13:笑顔の裏では。
図書室を出たら、岡島君が渡り廊下の窓に寄りかかって立っているのを見つけた。
ダークブラウンの髪が日に当たって、ミルクティ色に見える。こぼれたミルクティの、あの色を思い出して、あたしはわざとらしく目をそらした。
「ほーと話した?」
背中を向けるあたしに、小さな声でささやいてくる。
誰かに聞こえたりしないように、声のトーンを落としてくれたのだろう。
無視してしまおうかと思った。小さな声を聞き逃すことなんて、よくあること。気付かなかったふりをしてしまえば、それでいい。
上履きの底が、廊下の上でこすれる。キュ、と犬の鳴き声みたいな音がした。
「……話したよ」
ぱっと後ろを振り向いて笑う。楽しかった、嬉しかったと装うように。なのに、岡島君の表情があっという間に歪んだ。
眉間にしわを寄せて、切なそうにあたしを見る。
「ありがとね!」
岡島君の表情なんて気にしない。
明るく弾んだ声を作って、さっきよりも口角を上げてみせる。
ほーちゃんとしゃべれて、嬉しかった。嬉しかったのは、本当だもの。
ただ、たださ。苦しかっただけだ。
きっと何も望まなければ、あんな風にほーちゃんとしゃべれた時間を喜ぶことが出来たんだ。
ほーちゃんが、あたしを好きになってくれればいいとか、そんなの、望まなければいい。ほーちゃんの中で始まった恋心を無くさせて、一からあたしを見て、なんて叶いっこない願いだ。
胸の中に全部しまいこんでしまおう。
全部、全部だ。
そのほうが、楽。楽になれる。
「昨日の詫びのつもりだったんだけど」
申し訳なさそうに、岡島君は言う。
「よけいなお世話だったな」
「そんなことないよ。それに、昨日の詫びってなに?」
すっとぼけてみせるのだって、得意だ。ニコニコ笑ってなにも気付かない顔してれば、その方がいい。よけいな気を使わせなくて済む。あたしの本性を晒さないですむ。
「ごまかすの、やめない?」
「意味わかんない」
「じゃあ、なんで、笑うんだよ」
どうして、こいつは。
あたしの心に土足で踏み込んでくるの? 知られたくない心を、見せたくない心を、その部分だけを狙い撃ちするみたいに足跡をつけてくる。
隠し続けてきた汚い部分。誰にも見せたくない、あたしの本音。あたしの弱さ。
手の中に包んで、腕で覆って、見せないようにしているのに。覗き込むような真似をしてくる。
「岡島君には関係無い」
「大川って、いつも笑ってて友達に囲まれてるけど、何考えてるのかわかんねえよな。腹の中、真っ黒そうで、俺から見ると怖えよ。笑顔の裏じゃ、全く違うこと考えてるだろ」
鋭い視線が突き刺さる。頭を殴られたように、低い声が、あたしの頭に響く。
「みんな、そうでしょ? そういうもんでしょ? 思ってること全部しゃべるやつがいたら、そいつの方が怖いよ」
「俺が言ってるのは、そういうことじゃねえよ」
もういやだ。こいつとしゃべるの、もう嫌。
こんな風に真剣な顔を向けられて、あたしはどんな顔すればいいの。笑うわけにはいかないし、だからといって泣くなんてもってのほか。怒ってわめきちらす気にもなれない。
ぽかんとした顔にしかならないのは、不可抗力だ。
「昨日、俺がまた無神経なこと言ったのは悪いと思ってるよ。大川は怒っていいんだ。なのに、何もなかったみたいな顔して笑うのはおかしいだろ? なんで笑ってんだよ? 大川のそういうところ、俺はイライラする」
「気にしてないから笑うんじゃない。岡島君も気にしないで」
はい、この話は終わり、そう言って手を叩く。
同時にチャイムの音。殺伐とした空気から逃げられる。自然と安心した笑顔が出てくる。何を言われてるのかわからないと、ごまかして笑える。
別に良いじゃない。物事を円滑に進めるのに、笑顔は常に武器になる。
大体、なんで岡島君がイライラするの? 関係ないじゃないか。
チャイムの音が渡り廊下を駆け抜けて、図書室から生徒がぞろぞろと出てくる。眠そうにあくびする人や、教室まで走り出す人や、談笑しながら歩いていく人。
吐き出される生徒に混じって、ほーちゃんものんびりとした足取りで現れた。
「岡島、先に戻ってるぞ」
「おう」
「じゃ、あたしも」
この流れに乗ってほーちゃんの後ろについていってしまおうとしたら、むんずと腕を掴まれた。
「痛いっ」
強い握力。腕に食い込む手のごつごつした感触に顔を歪ませる。
「わ、悪い」
「痛い! 馬鹿力! 痣になったら、どうしてくれんの!?」
「え!? 一生詫びる」
一生って。
「この位じゃ一生の痣にはならないよ」
「え? あ、そうだよな」
ぱっと手を離された。
しょうもない天ボケに、沸点まで達しそうだった怒りが沈んでいく。無神経な男だけど、こういうところが憎めないから、嫌いにはなれない。得なやつだな、岡島君って。
「帰ろう、教室に。授業、始まるよ」
岡島君の肘の辺りをポンと叩いて踵を返す。
岡島君だって、悪いやつじゃない。昨日今日のことは忘れてやろう。
「大川」
またもや腕を掴まれた。
進もうとしていたから、ぐんと後ろに体が引かれる。つんのめりそうになってよろけながら、後ろを振り返ったら、岡島君のにやけた面構えが目に入った。
「サボろうぜ」
「はあ?」
「五限目、サボろう。俺に付き合え」
「はああ? 嫌だよ」
って言ってるのに! 岡島君は強い力であたしを引っ張り、ずんずんと進み始めた。
痣という漢字が痔に見えるんです……