はぁ!? 殺し屋って読んで字のごとく殺し屋? なんでそんなのに狙われてるのよ」
「そこまでは聞いてねぇよ。取り敢えず対策は取るか。殺し屋となると簡単に引き下がるとも思えんしな」
レザールの言葉にエリスはブンブンと首を縦に振る。殺し屋と分かるや否や落ち着きなく声を荒げる。ごく一般的な反応と言えるだろう。それとは対照的にクリスは至って冷静に考えている様子だ。
「相手は人殺しのプロなんだろう? だったら眼鏡の逃げ込む先もとうに知られてる筈だ。悠長にしてる暇は無いと思うがな」
クリスの言葉の端々には「俺だったらこうする」が滲み出ている。殺し屋がターゲットを襲撃するターンに入ったということはターゲットに関したあらゆる情報を掴んでいるということに等しい。それこそ緊急時の逃げ場なんかは特に徹底的に調べ上げる事項だろう。
「殺し屋を捕縛する。ただ撃退するだけじゃまた来るかもしれねぇからな」
「そんなこと出来る訳? 相手は殺し屋よ。そう簡単にはいかないってあたしでも分かるわよ」
「……身体能力であれば凡人より御子の方が勝る。体内の魔力炉心の効果だ。それを抜きにしても戦闘経験で何とかはなる」
そう言って再び指を切って向かったのはレザールの寝室だ。その部屋の扉のすぐ横の一角に何も言わず扉に血文字で何かを書いていく。丸の中に六芒星と文字のようなものはいつもの妖術の様式だ。しかし今回はその周辺にも文字のようなものを書き連ねていく。
数秒で書き終わりリビングに戻って来たかと思うとエリスの腕を引っ張って部屋に導く。入る直前にレザールを一瞥し、軽く説明をする。
「この部屋の一角に隠蔽の術を施した。陣にいる限り誰からも見えなくなる筈だ。持続時間は一時間。俺とエリーはそこで待機する。貴様は精々寝たふりでもしてるんだな」
クリスは尻尾型のポーチの中から液体の入った試験管を二本取り出す。
「毒薬は残り二本。一本につき妖術は二度行使出来る」
クリスの簡潔な説明は一見「だから何だ」という感想にしかならないが、この説明から汲み取れるのは「五時間は付き合ってやれる」ということだ。クリスは簡単にだが、レザールがやることも一応提示している。それを完全に理解するのに多少時間は掛かっていたが、レザールはそれが分かると頭を掻き毟って溜息を吐いて返事をする。捕縛をすると言ったのはレザールだ。それに付き合うと言ったクリスの言葉を無碍に出来る程の腐った性根は備わっていない。
事務所中の電気を消し、レザールは寝室のベッドに横になる。クリスとエリスは寝室の扉横の角で待機。二人は隠蔽の陣の上に乗って気配を隠す。端から見て家主の就寝を装っているのだ。作戦開始から一時間経過する数分前にクリスは毒を飲んで陣の上で血を垂らし持続時間の延長を行っている。
一階の裏口から音が聞こえてくる。ガタガタといった物音ではない。鍵を開ける音だ。律儀にも扉から侵入してきたのだ。その物音を不可解にも思いながらもレザールは寝室のベッドでひたすら待った。足音はしない。人殺しのプロなのだから当然だ。そう訓練されていても何の不思議でもない。
クリスは壁に丸と六芒星と文字のようなものを書き、最後に血で塗れた右手の人差し指と中指でこめかみから瞼を通った線を一本引く。そして目をカッと見開き陣を書いた壁を見つめる。この様子から察すると、恐らく透視をしているのだろう。クリスになんの動きも無い以上、まだ二階には上がってきていないと分かる。相当警戒していると伺える。
やがてクリスはレザールの方に向いて口の前に人差し指を立てる。殺し屋が二階に上がって来たのだ。レザールは壁方向に顔を向けて寝たふりをする。扉方向に向かないのは、フリを露呈させないためだ。気配さえも感じ取る事が叶わない今、クリスの透視が頼みの綱だ。
突然寝室の扉が開く。音は無い。家主の様子を見に来たのか、将又レオンを探しているのか。とても静かだ。クリスはエリスの口を塞ぎ息を潜めている。見えないと言えど勘が良ければ気配で気付かれるのだろう。扉が閉まるまでこの緊張は続いた。舌打ちのような音が部屋に響いたが、それが気のせいだったのか、クリスの仕業なのか、殺し屋のものなのかはレザールには計りかねる。
静かに扉は閉まり一先ずの緊張は解かれる。クリスは依然と息を潜めている。壁越しに廊下を見るクリスの目には、向かいの部屋に入っていく男の姿が映っていた。クリスは勘付かれないように囁き声でレザールに声を掛ける。
「おい、レザール。今だ、行け」
クリスの声に頷き、音を立てずにそっとベッドから出る。刀はベルトに差さず左手に持ってゆっくり扉に近づき慎重に開ける。廊下に変化は無い。向かいの部屋へ視線を向ける。気付かれる訳にはいかない。
男が握ったナイフが月明かりでキラリと光る。そしてベッドに横になっているレオンの顔に向けて勢いよく振り下ろす。これで終わりだと言いたげに男は不敵に笑う。
しかし次の瞬間レオンは目を開き、咄嗟に首を動かしナイフを避ける。ナイフは枕に突き刺さった。
「ーーっ! 」
男は一瞬動揺したが、すぐにナイフを抜いてレオンに斬りかかる。レオンは男の腕を掴んで自分と男の間に右足を立てて距離を詰められないように抵抗する。
「テメェ、いい加減にしろクソ愚弟が! 」
「それは俺の台詞だ! 俺は家を出たんだ、放っておいてくれよ」
「そんな単純な話な訳ねぇだろうが! 」
そんな問答をしていてこの男は気付かなかった。すぐ背後に一人、突っ立っていることに。そう、レザールだ。男はレザールに肩を掴まれ強引にレオンから視線を離されると、足を払われて地面に尻もちを付く。
「チッ、こんな時に……! 」
男はすぐに立ち上がりナイフを順手に持ち、レザールを目掛けて振り被る。レザールの顔に向けて二回、三回と左右に突くように振うが、それを難なくいなす。レザールは持っていた刀を置いて両手で男のナイフが握られた腕を掴んで背負い投げをする。未だ暴れる男の頭に頭突きをして怯ませ、腕を取ったままうつ伏せに転がして男に跨る。
「離せクソ野郎が! 」
男は已然と暴れるが、レザールは至って冷静にナイフが握られた腕を折る勢いで可動域外へ捻る。声を上げてもだえる男はようやくナイフを手放した。
カコンカコンと下駄を鳴らしながら男の正面にクリスが回ってくる。男は険しい顔をして暴れるが、クリスはお構いなしと言わんばかりにそのまましゃがみ込む。そして男の口を右手で押さえて一言発する。
「ロルメタゼパム」
口を押さえられた男の喉は大きく動く。その瞬間、男は力無く床に突っ伏し意識を手放した。レザールは男の様子に焦り、急いで脈を確認する。だが脈は安定している。眠っているだけのようだ。
廊下の先からバタバタとこちらへ走ってくる音が聞こえてくる。
「お兄! 縄を持ってきたわよ! 」
エリスだ。手には訓練の時に使った麻縄を抱えている。クリスの指示で探しに行っていたのだろう。レザールはエリスからその麻縄を受け取り、男の手首と胸辺りを両腕と一緒に縛る。起きた後で歩けないように足首も麻縄で縛った。
レザールは殺し屋の男の捕縛を果たし息を吐いてレオンに向き直る。肩を回して心底疲れたという表情をしている。
「……怪我は無いか? 」
「俺は大丈夫です。それよりレザールの頬に切り傷が……」
そう言われて左頬に触れる。指には血が着いており、少しだが流血しているのが分かる。すると、エリスが右腕に付けられているブレスレットを左手で触れながらレザールに近づく。
「それくらいならあたしが治すわ」
エリスの指が切り傷に触れるとスッと傷が消えていく。これが治癒のチャームの力だ。ようやく力になれたことをエリスは嬉しそうに微笑む。その表情はいつもの騒がしさなど感じないほどにしおらしく眉尻を下げて控えめに笑っていた。
一方クリスはレオンを睨みつけながら詰め寄った。顔を見ただけで分かるくらいにこの場の誰よりも怒っていた。
「おい眼鏡。何故こうなったのか説明をしろ。最早貴様をこの場から逃すつもりは無い。全て吐け。俺が自白剤を飲ませる前に」
レザールは聞き出さないだろうと踏んでの詰問だ。クリスが怒るのも当然だ。結果的にはどうにもなっていないとはいえ、妹のエリスが危険に晒されそうになったのだ。説明を求めるのもクリスの立場からすれば当然のことだ。レオンはバツが悪そうに俯くが、やがて覚悟を決めたようにクリスに顔を向け頷く。
殺し屋の男を含めて全員がリビングに集まった。キッチン側の椅子にレザールとレオン、その向かい側にクリスとエリスが並んで座った。眠っているこの男は近くに適当に転がしている。レオンは大きく深呼吸をしてから口を開く。
「まず最初に、俺とこの人の関係を話します。この人は俺の実の兄で、六人兄弟の内の五番目がこの人です」
「それで愚弟か……」
何かを考えているようなレザールの呟きに頷くと、一呼吸置いて続きを語る。
「俺の家は人殺しを家業にしています。『殺し屋一族』とでも言うべきでしょうか。その中でも俺は幼少期から人を殺すのに抵抗があったんです。一族としては欠陥もいいとこです」
「だから愚弟か」
今度は呼ばれ方に納得したと言いたげなクリスに遮られるが、気にせず続ける。
「俺が兄弟から狙われているのは、恐らく祖父上の命令です。俺が家から逃げたと聞いて兄上たちに命令を下したんでしょう」
「それは愚弟ね」
「いや、さっきから愚弟愚弟うるさいんですよ。エリスは『それは無いわ』みたいな顔をしないでください。今では俺もちゃんと話してから出るべきだったって思ってますし」
レオンの話しに途中途中水を差されるが、話自体はちゃんと聞いているようで同じ説明はさせなかった。
レオンが実家から逃げたという部分だけで今回の事案は大体察しがつくだろう。殺し屋という後ろ暗い職の家から逃走したのだ。後ろ暗いということは、情報を漏洩されては困ることがあるということ。情報を漏洩させないためにリスクヘッジをする必要が出てくる。早い話が口封じだ。現状を鑑みた結論に過ぎないが、レオンを狙う理由が口封じだと仮定するとこれで終わるとは到底思えないだろう。解決するにはやはり対話と交渉が必要だ。レザールもクリスもそれに気付いている。勿論レオンも。怖い、恐ろしい、出来ないなどと言っている場合ではない。やるしかない。
「兎に角、お前の爺さんに話しつけないといけないんだろ。家の近くまでは付いて行ってやるから早く覚悟決めろよ。あと、念書と契約書の準備はしておけ」
レオンの問題を早く片付けるべきだと判断したのか、レザールは平然と解決の方向へ話しを持って行く。念書は一方的にこちらの要求を飲ませるために用意し、契約書は念書が破断になった時のためのものだ。リスクヘッジで孫を殺そうとする家だ。自身を守る盾として法律を持ち込む他ない。そうして話は大方纏まり、あとはレオンの覚悟だけとなった。次いつ刺客を仕向けられるか分からない以上、早急に覚悟を決めてもらわなくてはならない。
クリスは椅子から立ち上がりエリスの腕を引いて帰ろうとする。そこで目に入ったのは、件の殺し屋の男だ。未だ睡眠効果の能力で眠っており目を覚ます様子は無い。
「それで、コイツはどうする気だ。好きにして良いと言うなら、俺が連れて行くぞ」
クリスの発言に全員が意図を計りかねている。クリスが言う以上はただ警察に連れて行くとか道に転がしていくということでは無いということしか分からない。
「覚醒直後に交番の前に全裸で転がして、公然猥褻という前科を擦り付けてやる」
「やめてやれ」
クリスの暴挙にレザールが間髪入れずに止める。妹に怖い思いをさせた危険因子とはいえ、そこまでするのは幾らなんでも頭がイカれてると言わざるを得ない。いや、イカれてるのはこの場全員の周知の事実だ。
「……普通に逃がしてあげてください。何かすると後々怖いので」
レオンの一言に心底残念そうな顔をして溜息を吐く。レオンの言わんとする事も多少なりとも理解しているようで、クリスはそのまま雑に男を引き摺って行く。人の兄故縁なのか、素の面倒見はいい方なのだろう。結局レオンを助けるという名目でずっと協力的だった。エリスの「助けたい」という望みを叶えるためかもしれないが、その是非はクリス本人にしか分からないのだろう。
ふと、男のポケットから何かが落ちる。レザールはクリスの扱いにやれやれと肩を竦めて落ちた物を拾い上げる。それは鍵だった。鍵には深い緑色の蛇皮のリボンが付けられていた。本物の蛇の皮を加工してリボン状にした代物だ。リボンと言えど可愛いものでは無く、見た目はほとんど抜け殻そのものみたいな感じだ。
「ーー! 」
レザールの目が見開く。それは驚愕か、愕然か。それとももっと別の感情からか。鍵を握りしめ口を引き結ぶその姿は明らかな動揺だった。レオンがレザールに声を掛ける。目聡いクリスはさておき、鍵の存在には気づいてないらしい。
「いや、なんでもない」
拾った鍵をポケットに仕舞いいつも通りを装う。この殺し屋が扉、それも裏口から入って来た理由。合法的な侵入手段があったのだから危険を冒す必要がなかったというわけだ。レザールの目はどこか冷めていた。それは「怒り」と捉えても遜色ない冷ややかさだった。




