3:二人の影。
むき出しの嫉妬心ほど、醜いものはない。
でも押さえようとしたって、押さえきれなくて、ほんのささいな気のゆるみで、それは顔を出してくる。
後ろから聞こえてくる会話。授業中の静かな教室で時折聞こえてくるささやき声は、あたしのすぐ後ろからもれる。
そっけないクールな郁ちゃんの反応を楽しんでいる、ほーちゃんの声。
振り返って、会話に加わる事だって出来る。そこかしこから授業を聞いてない生徒の声は聞こえてくるのだから、あたしがちょっとおしゃべりしたって、先生に怒られるわけない。
でも、なぜだか、邪魔しちゃいけない気がして……あたしは黒板を睨み続ける。
嫌な予感がしていた。
何かが、始まってしまう、予感。
あせらされるような、後ろから追い討ちをかけられているような。
やばい、と思う。
「大川、教師に恨みでもあんのか?」
「は?」
ずっと黒板ばかり見ていたら、隣の席の岡島聡が訝しげにあたしの肩をシャーペンでつついた。
「すっげえ勢いで睨んでたぞ」
「ほんと? 日ごろの恨みつらみが顔に出ちゃったわ」
「怨念こもりすぎ」
「いやあ、見られちゃったねえ。他の人に話さないでよ!」
「恐ろしくて話せるわけねえ」
岡島君とならこんな気軽に会話がかわせるのに。
振り返れば手の届く距離。なのに、それはけっして届かない。あたしと彼の席の間には大きな谷があって、あたしにはそこを渡ることはできないんだ。
窓のさんにひじをかけて、空を仰ぐ。のん気な雀が鳴き声をあげて、飛んでいく。
そよそよと揺れる木の陰に、どこからか迷い込んだ猫が寝ているのが見えた。
三階の教室から見える風景は、果てしなく遠くまで見渡せて、それでいて、すぐ近くもよく見える。
ああ。目が良くてよかった。
***
図書室の静粛な空気は嫌いじゃない。
二年の時に図書委員になってから、あたしの憩いの場所になった図書室。司書の先生も優しいから大好きだ。
あたしは六組だ。三年生は一組から五組までが一階の教室で、六組と七組は別の棟の三階になる。棟と棟をつなぐ三階の渡り廊下の脇が図書室だから、今の教室から図書室はとても近い。
三階まで行かなければいけないという労力から、六組七組になったことを嘆く生徒も多いけど、あたしはラッキーだと思った。
図書室がこんなにも近いんだから。
読みかけの文庫本を本棚に戻して、そろそろ帰ろうと立ち上がる。
図書室に寄ると言ったら、智美はとっとと帰ってしまった。薄情なヤツ。
「あ、カバン忘れた……」
手ぶらだった。どんなボケだ。
オレンジ色に染まる廊下を歩く。どこからか聞こえてくる掛け声。野球部の声だろうか。
窓から零れ落ちる光が、四角く切り取られて廊下に映る。たまに揺らいで、影が動く。
話し声が聞こえる。
不思議な感覚。いつもは騒がしいはずの教室には何も無くて、静かで穏やかな時間だけが流れている。だからこそ、小さく聞こえてくる会話に、妙な違和感を覚えた。
開け放たれたままのドア。風にのって、花の香りがする。
六組の教室のドアの隙間から、揺れて漂う人の影。
「あ」
思わずこぼれた声を両手で塞いで、あたしは壁に身を寄せて隠れた。
別に、隠れる必要なんてない。でも、見てはいけない気がした。
既視感。それは、以前見た光景を髣髴とさせた。
夕日のオレンジに染まる教室。窓際の席。風で揺れる、ベージュ色のカーテン。窓のさんにあごをついて、校庭をぼんやりと眺める。ふと顔をあげたその瞬間。頬に光る涙が、オレンジを反射させた。
――どうして泣いているの?
疑問はわきあがると同時に、胸を締め付けた。焼きつく光景。カメラで何度も撮ったみたいに、瞬間瞬間が脳裏に刻み付けられて、離れなくなる。
クシャクシャの黒髪をかいて、短くため息をついた彼。乱暴に手の甲で涙をぬぐって、毅然と立ち上がった。
泣いていたことなんて、誰にも悟られない、いつもの顔。
あの時の彼と、同じ。
彼と同じように、重苦しいものを背負った郁ちゃんが、そこにいた。
声をかけようかと、もう一度ドアに近寄って、ふと気付く。話し声がした。
郁ちゃん以外にも、教室には誰かがいるのだ。
ざわざわと忍び寄る黒い気持ち。小さな羽虫が胸の中でどんどん増えていくみたいな不快感が襲ってきて、唇をかむ。
あの声。あの声は。
目をつぶり、反芻する。後ろから聞こえてくる会話の数々。
冷め切った郁ちゃんの声と、のんびりとした穏やかな彼の声。
重なって重なって、耳に反響して、体中から汗が噴き出す。
怖くなって、隣の教室に逃げ込んだ。
いつの間にか、太陽は姿を消していく。オレンジ色は濃紺に侵食され、交じり合った紫が空の真ん中でにじむ。
隣の教室のドアが開いた音がした。
あたしは教卓に隠れて、二つの影を見つめていた。
線の細い、長い髪の女の子の影。その隣に並ぶのは。
沈黙が支配する中、足音だけがこつこつと廊下に響く。
女の勘は、するどい。
予感は、的中するものだ。
背筋のぴんと伸びた黒い影は、隣の女の子を気遣うようにゆっくりと進む。
「竹永の家、どこらへん?」
柔らかな低音。焦がれた声。
佐村豊介の、声。
一気に目の奥が熱くなって、膝を抱える。泣くなと、こんなことで泣くなと言い聞かせる。
こぼれる吐息を膝に埋めて隠して、あたしはただ過ぎる時間を待った。
***
「お、大川。かくれんぼでもしてるのか?」
「う、おわ! 先生!」
人の気配がして顔をあげたら、数学の先生が目を丸くしてあたしを見ていた。
「教卓の下からスカートが見えたから、幽霊でもいるかと思ったじゃねえか。お前、学校に泊まろうとでもしてたのか?」
「まさか! 帰ります」
「気をつけて帰れよー」
ちくしょう。バカ教師! かわいい生徒を幽霊と間違えるなんて!
明日も更新します。
しばらくは毎日更新しようと思っています。
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