21:放っておけない。
ちゃんと用を足したふりをして水を流し、思いっきり息を吸い込んでから個室を出る。
郁ちゃんは縮こまった姿勢で、化粧用の鏡の前にある椅子に座っていた。
さっと歩を進めて、郁ちゃんの隣に座り、郁ちゃんと向き合えるように椅子を動かした。郁ちゃんも少し躊躇したが、椅子の端を持ってあたしの方へ向き直った。
膝がぶつかってしまいそうな距離で向き合って、あたしは「で、で?」と声を弾ませる。
郁ちゃんは、アーモンド形の目を沈ませ、思い悩むようにうつむく。
「佐村と、遊んだ」
「ほうほう」
明るい調子を崩さず、相槌を打つ。
そうすることで、自分の中の何かを食い止めようとしている。崩れてしまわないように、壊れてしまわないように。
郁ちゃんは下を向いたまま、膝の上に置いた手の平を握ったり開いたりしている。さらさらの長い髪が顔を隠してしまって、郁ちゃんがどんな表情をしているのか、わからない。
「……告られた」
ぼそりとつぶやかれた言葉は、かすかに聞こえるカラオケの喧騒に紛れて消え入りそうだった。
なのに、はっきりと、あたしの耳を貫く。
唇がぴくりと動いて、喉がぎゅっと痛くなる。乾いた空気を吸い込んで、飲み込んだ。
嘘でしょ? と思う反面、事態をすんなり受け入れている自分もいた。
ずっと予期していたことなのだ。遅かれ早かれそうなることを、あたしはすでに知っていたんだ。
「やっぱり!」
次の瞬間、あたしは演技を続けていた。
バクバクと心臓が動いているのがわかった。熱を持った手に力がこもって、軋む。
「やっぱりって」
あたしの反応に驚いた郁ちゃんが、ぱっと顔を上げる。困ったように眉間にしわを寄せ、唇からあいまいな笑みをこぼす。
「だって、ほーちゃん、郁ちゃんのこと好きっぽかったじゃん」
自分でそう言いながら、『そうだ。ほーちゃんは郁ちゃんのこと好きっぽかった』と反芻していた。真っ白に広がる心の中に、ずっと秘めていた疑惑が木霊する。
あたしは気付いていた。気付いていたのだ。それを今、実感してしまう。
気付いていて、それでも、あたしはほーちゃんが好きだったんだ。
あたしの軽い口調は、郁ちゃんの沈んだ心を少しだけ浮上させたのだろう。郁ちゃんはさっきまでの真剣な面持ちを崩して、クスクスと笑っている。
「それで? なんて返事したの」
恋愛話に浮かれる女の子を演じる。声を弾ませ、興味津々という顔を作って、郁ちゃんをみつめる。
郁ちゃんに、あたしの気持ちを気付かせるわけにはいかない。それは、あたしの天狗の鼻みたいに無駄に高いプライドなのだ。
恋愛に勝ち負けなんか無い。けど、負けた気がしてしまう。
敗北した気分になるのは、ごめんだ。
「断った」
「なんで!」
一瞬耳を疑って、つい大声で聞き返してしまった。
断った? 今、断ったって言ったよね?
思わず張り上げた声を無かったことにするために、コホンと咳をして「なんで?」ともう一度小さな声で聞いてみた。
「よく、わからなかったから」
「わからないってなにが?」
郁ちゃんの目が、またみるみる沈んでいく。
「自分の気持ちが……」
声が消え入りそうだった。長いまつげが下ろされるたび、その隙間に涙交じりの瞳が見えた。
郁ちゃんは、本音を言ってくれているのだ。
虚栄のプライドを浅はかに思った。あたしは、何を意地張っているんだろう。郁ちゃんは、自分の気持ちを素直に話してくれているのに。
「あたし、男の人が怖いのかも」
郁ちゃんの手に力がこもっているのがわかった。
二人が付き合っていないという事実への喜びは、ふわっと浮かび上がって、すぐに消えていった。
郁ちゃんの思いつめた雰囲気が、あたしから負の感情を奪い去った。
助けてほしいと、郁ちゃんが叫んでいることに気がついてしまった。
誰にも懐かない野良猫が、救いを求めて目を向けている。あたしはその目と向き合ってしまったんだ。
「触れられるのが、嫌で、今まで付き合った人とも上手くいかなかったし……」
震えてこぼれる言葉達。郁ちゃんが紡ぎだす本音を、あたしは「うん、うん」とうなずきながら聞いていた。
「佐村のことも、きっと嫌だと思うんじゃないかと思って、それが怖くて、断った……」
透き通った郁ちゃんの声は、か細くてたよりなくて、不安にさせる。
あたしは。
ほーちゃんが好きで。
ほーちゃんが欲しかった。
でも。目の前で小さく震える女の子を、放っておけなかった。
馬鹿だなあ、と小さくため息をつく。
ぎゅっと目をつぶると、夕焼けの色が眼前を覆い尽くす。
濃縮したオレンジジュースの中みたいな教室で、涙をぬぐった男の子。
揺れる太陽の光の下で、窓のさんに寄りかかって空を仰ぐ女の子。
放っておけないと、思ったんだ。あの時のほーちゃんも郁ちゃんも。
お人好しの愚か者。八方美人でお調子者。
それがあたしだし、誰に対しても変わらなく接してるつもり。
でも、あたしだって、誰にでも優しさを振りまくわけじゃない。
特別視してしまう子がいるんだよ。
ほーちゃんが好き。ほーちゃんが好きな子は、やっぱりあたしも好きになる。
誰かが、あたしとほーちゃんは似ているって言ってた。好みも、似ているのかもなあ。
あたしが男だったら、きっとほーちゃんとライバルになってた。
それは一目惚れに近い感覚。あたしは、竹永郁という女の子を、救い出してあげたいと思い始めていた。
本音を話すって大事なことですよね。
それだけで心の距離って一気に縮まる気がします。
本音でしゃべりすぎてドン引きされることもありますけどね(涙)