十三話︰優しい人であってほしいと
昔の話だ。
今から八年前、俺が魔物狩りを始めたばかりの頃、魔法を使える人間が俺以外にいなかった頃、ビティを拾ったばかりの頃、チャックはまだこの世のどこにもいなかった。
彼女が産まれたのはそれより少しあとのこと。ある夜突然優しくなったと思ったら、ビティの中に新たな人格が生えていたといった経緯で発見された。
だから、出会った時のあの記憶も本当はビティのものなのだけど、チャックはそれをとても大切にしていたので、ビティの存在を勘付かせない形に残している。
ともかく八年前の当時、ビティは二四時間ずっとビティだった。
彼女は当時から極悪だった。自分が不快に思ったものは殴って蹴って痛めつけて殺して死体を辱めてやらねばならないと使命感まで覚えている始末。
彼女の正確な年齢は知らないが、おそらく俺の二つ下くらい。そのとき推定四歳であろうビティは自身の未熟な体躯を鑑みて、『一撃で殺さなければ自身が危ない』との結論を出し、背後からナイフで刺し殺すやり方を多用した。
何度注意しても止まらないのは言うまでもない。
当時の俺は今より魔法は下手くそだったけど、その代わりに住民の記憶にも触れていない。出力もまだまだ未熟だったが、三万人の記憶改竄に意識を割く今よりずっと高い精度で魔法を扱えた。
ゆえに、魔物狩りと平行し、『ビティの五感と思考を遠距離から常に感知し、他者に殺意を抱いた瞬間に眠らせて止める』といった力技を成立させるだけの余裕があった。
意外と思われるかもしれないが、人間に限っての話ではあるが、ビティは未だに誰ひとり殺せてはいないのである。
ビティの殺人を止める度、俺は彼女の説得を試みた。
人殺しはいけないことなのだ、人に暴力を振るってはいけないのだ、皆と仲良くしたほうが楽しいだろーと、馬鹿みたいに必死に言って聞かせた。
今思えば完璧な愚策である。彼女は邪魔する俺に殺意を抱き、もちろんナイフで襲った程度で俺を殺せるわけもなく、ただストレスを溜め込む結果に終わる。
彼女は人以外の代わりを探した。蟻を足で潰してみたり、ドブネズミの腹を裂いてみたり、ものに当たってみたりもしていた。
いかんなく暴力性を発揮しているというのに全く満ち足りることのないビティに、『人を刺し殺すことができた』という偽りの記憶を打ち込んでみたりしたが効果は薄い。『過去の記憶を弄ったところで、人に暴力を叩きつけた刹那の快楽に及ぶわけがないだろう』と、ビティの本能が言っているようだった。
少しでも気晴らしになればと思い、ビティの好きだったハンバーグを食べに街に繰り出した日、賑やかに談笑して歩く家族連れとすれ違うその瞬間、ビティの精神は前兆無く弾けた。
三歳くらいの女の子とすれ違う瞬間髪を掴んで強引に引き寄せ、その子の右眼へ中指を突っ込む。
ビティの思考を常に読んでいるはずの俺の対応が遅れたのは、彼女が思考を介さず反射で動くレベルで暴力を求めていたからにほかならない。
ビティを眠らせるのがギリギリで遅れ、中指の軌道を逸らすのがギリギリで遅れ、全力で振るわれたビティの爪は女の子の顔に大きな大きな切り傷を残した。
きっと一生ものの傷だ。
俺はビティの頬をはたいていた。
妹が犯してしまった罪を前に、湧き上がった絶望と罪悪感と後悔でめちゃくちゃになった俺の本性は、わけもわからず暴力を選んだ。
ビティは目に見えて困惑しながら、自分の頬をそっとなでていた。
俺に叩かれたことが信じられないようで、受け入れられない様子だったが、そんな困惑も一秒足らずの話。
次の行動も反射的なもので、『あああ駄目だ』『叩いてしまった謝らないと』なんて考えていた俺はまたもや何一つ反応することができない。
ビティは自分自身の頸動脈を掻きむしり、一瞬で自分自身に致命傷を作った。
噴水のように血を流して地面に倒れ込む妹の姿を、俺は呆然と眺めるしかなかった。
俺が回復魔法を使えるようになったのは、その二〇秒後のことである。
何が言いたいのかというと、ビティは暴力を奪われると死を選ぶ。
自殺の直接の原因は頬を叩いたことではない。
あのあと二人の傷を回復魔法で治し、その時の記憶を全員から抹消し、目当てのハンバーグを食べ笑顔で家に帰ったその日の夜、今度は自室で腹を裂いた。
叩かれた記憶がない状態でも、ビティは反射的に制止不可能な自害を敢行する。
彼女の手で誰かを傷つけない限り、何をやっても同じことだった。
総括すれば、ビティは正真正銘の糞女なのだ。文字通り人に危害を加えなければ生きていけないなんてどう贔屓目に見ても最低最悪。こんなのがまともな方法で人間社会に溶け込めるわけがない。
それゆえ、ビティが笑って暮らせている今の生活は、奇跡的なバランスによって成り立っているといっていい。
『記憶を改竄し暴力性の矛先を俺に誘導』『物理的攻撃は基本的に回避し、精神的、社会的攻撃を選んで受け入れる』という今の追放系メソッドは、糞女検定一級の俺が年月をかけて導き出したベストアンサー。糞女が幸福に生きていくための唯一絶対の公式なのである。
そんなこんなで現在に至る。
──あはは!終わったぁ詰んだ!さよなら糞女グッバイ糞女地獄で会おう糞女!!
発狂しそうなのをなんとか堪えながら、必死に俺は平静を装い、震える手つきでフォークを動かす。肉の旨味が口いっぱいに広がる。
食卓の対面にはノンディアさんが座っていて、「ダアスちゃんどう?美味しい?」と聖母の笑みを浮かべている。
この街に正義の味方がやってきた。
彼女は強く、俺の記憶改竄を無意識に弾く。
彼女は優しく、俺が虐められることを見過ごさない。
以上の二点から上記の作戦が成立するわけもなく、ビティはそう遠くないうちに発狂死することになる。ガキでもわかる簡単な論理である。
俺の手を引っぱってギルド本部から抜け出したあの後、ノンディアさんは魔物討伐の依頼を受けた。この街で使える貨幣を持っていなかったからという理由で、危険度最高のAランクを五つ纏めて受注した。
そもそもギルドの依頼にあるのは『俺が対応するまでもない魔物』であり、五体討伐だけならなんでもないことなのだが、彼女は街から出ることなく一番高い展望台から一発魔法をぶっ放しやがった。
一撃で風景そのものが真っ白に変わり、地平線の彼方にいたAランク五匹が纏めて即死したと野鳥たちから報告が届く。
話を聞いてみるとノンディアさんは『ダメージ遮断』の他にも色々な魔法を使えるそうで、特に好んで使うのが冷気魔法だそうだ。
山岳をまるごと凍らせる威力から推察するに、単純な魔力の総量はだいたいビティ八千万人ぶんくらいだろう。
ノンディアさんは討伐で稼いだ金で家を買い、一緒に住もうと俺に言ってきた。どこに住んでいるのか聞かれた時、『ギルドハウスでパーティと一緒に住んでます』と答えたのが理由であるそうだ。『あんな意地悪なやつらと一緒にいることなんてないよ』『一緒に住んでたら私が守れるし、私もダアスちゃんと仲良くなりたいし』『国への移住が決まるまでの間だけでもいいから、ね?お願い!』とのこと。一緒に街に繰り出し食材を買い込み、簡単な料理を作って貰い、同じ食卓を囲む今に至るというわけである。
陽はもうとっくに沈んでいる。
つまり、これまでに得られたノンディアさんの情報を整理すると、無敵のオートガードの魔法を使えて複数種類の魔法を使えて魔力が強くて可愛くて高収入で養ってくれて料理が美味しくて愛想がよくて背が低くて可愛くて正義感の強いいじめから守ってくれる二歳年上の一六歳である。
糞が。やってられるか。
こんなのどうやって手を付ければいいのだ。確認できる限り魔力と身長以外は人として全てのスペックで負けている。力で従わせるのはどうやっても不可能。殺していいならやりようはあるが、魔物じゃない彼女を殺すわけにもいかない。
『先刻一瞬だけ眠らせることができた』という事実がさらに絶望感を煽る。意識を奪った状態でも機能するということは『ダメージ遮断』はまさしく全自動。たとえ寝込みを襲ったとしても、『記憶の改竄』は不可能だろう。
脅しも騙しも不可能であるなら、哀願はどうか。
事情を全て正直に話し、お願いします惨めな俺に力を貸してくださいと地面に頭をこすりつけるのだ。
おそらく意味がないだろう。
妹を無理に庇ってきた俺の八年間は、断じて正義の行いとは言い難い。
何しろ俺はビティの生活のため三万人の記憶を常に操作している。糞女を見捨てれば無駄な魔力消費を大きく削減できるのは確実なのだ。この街の防衛の九割八分は俺が成り立たせている以上、俺のパフォーマンス低下は人命のリスクに直結する。
先日脚が動かなくなったミュージシャン志望だって、俺がフルスペックで対応できていれば、今でも五体満足だったはずだ。
街の住人全員の命を危機に晒してまでゴミ女を保護する俺の行いは、客観的に見れば醜悪なエゴと言う他ない。社会倫理に反する行いに正義の味方が手を貸すわけがない。俺は厳しい社会的制裁を受けるだろうし、ビティは確実に殺される。
「ああぁ……!あああああぁぁあ……!ひぃぃあ……!」
頭がおかしくなりそうだった。
気が触れた俺をノンディアさんが「だ、大丈夫……?」と心配そうに覗き込んでくる。その善性が今は恐ろしい。
ビティが死ぬ。
とんでもないゴミクズカスクソ女で、殺されても罰が当たったんだなきっと地獄行きだとしか思えないほどのヒステリーだが、それでもあの子は妹なのだ。
同じ体を使っているチャックも死ぬ。
あの子は本当に不憫としか言えない。裏の人格が糞だったという一点だけで理不尽に殺されそうになっている。
いい子のほうの妹は、殺されるような悪いことなんて何もしていないのに。
だから、残る手段は一つしかない。
正直めちゃくちゃ自信がないし、脳髄が融けてきそうなくらいの高難度だが、他の手段は思いつかない。
彼女の魔法があらゆる『攻撃』を遮断し、俺の魔法が通じないなら、『攻撃』とは認識されない行動でノンディアさんの人心を操作する。
人間として当たり前の能力────口頭のコミュニケーションだけで、彼女の正義感を歪めるのだ。
いじめを見て見ぬふりができる、普通の人間になるように。