7
指輪を手に取って見ると、リングの部分は金だった。
すでに婚約指輪は貰っているけど、今はつけていない。
まだ学生だから、袋に入れて持ち歩いている。
だから左手の薬指は何もつけていないんだけど…。
「やっぱり、左手の薬指?」
ちょっと困って彼を見上げる。
先生はふっと笑って、わたしの手を取り、指輪も取った。
そして迷わず左手の薬指にはめてくれる。
15年前、わたしが彼の左手の薬指にタンポポの花をつけたように…。
「…キレイね」
「本当は本物の方が良かったんですけど、さすがに今の季節では難しいですからね。これなら未来永劫、見続けられるでしょう?」
「うん…。ありがとう」
こう言ってはなんだけど、あの時のタンポポよりキレイに見える。
「もしかして今日の用事って…」
「ええ、注文していたのを取りに行ったんですよ。早くお嬢様にお渡ししたくて、急いでいたんです」
「そう…なんだ」
滅多にわたしから離れないから、何事かとちょっと心配もしていた。
でも彼がわたし以外のことに夢中になるはずも、熱中するはずもなかったのに…。
「ねぇ、先生」
「何ですか?」
「先生から見て、今のわたしってやっぱり情緒不安定?」
「そう…ですね」
先生は苦笑し、言い辛そうに続ける。
「最近、あまり笑ってはくださらないことは気になっていました。素っ気無くなったかと思いきや、突如甘えてくることの差が激しいですし」
「うん…」
「しかし相談してくださらないところを見ると、女性特有の悩みかと思いまして、口を出さないできました。…やはり結婚のことですか?」
「ん~。わたしの心構えがちゃんとまだ整っていないだけ。時間が経てば、大丈夫でしょう」
そう言いつつ、彼に抱きついた。
お風呂上りの彼の肌に、頬を擦り付ける。
…やっぱり甘えたがっているのかもしれない。
心が不安になっているから、こうやって彼に癒やしと救いを求めているのかも。
「わたし、先生のことが大好きよ。愛してる」
だけど伝えなきゃいけないことは分かっている。
心から言っている言葉だからこそ、先生も嬉しそうに微笑んでくれる。
「はい、知っていますよ。私も希姫お嬢様のことを愛していますから」
「うん…!」
心が浮き立つやり取り。この気持ちにウソ偽りは一切ないと言える。
「でも…結婚したら、何か変わっちゃう気がして…。もちろん、生活が変わらないことは分かっているのよ? でも何かが変わっちゃいそうで、それが怖いのかな?」
自分の心のことなのに、告白と言うより問い掛けになっているのだからおかしい。
「そうですね…。でもそれは、おかしくなんてありませんよ?」
優しく頭を撫でてくれる先生の仕種は、15年間、全く変わらない。
「例え今まで通りの生活が変わらなくとも、やはり変わるものは変わってしまいますから。それを無意識に感じ取って、恐ろしく感じても、何にもおかしくなんてありません」
「そう言う先生も、怖いの?」
「いえ、私は特には。私にはお嬢様が側にいれば、恐れるものなどありませんから」
…相変わらず赤面することをハッキリ告げる人だな。
でもこういうところが好き。
「じゃあ先生の恐れるものって何?」
尋ねると、先生はちょっと泣きそうな笑みを浮かべた。
「…お嬢様が、離れていってしまうことですかね」
「わたしが? 先生から?」
意外過ぎる言葉に、思わず眼を丸くしてしまう。
骨の髄にまでこの人が染み込んだわたしが、離れることなどありはしない。
想像すらできないし、今まで考えたことすらない。
「幼い頃から徹底的にわたしをしつけてきたクセに、今更何を言っているのよ?」
「それが怖いんですよ。いくらしつけてきたとは言え、心は成長するものでしょう? 何時まで私はお嬢様の側にいることを許されるのか、不安でならないのです」
何をバカな…とは言えなかった。
先生のこんなに切なそうな表情を見るのは、はじめてだったから。
「わたしに言い寄ってくる男は、みんな遠ざけてきたくせに?」
「お嬢様に相応しくない男は排除しますよ? 貴女の為にもなりませんから」
そこはアッサリしているのね…。
「その不安って何時からあったの?」
「お嬢様と婚約してからです。ずっと不安でしたよ」
なら結婚が正式に決まった今は、その不安はないはずだ。…先生は。
代わりにわたしが不安になっているのだから、しょーもない。
「でも結婚が決まった途端、お嬢様は不安定になってしまいましたしね」
「えっ延期はしないわよ? ちゃんと予定通りに行うから」
結婚が決まって、喜んでいるのは彼だと分かっている。
15年も待たされたのだ。
コレ以上、引き伸ばすのはさすがにかわいそうだ。
「それは嬉しいのですが…式や披露宴は延期しても構いませんよ? 籍さえ済ませていただければ、私の不安は解消されるのですから」
「そっそうもいかないでしょう? わたし達はそういうのが許されない家に生まれてきたんだから」
お互い、立場と権力を持つ家に生まれた。
入籍だけ先に済ませ、式や披露宴は数年後なんて真似は余計な勘繰りをされてしまう。
…こういう時、ちょっと実家が疎ましく思ってしまう。
でも何でもかんでも自分の思い通りにいかないことが、わたしに常識を教えてくれたりもする。
バカにはなりたくない。
それは今までわたしを育ててくれた先生の顔に、ドロをぬるのと同じことだから…。
「本当はもっと短期間で決められれば良かったんだけどね。一年も猶予があると、気持ちも延びちゃうのかも?」
わたしは作り笑顔で、明るく言った。
「そう…ですね。それに高校卒業の件もありますから、いろいろと忙しくなっていますしね」
「うんうん。だからずっと側にいて、わたしを支えてね?」
わたしは先生の首に腕を回し、抱きついた。