11:理屈じゃない、この気持ち。
こぼれたベージュ色の液体は石畳の間にこびりついた土と交じり合って茶色に変わる。
あたしは仁王立ちのまま、転がった缶から流れ出るミルクティーを見つめていた。
膝がかすかに震えている。にぎった拳の爪が手の平に食い込んで痛い。
「大川……?」
隣で座ったままの岡島君が気まずそうに眉尻を下げて、あたしを見上げているのがわかる。
「無神経だったな。悪かったよ」
謝るくらいなら、最初から言わなきゃいいじゃない。
あたしの足元に転がった缶を拾って、中身があるかないか確認してる。液体の揺れる音は僅かしか聞こえない。
「大川、座れよ。新しいの、買ってくるからさ」
機嫌でも取ろうとしてるの?
雷雲が迫るように、あたしの心に真っ黒な雲が覆い尽くす。
あたし、こいつが、嫌いだ。
「……いい」
「え?」
「いらない」
顔を上げた拍子に、髪の毛が唇にはりつく。それを右手で払って、あたしは岡島君に笑いかけていた。
「帰るね」
「帰るって……」
「帰る。ごめんね、缶、捨てておいて」
上げた口角がひりつく。目はきっと笑ってない。でも、必死に笑顔を作る。
何か言いたそうに、岡島君の口が動いていたのに無視して走り出した。手に持ったカバンがいつもより重く感じる。
走る速度が上がるほど、足の間に風が巻き込まれて、鳥肌が立つ。夢の中を逃げ惑うように、足は何度ももつれそうになる。
昇降口をくぐり抜けて、校門を抜ける。国道沿いの歩道を突っ走る。夜の冷たい風が頬をなでて、呼吸が上がる。
「竹永」
後ろからほーちゃんの声が聞こえた気がした。郁ちゃんを呼ぶ声。優しい声。柔らかい声。
「気にならないって言ったら、嘘になるよな」
そう言って、はにかんで笑った。
「何持ってるかわかんねえよな、あいつ」
宝物を見つけたような、キラキラした瞳をしてた。
気付いていたよ。とっくの昔に。
そりゃ、あの席になってまだ三週間もたってないけど。
毎日毎日、後ろの会話に耳をそばだてていれば、ほーちゃんと郁ちゃんの距離が縮まっていることくらい、気付くよ。
ほーちゃんが、郁ちゃんに対して、特別優しいのだって、見てればわかる。
目を閉じて耳を塞いで、気付かないふりしてた。気付いていたけど、『そんなことない』って否定してた。
それを、口にしたら、終わってしまうこと、あたしが一番よくわかってるんだよ。
――どうすんの?
どうすればいいの。
――諦めた方がいいんじゃね?
あたしだって、そう思ってるよ。
気持ちは理屈じゃない。諦めようとして、諦められたら、とっくのとうに諦めてる。
それでも好きだって、諦められないって、そう思ってたから。
大嫌い。あいつ、大嫌い。
今頃になって涙が溢れ出てくる。抑え切れなくてこぼれる嗚咽が、切れ切れの呼吸をよけいに苦しくさせる。
同じクラスになったって、喜んだ。席の近さに舞い上がった。
でも、待ってたのは、胸が詰まるような息苦しさだけだった。
国道を渡る歩道橋を上がりながら、少しずつゆっくりと呼吸を整えていく。
わき腹が痛い。さっき飲んだミルクティーを吐き出してしまいそう。
眼下には国道を走る車が列をなしている。ブレーキランプが赤い線になって繋がってる。
気付けば、もう夜。
排気ガスのにおいが喉を刺激して、咳き込む。
「諦めるしか、ないのかな……」
手すりに寄りかかって、赤い線をなぞる。人差し指が、徐々に上がる。
あの線が空にまでずっと連なっていたら。線路みたいに、繋がっていたら。
空に向かう。
そして、雲にのって。
こんな苦しい気持ちを捨て去って、雲みたいに軽くなれたら。
「苦しい」
一人、つぶやく。
誰にも言えない、あたしの弱さ。
誰にも見せたくない。誰にも見られたくない。
鼻でフンってなんでも笑い飛ばせる、強い女でいたい。
だから、強がってる。笑ってる。顔に出さずに。
本当は、慰めてくれる誰かが、ほしいのに。
***
「昨日は、ごめんな」
朝、学校に着いた途端に岡島君が寄ってきて、あたしに向かって頭を下げた。
「何のこと?」
にっこりと笑ってそう返したら、口をぽかんと開けて、あたしを見てくる。
「すっごい間抜け面になってる」
「失礼な。あのさ……昼休み、時間もらえねえか?」
「なに? 告白でもするの? 悪いけど、振るよ」
「告る前に振るな」
「告白だったの?」
「んなわけねえだろ」
改まって何の話だろう。わざわざ昼休み呼び出すなんて、告白以外考えられないけど。否定されたし。
「昼飯食べたら、図書室に来いよ」
「うん」
真面目な顔をして「待ってるからな」と言い残し、岡島君は教室を出て行ってしまった。
やっぱり告白?
……そんなわけないか。