8.旅立ちの宣告
「もうわかっとるかもしれんが、ここがほんとうのメリッサ村だよ。百年前はさておき、だんだん人が減った挙句にわたし以外の誰もいなくなっちまった……そんな場所さ」
そういうユリアの灰色のひとみは、黄昏の彼方を見やるかのように、遠くを向いていた。
そこにガーランドが口を挟んだ。
「では、私たちが見ていたのは、あなたが創り出した幻だったのですか?」
ユリアは首を振った。
「ちがうね。あれはただの幻じゃあない。過去にほんとうにあったメリッサ村──そうさね、わかりやすく言うなら、わたしの記憶の中なんだよ」
「記憶の……中?」
「おや、若造。まさか魔術の根幹に何があるかを、騎士学校とやらで習わなかったのかえ?」
「いいえ。ただ過去の偉大なる導師たちが拓いた魔の道を、ふたたびみたびと辿るのだ、と教わりましたが……」
やれやれとため息を吐くユリア。
「お前さんたち聖王国の人間がありがたがって使っている『魔術』ってのはね、〈道〉というような大げさなもんじゃないんだよ。
……《記憶》さ。それは小さな個人的な思い出でもいいし、なんだったら──お前さんの言葉を借りるなら、『過去の偉大なる導師たち』のことでもいい。そうした、昔あったことをもう一度見るために、魔なる術として体系化されたもの……これが魔術なんだ。わたしはそのうちのひとつ、〈箱〉の魔術を使っていたのさ」
それってなんですか? と尋ねたのは、ルートだった。彼はこのことを知らねばならない、という想いに駆られていた。
「簡単に言えば、結界だよ。記憶の中の世界をそのまま現世に反映して、まるで最初からそこに生きていたように実感できる。それだけのこと」
「どうして? なんのために?」
「ルゥ、焦ってはいけないよ。真実を知りたいと言ったのは立派だけれど、物事を知るためには順序ってものが必要なんだ」
おい若造、とユリアは呼びかける。
呼ばれたガーランドは、その言葉で言いたい意図を汲み取り、ふたりに向き直った。
「あの晩……ラストフがいなくなって、捜しに行ったあとの話をしようか」
それはこういうことだった。
ラストフ失踪の背景に《魔女》の存在を考えたガーランドは、導師とともにその痕跡を辿っていくうちに、ユリアを《魔女》だと確信した。
しかし、途端に味方だと信じていた導師が裏切り、激戦の末、ユリアの前に屈することになる。この時すでに日が変わっており、ふたりは何も知らずに母親の墓参りに出かける頃だった。
「それで、私が殺されかけると思ったその矢先に、君たちが〈箱〉の魔術を解いてしまったんだ。命拾いした私は、その命と引き換えに君たちを護るよう、ユリアさんに頼まれた、というわけだよ」
そこから先は、ユリアが引き継いだ。
「〈箱〉は、もともとエスタに頼まれて、お前さんたちを護るために創り出された結界だったのさ。だから、解かれたときに真っ先にお前さんたちふたりの安全を確かめなくちゃならなかったんだ」
「それは……もしかして、お父さんが死んだことと関係、ある?」
ルートの言葉に、ユリアは目を瞠った。
「……知っていたのかい?」
「確証はなかったんです。けど、長持ちの中には服も残っていなかったし、茨文字を解いたあとでもお父さんと過ごした思い出がない……ということは、ボクたちの記憶に残るより前に、亡くなったってことになる」
「そういう賢いところは母親ゆずりだねぇ」
と、感嘆の息を漏らすと、
「そうさ。ラストフは《魔女》であるエスタと結ばれたがために、そこの若造のいる組織から追われることになった。そしてエスタを庇って死んじまったのさ……その時崖から落ちたらしいから、若造が生きていたのだと錯覚したのはムリもない話だけどね」
だけどね、と彼女はつづける。
「ふたりを付け狙っていたのは、なにも〈星室庁〉だけじゃないんだ。〈イドラの魔女〉もまた、エスタを捜していたんだよ。だって、彼女はもともとそこの中心人物だったんだからね」
なんだって、とアデリナ。
その青いひとみはいっぱいに見開かれ、頰がぴくぴくと動いている。聖刻騎士になりたいとねがった情熱の一部が、自らの母の出自を拒もうとしていた。
ユリアさんはそのことをわかっているかのように、微笑んだ。
「いましばらく遠回りしちまったが、これが本題だ。お前さんたち、魔獣に遭ってきただろう? ということは、まちがいなく彼女たちが来ているってわけだね」
「ふざけんなっ! 〈イドラの魔女〉が、どうしてアタシたちを追い回す必要があるんだよ!」
「ちがうんだよリナ。お前さんたちがエスタの子供だから、彼女らは狙わざるを得ないんだ」
「どういうことだよ……」
茫然とするアデリナだったが、ユリアはこれには首を振った。
「それを話したいのは山々だが、あいにくわたしが話せるのはここまでなんだよ。エスタはあえて教えてくれなかった。魔術を扱う魔女だからこそ、下手に話せば記憶に残るってのを怖れたんだろうね」
「じゃあ、どうすればいい。アタシたちはどうすればその理由を知ることができるんだ」
アデリナは、いまにも掴みかからんばかりの勢いで、ユリアに迫った。そのひとみには青い炎が爛々と燃え盛っている。
しかし、ユリアはなにひとつ物怖じせずに、答えた。
「王都じゃよ。わたしがエスタから聞いたのは、王都に行けば真実を知れることだけじゃ」
「……わかった」
アデリナは目をつぶる。そしてユリアさんから離れると、ルートとガーランドの方を見やった。
「行こう。でないと……」
途端、言葉をさえぎるように冷たい風が吹いた。まだ秋も盛りではないというのに、冬が一足早くやってきたような鋭い風だった。
「とうとうその時が来ちまったね」
ユリアが独りごちた。
「その時、ていうのは?」
恐る恐るルートが尋ねる。
ユリアはすぐには答えなかった。彼女は扉から離れると、ゆっくり歩き出し、母屋の背後にそびえる山並みに目をやった。
「彼女たちのひとりが、もうじきここに来るよ。わたしがここで食い止めるから、お前さんたちはさっさとおゆき」
「しかし……」とガーランド。
「お黙り、若造。このばばあにも、ちったぁ見せ場のひとつやふたつ、あったって良いじゃないか、え?」
ぎろりと睨んだ灰色の目は、ガーランドの反論を封じるには充分だった。
「ホラ、さっさと行った行った。支度するほどのものなんてなかろう。早いとこ出て行った方がわたしもラクじゃて」
また風が吹いた。
もはや一刻の猶予もない。
彼らは母屋から外套をもらうと、ユリアに一礼をして去ることにした。
「……さようなら。いままでありがとう」
ルートが淋しげにそう言うと、ユリアはアデリナの方にも目配せをして、それから微笑んだ。
「礼なんて要らんよ。けれど、もしエスタと再会でもするようなら、せめてこの老いぼれのことを思い出して、語ってやってくれよ」
アデリナは黙って頷いた。
ルートは泪を湛えていた。
それから、ガーランドが先導する形でふたりは村を後にした。その背中はとても小さく、黄昏の中に消え入るように儚かったが、ユリアの灰色のひとみには、永遠に消えない一幅の絵として焼きついていた。
ひとみをつぶる。もうこのことは忘れまいと心に強く念じて記憶すると、ユリアは、そのまま背後に話しかけた。
「ずいぶん遅かったじゃないか。近ごろの若いのは、みんな古き良き淑女を待たせるのが流行りと見たね」
言葉は虚空を舞ったように見えた。
しかし鈴の鳴るような笑い声が響いたかと思うと、ふわりと革靴が土を踏む音が聞こえた。
「あら失礼ね。せっかくのお泪頂戴芝居に水を差さなかっただけの話よ」
「追わんでええのかい。あの子たち、どうやらあんたたちにとっても充分ワケありのようだけども」
「実力は見させてもらったわ。全然大したことないじゃない。まああの風使いが小憎いけれども、そこまで問題にはならないわよ」
「ほう……たいそうなクチを効くじゃないか……」
振り返るユリア。
その手元には、蜘蛛の糸とブナの葉が握られていた。
「なら、ここで足止めされるのも、わかっていたんだろうね!」