泥の聖女は世界を救う
――あるところに、ひとりの少女がいました。
彼女は、ただ平和に暮らし、家族を愛しみ、隣人を愛する普通の少女でした。
亜麻色の髪に、空のような青い瞳。
ただ、普通の子どもでした。
――しかし、それは唐突に終わりを告げました。
彼女はその晩、天啓を授かる……その内容は、『救世主』を見つけること。そして、世界に信仰を広めること。
……彼女は、初めは信じませんでした。
不思議な夢を見たんだと、そう片づけて……日々を送っていると、突如村の空に『大穴』が空いてしまいます。
『大穴』はすべてを呑み込み、そこから魔族が落ちてくる。
魔族は人の形をしているが、二メートルはある体躯に、目と鼻のない口だけの顔面。
見るだけで嫌悪するような恐怖の体現。それが表れた。
村はあっと言う間に、火の海となり……全滅してしまった。
――しかし、彼女だけは生き残った。
生き残ってしまった。
彼女が祈ると、不思議な光が彼女の身を守り……魔族を退けていった。
『奇跡』が起きたのだ。
泥に塗れて、彼女は焼け落ちた故郷を見つめる。
「……広めなきゃ」
この地獄を。
魔族の脅威を。
……そして、信仰を。
彼女は夢のお告げに従うようになっていった。
悲劇を生まないためにも。そして死んでいった故郷の弔いのために。
世界を渡り歩いた。
身一つで、なにも食べず、なにも飲まず。
ただ、信仰を糧にして生きながらえていった。
そうして――すべてを呑み込み、そして生まれる『泥の奇跡』。それを授かり、聖女となり……奇跡にあやかり、『泥』の名を名乗るようになった。
教会に所属し、修道女として活動するようになる。
人々を癒し、教えを説き、導く。
その日々は楽しく――そして、終わってしまう。
魔族が再び現れる。
魔族は、孤児院の子どもを無残に殺し、老人を串刺しにして……教会の人間を炙り殺した。
『泥の奇跡』を使い、魔族をすべて呑み込み、すべてが終わったときにはまた、ひとり。
すべてを受け容れ、生み出す『泥の奇跡』……しかし、それでも失った命を生み出すことは教えに反する。
だから、新たな命の芽吹きを祈り……『泥の聖女』は、次を目指す。
貧困にあえぐ村に住み込み、祈りを捧げ、雨を降らせ、作物を実らせる。
今度は失敗しないようにと、定住はせず村から村、街から街へ、国から国を渡り歩く。教えを広め、いつしか世界中に有名な聖女となる。
けれども、救えなかった命は多い。
たまたま寄った街に魔族が襲い、そうしてまたひとつ消滅する。
『泥の聖女』は嘆き、そして祈る。
「――わたしの行いは、いつか報われるのでしょうか?」
とっくに心は折れていた。
けれど、生きのこった人たち。親を失った子ども。愛する恋人の死を嘆く男性。可愛がっていた動物を目の前で殺された女性。
『泥の聖女』が祈る間にも人々の悲しみは続く。
だから、せめてもの償い――と復興を手伝った。
『泥の奇跡』を使い、傷を癒し、建物を建て、活力を与えていった。
その心は折れているというのに、他者への献身を忘れない。……まさに、生贄の聖女だった。
そうして、十年。
姿も変わらず、たくさんの死を見送ってきた『泥の聖女』はいつしか子どもを育てることに興味を持つようになる。
命は失われ、そしていつか新たな芽が育つ。
そうして、命は巡っていく。
……対して、自分はどうなのだろう。
失っていく命ばかり背負っていく。生み出せるものはたくさんあっても、尊い命は育たない。
『泥の奇跡』とて、万能ではない。
教えに反して、なにもかもを生み出すことはできない。
神敵を討つ。そして、折れたものに手を貸すこと。
これが『泥の奇跡』の条件だった。
だから、命を育てるという行為に……人間らしい行いに憧れを抱くようになる。
孤児院を開き、親を失った子どもたちを接するようになる。
今度は失わないように、と全力で見守りながら。
子どもたちはすくすくと育っていき、巣立っていく。
そのことに感動を覚える。
これが、命を育てるということ。命を繋いでいくということ。
『泥の聖女』は信仰を広めることを忘れ、育てるという行為に取り憑かれていく。
国を巡り、その力を使い、各地に孤児院を建設。そして、たくさんの子どもたちを見送っていった。
その勢力はたった一年足らずで世界全体に行き渡るようになる。
……けれど、悲しいかな。
そのことを危惧した大国の王は、聖女に世界を支配しようとしていると断罪し、火炙りにかける。
子どもたち、孤児院を営む『泥の聖女』に付き従う修道女たちは憤った。
各地に募集をかけ、戦力を募り……聖女を取り戻そうと、躍起になる。
――『泥の聖女』は死なない。
生み出し、呑み込む『泥の奇跡』によって、豊穣を司るようになり、その生命は一種の循環機構となっていた。
塔に幽閉され、暗闇の中で深く考えていた。
一体、なにをしていたんだろうと。
育てる、命を育み、見送る。それをすべて自らが賄えるという傲慢に取り憑かれた。それは恥ずべきことだ。
火炙りにされても仕方ない。
だけど、子どもを育てていたこと自体は後悔していない。
あとは任せて、自分は信仰を広める旅に出ようと決意してところで――外に出ると、そこは地獄が訪れていた。
子どもたちが火炙りに遭い、修道女は嘆いていた。
王はそんな光景を見下ろし、語り掛ける。
――「これがお前のもたらした結果だと」
聖女は涙した。
初めて、いや久しぶりの涙だった。
元気だった子どもたち、巣立っていき、たまに送られる手紙には元気にやっていたり、結婚して子どもを育てているという者も火炙りに遭っていた。
……自分の、せいだ。
自分のせいで、多くの命が、無垢の魂が失われてしまった。
『泥の聖女』は祈る。……安らぎと、幸福を。
もう、耐えられない。
どうか、自分の命を絶ってはくれないかと、神に祈る。
しかし、それは叶えられない。
まだ、役目が残されているから。
『泥の聖女』は、国を去った。
誰とも接触しない。深く関わらない。ただ、教えを広めるだけの機械となって……長い時を過ごしていった。
いつか訪れる終幕を目指し、信仰を世界に広めていく。
『大穴』――それは、世界に侵略する者たちの通り道。
そうだ。世界、というのならあの先にある人々にも広めないといけない。
『泥の聖女』はそう考えて、『大穴』に飛び込んだ。
たくさんの魔族たち。
人ひとりもいない、暗闇の世界で……彼女は世界の深淵に触れる。
たくさんの魂と、記憶。
凄惨な歴史と、神話の時代。
魔族とは、神の成れの果てであった。
また神に戻ろうとし、神の欠片が眠る聖女を狙い、世界に侵略していたのだという。
「…………」
世界の悲劇――その大半は魔族によるものだった。
泣いて、嘆き、そして……思い出す。
「……『救世主』」
そうだ。
それを探さないといけない。
こんな世界を救ってくれる、存在が必要なんだ。
それを見つけて、自分の役目は終わりだ。
……聖女は決意する。
必ず、救世主を見つけてみせると。
「……っ」
深淵に触れて、魂について深く刻み込んでいく。
『救世主』、それを見つけるには、魂を視るほかない。
そうして、永遠に感じられるくらいその暗闇と過ごし……彼女は知ってしまう。
救世主など、どこにもいないと。
そもそも、聖女というシステム自体が、救世なのだ。
神の力を受け容れ、世界を巡らせる。
……聖女こそ、救世主だった。
「……あは」
笑った。
久しぶりの笑顔。
けれど、可笑しくって笑ったのではない。
呆れによる、笑顔だった。
――だって、自分は世界なんて救ってはいない。
零れ行く命をただ祈って、見送っていただけだ。
それが救済だというのなら、それを認める神を許してはおけない。……でも、神を殺すことはできない。
「でも、世界そのものを呑み込むこと……くらい、なら」
もう二度と、悲劇を生まない世界を。
誰もが幸せに、人間らしく……特別な力も要らない。
ただ、積み重ねていった技術、歴史があれば……人間は生きていける。
そう、神なんて要らないのだ。
信仰は、すでに存在していた。
その矛先は神にあらず。
「あは、あはは」
乾いた笑みを浮かべて、元の世界に帰還する。
彼女は広めるのだ。
神を必要としない、世界のために……。
――聖女も神も、魔族も必要ない。
信じるべき信仰は、己の心と愛のみ。
『泥』はすべてを受け容れる。
悲劇も愛も、なにもかもを。
そうして、生み出す――新たな世界を。
それこそ、聖女の望む、救済だった。
――世界をすべて、泥に包み込む。そうすれば……。
彼女の最後の言葉。
それ以降、ただ世界を神の手から守るため――永遠に、泥の中で世界を、人を見守る存在と化すのだった。