2.これが異世界というやつか……
白い海に飲まれたオレは、暫くの間意識を失っていたようだ。
目が覚めた時、さっきまであった白い空間はどこにもなく、周囲には緑が広がっていた。遠くから木々のざわめきが聞こえてくる。
どうやら俺は森の中に放り出されたらしい。
ひょっとしたら何か武器になるようなものも一緒に飛ばされたりしていないかと思い、周囲に目を凝らしてみたが、やはりどこにもそれらしいものは見つからなかった。
薄暗いが木々の間から光が漏れていることから、どうやらまだ陽が出ているようだ。
ここがどれほど危険なのかはわからないが、武器もなく身一つで森の中にいるなどRPGにしても自殺行為に等しい。勿論俺自身のステータスが圧倒的であればその限りではないが、残念ながらその希望は叶っていないようだった。
ここにどんな先住者がいるかわからないが、日が暮れる前に森を抜けるのが得策だ。狼でも表れようものならあっという間にその日の晩御飯にされてしまう。
俺は先行きを思いながら神への悪態をついた。
歩き始めて数分。
俺は自然なジェスチャーで指を口の前まで持っていった。
しかしいつものそれがないことに気づく。
「タバコがねぇ……」
重度のヘビースモーカーというわけでもないが、こういうストレス満載な状況に置かれると自然と一服したくなるものだ。しかしこの世界に放り出された時点で、というか、あの部屋で目を覚ました時から既に所持品の類は何一つなかった。
当然タバコなんてあるはずもない。
まあこれを機に禁煙というのもありかもしれない。まずは森を無事抜けることが先決だが。
しかしいくら歩いても景色は生い茂った木々で埋め尽くされていた。林道ならまだしも、これは完全に森の中だ。
陽があまり当たらないせいでぬかるんだ地面が俺の体力をどんどん奪っていく。
こんなことなら少しくらい運動しておけばよかったと日ごろの不摂生を嘆くが、流石にこんな悪環境は自衛隊の訓練でもしなければ中々お目に掛れないかもしれない。
山の中を走るスポーツが最近人気と聞くが、案外こんな感じなのだろうか。
それから暫く歩いたが、やはりいつまでたっても景色は変わらない。
徐々に日差しが赤みを帯びてきていた。心なしか気温も下がってきたような気がする。
遠くでオオカミの遠吠えが、夜の到来を告げていた。
ここは随分と深い森らしい。その証拠に、空が赤みを帯びたと思ったら直ぐにあたりは暗くなった。
木々がそれなりに高さを持っているから陽がほとんど当たらないのだろう。
時折見える岩石には苔がびっしりとこびりついている。
いつか食べられる苔があると本で読んだことがあるが、ひょっとしたらこの苔は食べられる種類ではないだろうか。と思ったが、実際食べられる苔であっても口にする勇気はなかった。
しかし俺の体は疲労と空腹ですっかり参ってしまっている。
はっきり言って、これは死ねる。
周囲は視界不良。空腹で体力もなく、少なくとも狼が生息していることは分かったのだ。つまり、臭いを頼りに追い詰められれば俺は為す術もなく食われてしまうのだ。
一応途中に落ちていた木の枝を杖兼武器代わりに拾ったものの、こんなものでは太刀打ちできないであろうことは明白だった。
そして、その瞬間は唐突に訪れた。
近くで叢をかき分けるような音が聞こえた。
俺はその場で動きを止め辺りを窺った。暫く身動き一つしなまま様子を伺う。
それから時間が経っても周囲から何の反応も帰って来ない。
気のせいかと思い体を動かすと、再びガサガサと音がなった。
どうやら既に俺は捕捉されているらしい。獣特有の低い唸り声が聞こえていた。
俺は音のした方を振り向いた。
初めは何もなかった。しかし暗闇に目が慣れると、そこにあったのは奥に佇む怪しげに光る二つの瞳。異様なのはその目の位置だった。
俺の頭上、2mを超えるほどの所にその瞳があった。
狼だと思ってたのだが、これはあれだ。熊だ。
腕を振るうだけで身体を抉り取ってしまったり、臭いでどこまでも追尾してくるってしつこい輩だ。
そしてまともに戦っては、人間ではまず勝つことができない相手。
それがわずかに動いた。
俺はその瞳をじっと見た。
野生動物は人間に対して恐怖心を抱いていると聞いたことがある。だからじっと目を見ていれば直ぐには襲ってこないそうだ。
瞳を見据えたまま、徐々に後ろへと下がる。
しかし。
そいつは無遠慮に足を動かすとこちらに近づいてきた。
しかし姿が見える前に俺は駆け出した。余りの恐怖に緊張が振り切れたのだ。取ってはならない愚策を取ってしまった。
熊に対して死んだふりをすればそのまま食われる。背を向け逃げると追いかけてくる。つまり、俺の取った行動は追いかけてくれと宣言しているようなものだ。
しかし今更足を止めればそれこそ食ってくれ宣言だ。
俺に残された選択肢は、このまま逃げ続けることしかなかった。
無我夢中で走り続けた。
熊が追ってくる気配はあったが、それも暫くすると感じられなくなった。幸いにも木々の間隔が狭かったため、何とか振り切ることができたようだ。
どれくらい走ったかわからないが、やがて走り疲れた俺は、手近な岩場を見つけて背を預けた。
カラカラになった喉が苦しかったが、潤すものは何もない。せめて直近で雨が降っていれば、岩のくぼみに水が溜まっていたかもしれないが、今はそれもない。
しかし自分が生きていることを実感し、俺は安堵の溜息を吐いた。
そしてその表情が直ぐに絶望に歪む。
目の前の茂みから、振り切ったと思っていたヤツが姿を現したのだ。
人間、諦めると恐怖も何もなくなるらしい。
俺はすっかり自分が死ぬことを受け入れていた。
できれば、最期に一服できればよかったのだがな。
そう思ってズボンのポケットを探ると、何か固いものがあった。それをポケットから引きずり出すと、それは俺が前の世界でよく吸っていたタバコだった。ご丁寧に最期の一本だ。
それを引き抜き、口に咥えた。そこで火がない事に気づいた。
俺は諦観の念で、もう片方のポケットを探る。するとそこには見知ったライターがあったのだ。
神の計らいだろうか。最後だけ感謝せにゃならんな。
俺はゆっくりした動きでタバコに火をつけると、最後の晩餐よろしく長い息を吐いた。
その煙に反応したのか、ヤツはゴホゴホと咳き込んでいた。
熊もタバコの煙で咳き込むことがあるとは知らなかったが、俺は一糸報いることができたようで小さな喜びを感じていた。
もう一服し、天を見上げる。
そこは丁度、岩のせいでぽっかりと枝葉がなくなった開けた空間だった。そしてそこから覗く星々は、俺が日本で見たどんな星空よりも綺麗なものだった。
俺は初めてこの世界で感じた喜びを噛みしめながら、疲れと諦めから、眠るように意識を失った。
ぴちゃ。
顔に当たる冷たい刺激に、俺は目を覚ました。
ぼやけた視界が周囲の木々を映し出す。
全身に寒気を感じたが、力を入れるとちゃんと動く。手足に異常は感じられない。何とかまだ五体満足であるようだ。
俺は気を失うまでのことを思い出す。
確か熊に襲われタバコで一矢報いたはず。改めて体に力を入れるが、やはりどこも痛む場所はない。気絶した俺を放ってどこかに行ってしまったのだろうか。
そこで俺は頭上に何かの気配を感じ取った。
視界の中には入ってこないが確かに何かしらが佇んでいる。僅かながら俺の顔に影がかかっていた。
俺の顔に当たる冷たい刺激は、どうやら水が滴っているようだ。
それが頭上から落ちてきている。
頬についたそれを俺は手で拭った。
指でこすり広げると、それは僅かな粘性をもって長い糸を引いた。臭いはやや生臭い。
喉が渇いているとは言え、とてもそれを口にする気にはなれなかった。それが何なのか大体の察しはついたのも理由だ。
俺は頭上に視線を向ける。月明かりがその正体を照らし出した。
そこには気持ちよさそうに寝息を立てている獣がいた。
突き出た顎と口に、先端には湿った鼻。口の間からは立派な牙が覗いている。そこからまた一滴、俺の頬に液体が滴り落ちた。
俺はその液体を服の袖で拭った。
やはりというか、この液体の正体は獣の涎だった。そしてその持ち主は立派な黒い毛並みの狼だった。が、俺の知っている狼とは少し違っている。何故ならその狼は、異様に巨大だった。
この位置からでは顔しか見えないが、その顔だけにしても俺を丸のみできそうなほどの大きさだ。体躯は想像するだけでも恐ろしい。
熊が俺に何も危害を加えなかったのは、この狼が頭上にいたからか。
俺が天を仰いだ時はどういうわけか姿がなかったが、気を失ってから現れたのだろう。そう考えれば説明がつく。
とは言えピンチには変わりない。寧ろ熊よりも巨大な狼なのだ。こちらの方が危険度としてはより高い。
すっかり死を覚悟していた俺だったが、流石に目の前にこんな巨大な狼がいては恐怖心の方が勝るというものだ。
生きながらに食い散らかされるより生きる方がよっぽどましだ。
俺はできるだけ物音を立てずにそっと岩から体を離した。のそりと忍び足で木々の間へと進む。
焦る気持ちを抑えながら、慌てずゆっくりと進む。徐々に鬱蒼と茂る木立が眼前へと迫ってくる。
あと一歩で木々の中に紛れ込めるというところで、しかし俺の腹がついに音を上げてしまった。
『ぐぅぅ~』という叫び声が、決して大きくはない音量で森の中に鳴り響く。
人間であればさほど気にはならない程度かもしれないが、聴覚の鋭い狼相手には声を出して呼びかけるのと何ら変わらない。
俺は走り出したくなる気持ちを抑えながら、顔だけ背後を振り返った。
そこには鎌首をもたげ、ぱっちりと円らな瞳で俺を見据える狼がいた。相変わらず口からは涎が垂れている。
気温が低いせいか、口から洩れる吐息が白い靄を作っていた。
まだ全身は見えないが圧倒的存在感がそこにはあった。
狼は金色の円らな瞳を細めて、俺を値踏みするように見ていた。
強烈なプレッシャーにへたり込みそうになるが何とかこらえる。
せめて最期くらいカッコつけたいと言うのもあったが、正直足が震えて体が強張っていたのが一番の理由だ。
熊に襲われても助かった俺の悪運もここまでか。
今度はせめて潔く戦ってやろうと木の枝を握る手に力を込めたが、直後に予想外の事態が起こった。
「ふん。もう目を覚ましたのか」
俺は耳を疑った。
周囲に人の気配はない。ということは、また神の声が聞こえてきたのか、あるいは、目の前の狼が人語を口にしたのか。しかし続く言葉でやはり目の前の狼がその言葉を発したのだと理解した。
「まだ夜は明けていない。我らと違い、人間は昼間に活動するのだろう? もう少し身体を休めたらどうだ」
そういって狼は持ち上げた首を下げ、元の位置に戻した。しかしその瞳は開いたまま俺に向けられている。
金色の瞳が月光を反射して輝いていた。
俺は目の前の光景に理解が追いつかず、何か言葉を発しようとするが口がうまく動かない。
ここが異世界ということは神の声の説明で理解していたつもりだったが、やはり実際に常識外の光景を目にすると、どうにも信じ難いものがある。
そう簡単に今まで培った常識を捨てることはできないということかもしれない。
俺は何とか息を整え激しい鼓動を押さえつけた。
狼の瞳を真正面から見据え、一先ず敵か味方か問いかけてみる。
「お前は、俺を襲わないのか?」
「はっ。私が人間を襲うだと? 安心しろ。そんなマズイ生き物、食おうなどと思いもせんわ」
「そうか。それはよかった」
狼は俺の質問を一笑に付した。
何故かその狼の言葉は俺を信じさせるだけの説得力に満ちていた。
別に言葉自体が厚いわけではないが、狼から発せられる貫禄のようなものが、否応なく俺を納得させたのだ。
俺は狼の言葉に従い先ほど自分のいた位置に戻ると、岩に背を預けた。
相変わらず空腹はどうにもならなかったが、体を休めるだけでも少しは違う。先ほど熊から逃げてきた時の疲労はまだ回復しきっていなかった。
俺はふと神の声が最期に言った言葉を思い出し、頭上にいる狼に質問してみた。
「なあ。いくつか質問してもいいか?」
「私に質問か。お前、人間にしては随分勇気のあるやつだな」
「勇気というか、今日一日で色々信じられない事しか起こってないからな。もう慣れた」
「ふはは。慣れたか。お前みたいな面白い人間は久しぶりだ。分かった。答えられる範囲で、お前の質問に答えてやろう」
「ありがとう。助かる。まず一つ目なんだが、この周辺に村はあるのか? とりあえず安全な場所に行きたいんだが」
「村か。3つほどあるが、安全な場所だと森を抜けた近くの村がいいだろう。そこは人間の集落だ。他2つはやめておいた方がいい。ゴブリンとワーウルフの集落だからな」
ゴブリンとワーウルフ。流石にここまで聞くと異世界という感覚が強くなってくるな。
まあこうして狼と喋ってる時点で、俺の知っている世界からとっくに遠ざかっているわけだが。
一先ず狼の言葉で、少なくともゴブリンとワーウルフは人間にあまり友好的ではないということが分かった。
「ちなみにその人間の集落に行くまではどれくらいかかる?」
「人間の集落か。私もあまり近づいたことはないが、ここからだと人間の足なら6時間程で着くだろう」
「6時間!? そりゃあまた随分と距離があるな……。その前に熊か何かに食われちまいそうだ」
「熊? この森にはそんな生物は存在せん。さっきお前を襲ったやつなら、ワーウルフだ」
「は、ははは……」
さっきのはワーウルフだったのか。
ワーウルフ。つまり狼男か。想像するに、熊よりよっぽど質の悪そうな相手だ。
この狼がいなければ俺はとっくにこの世にいなかっただろうな。
「そういえば、あんたの名前はなんだ?」
「名か……。久しく呼ばれなかったので忘れてしまったよ」
「忘れた? どれだけ長いこと呼ばれなかったら……いや、聞くだけ野暮だな。なら何て呼べばいい?」
「ふん。呼ぶ必要などないさ。どうせ短い付き合いだ」
「そうか。なら……ウル。ウルって呼んでもいいか?」
「他者の呼び名をこうも適当につけるなど、随分と勝手な人間だな」
「ダメか?」
「ふん。好きに呼んで構わぬよ。どうせ短い付き合いだ」
「そうか。恩に着るよ、ウル」
「ふん」
ウルは気だるそうに、しかしどこか嬉しそうに鼻を鳴らした。
俺は何となく昔飼っていた犬を思い出し、懐かしい気分になった。
「所でお前は――」
「ああ。俺の名前は風文隼人。ハヤトって呼んでくれればいいよ」
「名を訪ねたわけではないのだがな。もしやとは思うが、ハヤトはこの世界の人間ではないのか?」
「ああ。実は今日ここに放り出されたところなんだ」
そうして俺はウルにこれまでの経緯を説明した。
目が覚めたら白い部屋にいたこと。自称神の声に導かれ、扉から放り出されたと思ったらこの森にいたこと。勿論ホテルのくだりはカットした。
話を聞き終えたウルは別段驚いた風もなく、俺の話に小さく笑っていた。
「神から神を倒せと依頼されたか。それは随分難儀なものだな」
「笑い事じゃねーよ。まあ他の誰かが倒してくれるのを安全なところで見物しておくさ」
「ハヤトは神を倒さんのか?」
「ん? こんな装備で戦えってのか? 生憎俺は命を粗末にしたくないんでね。出来るだけこの世界を楽しむ事にするよ」
俺は手をヒラヒラと振りながら溜息をついた。
自分で言っといて何だが、俺はさほどコミュ力が高いわけではない。
この世界を楽しむと口にはしたものの、実際それを実行に移せるか、正直不安しかなかった。
今こうしてウルとは会話が成立している訳だが、その理由は異世界だからと勝手に納得していた。しかしよくよく考えれば、たまたまウルのような種族が日本語を喋れるだけで、むしろ人間とは全く言葉が通じない可能性だってあるのだ。
もしそうであれば俺はジャングルブックよろしくこの森の中、ワーウルフに囲まれながら生きていかなければならないかもしれない。まあワーウルフと言葉が通じた上で、共存できればの話だが。
言葉も文化も様式も、何もかもが異なる異世界の地。
地球だって言葉も話せず海外で暮らそうと思うとどうなるか。そんな身の上で生じる苦労は想像を絶するだろう。
さすがに頑張ってエンジョイできるほどの余裕は、俺の心になかった。
「まあせいぜい頑張ることだ。朝になれば、私が村の近くまで送り届けてやろう。そうすればすぐ村に着けるはずだ。その後のことはお前次第だがな」
「良いのか?」
「イヤなのか?」
「いや、勿論ありがたい話だが……」
ウルは俺の回答に意外そうな顔をむけた。
俺は唐突な言葉に思わず聞き返してしまったが、貰えるものは貰っておかなければこの世界ではやっていけまい。
何せ俺は何ひとつ持っていないのだから。
俺はその後、改めてウルに礼を言った。
ウルは嬉しそうに口元を歪めながら、『なに。ただの暇潰しさ』とだけ言うと、そのまま瞳を閉じ寝息を立て始めた。
俺はその光景を見た後、続くように眠りについた。
それからどれほど時間が経っただろうか。まだ気だるさを残したまま俺は目を覚ました。
時計もなく太陽も見えないため、いまが何時なのか判断できない。
腹具合からおおよそ午前7、8時頃だと思う。
ウルを見ると、すでに起きていたのか体勢を変えて俺を見下ろしていた。俺が安心して眠れたのは間違いなくこいつのおかげだ。
俺は心の底からの感謝の言葉を口にした。
「人間に感謝されるのは奇妙なものだな。まあ悪くはないが」
そう言って巨岩の上から飛び降りた。
大きな質量が着地したと言うのに音は小さかった。地面の木の葉がふわりとだけ舞った。
初めて見たウルの全体像に俺は正直驚いた。想像通り4、5mはある巨躯なわけだが、そんな巨大な狼を前にして無事でいる自分の身の上に、だ。
こいつが少しでも気分を害そうものなら、間違いなく細切れに食いちぎられていただろう。
そうして俺は促されるままにウルの背に乗る。と言っても俺の体格では普通に背に乗るのも大変なので、先ほどウルが登っていた岩の上からダイブする。
体全体で着地した瞬間、まるで高級ベッドのような弾力と極上のカシミヤのような肌触りを感じた。
ゴツゴツした岩場で夜を明かしたことでバキバキになった俺の体は、あまりの居心地の良さに思わず意識を失いそうにる。
何とか意識を保ちながら、俺はウルの背からの景色を確認した。
やはり地上に立つのと比べて目線が高い。高くに感じていた木々の枝葉が俺の体の位置に見えるほどだ。
……あれ? このまま走るとこの枝葉は俺を直撃するのでは?
そんな考えがよぎった時には、すでに手遅れだった。
「走るぞ!」
ウルが精悍な声でそう告げると、矢のような速さで走り出す。その風圧に俺の体が後ろへと傾ぐが、ウルの毛を掴んで何とか堪える。しかしそれでも風圧が容赦なく俺の顔を叩きつけた。
木々の間を疾駆するウル。みるみるうちに通り過ぎた木々が背後へと消え去っていく。しかし考えていたような俺への枝の直撃はなかった。
ウルが器用に、視界の先に広がる枝葉をこそぎ取っていた。加えてそのスピードのせいもあるだろう。空気抵抗も合わさり俺にたどり着く前にそれは、彼方へと吹き飛ばされ消えていく。
暫くすると、俺は周囲の景色を楽しむくらいには余裕が出てきた。
風圧も慣れれば何とか、はならなかったが……。
薄目から覗く景色なので大した風景でもないが、それでも改めてここが異世界であると認識できた。一瞬だけゴブリンやワーウルフの姿が視界に映る。
他にも色々地球とは違う姿が多かった。まずは昆虫だ。
昆虫が異様にでかい。ウルに比べればでかいと言うほどではないのだが、犬ほどもあるカマキリや蜂が時折姿をあらわす。まあウルに弾かれてすぐ粉々に飛び散るのだが。
次が植物だ。まるで意思があるかのように蔦を伸ばして俺を絡め取ろうとしてくるものがいた。それもウルのスピードの前では無意味だった。
考えてみると昨日から俺はウルに助けられてばかりだ。村に無事着いてこの世界に慣れれば、いつかまた恩返しに来よう。俺は一人心に誓ったのだった。
徐々に周囲の木々が疎らになってくる。それに合わせてウルは少しだけスピードを落とした。
まさか枝葉やモンスターから俺を守るためにあれだけのスピードを出していたのだろうか。だとしたらウルは本当に気配りのできるやつだ。
上司や神の不条理を思い返し、俺の頬を自然と涙が伝った。
ウルには見つからないよう直ぐに拭う。
まさか人間より先に狼から人情を感じるとは。人生何が起こるかわからないものである。
そこから暫く進み、やっとの事で森を抜けた。
時間にして1時間も経っていないのではないだろうか。
森を抜けるとそこには開けた丘があった。今いるのがちょうど丘の頂上だ。遠くに村落らしきものが見える。
ウルは村を視認すると、ゆっくりと動きを止めてその場にお座りした。丁度いいくらいの高さになった背から俺は勢いをつけて地面に着地し、ウルの方に振り向く。
「さあ。ここからはお前一人で行け。もうこんな森にくるんじゃないぞ」
「ほんと、なんて礼を言っていいかわからないくらいだけど。ありがとな」
「ふん。構わないさ。いい暇つぶしにはなったからな」
「そう言ってもらえると助かるよ。本当にありがとう」
「……さて。そろそろ私は帰るとするよ。ハヤト、達者でな」
「ああ。ウルもな」
そして俺たちは暫く見つめあった後、ウルがふいっと視線を逸らし森の方へと歩いて行った。そして一度だけこちらを振り返り、直ぐに森の中へと姿を消した。
俺はウルを見送った後、暫くその場に佇んでいたが、やがて丘の先にある村に視線を向け歩き出した。