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先生は自分自身のことについて、何を言われても動じない。
けれどわたしが絡めば、話は変わってくる。
特に女性の方の言葉に、怒りを感じたらしい。
恐ろしいほどの気迫で、睨み付けている。
「私のことについてとやかく言われるのはともかく、お嬢様のことについては余計なお世話です。―行きましょう、お嬢様」
「えっええ」
先生はわたしの手を握り締め、歩き出す。
「おっおい」
「ちょっと待ってよ!」
「えっと…先生、良いの?」
「構いませんよ。お嬢様のことを悪く言う輩とは、口も利きたくありません」
わー、手厳しい。
「でもあの二人の言うことも、分からなくはないわね」
「お嬢様?」
先生は立ち止まり、怪訝な表情を浮かべて振り返った。
「だって先生は優秀だし、わざわざウチに婿入りしなくても、一人でも仕事を成功させそうだもの」
「しかしそこに希姫お嬢様がいらっしゃらないのでしたら、私にとっては意味ないですよ」
「自分で会社を立ち上げよう、という考えは全くないの?」
「ええ、全く。ああでもお嬢様がなさりたいんでしたら、お付き合いしますよ。何か会社を作りたいんですか?」
……妙な方向に話がそれ始めた。
わたしは深くため息を吐き、歩き出した。
「現状維持で。それより買い物に行きましょうよ。今日はその為に、ここに来たんだから」
「そうですね」
先生は深追いしてこない。
こういうところが、大人なんだろうな。
―その後、適当に店に入り、いくつかの商品を買ってビルを出た。
「お夕食はどうします? たまには外食でも?」
「ん~、そうね。…あっ、先生の手料理食べたいかも」
そう言って紙袋をいくつも下げる、先生の腕に自分の腕を絡んだ。
「良いですよ。では家に帰りましょうか。ああ、途中で材料を買って行きましょうね。何が食べたいですか?」
先生の特技の一つには、手料理がある。
しかもプロ並みの料理の天才。
わたしは先生と出会うまで、いくつかの野菜キライだった。
シェフや料理人がどう調理しようとも、食べれなかった。
けれど先生の作る料理のおかげで、食べれるようになった。
そのぐらい、先生は料理を作るのが上手い。
「ケーキ食べたいな。生クリームとフルーツたっぷりの。でも甘さは控え目ね?」
「それはデザートにお出しします。肝心のお夕食のメニューは?」
「ん~。それじゃあハンバーグで。チーズが中に入っているのが良いな」
「分かりました。ですがサラダもキチンと食べてくださいよ?」
「はいはい」
わたしが野菜キライだった過去を知っている先生は、未だにこう言ってくる。
わたしにとって先生は、身内の兄みたいな存在でもあるんだなぁ。
そんなことをぼんやり考えながら、先生と腕を組み、歩いた。
…考えてみれば、わたしの全てが先生でできていると思ってもおかしくはない気がする。
勉強や運動の先生でもあるけど、料理を作って食べさせてもらったり、私生活でも面倒を見てもらっている。
そのことが決してイヤじゃない…というより、自然と溶け込んでいるのが、不思議な感覚だ。
「自分の半身ってことなのかしら?」
先生からもらったタンポポの指輪を、左手の薬指にはめて、眺めながら呟いた。
ちなみに先生は今、お風呂の準備をしている。
今日は一緒に入りたいと言ったら、じゃあフラワーバスにしようと、先生が言い出したからだ。
フラワーバスとはお風呂に、花びらを浮かべたり、またオイルを入れたりして、スゴク気持ちが明るくなる。
…やっぱり疲れている心を、見抜かれていたみたい。
だからわたしは自分の部屋で、椅子に座りながらぼんやりと考えていた。
自分の半分が、先生。
…うん、意外と合っている気がする。
いなくなることなんて考えられないし、離れることも思い付かない。
それは彼が自分の半分だから、と考えればしっくりくる。
「お嬢様、お風呂の準備できましたよ」
「はぁい」
わたしは指輪をケースに入れて、机の引き出しにしまった。
先生とお風呂に入るのも、3歳からだった。
だから今更、照れも恥ずかしげもない。
わたしの部屋にあるお風呂は、一階にある大浴場よりは狭い。
けれど大人3人ぐらいは余裕で入れる広さがあった。
わたしはバラの花びらが浮かぶバスタブの中、先生に後ろから抱きしめられていた。
いわゆるラッコ抱っこ。
先生の大きな体に、わたしの体はすっぽり包まれてしまう。
「良い匂い…。今日はバラなんだ」
「ええ、リラックス効果がありますし」
そう言いながら、手でお湯をすくってはわたしの首や肩にかける。
「ねぇ、先生。義兄さんから言われたんだけど、新婚旅行はどこにする? と言ってもあんまり期間はないんだけどね」
春は何かと忙しくなるので、あまり自由な時間は少ない。
けれどせっかくの新婚旅行は、ちゃんと行きたかった。
「お嬢様はどこが良いですか?」
「ん~そうね。でも外国は厳しいかもね。行って帰ってくるだけで、バタバタと慌ただしいだろうし」
「そうですね。せめて一週間ぐらいでしょうから」
「一週間…。いっそ日本国内にする? それなら移動距離、どんなに遠くても半日もかからないでしょう?」
「それでも構いませんよ。でもまさか、温泉地とは言いませんよね?」
「まさかそこまでは。まあ温泉はある土地でも良いかな? 日本の温泉ってやっぱり格別だし」
「ではいくつか候補を上げておきますから、お嬢様がお好きな所を選んでください」
「分かったわ」
決定したことに、少し気持ちが和らいだ。
日本国内なら一週間でも充分に楽しめる。
その間に、気持ちをリフレッシュすれば良いだけのこと。
わたしは先生に全身を洗ってもらいながら、結婚後のことを考え……再び重いため息を吐いた。