前編
列車の中が混雑しだした。
「……ついてないな」
その男、ギリアムは窓際の席でひとりごちた。
「兄ちゃん、そうやって座れてるのに、ついてないなんか言っちゃいけねぇよ」
ちょっと前から隣に座っている大柄な男が笑った。擦れた軍服。どうやら帰還兵なのだろう。そう、自分と同じ。
男の鼻は上向きで、耳は尖っている。オークの血が濃いのだろう。だとすれば、その立派な体躯にも納得がいく。
「いや、ちょっと昔のことを思い出して」
昔のこと。戦場にいたこと。
「どうせ戦争のことだろう?」
「その通り」
「だと思ったよ。兄ちゃんぐらいの男はみんな戦争に行っちまってたからな」
「あんたもだろ?」
「おうよ。俺は海軍にいたんだ。兄ちゃんは?」
「陸だ。グレルのほうにいた」
「グレル! そこから帰ってこれたってのかい。兄ちゃん、ついてないことなんかねぇ。むしろ運がいいだろうよ」
男が目を丸くした。
グレルはこの戦争の最前線であった。いたるところに塹壕が掘り巡らされ、いたるところに砲弾が着弾した。戦争前と比べたら、はっきりとわかるほどに地形が変わった。
地獄だった。一ヶ月生きていたら運がいい。そう言われるほど、苛烈な戦場だった。そこで、ギリアムは二年間生き残った。そして、終戦を迎えた。
「俺は戦艦に乗ってた。アマセネルだ。あれの機関室でな、こうやって石炭を」
「狭いんだから、やるな、やるな」
石炭をくべる様子を再現しようとする男を制する。ただでさえこの座席は狭いのだ。そこで大柄な男に動かれてはたまったものじゃない。
「しかし、無駄な戦争だったな。人だけが死んで」
「金も領土も貰えなかったからな。死んだ奴らも浮かばれねぇよ」
前の戦争は四年間続いた。開戦の理由も曖昧なまま、あれよあれよと周りの国を巻き込み、気付いてみれば大陸のほとんどの国がどちらかの陣営についていた。規模の割には、戦線の推移は地味なものだった。毎日決まった時間に降ってくる砲弾。時折下される無謀な突撃命令。そして死んでいく戦友達。過ごすのは不衛生な塹壕の中。与えられるのは味気のない乾パンに、腐りかけの缶詰。
そんな地獄のような日々。その全てに慣れた頃、戦争は終わった。その瞬間、両陣営の兵士が塹壕から飛び出して抱き合ったという。その頃、ギリアムは後方の病院にいたので、その光景を見ることはできなかったのだが。
痛み分けという形で戦争は終わった。お互いに何も得るものがないまま、財産と血を垂れ流しただけで。
「まぁ、あんな戦争に巻き込まれただけでもついてねぇな」
「だろう?」
ついてない、と、ひとりごちたのは違う理由なのだが、男の言うことにも間違いはない。
『次はー、マイルズー。マイルズー』
車掌のアナウンス。ここらでも大きな都市だ。
「こりゃ、また混むな」
「ついてないな」
「兄ちゃん、ひょっとして口癖かい」
男が笑った。ギリアムもつられて笑い、客の入れ替わりを眺めるのだった。
あれから一時間ほどで隣にいたオークの男が降車して、座席は一気に広々とした。ここから目的地であるラグン東-ギリアムの故郷-まではさらに一時間ほど。混むところは過ぎたので、ぽつぽつと空き座席が増えてきた。
車窓に映る風景はのどかなものだ。ここらには戦火は及ばなかったようで、少しほっとする。なんでも、ここらは首都の人間達に疎開先として選ばれていたそうで、少し賑わったらしい。一年前に送られてきた慰問の手紙に書かれていた。
久々に他人と話し込んで、少し疲れた。一眠りするとしよう。
ギリアムは鞄を抱いて、目を閉じた。
彼女の瞳は綺麗だった。
『お兄ちゃん、また会えるよね・・・・・・?』
とても綺麗な、金色の瞳。
『私、お兄ちゃんが無事に帰ってくること、ずっと、信じてる、から・・・・・・・!!』
自分はそれが、大好きだった。
「次はー、ラグン東ー。ラグン東に停まりまーす」
車掌の声で、ギリアムは目を開けた。いくら故郷が近付いているからといって、幼馴染みの夢を見るとは。自分もヤキが回ったのかもしれない。
荷物を持って、駅のホームに降りる。右足は動かないので、びっこを引きながら。降りた客は自分を含めて十人程。改札で切符を渡し、駅の外に。そこに広がっていたのは記憶とさして変わらぬ田園風景。少しの安堵を覚えながら、深呼吸。
目的地に向けて、少しずつ歩く。すると、後ろから声がした。
「や、兄さん。しんどそうやねぇ」
振り向いてみると、そこにはケンタウロスの若い女がいた。黒いロングヘアに、なかなか可愛らしい顔立ち。スカートから覗く馬の脚も黒い。馬の背には荷物がいくつかくくりつけられている。買い出しの帰りだろうか。
「・・・・・・どうした?」
「いや、びっこ引いてはるから、歩くのしんどいんと違うかなーってな。ウチは向こうのほうまでなんやけど、方向同じやったら乗せてこうか?」
女はグレル訛りが強い。グレルから疎開してきているのか。ともあれ、彼女が向かう先は目的地と同じ方向。
「それはありがたいが、金なら」
「ええのええの。人助けやもん、ひ・と・だ・す・け。あはは、これだけ荷物積んでるんやもん。兄さん一人背負うのも大して変わらへんって」
女はけらけらと笑いながら手を振った。どうやら単純な善意のようだ。なら、善意はありがたく受け取っておこう。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「せやせや。人の善意は受け取っとくもんやで」
女がしゃがんだので、彼女の馬の背に脚を揃えて座る。それを確認したら、女は立ち上がった。
「ほな、行こかー」
思わぬ形で楽ができた。女が運んでいる荷物に目をやってみる。古新聞にくるまれているものの、その形は皿に見える。食器の類か。
「兄さんはアレなん、兵隊さんやったん?」
「……まぁ」
「やっぱりなー。雰囲気がそれっぽかったもん。最近は戦争帰りの兵隊さんが多いわぁー。じゃあ、兄さんはこの辺の出身やったん?」
「そうだな。この町に住んでた。……お姉さんは」
「あはは、ウチのことはナルルでええよ。ウチはこの辺の人間じゃないなぁー」
「じゃあ、グレルのほうか」
「そうそう。ここには疎開して来とるんよ。ようわかったなぁー。って、ウチの喋りじゃすぐバレてまうか、あはは」
予想通りだった。疎開と言っているが、今のグレルには帰るに帰られないだろう。民家なんか、ほとんど残っていないのだから。
「ラグンはええとこやね。兄さんはええとこで育ったわ。ホンマ、このまま居着いてもよさそうやわ」
「誰がえてこだ」
えてこ。グレルの方言で、猿のことだ。
「あはは、その返し久々に聞いたわ。兄さん、よう知っとったなー」
「グレル出身の奴がよく言ってたからな。まぁ、ここを気に入ってくれたのなら、なんだか嬉しいよ」
「あはは、そいつはどうもやで」
ナルルは笑い上戸なのだろうか、よく笑う。こんなに笑う女性と話すのは久々のことだ。
「それにしても、兄さんの」
「ギリアムでいい」
「あはは、ようやっと自己紹介終わったなぁ。ギリアムさん、右脚、悪そうやね」
「悪いも何も、義足だよ」
四ヶ月ほど前、ギリアムは右足を失った。この四ヶ月は入院とリハビリ。リハビリの成果か、義足で歩くことには慣れた。
「ホンマ? それやったらなおさら声かけてよかったわー。歩くのもしんどいやろ?」
「まぁ、慣れはしたがね。それでも助かってるよ、ありがとう」
「あはは、ギリアムさんは男前やからなー。そうお礼言われると恥ずかしいわぁ」
若い女から、男前、と言われて喜ばない男はいない。たとえお世辞だとしても。
「そんなに褒めても何も出ないぞ」
「えー。言って損したわぁー」
ナルルと世間話を交わしていると、目的地の近所に着いた。
「……あ、ここまででいい」
「ホンマ? じゃあ、足下気ぃつけてなー」
ナルルがしゃがんだので、彼女の背から降りる。
「あはは、だいぶ軽うなった。ギリアムさん、見た目よりも重いなぁ」
「よく言われるよ」
「じゃ、ウチはこっちやから。そこ曲がった辻の『フェンテ』って食堂で働いとるからね」
聞いたことのある名前。昔、たまに行っていた食堂だ。
「なんだ、営業か?」
「あはは、違う違う。ただ、ギリアムさんは男前やから、来てくれると嬉しいなーって」
「まぁ、運んでもらった礼もあるし、また後で行くよ。……本当に助かった。ありがとう」
「あはは、ウチもギリアムさんと話せて楽しかったわー。ほな、またな」
ナルルは手を振りながら、フェンテの方向に歩いていった。さて、ここから目的地まではほんの少し。見慣れた路地を歩く。ここに住んでいた頃と、何も変わっていない風景。やはり、ほっとする。
「……おや、ギリアム君じゃないかい」
近所に住んでいた顔なじみの女性が声をかけてきた。昔と比べると、少し太ったか。
「ああ、どうも。無事に帰って来れましたよ」
「……その様子だと、大変だったみたいだねぇ」
びっこを引いている様子を見られていたようだ。
「吹き飛ばされまして。まぁ、命があっただけで儲け物ですよ」
「違いないね。で、そっちに行ってるってことは……」
ギリアムが歩いている方向。それは実家の方向。
「……何があったのかは知ってますよ。ただ、けじめっていうか、そんなところです」
「……そうかい」
「……両親が迷惑をかけたと思います。すみませんでした」
「ギリアム君に謝ってもらうことはないよ」
女性に頭を下げて、実家の方向へ。
少し歩くと、実家が見えてきた。見慣れた建物。見慣れた柵。手入れがされていないのか、荒れた庭。
そして、柵に貼られていたものは。
【管理物件 入居者募集中】
この貼り紙。
「やっぱり、叔父さんからの手紙のとおりだったな……」
ギリアムは休憩がてら、玄関に腰掛ける。病院にいるときに、叔父から送られてきた手紙。父が博打で多額の借金を作ったまま急死。借金を返すあてがなくなった母は蒸発。家は差し押さえられた、という手紙。読んだときは病院で変な声を出してしまったものだ。
試しに鍵を玄関に差し込んでみたが、やはり回らない。ため息をつく。
叔父のところに行くという手もあった。だが、叔父の一家とは昔から折り合いが悪い。手紙の文面も事務的なものだった。
ともあれ、実家の様子を見る、という一つの目標は達成。この先、どうしようか。
あまり長居はできないのだし。
ギリアムは実家に向かって軽く頭を下げると、この場から立ち去った。
とりあえず、小腹も空いたし、ナルルに借りを返そう。
フェンテは実家から歩いて十分ほどのところにある。老婆が切り盛りする、小さな食堂だ。安くて量も多く、味も悪くなかったので、若い頃は何度も世話になったものだ。それにしても、ずっと一人で切り盛りしていたのに、ナルルを雇ったのか。まぁ、店主も年だろうし。
店構えは変わっていない。ドアにかかっているのは【営業中】の札。
ドアを開けると、ドアベルが涼しげな音を出した。
「あ、いらっしゃーい……ッ!?」
中にいたのは、ナルルではなかった。予想外の人物。鏡のようなレンズの眼鏡をかけた少女。
淡い黄緑色の肌。そして、その頭にあるものは、髪の毛ではなく、浅葱色をした無数の蛇。
極めて珍しい、ゴルゴン族の少女である。
「……お、お兄ちゃん……?」
そして、ギリアムの幼馴染。
「ギリアムお兄ちゃんだよね!?」
「……そうだよ。久しぶりだな、ミリイ」
ミリイはギリアムが徴兵されてから少しして、マイルズのほうに引っ越したと聞いていたが、帰ってきていたようだ。
幼馴染とこんな形で再会するなんて、ついているのか。
いや、今後を考えると、ついてないか。
なんてことを考えていたら、ミリイがこちらに抱きついてきた。
「ふええ……ホントに、ホントに心配したんだよ!!!」
「お、おい、ミリイ」
なんだか、他人に見られていたら誤解されそうな光景だ。悪い気はしないが、ミリイにはよくないだろう。とりあえず、泣き止むことを願いながら彼女の背中をぽんぽんと叩く。
「大丈夫。怪我はしたけど、まだ生きてる」
「もう会えないって思ってた……。凄く、凄く嬉しい……」
会えないと思っていたのはこっちもだ。
「何や何や、何かあったん?」
すると、店の奥からナルルが出てきた。彼女の声を聞いて、ミリイは慌ててこちらから離れる。
ナルルはエプロンをつけていた。それはミリイも同じ。どうやら二人ともここで働いているようだ。
「あ、ギリアムさんやん。来てくれたんやなー。ナルル嬉しいわ」
「え、ナルちゃん、お兄ちゃんと知り合いなの?」
「それはこっちの台詞やわ。ミーちゃん、お兄ちゃんってどういうことなん?」
「えっと、幼馴染なの。ほら、何回か話したことあるでしょ?」
「ああ、そういや言うてたな。かっこええ幼馴染がおるって」
人がいないところで何を言っているのやら、この娘は。
「前評判どおりか?」
「んーーー……」
「悩まんでいいよ。余計に悲しい」
まぁ、思い出補正ってやつだろう。
「ギリアムさんとは駅で会うたんよ。足が不自由って言うてはったから、そこまで乗せてたんやわ」
「え、お兄ちゃん、足が悪いの?」
「まぁ、戦争でちょっとな。なのでそこ、座っていいか?」
「うん、どうぞどうぞ」
「この時間はいつも貸し切りやからなー」
確かに時刻は十四時。ちょうど暇な時間帯なのだろう。
「今日はお昼も暇だったけどね。ナルちゃんいないってみんな知ってたから」
「せやなー。ミーちゃんの料理はギャンブル性が強すぎるからなー」
「え、えへへ……」
ナルルのからかうような言葉を受けて、ミリイが恥ずかしそうに頬を掻いた。彼女の感情は頭の蛇にも現れるので、とてもわかりやすい―嬉しいときは活発であり、悲しいときは大人しい―。
「二人ともここで働いてるのか? あの婆さんは?」
「ああ、婆ちゃんなら去年、引退したんよ。年も考えんと無茶しはるから、腰をいわしはってなぁ。ウチが二代目」
「私はナルちゃんのお手伝い。疎開で私だけこっちに戻ってきて、そのままなの」
「なるほどな。あの婆さんのオムレツは旨かったんだが」
「その心配はないで。ウチは婆ちゃんの料理を引き継いだからな!」
ナルルが誇らしげに胸を張る。じゃあ、その自信のほどを見せてもらおう。
「じゃあ、注文するよ。オムレツを一つ」
「あいよ、任せとき」
ナルルはにっこりと笑って、厨房に立った。ミリイもカウンターの中に戻る。
外が少し暗くなった。雨でも降るのだろうか。
少しの待ち時間の後、ミリイがオムレツの乗った皿を持ってきた。なるほど、ウェイトレス役か。心なしかサイズが小さくなった気がする。それは仕方ないか。
「はい、お待たせ」
「ありがとう」
湯気の立った、出来立ての料理。ここ数年、いつも食べていたものは乾パンやビスケットに、金属臭い缶詰。卵料理は滅多に口にできるものではなかった。
一口頬張る。
あの頃の味がした。ここに住んでいた頃の味。友人達と馬鹿をやりながら、老婆に呆れられていた頃の味。
「ふっふっふー、どうやー?」
「……同じだよ。あの頃と、同じ……」
「せやろー。再現するのに苦労したんやで。分量、適当やったからなぁ」
「ナルちゃん言ってたもんね。この味がなくなるのはラグンの損失や! 頑張って覚えなあかん! って」
「ミーちゃん、似てへん、似てへん」
いつの間にか、雨音が聞こえだした。
他愛ない会話。落ち着いてできる食事。思い出と変わらぬ味。
戦場から帰ってきた。
感無量、と、言葉にするのは簡単だ。
「いや、本当に。損失なのは俺だけじゃなくて、ラグン全部の……」
いつの間にか、涙をこぼしていた。ナルルとミリイもそれに気付いたようだ。うーむ、格好悪い。
「……ナルルさん、ありがとう」
涙を拭く。
「ええって。ウチこそ嬉しいわ、そないに喜んでくれて」
ナルルも照れているのか、ちょっと口調が違う。
一口一口、味わって食べるつもりだったが、皿の上はすぐに平らになった。
「はい、食後のコーヒー」
すると、ミリイが湯気の立ったコーヒーカップをテーブルに置いた。
「えへへ、私のおごり。ミルクと砂糖はいるかな? ……お砂糖はちょっと少ないけど」
「ありがとう。大丈夫、どっちもいらない」
ミリイに礼をして、一口飲む。コーヒーの香りが鼻に抜けた。酸味といい、濃さといい、ちょうどいい塩梅だ。旨い。
「……美味しいな」
「せやろー。ミーちゃん、コーヒー淹れるのだけは上手いからなー」
「だけって何よ、だけって!」
意外な才能があるものだ。ともあれ、久々の温かい食事にまともなコーヒー。本当に落ち着いた。来て良かった。
カップを置こうとすると、指が動かなかった。まさか。
「……お兄ちゃん?」
固まっていたのが不思議だったのか、ミリイがこちらを見つめてきた。
「……いや。久々にこんな美味しいコーヒーを飲んだから、感動して」
「もう、オーバーなんだから」
ミリイがくすりと笑った。指は動く。気のせいだったか。
「それにしても、ミリイも眼鏡をかける年になったんだな」
話を逸らす。
「そうだよ。えへへ、もう大人の仲間入りかな」
ゴルゴン族の瞳には石化の力がある。小さい頃はそうでもないが、大きくなると共にその力は強くなり、十八歳ほどになれば、その瞳を見ることで、相手を石へと変えてしまう。そのため、ゴルゴン族は十五歳頃より眼鏡の着用を始める。その鏡のようなレンズは、向こう側から瞳が見えないようにマジックミラーめいた加工がされている。ゴルゴン族はその力ゆえに迫害されていた過去があるので、しきたりのようなものだ。
ゴルゴン族の瞳は金色である。それはとても綺麗なものであり、ミリイの瞳もその例に漏れない。幼い頃の彼女の瞳は、未だにギリアムの脳裏に焼き付いている。彼女の瞳が見られなくなったのは残念であるが、仕方のないことである。
「それで、どうかな、これ。似合ってる?」
ミリイの眼鏡はレンズの大きな、野暮ったいものだ。似合っているか、というと微妙なところである。
「……似合ってるよ」
社交辞令。しかし、ミリイはそれに気づいていないのか、手を合わせて喜んだ。頭の蛇も楽しそうに動いている。そんなミリイを見てか、ナルルは苦笑い。
「ところでギリアムさん、ここの出身なんやろ? 家には行かんでええの?」
ナルルは先ほどの皿を洗いながら話題を振ってくる。どうやら事情を知らないようだ。いや、当然だが。ミリイは察したのか、少し表情が曇る。
「……行ったよ。行っただけ、だけど」
「行っただけ? 親御さんには会うてないん?」
「……ナルちゃん、お兄ちゃん、あそこの……」
ミリイがナルルに耳打ちする。ナルルの表情が一気に変わった。驚いたような、申し訳なさそうな、そんな表情に。
「あ、す、すまん! ウチ、悪いこと言うてもうた!」
ナルルは手を合わせて何度も頭を下げる。悪気がないのはわかっている。悪いのはくだらないことをやった両親なのだから。というか、それで把握されるほど有名だったのだろうか。
「大丈夫だよ。知らないことだったんだし、気にしてない」
「せやけど……ほんま、ギリアムさんも大変やなぁ……」
「確かについてない。だけど、大変なのは俺だけじゃないから」
大変なのは俺だけじゃない。気休めめいた言葉である。だが、その言葉に縋りたい部分もあるのも事実だ。
「……じゃあ、ギリアムさん、これからどないすんの?」
「さぁ……。当てはないよ。まぁ、傷痍年金が出るうちに、何か仕事を探すかな」
ギリアムの所持金は傷痍年金の他に、部隊ぐるみで装備を闇市に横流ししたときの分け前があるが、総額はそうゆとりのあるものではない。傷痍年金はそう高いものではない。ましてや大規模な戦争の後だ。支払いの遅延が出るのも遠くないだろう。この体でできる仕事があるかというと、それは苦しい話になるが。
沈黙が場を覆う。なんだか重い空気だ。そろそろお暇しようか。そう思ったときだった。
「……あの」
沈黙を破ったのはミリイだった。ギリアムとナルルの目線がそちらに行く。
「お兄ちゃん、行くところ、ないんでしょ?」
ミリイはうつむきながら言葉を続ける。
「……まぁ」
実家を確認した後、どこに行くか。それはほとんど考えていなかった。
「よかったら。……よかったら、だけど」
ミリイが顔を上げた。頬の緑色が濃くなっている。
「しばらくの間、あたしの家に住まない? あたしの部屋、狭いけど……それでも、二人で住めるぐらいのスペースはあるから……!」
この娘は、急に何を言い出すのやら。
「おおー」
ナルルが気の抜けた声を出した。彼女の表情を伺ってみると、にやにやと笑っている。そりゃあ、そんな表情にもなるだろうな。
「よかったら、よかったらだよ? 全然無理強いはしてないから!」
ミリイはその薄い黄緑色の肌を緑色へと変えながら、慌てて手を振っている。その心境を反映しているのか、頭の蛇の動きも慌ただしくなっている。
「ギリアムさん、どないするよ。ミーちゃんに、恥、かかせてええんかー?」
ナルルはとても楽しそうだ。他人事だと思って。
しかし、彼女の言うことも一理ある。だいぶ思い切って口にしたことなのだろう。それを断るのは、男としてどうか。正直、これからどうするかは全く考えていなかったし、ミリイと一緒というのは悪い気はしない。
「……ミリイさえよければ」
「ほ、ホントッ!?」
ミリイは手を重ねて、飛び上がらんばかりに喜んだ。全く、そんなに喜ばなくてもいいのに。
「おー、ミーちゃんも隅に置けへんなー」
ナルルもどこか嬉しそうだ。からかい甲斐のある玩具を見つけた。そんな趣。
「せやったら早よ案内したりや。夕方の仕込みやったらウチ一人でも大丈夫やから」
「じゃあ、お言葉に甘えるね。お兄ちゃん、行こっ!」
ミリイがギリアムの手を引っ張る。全く、ずいぶんと積極的な娘になったものだ。苦笑しながら立ち上がる。
また小雨でもぱらつき始めたのか、窓の外が暗くなった。
そして、ギリアムの体も重たいのだった。
ミリイの家は、古い小さなアパートだった。一部屋にキッチンだけといった質素な間取り。部屋は片付いている。いや、散らかるようなモノもないか。
「えっと、狭い部屋でごめんね。お兄ちゃんはどこで寝るの?」
部屋の中にある寝れそうなものはシングルベッドとソファー。さすがにミリイのベッドで寝るわけにはいかないだろう。
「ソファーでいいよ。寝床があるだけ、塹壕とは大違いだ」
荷物を部屋の片隅に置いて、ソファーに座る。ミリイも横に座った。
「……しかし、いい若い者が一つ屋根の下って。まるで同棲だな、これ」
ミリイを少しからかってみる。
「……もう、そんなことを言うと、睨んじゃうよ」
ミリイははにかみながら、眼鏡を外す仕草をするのだった。
「……あたしは別に、それでもいいけど」
小さな声で呟かれたので、聞こえないふりをしておこう。
昔に見た、彼女の金色の瞳。それはとても、とても綺麗な瞳で、未だに脳裏に焼き付いている。
別に、睨まれるのならそれでも構わない。ミリイの瞳を見ることができるのだから。
「ところで、ミリイの両親はどうしてるんだ?」
話題が欲しかったので、気になっていたことを聞いてみる。疎開で帰ってきていたとしても、ミリイ一人だけというのはちょっと気になる。
「んっと、お父さんとお母さんは先に向こうに戻ったの。グレルほどじゃないけど、結構荒れてるみたいだから、家の片付けとか、色々あるみたい。それが落ち着くまで、あたしはこっちにいろって。学校もあと半年行かないといけないしね」
「ああ、そうか。学校か」
「毎日はやってないんだけどね。今日は休みだったんだけど、明日と明後日は学校に行かなきゃ」
ミリイの年齢だと、義務教育は終わっている。彼女の両親は教育熱心だった。高等教育に行かせてもらっているのも納得だ。
とはいえ、戦後の混乱で、学校も落ち着かないのだろう。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんさえよければ、ずっとここにいていいからね……?」
ミリイはこちらを覗き込みながら、小さく笑った。
ずっと。
ずっとは無理か。そんなに長くはいられない。長くいれば、間違いなくミリイに迷惑がかかる。
だけど、それまでなら。
幼馴染と二人で暮らす。
そんな、ささやかな幸せを味わっても、罰は当たらないだろう。
ギリアムは返事の代わりに微笑むのだった。