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「もちろんです、お嬢様。私はずっと貴女の側にいますよ」
わたしよりも強い力で抱き締め返してくれる。
隙間なく抱き合う体から、先生の気持ちが伝わってくる。
先生はきっと、わたしさえ側にいれば全てが満たされる。
わたしも同じはずなのに…どこか心に空虚を感じてしまう。
それは物心つく前から、先生が夫になることを決めてしまったせいか…。
でも今はちょっと不安が薄らいでいる。
左手の薬指に輝くタンポポが、わたしに力を与えてくれているのかもしれない。
タンポポ…あの時のわたしは何にも考えずに、この花を選び取った。
けれど今でも思う。
決してあの時のわたしの行動は間違っていなかったと。
この人を選んだことも。
そしてこの花を選んだことも。
決して間違ってはいないと、わたしの魂が告げていた。
「はあぁ~」
しかしため息は増える一方…何がしたいんだ? わたしは。
自問自答に、無限ループ。そろそろ胃に異常を感じてもおかしくない気がしてきた。
せっかく学校が終わった放課後、先生とホテルの喫茶店で待ち合わせしているのに、どこか気分は沈んだまま。
今日はわたしの買い物に付き合ってもらう予定だった。
でも先生は実家に呼ばれて、ちょっと遅れる。
送迎も本当は先生の役目なんだけど、今日ばかりは家の運転手が迎えに来た。
高級ブランド店が店舗に入っているビルの中の喫茶店は、パリに本店を置くほどだから、何を頼んでも間違いはないはずなんだけど…。
学校で疲れたはずの体は、好物のオレンジティーと桃のムースを受け入れず、半分残してわたしは食すのを止めた。
今日の買い物は言わば息抜き。
特に欲しい物があったワケじゃないけど、季節の変わり目だし、何となく買い物に来たかった。
最近は結婚式に関するものばかり眼にしてきたせいだろうか?
外に出るとほっとしてしまう。
「お嬢様! お待たせしました」
先生が息を切らしてやってきた。
「ううん、お茶してたから。それよりそんなに急がなくても良かったのに」
「お嬢様をお待たせしているのに、ゆっくりなんてできませんよ」
先生は一息つくと、ウエイターの持ってきた水を飲んで落ち着いた。
そしてコーヒーを頼み終えると、わたしの方を見てわずかに眼を見開いた。
「あまりお口に合いませんでしたか?」
「まさか。ちょっと休憩してただけよ」
オレンジティーも桃のムースも美味しいという言葉しか出てこない。
わたしは再びスプーンを手に取り、口に運んだ。
「うん♪ 美味しい。先生も何か食べたら?」
「私は大丈夫です。それよりお嬢様こそ、他にも食べた方がよろしいかと…」
「そんなに食べたら、来年着るドレスのサイズが変わっちゃうわよ?」
茶目っ気たっぷりに笑うと、先生も笑う。
…どうやら元気がないことを見抜かれたようだ。
長年の付き合いは、こういうところで厄介だ。
「アレ?」
「ヤダ、久し振りねぇ」
不意にわたし達に声をかけてきた人達がいる。
いかにもセレブという感じの、男女だ。
「あなた達は…」
どうやら先生の知り合いらしい。
確かに同年代っぽい。
「久し振りだな。こんな所で会うなんて珍しい」
「ホントねぇ。今日はどうしたの?」
二人は親しげに話しかけてくるものの、先生の顔は…なっ何か険しい?
「…お久し振りですね。今日は買い物でこちらに来たんですよ。あなた達は?」
「オレらは仕事」
「ここに店舗を入れててね。視察に来たの。ところでご一緒のお嬢さんは?」
女性の方がわたしに気付いた。
…しかも何か視線が痛い。
もしかして…いや、もしかしないだろう。
この視線の意味は…。
「ああ、希姫さんです。わたしの婚約者で、もうすぐ結婚するんですよ」
先生は空気を読まず、あっさり言った。
…いや、わざとかもしれない。
「婚約者…って、このコの着ている制服、高校生のだよな?」
男性は眼を白黒させている。
わたしは立ち上がり、頭を下げる。
「はじめまして、希姫と申します。先生…じゃなくて、貴比呂さんの婚約者です」
改めて自己紹介すると、女性の口元がひくついた。
ああ…やっぱり。彼女はどうやら、先生に好意を寄せていたみたいだ。
「婚約者って、女子高校生なんて…」
動揺しているのか、声が上ずっている。
きっとわたしが彼女の立場でも、同じことになっていただろう。
「高校時代から、婚約者がいることは言っていたでしょう? 相手は彼女のことですよ」
と言うことは、先生が高校3年の時にはもう知り合っていたんだな。
二人の表情が、驚愕のまま固まるのを見て、何だか申し訳ない気分になってしまう。
「高校生時代って…お前が家庭教師のバイトを始めた頃だよな?」
「ええ、彼女の家庭教師をしています。今現在もね」
「じゃあ大学の部も変えたのも…」
「彼女の為です」
二人の顔色が、見る見るうちに悪くなる。
そりゃそうだろう。
15年間も惜しみなく1人の女の子に愛情を注いでいれば、周囲の反応はこんなものだ。
「じゃあお前、結婚したら彼女の家に入るのか?」
「そうなります」
「そんなっ…!」
二人の気持ちは、わたしが一番よく分かる。
彼は本当は自立しても大成功を収める人だ。
なのにわたしの家に入り、肩身の狭い思いをすることを、自ら望んでしまっているのだ。
「何勿体無いこと言っているんだよ! お前なら何だってやれるだろう!」
おっしゃる通りです。
「こんなコの下で、一生を過ごす気なの? 正気じゃないわよ!」
…それにも同感。
しかし否定する人がここには1人。恐ろしく真剣な表情で、メガネの縁を上げる。
あっ、コレはヤバイ。