9.ヴェラステラ──〈氷月の乙女〉
夕暮れは藍色の闇へと変わり、月影は山なりに高くそびえて、彼らの跡を追っていた。
村を離れ、都市へとつづく方角に切り替えると、薄暗い木立ちが並んでいる。
「もう数十年前に廃れた人里だから、しばらく道なき道を歩くことになる。気をつけて」
こう言って、ガーランドが歩き出す。
ふたりはただ黙って従った。
振り返ることなんてしなかった。
ユリアにも失礼だと思ったし、それよりも早く道を行くほうが、彼女の意志にも叶うと信じたからだった。
これを過ぎると、ようやく途切れかかった道が見つかる。ガーランド自身がメリッサ村にたどりつくために用いたという、ギルドが保有する街道だ。
しかしこの一帯は往来が途絶えたために、その大半は土埃に埋もれていた。残骸となった縁石もそのままになっているものの、これのおかげで、彼らは街道に入ったことを自覚できた。
そこから先は歩くのが楽だった。
足元を気にする必要がなくなったのだ。
「……なあ、ガーランドさん」
そこでアデリナが口を開く。
なんだい、と尋ねるガーランドは、しかし振り返らなかった。
「あんたがメリッサ村に来た時も、あんな道なき道を歩いて来たんだよな?」
「そうだよ。なにせああいうところだから、行くのに苦労したなぁ」
「なんでそんな道なき道をたどってまで、メリッサの地に用があったんだ?」
ガーランドはすぐには答えなかった。
しかしごまかしが効かないとわかると、ため息を吐いて、ちらとふたりの方を見やる。
「私が〈星室庁〉の密偵なのは、わかっているよね。ならば、聖王国が〈イドラの魔女〉をどのように考えて、どうしたいかも知っているはずだ」
「ああ、だからこそ聞いてんだ。あんた、あそこで何しようとしていたんだ?」
「やれやれ、可愛げがないな。そんな単刀直入じゃあ、王都のひとびとがガサツだと思うだろうね」
「よ、よけーなお世話だっ」
「まあいい。隠しごとはナシにしよう。これは王都では何も秘密ではないからね」
と、ガーランドは立ち止まると、
「われわれ聖王国は、〈イドラの魔女〉の本拠地を見つけ出して、これを撃滅しようと画策している──いわば〈第二次魔女戦争〉を起こす支度をね」
「魔女……戦争?」
「王国が興ってから現在に至るまで、おおよそ二百年余り。その初期に行われた〈大統一戦争〉に並んで、悪夢として歴史に残る大戦さ──それが《魔女》との戦い、通称:魔女戦争と呼ばれている。その再来だよ。女王陛下は本気なのだ」
そう告げるガーランドの目は、真摯さそのものであった。
「ねえ、待ってよ。魔女戦争って、あれを起こした場所がどうなったのか、知ってて言っているの?」
非難がましく言ったのは、ルートだ。
「ボク……本で読んだことあるよ。メリッサからはるか南側に広がる平野……いまでは〈古戦場ヶ原〉と呼ばれているあの一帯は、死者の怨念に満ちあふれ、草木すら生えない呪われた大地になってしまったって。あんな場所を増やしてしまうんですか?」
「しかし、そうでもしなければわれわれは〈イドラの魔女〉に敗北することになるだろう。あの一帯だけじゃない。辺境の人里は彼女たちに襲われ、魔獣の住処に塗り替えられている。その悪業は、〈叙事詩〉の中で語られる〈魔王〉にも等しい!」
「だからと言って、そんなことがいいわけがないよ……!」
ルートは怒っていた。
ガーランドは眉をしかめた。
「正論だな。しかし、どうしようもない。戦わなければ、われわれの被害が増えるだけだ。それは〈星室庁〉の立場からも、女王陛下の一臣民の立場からも望ましくない」
「そうやって、ほんとうに被害を受けるものをなかったことにするんだね……」
ルートのひとみは青く燃えていた。
その視線を突き立てられたガーランドだったが、やがて肩をすくめると、
「その考え方は忘れるなよ。私のような人間には、なかったことにでもしないとまともじゃいられないのさ」
「へえ、じゃあアナタ、わたしたち〈イドラの魔女〉の苦しみもなかったことにするつもりなの?」
突然割って入った声に、場が凍った。
ガーランドが振り向くと、街道沿いの里標塚に腰掛けた、小さな人影が見受けられた。そこは青白い月の光を受けた木陰になっており、さながら人影が濃紺の闇をガウンとしてまとっているかのようであった。
「こんばんは、みなさん。おおむね、初めましてが正しいかしらね」
影は街道に立つと、ゆっくり革靴の足音を立てながら、彼らの道をふさいだ。その途中で、月明かりが影の正体をつぶさに明らかにする……雪のように白い肌、曙のような紅の髪、華奢な肢体をすんなりと包む男物の衣服。
そして何よりも、顔の左半分を覆う赤の刻印。
これを見て、ガーランドの目の色が変わった。
「〈氷月の乙女〉……!」
「ご名答、〈星室庁〉のお役人さん。けれども、わたしにはそんなお堅い二つ名じゃなくて、ヴェラステラというとてもステキな名前があるのだけれど……」
ふふ、と笑いながら、ヴェラステラは片手に携えていた傘を開いた。それは月光を受けて白く光り、彼女自身をひとつの絵画のような佇まいに仕立て上げていた。
その彼女は、傘の柄を手のひらで弄びながら一行の顔ぶれをひとつひとつ検分している。
すでに一行は荷物を降ろしていた。
ガーランドは緊張した構えを取る。しかしすぐには動くことはせず、互いのあいだに見えない策謀の糸を張り巡らせていた。
その距離、おおよそ十歩の間合いである。
すぐに決着を付けられるものではない。
これは傍観しているアデリナにもわかることだった。稽古場で鍛えた感覚は、しかし手元に得物がないことを嘆いていた。
その焦燥を見透かしたのか、《魔女》は艶めかしく微笑んだ。そのままなぶるような視線をルートに向けて、
「あら坊や。着せ替え人形のようにキレイな見た目をしているじゃない。いいわねぇ、お持ち帰りしたいなぁ〜」
「なっ!」
「キャハハ、照れちゃってぇ、かわいい〜」
邪気いっぱいに笑うその表情は、多くの人間を堕落に誘い込む悪魔的な魅力にあふれていた。
そしてその余裕ぶった様子が、アデリナには気に食わなかった。
「図に乗ってンじゃねーぞ、クソ女」
「あら、ひどい物言いね。でもわたしは心が広いから許してあげる。それに、あなたも口の悪さがなければ、けっこうべっぴんさんよ?」
「そりゃどーも」
「あ、でもダメね。胸がないもの」
かちん、と音が聞こえた気がした。
握りこぶしで飛び出しかけたアデリナを、ルートが後ろから抑える。
「まあまあ、いいのよ。世の中広いから、そーゆーのも好きなオトコもいるわよきっと」
「テメエ言わせておけばッ!」
「待って! リナ! 無茶だって!」
「黙れルゥ、ここは、引き退っちゃいけない問題なんだよッ!」
と、そのときヴェラステラは勝ち誇った笑みを浮かべた。
それを察知したガーランド、すぐさまふたりを抑えて、懐から短剣を抜き払った。
「あらダメよ。せっかくのお楽しみを、そんなチャチなもので終わらせないでよ、ガーランドさん」
ガーランドは目を見開いた。名前を掌握されている! と驚く間もなく、彼は足を何ものかに引っ張られる感触を得ていた。
その見えざる手の存在を探知すると、ガーランドはすかさず手に持っていた短剣でこれを斬り裂いた。
声にならない悲鳴があがる。
手ごたえがあったのだ。
しかし、その瞬間にはすでにヴェラステラは次の行動に出ていた。ひらひらと振り上げられた手の動きに合わせて、風が吹き始める。巻き上げるそれは、左巻きの螺旋を描いているようだった。
ぞわり、と嫌な気を予感したルート。
立ち上がりかけたガーランドに向かって、体当たりの要領でこれを押し出す。すると、彼らの立っていた場所目掛けて、槍のような氷柱が一本突き立っているのが見えた。
「やるわね、躱すなんてサ」
じゃあこれはどう? とヴェラステラが次に見せたのは、手のひらから撃ち出された、鋭利な氷の礫だった。
それもひとつではない。
無数の刃となって飛んできた。
ガーランド氏はそれを見て取り、ふたりの前に立ちはだかる。素早く呪文を唱えると、見えない大気の障壁を築き上げた。
そこに無数に撃ち込まれる氷の刃。
さながら横殴りの雹の嵐のように、刃はガーランドの身体を過ぎっていった。そのひとつひとつが着実に体力を奪ってゆく。
「動くんじゃないぞふたりとも。護る範囲を広げたくないからね……!」
強がってみせるものの、ふたりの目から見てもガーランドは疲弊しきっていた。ひたいからは玉のような汗が吹き出し、噛み殺してはいるが、苦痛のうめき声すら漏れ出ていた。
戸惑うふたりだったが、どうすることもできない。
この状況を数秒で察するや、ヴェラステラはまた次の手を繰り出した。氷塊の射出先を、地面に向けたのだ。
抉れる地面に、巻き上がる土煙り。
視界がすっかり見えなくなる頃に、ガーランドは相手の意図を悟った。悲鳴を聞き、振り返ると、すでにヴェラステラがルートの首筋に、傘の柄から延びる仕込み刃を当てていたのである。
「つーかまえたっ」
もがくルートを、冷ややかな笑みで黙らせる。その笑い方はとても楽しそうな、朗らかなものだったが、身体は緊張したまま、少年の余計な動きをひとつとして許さない。
「どうするつもりだ」
ガーランドは先んじて声をかける。
牽制の、つもりだった。
「どうするって? イヤだなぁ、分かり切ってるでしょ。離反者:エスタルーレの持ってった大切なモノを、取り返しに来ただけよ」
「それはなんだ。なぜ〈イドラの魔女〉はそう血まなこになって子供を付け狙う?」
「あーあーうっさいわねェ。どうして〈星室庁〉のお役人さんはこう、ガサツなことしか言えないのかしらねぇ」
と、言うと、彼女は指をルートのこめかみに突き立てた。それは、しかし肉体の境界を侵して、ずぶずぶと頭の中に入っていった。
肉体的な痛みはなかったが、ルートは、精神をまさぐられるような違和感に苦しめられた。
「この子の《記憶》に用があるのよ。エスタルーレから引き継いだの、ちゃあんと見てたんだからね。隠したってムダムダ……あれ?」
なぶるように、責め立てるように、しかしどこか甘やかすような様子で展開した調べ物は、突如終わった。
茫然として、ヴェラステラはつぶやく。
「ウソでしょ、《記憶》が見つからない」
なんで……とつぶやくそのスキを突いて、ガーランドは飛び出した。
仕込み刃を持つ手をつかみ、ひねりあげようと試みる。けれどもすんでのところでそれに気づかれ、敢え無く身を翻された。そのまま彼女はガーランドの身体を組み敷いて、圧倒的優位を確立する。
しかしその大掛かりな回避行動のために、ヴェラステラはルートを手放さなければならなかった。
糸の切れた人形のように倒れかかるルートを、アデリナは素早く受け止めた。すぐさま揺すって回復させようとするものの、彼のひとみはどこか虚ろで、まだ現実に戻っていないようだった。
「はああ、ちょっとマジでないんですけど」
怒りに充ち満ちた、ヴェラステラ。
傘の柄をすらりと抜いて、細剣のように鋭利な刃をあらわにする。それをガーランドの首に降ろして見当をつけると、振りかぶって、
「ちょっと予想外のことが起きて困ってるんだけどサ……まあいいや。先にあんたを殺して、あとでじっくり調べりゃいいもんね!」
その時だった。
アデリナは、ルートのひとみに、不思議な紋様を見つけた。瞳孔と虹彩のあわいに揺れていて、最初は判別がつかなかったものの、やがてくっきりと輪郭を帯びて浮かび上がった。
それは、三角形だった。
しかしアデリナは気づいていない。その紋様が、上下逆さまの状態で、自分のひとみにも現れていることを。
ふたりは見つめ合っていた。
さながら恋人たちのように。
生涯をともにすると誓った間柄のように。
強く絡み合うように交わされた視線は、やがて離れがたい縁を可視化する。それは縒りあわされ、紡がれた糸のようにしっかりとお互いをつなぎ、ふたりの紋様を転写し合った。
白く烈しい光が顕現する。
周囲の土煙りを巻き込んで、昇る螺旋を描くがごとき気を感じる。それはあたかも、この世ならざるものを現世に降ろしている、その途中の光景だった。
強い風を感じ、《魔女》は手を止めた。
ガーランドも、気を取られた。
両者のまなこは吸い寄せられるかのように、ふたりのすがたに見入っていたのだ。
突然、アデリナは落雷に打たれたように、ある直感が全身を駆け巡るのを知った。そして想うよりも早く、ルートの胸に向かって手を突き出した。
心臓を貫く一閃。
しかし手は突き抜けない。
異次元につながっているのか。
それとも……
やがてゆっくりとした動きで、腕が引き抜かれた。その手には何かが握られている。黒い、否、金色の十字を模したそれは、月明かりに煌めく白刃を伴っていた。
ウソ……とヴェラステラが蒼ざめた。
抜き払ったのは、剣。
月を貫くよう高くかかげる。
そしてそのひとみに宿るは、六芒星──