後編
『ずるいよな、ギリアムさんよ』
戦友の声。
『あんただけ生き残って』
戦友の声。
『何だって? 幼馴染と二人で?』
戦友の声。
『いいよなぁ、ささやかな幸せ。人間らしい生活』
石像と化した、数多くの戦友。
「やめろッ!!」
ギリアムは跳ね起きた。キッチンに立っていたミリイが驚いて振り向く。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
嫌な夢だった。こんな夢を見たのは久しぶりのことだ。額に滲んでいた汗を拭う。
「……いや、ちょっと、昔の夢を」
罪悪感だろうか。自分一人だけ生き残り、まともな生活を送れようとしていることへの。
「……大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。心配かけて、すまない」
リハビリをしていた頃はよく見ていた夢だったので、慣れたと思っていたが、そうでもなかったようだ。
「色々、あったんだね……。大丈夫。ここはもう、戦場じゃないから」
窓の外を見てみると、雨がよく降っている。ああ、そういうことか。
ともあれ、ミリイが簡単な朝食を持ってきた。トーストと野菜スープ。スープは昨日の夕飯の残りだった。ナルルはミリイの料理の腕をあまり評価していなかったが、実際に食べてみればなかなかのものだった。
ミリイは地味なワンピースを着ている。学校の制服なのだろう。
二人でテーブルを挟んで朝食をとる。久々の温かい朝食。とても落ち着く。
「あたしはそろそろ学校に行くけど、えっと、これ。合鍵、渡しとくね」
朝食の後、ミリイは鞄を背負い、合鍵を渡してきた。
「じゃあ、行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
ミリイを送り、部屋には一人だけ。学校は隣町なので、そこまではどうするのだろう。列車だろうか。
部屋に一人残されたのだが、何もすることがない。とりあえず、昼までは読書でもしよう。鞄に入れていた読みかけの文庫本を取り出して、ページをめくり始めた。
部屋の時計が十時を告げた。雨は止んでいたので、ちょっと出かけようか。戸締りをして、部屋の外へ。周りの人に見つかるのは避けたいところだ。変な噂が立ってしまったら、ミリイに悪い。
人目を避けるように路地に出る。とりあえず、フェンテでも行ってみようか。営業中の看板は出ていないが、扉は開いていた。中に入ってみる。
「あー、ごめんなー。まだやってないんよー」
ナルルが厨房に立っていた。開店前の掃除だろうか。
「……って、ギリアムさんか」
「暇だからな。……何か、手伝えることでも?」
「あー、せやなー。まぁ、今日はミーちゃん学校やし、お言葉に甘えるわ。そっちの床を掃除してもらえへん?」
「ああ、構わないよ。少しでも動かないと、体が鈍るしな」
「そっちの棚の中に箒があるから、床を掃いとってなー。その後モップかけて、テーブル拭いてくれへん?」
「……がっつり頼んでくるな」
「そら、立っとるもんは親でも使わなな」
ナルルがけらけらと笑う。客席の片隅の棚から箒を取り出して、床を掃き掃除。バケツに水を組んで、モップ掛け。
「ほい、布巾」
ナルルが硬く絞った布巾を投げてきたが、テーブルの上に暴投。ギリアムは苦笑しながらテーブルを拭く。
「コントロール悪いな」
「ここ狭いからしゃあないやろー。床に投げんかっただけマシやって」
二十分もかからずに掃除は終わり。開店は十二時からみたいなので、一時間ちょっと余裕がある。
「ふー、助かったわ。これでちょっと余裕もって仕込みできるな」
「まだやってなかったのか?」
「せやねん。ちょっと寝坊してもうてなー。ま、ギリアムさんは座っとき。後でお昼、ごちそうしたるわ」
「じゃあ、ご厚意はありがたく受けようかな」
ナルルが仕込みをしている間に、ギリアムは椅子に座って、店に置いてあった雑誌を読む。店の時計が十一時を回ってから少し経ったとき、ギリアムの前にパスタが置かれた。玉葱やソーセージと一緒に炒めてあるようだ。それと、コンソメスープ。
「今日の日替わりはこれにしとくわ。感想、聞かせてな」
「ありがとう。いただくよ」
パスタをフォークに巻き付けて一口。うん、いい具合。昨日も思ったことだが、ナルルの料理の腕前は本物のようだ。
「うん、おいしい」
「ホンマ? なら自信持って出せるな」
ナルルは笑って、黒板に日替わりランチと、その他のメニューを書く。
「今日は寝坊してもうたからなー。できることが少ないわ」
「夜更かしなんかするもんじゃないな」
「せやせや。ギリアムさんも、昨日はお楽しみやったんやないの?」
ナルルは手を動かしながらくすくすと笑う。そうだよな、そんな受け取られ方をしてもしょうがないか。
「いやいや、何もないから」
こればかりは胸を張って言える。
「えー。ミーちゃん、かわええやん。こんなチャンス滅多にないで」
「ナルルさんこそ、そういう話はないのか?」
話を逸らそう。
「失礼な。ウチかて男の一人や二人、おったんやで。いや、二人同時におったらまずいけどな」
過去形だ。あまり踏み込まないほうがいい話かもしれない。だが、ナルルは声を続けた。
「すぐカッとなって殴ってくる、ろくでもない男やったけどな。まぁ、ヒモやったな、アイツは。兵隊に取られたときは正直せいせいしたわ。あの戦争で、ウチが得した唯一のことやわ。あはは」
ナルルの笑いには自嘲が混じっているようだ。
「ウチはそれで色々苦労したから、ミーちゃんにはええ男つかまえて欲しいんよ。老婆心ってやつやな。あはは」
「確かに、あの子も世慣れぬところがあるからな。変な男に捕まらないかは心配だよ」
「ギリアムさんが見守ったらなアカンね。あはは、それも年長者の仕事や」
「まったく、年は取りたくないな。面倒なことばかりやらなきゃならない」
「ホンマにね」
ギリアムはナルルと二人で笑うのだった。
ミリイを見守る。できれば、そうしたい。
そう、できることならば。
雨が降ると体が重くなる。その症状は、少しずつ酷くなっていた。
そろそろ、潮時かもしれない。満足に動けるうちに、ミリイとナルルに礼を言っておかないと。
今日はミリイの学校は休み。だが、朝からフェンテまで手伝いに出掛けている。いい機会なので、荷物をまとめておこう。
ソファーから立ち上がろうとしたとき。
つんのめるように、前に倒れる。受け身が取れない。そのまま、うつ伏せに倒れた。石が砕ける、甲高い音がした。
視界の端に写ったのは、石と化した、自分の左手だった。それが、あらぬ方向に転がっている。
「……随分と、急だな……」
痛みは感じない。肘も動かない。左足も。
肩を使って、なんとか仰向けになる。
「……ちくしょう」
まだ大丈夫という話だったはずだ。
静かな部屋の中に、開けっぱなしの窓からの雨音だけが響いている。
戦争が終わる寸前、ギリアムがいた塹壕に砲弾が撃ち込まれた。いつもの定期便か。落ち着いて退避していたとき、砲弾から煙が立ち上ったのが見えた。ガス弾である。
中身が毒ガスならば、まだよかった。だが、それはもっと性質の悪いものだった。灰色の煙。刺激臭。それは、普通の毒ガスではなかった。配属されたばかりの頃、軍曹から教わったことを思い出したギリアムは、咄嗟に退避壕に逃げ、ガスマスクを着けた。
それは、禁止されていたはずの、石化ガスだった。
ギリアムの周りに、逃げ遅れた戦友の石像が何体も作り出されていた。ほどなくして降りだした雨によって、地表のガスは洗い流された。しかし、ガスマスクを着けるまでの間に吸引したガスは、彼の体をじわじわと蝕んでいたのだった。そのときからである。雨が降ると体が重くなったのは。
進行を遅くすることはできるが、治すことはできない。
右足を切断したときの医者の答えはそれだった。
なぜ石化ガスが使われたのか。それは敵国の前線指揮官の暴走と聞いたが、本当のところはわからない。そして、講和へと話が進んでいるなか、双方の国民感情を刺激することを恐れた上層部によって、この事件は揉み消された。いくらかの金と、勲章一つと引き換えに。
誰にも言えない話。胸糞の悪い話。
「ナルルにも、ミリイにも、礼を言えなかったじゃないか……」
世話になったのに。短い期間とはいえ、楽しい時間を過ごさせてもらったのに。
特にミリイには。食事も、寝床も貰ったのに。
彼女の気持ちも、ある程度はわかっているのに。
「ただいまー」
ミリイの声がした。帰ってきたのか。
ああ、また未練ができてしまう。ついているのやら、ついていないのやら。
「……お兄ちゃん?」
両手も、下半身も動かないし、感覚もない。首だけで玄関のほうを見る。ミリイが血相を変えて駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、どうしたの!?」
「……戦争で、ちょっと、な」
「ま、待ってて!! 今すぐにお医者様を呼んでくるッ!!」
ギリアムは首を左右に振る。その動きすらも辛くなってきた。
「もう、無理だよ。自分が一番……よくわかる」
「じゃあ、あたしの血で……」
「それだけは、やめろ。どうせ、迷信だよ……」
ゴルゴンの血は石化症状の薬となる。そんな迷信がある。
それは間違ってはいないそうだ。だが、必要なのは一滴や二滴ではなく、もっと大量の血が必要となるらしい。致死量となるほどの。医者が言うには、迷信と言われているのはゴルゴンの身を守るためらしい。
それほどのリスクを背負ってまで試す価値はない。どうせ、今は治っても、再発の可能性は高いのだろうから。
「……迷惑かけて、ごめんな……。鞄の中に、軍の連絡先があるから……。警察じゃなくて、そこに連絡すれば、どうにかしてくれる、らしいから……」
石化ガスの被害者ということが公になれば、軍には都合が悪いだろう。ならば、揉み消してくれるはず。
ゴルゴンの家で石になったのだ。ミリイが真っ先に疑われるのは間違いないだろう。少しでも、ミリイに害が及ばないようにしないと。
「……こんなのって、こんなのって、ないよ……」
ミリイの眼鏡の下からは、涙が次々と流れている。
「せっかく、せっかく! お兄ちゃんと一緒に暮らせて! 毎日が楽しくて!」
悲鳴めいた声。
「あたし、まだ、言えてないのに……!! お兄ちゃんのこと、ずっと、ずっと……」
「……ミリイ」
「ずっと、ずっと……好きだったのに……ッ」
「ありがとう。……本当に、嬉しいよ」
彼女の気持ちには薄々感付いていた。こんな体でなければ、とうの昔に受け入れていただろう。
もう、何も動かない。動かせない。石と化した右手を、ミリイが握りしめているのが見えた。それだけで、ずいぶんと気が楽になった。
「……一つだけ、お願いをしていいか?」
「なに? あたしに、あたしにできることなら、なんだってするから!!」
まだ視界が開けているうちにやっておきたいこと。
「……どうせ石になるのなら、ミリイの瞳を見て、石になりたい」
ミリイの瞳。金色の美しい瞳。彼女が幼い頃に見たきりでも、未だに脳裏に焼き付いている。石になる間際まで残っているとは、本当に恋をしていたのかもしれない。
彼女の瞳に。
「……お兄ちゃん」
ミリイは少しだけ戸惑ったものの、ゆっくりと眼鏡を外した。
「……これでいい?」
ミリイの金色の瞳は、涙で潤んでいて、一層美しく見えた。
最後に見る景色としては、最高だ。
「……ありがとう」
体が冷たくなったと感じた瞬間、ギリアムの視界は灰色になった。
彼女の瞳。金色の美しい瞳。
自分はそれが、大好きだった。
読んでいただき、ありがとうございました。
長いこと何も書いていなかったので、習作程度のリライトでした。
ひょっとしたらナルルルートもあったかもしれない。
タイトルは椎名林檎のカバー版です。